○今回は、残念ながら土俵外の話からしなければならないでしょう。まずは理事選挙。候補者を調整するための二所ノ関一門の会議で、貴乃花親方が席を立ち、一門から離脱しての立候補を表明。そして、貴乃花を支持する6人の親方は一門から破門されました。ここに、出羽海一門と並ぶ大勢力だった二所ノ関一門は分裂し、10部屋・関取12人・年寄22人の二所ノ関一門と4部屋・関取4人・年寄7人の「(仮称)貴乃花組」とに分れました。『双葉山が時津風一門を起こして以来の新しい一門の誕生』と報道する向きもありますが、私は、新一門の誕生ではなく、『一門制度の終わりの始まり』と見ます。(別紙『部屋系列図』)
○ここで「一門」について少々。力士を詠んだ「一年を十日で暮らすいい男」という川柳がありましたが、18世紀後半から大正末年まで、本場所は年2回、一場所は10日でした。しかし、この本場所の興行収入だけで一年を暮らせるわけはなく、相撲部屋の台所は、自主的に行う巡業の収入に大きく依存していました。その巡業に欠かせないのが、集客力のある人気関取、そこそこの人数の力士、それに行司、呼出し、床山です。これだけの陣立てを一つの部屋ですることは難しく、いくつかの部屋が連合して巡業を行いました。この巡業の連合体が「一門」でした。一門の年寄と力士、それに裏方は、長い巡業の間、文字通り同じ釜の飯を食い、稽古に励み、四六時中、生活を共にしたのです。経済的にも心情的にも強い絆で結ばれた運命共同体だったわけです。昭和39年までは「同門相戦わず」といって、部屋は別でも一門が同じであれば本場所で対戦しませんでしたが、これも、ごく自然のことだったのです。
時は流れ、1場所が15日、年に6場所、年間90日となった本場所の興行は、100億円前後の収入を日本相撲協会にもたらしています(その内訳は、1/2強が入場料収入、ほぼ1/3が放送権料収入、他)。この潤沢な収入の中から、相撲部屋に対して「部屋維持費」等が支給されます。その額は、力士一人当たり、幕下以下が年間186万円、横綱で282万円です。それとは別に、関取個人に対しては相撲協会から月給や給金等が支給され、その額は年間で、十両が1500万円以上、幕内が2000万円以上です。
(人数が9割近くを占める「幕下以下」の力士は人間扱いではなく年間100万円未満です)。
このように、今の大相撲は巡業で稼ぐ必要はありませんし、巡業に割ける日数も少ないのです。そして、年間20日前後に減った巡業は、昔の一門ごとではなく、相撲協会の巡業部が取り仕切り、全ての部屋の関取が参加します。もはや、一門の強い絆は遥か昔の話となってしまっているのです。それでも、昇進した新横綱が一門の行司たちに装束を贈ったり、横綱の綱を作る「綱打ち」に一門の力士が集まったり、と一門の名残はあります。しかし、一門の存在理由はまったくなくなっているのです。
○ところが、2年ごとの理事選挙になると、突然、「一門」が顔を出すのです。乱立による共倒れを避けるために、一門内で談合をして、一門が持つ理事の数を確保するためです。しかし、一門の絆が弱まっているのですから、結束力も弱まっています。年寄株問題で大荒れに荒れた平成10年の理事選挙で、一門の意に逆らって強引に立候補して高砂一門から除名された先代高田川(元大関・前の山)が、手持ちの票が2票しかなのに8票を獲得して当選できたのは、二所ノ関一門や出羽海一門から票が流れたためでした。その後は、再び、談合という元の鞘に納まったかに見えました。ところが今回、貴乃花の立候補によって8年ぶりに選挙が行われ、手持ちの票が7票の貴乃花が10票を得て当選しました。立浪一門から2票、二所ノ関一門から1票が流れたのです。その三人が誰なのか、犯人探しをする一門の動きが大きく報じられましたが、本来、誰が誰に投票してもいいのが無記名投票なのですから、犯人探しはおかしな話なのです。
○理事の選び方を今の単記無記名の選挙制に改革したのは大横綱双葉山の時津風理事長で、昭和43年のことでした。その時、時津風は「どんどん若い人の意見を!」と語ったのですが、そうはなりませんでした。一門の談合による年功重視がはびこり、退職金の上乗せを狙って、定年直前の年寄を1期だけ理事に就かせる例までありました(別紙『理事副理事一覧』にある押尾川、秀ノ山など)。民間企業では組織を維持し強化するために次世代の幹部を育てるのが当然のこととして行われますが、相撲協会の中には、その考えがないのです。今回の貴乃花立候補についても、武蔵川理事長は『あってはいけないこと。一門内で話し合って(理事に)ふさわしければ誰かが推薦してくれるはず』と述べたものでした。そして、一門から造反者が出ないように、「立会人に票を見せてから投票箱に入れるように」というとんでもない動きまで出ましたが、この動きを阻止したのは監督官庁である文部科学省でした。「単記無記名投票」を定めた規約の意味を相撲協会に改めて確認したのです。
○貴乃花の当選は、「一門」の壁を破ったこと、年功序列を突き崩したこと、この二つの大きな意味があり、明らかに前進です。彼の立候補についてのマスコミの筋書は『古い体質に挑む改革の旗手・貴乃花』で、まさに貴乃花への応援一色でした。しかし、私には異論があります。彼が理事になるのは早すぎたと思うのです。年齢が早すぎるのではありません。年寄として一番大事な、関取を育てるという仕事をまだ一つもしていないからです。彼の力士としての業績や相撲への真摯な姿勢には、文句のつけようがありません。今回の彼への支持も現役時代の「力士貴乃花」への評価からきているのです。しかし、年寄としての業績はまったく別物です。関取をせめて一人でも育ててから理事になるべきだったと私は思うのです。
蛇足として、理事選挙のあり方についていえば、立候補は自由、立候補者は所信表明の場に立つ、それを聴いた上で各人の意志で投票するという当り前の形にすべきです。所信表明というプロセスが、おおよそ世間知らずの年寄を勉強させることになると思うのです。(別紙『藤嶋・二子山・貴乃花部屋の勢力の推移』)
○土俵外でもう一つ起った大事件は朝青龍の強制的な引退でしたが、この件に紙幅を割けません。事件発生から1カ月もたった2月15日に文部科学相に提出された相撲協会の中間報告によれば、『場所中にもかかわらず深夜まで飲食し、騒ぎを起こしたのは横綱にふさわしくない』『過去に不祥事が何度も繰り返され、一向に改まる兆候が見られない』ので『理事会として引退を勧めることを決めたが、最終的に横綱本人が引退を表明し、理事会が受理した』とのこと。暴力行為の有無や、被害の程度すら明かされていません。しかも、理事会を引退勧告の結論に導いたのは、力士出身の年寄ではない外部からの理事、監事の主張でしたし、横綱審議会が初めて出した「引退勧告」でした。この件での役員の処分は、朝青龍の師匠である高砂親方の2階級降格だけで、「部屋まかせ」「協会は頬かむり」の姿勢は相変わらずです。横綱の不始末なのですから、理事長にも咎めがあるべきでしょう。
○曙が酔っぱらって暴力を振るったり、古くは、大鵬と柏戸が海外巡業帰りに拳銃を持ち込んだりといった横綱の不祥事は幾つもありました。しかし、その多くは根の深くない、たわい無いものでした。これに対して、朝青龍の場合は累犯に次ぐ累犯で、最後まで我儘な乱暴者の性癖が抜けませんでした。
しかし、朝青龍の引退を聞かされた白鵬が声を殺して涙した光景ひとつをとってみても、朝青龍は大横綱でした。優勝は史上3位の25回、年間完全制覇を含む7連覇など数々の業績を残しました。私が朝青龍の最大の業績として挙げたいのは、曙が初優勝した平成4年から武蔵丸が最後の優勝をした平成11年まで8年間も続いた退屈な「体重相撲」を放逐し、力と技とスピードの本来の相撲に戻したことです。
○土俵外の大事件の連続で、ずっと昔のことのようになってしまった初場所を振り返ります。
初場所は朝青龍の場所でした。場所前に『今年の目標は優勝4回』と語った時には大ボラに聞こえたので
すが、負けた豪栄道戦での雑な相撲を除いて、相手に有利な体勢を与えない丁寧な相撲が目立ちました。そして、巨漢に対しては、一転して、モンゴル相撲の荒業を決めました。把瑠都には脇の下に首を入れて相手の腰を浮かせ、後立褌を取って幕内最重量の188kgを片手で持ち上げて投げ捨て、琴欧洲には左手首を両手でつかんでの腕捻りで幕内最長身の203cmを放り投げました。千秋楽の夜の「サンデースポーツ」で、他の力士との力の接近を認め、『考える相撲をとる』と語っていたのですが、土俵の外のことも考えるべきでした。
○絶対有利の下馬評だった白鵬は、初日の土俵入りで肝心のせり上がりを抜かしてしまう大失態。これがケチのつきはじめだったのか、11戦して負けなしだった把瑠都の巻き替えからの素早い掬い投げに連勝が30でストップ。日馬富士には苦手意識があるのか、突っ張り合いのあと体が離れたところで、腰高のまま何となく前に出たところをよけられただけで土俵を割っての負け。その翌日の魁皇戦は腕を簡単にたぐられる気のない相撲で連敗。千秋楽の朝青龍戦で意地を見せ、辛うじて面目を保ちました。
○初めて横綱から勝ち星を挙げた把瑠都の相撲には進歩が見られました。おっつけと巻きかえを身につけ、長身の琴欧洲や旭天鵬に対しては頭をつける芸当まで見せました。ところが、両横綱と並んで優勝争いのトップに立ったとたんに固くなってしまい、豊ノ島にいいようにあしらわれました。明るくて、のんびり屋に見えますが、やはり緊張はするようです。これからは、精神力が大きな課題になるのでしょうが、大関候補の筆頭であることは間違いありません。3月場所が大事な場所になりそうです。
把瑠都のほかに、安美錦、豊響、白馬、土佐豊などに見るべき所があった初場所でした。
○身体に粘りが戻り、逆転勝利が目立った魁皇が、幕内での勝ち星数の新記録を作りました。世間は大騒ぎをしましたが、ご本人は無関心で、むしろ触れられたくない様子でした。その理由は、魁皇自身が漏らした『(諸先輩と違って)負けが沢山あるよ』という言葉にあります。確かに、幕内700勝以上の6力士の中で、魁皇の負け数は他の2倍を越えており、従って、勝率でも大幅に劣っているのです。
①魁 皇 815勝533敗 6割0分5厘 ②千代富士 807勝253敗 7割6分1厘
③北の湖 804勝247敗 7割6分5厘 ④大 鵬 746勝144敗 8割3分8厘
⑤武蔵丸 706勝267敗 7割2分6厘 ⑥貴乃花 701勝217敗 7割6分4厘
横綱に昇進できず、大関に留まったから達成できた最多勝であることは、魁皇自身が一番よく分っており、『(諸先輩を)抜いた気はない。その中味が違う』と心底思っているのです。記録を達成して支度部屋に戻ろうとする魁皇をインタビュールームに呼ぼうとして断られたNHKは、地元・直方からの中継まで入れて大騒ぎするだけでなく、魁皇に断られた事実をはっきりと知らせ、魁皇の男気をこそ伝えるべきでした。
○その魁皇に引導を渡された千代大海の引退は、朝青龍の引退騒ぎですっかり影の薄いものになってしまいましたが、「大関在位65場所」と「カド番14回」の新記録を残しました。これは遅きに失した引退で、一昨年の初場所に初日から7連敗をした時点で引退すべきでした。その場所から引退までの13場所の戦績は69勝100敗15休で、勝率がやっとこさ4割だったのです。
平成22年3月2日
真石 博之
○ここで「一門」について少々。力士を詠んだ「一年を十日で暮らすいい男」という川柳がありましたが、18世紀後半から大正末年まで、本場所は年2回、一場所は10日でした。しかし、この本場所の興行収入だけで一年を暮らせるわけはなく、相撲部屋の台所は、自主的に行う巡業の収入に大きく依存していました。その巡業に欠かせないのが、集客力のある人気関取、そこそこの人数の力士、それに行司、呼出し、床山です。これだけの陣立てを一つの部屋ですることは難しく、いくつかの部屋が連合して巡業を行いました。この巡業の連合体が「一門」でした。一門の年寄と力士、それに裏方は、長い巡業の間、文字通り同じ釜の飯を食い、稽古に励み、四六時中、生活を共にしたのです。経済的にも心情的にも強い絆で結ばれた運命共同体だったわけです。昭和39年までは「同門相戦わず」といって、部屋は別でも一門が同じであれば本場所で対戦しませんでしたが、これも、ごく自然のことだったのです。
時は流れ、1場所が15日、年に6場所、年間90日となった本場所の興行は、100億円前後の収入を日本相撲協会にもたらしています(その内訳は、1/2強が入場料収入、ほぼ1/3が放送権料収入、他)。この潤沢な収入の中から、相撲部屋に対して「部屋維持費」等が支給されます。その額は、力士一人当たり、幕下以下が年間186万円、横綱で282万円です。それとは別に、関取個人に対しては相撲協会から月給や給金等が支給され、その額は年間で、十両が1500万円以上、幕内が2000万円以上です。
(人数が9割近くを占める「幕下以下」の力士は人間扱いではなく年間100万円未満です)。
このように、今の大相撲は巡業で稼ぐ必要はありませんし、巡業に割ける日数も少ないのです。そして、年間20日前後に減った巡業は、昔の一門ごとではなく、相撲協会の巡業部が取り仕切り、全ての部屋の関取が参加します。もはや、一門の強い絆は遥か昔の話となってしまっているのです。それでも、昇進した新横綱が一門の行司たちに装束を贈ったり、横綱の綱を作る「綱打ち」に一門の力士が集まったり、と一門の名残はあります。しかし、一門の存在理由はまったくなくなっているのです。
○ところが、2年ごとの理事選挙になると、突然、「一門」が顔を出すのです。乱立による共倒れを避けるために、一門内で談合をして、一門が持つ理事の数を確保するためです。しかし、一門の絆が弱まっているのですから、結束力も弱まっています。年寄株問題で大荒れに荒れた平成10年の理事選挙で、一門の意に逆らって強引に立候補して高砂一門から除名された先代高田川(元大関・前の山)が、手持ちの票が2票しかなのに8票を獲得して当選できたのは、二所ノ関一門や出羽海一門から票が流れたためでした。その後は、再び、談合という元の鞘に納まったかに見えました。ところが今回、貴乃花の立候補によって8年ぶりに選挙が行われ、手持ちの票が7票の貴乃花が10票を得て当選しました。立浪一門から2票、二所ノ関一門から1票が流れたのです。その三人が誰なのか、犯人探しをする一門の動きが大きく報じられましたが、本来、誰が誰に投票してもいいのが無記名投票なのですから、犯人探しはおかしな話なのです。
○理事の選び方を今の単記無記名の選挙制に改革したのは大横綱双葉山の時津風理事長で、昭和43年のことでした。その時、時津風は「どんどん若い人の意見を!」と語ったのですが、そうはなりませんでした。一門の談合による年功重視がはびこり、退職金の上乗せを狙って、定年直前の年寄を1期だけ理事に就かせる例までありました(別紙『理事副理事一覧』にある押尾川、秀ノ山など)。民間企業では組織を維持し強化するために次世代の幹部を育てるのが当然のこととして行われますが、相撲協会の中には、その考えがないのです。今回の貴乃花立候補についても、武蔵川理事長は『あってはいけないこと。一門内で話し合って(理事に)ふさわしければ誰かが推薦してくれるはず』と述べたものでした。そして、一門から造反者が出ないように、「立会人に票を見せてから投票箱に入れるように」というとんでもない動きまで出ましたが、この動きを阻止したのは監督官庁である文部科学省でした。「単記無記名投票」を定めた規約の意味を相撲協会に改めて確認したのです。
○貴乃花の当選は、「一門」の壁を破ったこと、年功序列を突き崩したこと、この二つの大きな意味があり、明らかに前進です。彼の立候補についてのマスコミの筋書は『古い体質に挑む改革の旗手・貴乃花』で、まさに貴乃花への応援一色でした。しかし、私には異論があります。彼が理事になるのは早すぎたと思うのです。年齢が早すぎるのではありません。年寄として一番大事な、関取を育てるという仕事をまだ一つもしていないからです。彼の力士としての業績や相撲への真摯な姿勢には、文句のつけようがありません。今回の彼への支持も現役時代の「力士貴乃花」への評価からきているのです。しかし、年寄としての業績はまったく別物です。関取をせめて一人でも育ててから理事になるべきだったと私は思うのです。
蛇足として、理事選挙のあり方についていえば、立候補は自由、立候補者は所信表明の場に立つ、それを聴いた上で各人の意志で投票するという当り前の形にすべきです。所信表明というプロセスが、おおよそ世間知らずの年寄を勉強させることになると思うのです。(別紙『藤嶋・二子山・貴乃花部屋の勢力の推移』)
○土俵外でもう一つ起った大事件は朝青龍の強制的な引退でしたが、この件に紙幅を割けません。事件発生から1カ月もたった2月15日に文部科学相に提出された相撲協会の中間報告によれば、『場所中にもかかわらず深夜まで飲食し、騒ぎを起こしたのは横綱にふさわしくない』『過去に不祥事が何度も繰り返され、一向に改まる兆候が見られない』ので『理事会として引退を勧めることを決めたが、最終的に横綱本人が引退を表明し、理事会が受理した』とのこと。暴力行為の有無や、被害の程度すら明かされていません。しかも、理事会を引退勧告の結論に導いたのは、力士出身の年寄ではない外部からの理事、監事の主張でしたし、横綱審議会が初めて出した「引退勧告」でした。この件での役員の処分は、朝青龍の師匠である高砂親方の2階級降格だけで、「部屋まかせ」「協会は頬かむり」の姿勢は相変わらずです。横綱の不始末なのですから、理事長にも咎めがあるべきでしょう。
○曙が酔っぱらって暴力を振るったり、古くは、大鵬と柏戸が海外巡業帰りに拳銃を持ち込んだりといった横綱の不祥事は幾つもありました。しかし、その多くは根の深くない、たわい無いものでした。これに対して、朝青龍の場合は累犯に次ぐ累犯で、最後まで我儘な乱暴者の性癖が抜けませんでした。
しかし、朝青龍の引退を聞かされた白鵬が声を殺して涙した光景ひとつをとってみても、朝青龍は大横綱でした。優勝は史上3位の25回、年間完全制覇を含む7連覇など数々の業績を残しました。私が朝青龍の最大の業績として挙げたいのは、曙が初優勝した平成4年から武蔵丸が最後の優勝をした平成11年まで8年間も続いた退屈な「体重相撲」を放逐し、力と技とスピードの本来の相撲に戻したことです。
○土俵外の大事件の連続で、ずっと昔のことのようになってしまった初場所を振り返ります。
初場所は朝青龍の場所でした。場所前に『今年の目標は優勝4回』と語った時には大ボラに聞こえたので
すが、負けた豪栄道戦での雑な相撲を除いて、相手に有利な体勢を与えない丁寧な相撲が目立ちました。そして、巨漢に対しては、一転して、モンゴル相撲の荒業を決めました。把瑠都には脇の下に首を入れて相手の腰を浮かせ、後立褌を取って幕内最重量の188kgを片手で持ち上げて投げ捨て、琴欧洲には左手首を両手でつかんでの腕捻りで幕内最長身の203cmを放り投げました。千秋楽の夜の「サンデースポーツ」で、他の力士との力の接近を認め、『考える相撲をとる』と語っていたのですが、土俵の外のことも考えるべきでした。
○絶対有利の下馬評だった白鵬は、初日の土俵入りで肝心のせり上がりを抜かしてしまう大失態。これがケチのつきはじめだったのか、11戦して負けなしだった把瑠都の巻き替えからの素早い掬い投げに連勝が30でストップ。日馬富士には苦手意識があるのか、突っ張り合いのあと体が離れたところで、腰高のまま何となく前に出たところをよけられただけで土俵を割っての負け。その翌日の魁皇戦は腕を簡単にたぐられる気のない相撲で連敗。千秋楽の朝青龍戦で意地を見せ、辛うじて面目を保ちました。
○初めて横綱から勝ち星を挙げた把瑠都の相撲には進歩が見られました。おっつけと巻きかえを身につけ、長身の琴欧洲や旭天鵬に対しては頭をつける芸当まで見せました。ところが、両横綱と並んで優勝争いのトップに立ったとたんに固くなってしまい、豊ノ島にいいようにあしらわれました。明るくて、のんびり屋に見えますが、やはり緊張はするようです。これからは、精神力が大きな課題になるのでしょうが、大関候補の筆頭であることは間違いありません。3月場所が大事な場所になりそうです。
把瑠都のほかに、安美錦、豊響、白馬、土佐豊などに見るべき所があった初場所でした。
○身体に粘りが戻り、逆転勝利が目立った魁皇が、幕内での勝ち星数の新記録を作りました。世間は大騒ぎをしましたが、ご本人は無関心で、むしろ触れられたくない様子でした。その理由は、魁皇自身が漏らした『(諸先輩と違って)負けが沢山あるよ』という言葉にあります。確かに、幕内700勝以上の6力士の中で、魁皇の負け数は他の2倍を越えており、従って、勝率でも大幅に劣っているのです。
①魁 皇 815勝533敗 6割0分5厘 ②千代富士 807勝253敗 7割6分1厘
③北の湖 804勝247敗 7割6分5厘 ④大 鵬 746勝144敗 8割3分8厘
⑤武蔵丸 706勝267敗 7割2分6厘 ⑥貴乃花 701勝217敗 7割6分4厘
横綱に昇進できず、大関に留まったから達成できた最多勝であることは、魁皇自身が一番よく分っており、『(諸先輩を)抜いた気はない。その中味が違う』と心底思っているのです。記録を達成して支度部屋に戻ろうとする魁皇をインタビュールームに呼ぼうとして断られたNHKは、地元・直方からの中継まで入れて大騒ぎするだけでなく、魁皇に断られた事実をはっきりと知らせ、魁皇の男気をこそ伝えるべきでした。
○その魁皇に引導を渡された千代大海の引退は、朝青龍の引退騒ぎですっかり影の薄いものになってしまいましたが、「大関在位65場所」と「カド番14回」の新記録を残しました。これは遅きに失した引退で、一昨年の初場所に初日から7連敗をした時点で引退すべきでした。その場所から引退までの13場所の戦績は69勝100敗15休で、勝率がやっとこさ4割だったのです。
平成22年3月2日
真石 博之