四神会する場所 第二部
泡だらけの純情
羽黒蛇は思う。相撲とは、こんなにも面白いものだったのかと。
羽黒蛇は、今、相撲の歴史が生んだ過去の名力士たちの。そして、現役力士たちのその取組の映像を、連日、むさぼるように見続けた。
今までも、ボリュームとしては、AKB48をはじめとする、アイドルたちの映像を見る、その合間にではあったが、羽黒蛇は、そういった映像は見ていた。だがそれは、彼が目指していた理想の相撲、理想の力士。そのあるべき姿を求めて、という大きな目的があった。
今の彼は、もう、それを目指してはいない。
心にこだわりを持たずに見る相撲。それは楽しかった。その気持ちは心に余裕を生み、これまで気づかなかったような多くの発見があった。
日々の稽古についても。
羽黒蛇の基調となる相撲の取り口に大きな変化があったわけではない。だが、その相撲は、これまでの彼の相撲とは、やはりどこかが違っていた。
張り詰めた、見るものが思わず襟を正してしまうような典雅なる均衡は、失われてしまったのかもしれない。その代わりにやってきたもの。それは、見るものが心躍らせる、伸びやかな破却だった。
メールが届く。毎日何度も。電話も架かってくる。毎日一回。
メールに対して返信することはほとんどない。一度、ごく短く返信したら、ご返信ありがとうございます、という喜びに溢れた、いつも以上に長文のメールが返ってきた。それ以来、返信するのはやめた。
だが、架かってきた電話には出ない訳にはいかない。
「利菜さん」
荒岩亀之助は、遠慮がちな声で話し始める。亀之助は本名ではないそうで、本名も教えられたのだが、よく覚えていない。興味がないから覚える気にもなれない。
「こちらは、少し雲が出ていますが、良い天気です。東京はどうですか」
いつも同じ話だ。
名古屋と東京の、今日の天候がどうなのか。そんなことは、ネットで調べれば、すぐ分かるのに。
利菜が、普通な感じで。ましてや明るい口調で返事をしようものなら大変だ。
荒岩は、本人は面白いと思っているようだが、少しも面白くない話を、どんどん続ける。
だから、電話に対しても、利菜は、必要最小限の答えをぶっきらぼうに、答えるだけだ。
話の接ぎ穂をなくしてか、あるいは、早く電話を切ってほしい、という利菜の気持ちをそれなりに察してか、荒岩は長電話というほどではない時間で電話を切る。
荒岩からのメールも、電話も、利菜には気が重い。ひとこと、迷惑です。と言えば、彼はもうメールも電話も、ぴたりと寄こさなくなるだろう。
相手が嫌がっている、ということがはっきりと分かって、そういったことを続けるようなひとではない。そういうひとだということは、利菜にも分かる。
だが、利菜は、そのひとことが言えない。
それを言ってしまったら、利菜は、大相撲という世界とは何の縁も持たない、ただの人になってしまう。
こんな形であっても、利菜は、大相撲の世界と繋がりを持っていたかった。
利菜が好きで好きでたまらなかった人。いや今でも好きで好きでたまらない人。
力士、豊後富士。新谷照也と、また再び、繋がりを持つために。
利菜は、自分が類稀な美少女だということは充分に自覚していた。ごく幼い少女だった頃から、利菜に思いを寄せる少年はひきもきらなかった。
その中で、レベルが高いと思える、まあ付き合ってあげてもいいかな、と思える少年は何人かいたし、実際付き合ってもみた。
だが、どの少年もどこか物足りなかった。
利菜のほうが、本気で好きになった少年は、いなかった。
豊後富士を初めて見たのは、利菜の父が経営する企業が関係する、何か大掛かりなパーティーの会場だった。
父にとって、利菜は言うまでもなく、自慢この上ない娘であり、この種のパーティーに連れ出したがった。利菜も気が向いたときは付き合った。
豊後富士は後援者からの立っての依頼。それは、アイドル顔負けの美少年、超人気力士である豊後富士を同行者として参加したら、鼻高々になれるという思惑があっての依頼であったが、父である照富士親方の、部屋の経営のためにも、ちょっと顔を出してやってくれ、との口添えもあり、参加したのだった。
豊後富士を初めて見た時、利菜は、その美少年ぶりに心を奪われた。そんなことは初めてだった。今までも、メディアの映像として、豊後富士を見たことはあったが、自分に関係がある人物とは思わなかったし、お相撲さんにも、ずいぶんかっこいい人がいるんだなという感想を持っただけだった。
その美少年は。パーティーの席上で利菜に声をかけてきた。そして、今度、別の場所でも会おうよ、と言って、すぐに利菜の連絡先を訊いてきた。
こんなかっこいい人でも、やっぱり、私を見ると、すぐそういう気持ちになるのね。
利菜は、満足感とともに、連絡先を教え、すぐにかかってきた誘いに、少しだけ、勿体をつけたあと、応じた。
さほど、長くもない月日が経過した。
利菜は、自分が初めて本当に好きになった男に、あっさりと捨てられてしまった女になっていた。
自分が、そんな女になってしまうなど、利菜は想像したことも無かった。
名古屋場所の初日の数日前。
その日の電話で、荒岩は、
名古屋場所を応援に来てほしい、と告げた。
利菜は、十八歳になっていたが、今、高校三年生である。利菜が、高校生であることを知ったとき、荒岩はずいぶんと驚いていた。
名古屋場所。前半戦は、利菜が通っている、私立の女子高校は、まだ夏休みにはなっていない。が、既に短縮授業にはなっているので、その時期、授業は昼まで。学校が終わって、すぐに東京を発てば、幕内力士の取組の時間には間に合う。
でも、
利菜が黙っていると、荒岩は、来てくれる日を決めてくれたら、その日の桝席を送るという。豊後富士と付き合っている中で、利菜は少し、相撲界のことは勉強したので,桝席が、四人席だということは知っていた。
「桝席を送っていただいても、一緒に行く人はいません」
利菜は結局、行くとも行かないとも答えなかった。
翌々日、利菜のもとへ、荒岩からの郵便が届いた。
中には、初日から千秋楽まで、十五日間すべての、最も土俵に近い椅子席のチケットが入っていた。そして、高級ホテルの一泊分プラス新幹線の往復代、そう考えても、多すぎると思われる現金も、別に送られてきた。
精一杯の愛嬌のつもりなのだろう。似ているとはとても思えない、本人の似顔絵が描かれた、来名をお願いする手紙も同封されていた。
弘子が考えた四人の新弟子の四股名は、
玉の輿乗造。
お金持成造。
金大事耕助。
玉玉田又造
だった。
武庫川親方は、深くため息をついた。
四人の新弟子も、深くため息をついた。
四人の新弟子は、揃って、すがるような眼で、武庫川の方を見た。
弟子たちが何を言いたいのか、武庫川にはよく分かった。
親方の力で、何とか、違う四股名にできないんですか。
四人は黙って、そう訴えていた。
武庫川は、軽く頭を振った。
四人の弟子たちは、それ以上、何も訴えなかった。
どうやら、親方は、おかみさんに対しては何も言えないらしい。一緒に暮らした日は、まださして長くはない。
だが、その短い日々で、弟子たちは、既にそのことが、もう分かっていた。
武庫川親方は思った。十四年経っても、弘子の、このセンスは変わらないか。
それにしても、四人の内、三人は、金銭関係の四股名か。
十四年間、弘子が、どんな暮らしをしてきたのか。
まあ、わが女房ながら、かなりの美人だ。出奔したときは、まだ三十歳にもなっていなかったのだから、何か、それなりの関係があった男性がいたのかもしれない。
弘子は詳しくは語らないし、武庫川も訊いてはいない。
だが、我が女房は、どうやら、金には、結構苦労したようだ。
武庫川は、それでも何とか、弟子たちの気持ちを引き立ててやりたかった。金銭には関係のない、唯一の四股名を付けられた、四人の中では最年少の自分の甥、好造に声をかけた。
「好造」
「はい」
「玉玉田か。兄弟横綱の、若乃花関と貴乃花関の元々の四股名は、若花田、貴花田だったんだぞ。似ていなくもないな。頑張れ」
「親方」
「ん」
「本当にそう思われているのでしょうか」
言葉に詰まった。どう言ったらよいのか分からない。
「でも」
「ん」
「おかみさんは、僕に親方のお名前を付けて下さったんですね」
「おお、そうだそうだ。期待しているぞ。頑張れ」
俺の名前か。期待している、か。どうせ四股名とのバランスで付けただけだろう。可哀想に。
うちの部屋に入門したばっかりに、こんな四股名を付けられてしまった弟子たち。不憫だな、と武庫川は思う。
精一杯、可愛がってやろう。
近江富士明は、113kgになった。昨年初場所の初土俵から一年半で、約30kgの増量である。幕内力士の中で最軽量であることに変わりはない。
近江富士の相撲の基調となっているもの、それはスピードである。立ち合い、相手の当たりを微妙にずらし、その圧力をまともには受けない。以降は、素早い動きで相手を翻弄する。組まれた場合は、がっぷりになることは避け、左四つ半身の姿勢からの右上手投げを炸裂させる。この相撲で、近江富士は、幕内力士になり、先の夏場所でも、初日に金の玉征士郎に敗れたあとは、白星を重ねた。
だが、終盤になって当てられた荒岩、羽黒蛇、玉武蔵には、通用しなかった。
公約の三年以内に横綱になるためには、もちろん、現役最強ランクの力士にも勝っていかなければならない。
自分は、もっともっと強くならなければならない。それも急激に。
スピードだけでは駄目だ。おのれの力士としての地力を、一段も二段もあげていかなければ駄目だ。
過去の力士の中で、自分が目指すべき相撲を取った力士がいるだろうか。
近江富士明は、見つけた。
その力士の名は、千代の富士貢。
立ち合い。120kg代の体で、相手にまともに当たる。相手に押し込まれることはない。
いや、時に当たり勝ち、そのまま相手を一気に寄り切ることさえある。あの体で何故、そんなことが出来るのか。
速く、鋭い立ち合い。その速さ、鋭さで、数10kg 上回る体重をもつ対戦相手であっても互角以上の立ち合いをする。
近江富士明は、おのれの相撲の一大転換を図った。
そして、近江富士は、自分の地力が、一段増したと、日々の稽古ではっきりと感じることが出来た。
申し合い。これまでほとんど勝つことの無かった兄、伯耆富士に、まだ稀ではあるが、時に勝てるようになり、今まで、はっきりと分の悪かった豊後富士に対しては、ほぼ互角の勝負が出来るようになっていた。
上位力士には、今、各々、定着しつつあるニックネームがあった。
アキバの御大、羽黒蛇六郎兵衛。
吉原の大将、あるいはソープの義兄、玉武蔵達夫。
土俵の名探偵、伯耆富士洋。
相撲大百科事典、若吹雪光彦。
緑色の絵画、早蕨守。
ソープの義弟、荒岩亀之助。
薩摩の義士、曾木の滝久信。
若武者、あるいは落武者、緋縅力弥(元々、四股名のイメージから若武者だったが、取組の最中、髷の元結が切れ、ザンバラ髪となったことがあり、以降、特に不調の場所は、落武者とも合わせ呼ばれるようになった)。
フンドシ王子、あるいは少年美剣士、豊後富士照也。
疾風、近江富士明。
さくらスポーツの野口記者は、荒岩亀之助には深い恩義を感じていた。ほぼ二ヶ月分の給与にあたる金額を失った自分を救ってくれた人である。その恩人のニックネーム、それは、自分にとってもぴったりのものではあったが、このニックネームでは申し訳ないではないか。
野口は、しばし考えた末、好漢、というニックネームを思いつき、自らが執筆する相撲記事に、その名称を頻出させた。
荒岩が、好人物であることは、関係者の間ではよく知られていたので、このニックネームは、徐々に定着していった。
ニッポン新聞の清水記者とその上司の笠間は、今日は珍しく、揃って内勤だった。
昨夜は、横綱玉武蔵と、関脇荒岩の接待。思惑通り、笠間も清水も、西尾社長の陪席を仰せつかった。
豪華な会食のあと、これまた思惑通り、揃って、吉原の超高級ソープ、ベルサイユへ。
清水にとっては、短期間で二度目。笠間にとっては、実に久し振りのベルサイユだった。
笠間は、椅子に座っていても、ついつい、昨夜のことを思い出し、頬が緩む。
やっぱり、ベルサイユはいいなあ。
清水が、昨夜の玉武蔵と荒岩のことを話題に出す。ベルサイユに行くことが決まった時のあの表情。実に素直な二人だ。
「荒岩関、好漢というニックネームが定着してきていますね。昨夜の関取を見ていると、ソープの方も残していおきたいですけどね」
「そうだなあ」
笠間は、しばし考えた。
「ふたつを融合させたらいいな。よし、うちは、これでいこう。「泡だらけの純情」でどうだ」
「映画のタイトルみたいですね」
「まあ、私は、元々は、作家志望だったしな」
笠間佳之。慶應義塾大学文学部卒。その気品に満ちた容姿から、学生時代は、ノーブル笠間と呼ばれていた。
名古屋場所が始まった。
初日、新横綱、伯耆富士洋の本場所最初の土俵入りは、大歓声を浴びた。
露払い、近江富士明。太刀持ち、豊後富士照也。
照富士三兄弟による横綱土俵入りである。
近江富士の、初日の対戦相手は神剣(みつるぎ)。小柄な三十四歳のベテラン力士だが、かつて、三役に定着していた時期もある。今は、横綱、大関の対戦圏内では負け越すが、幕内中位に落ちれば、勝ち越す。幕内中堅の大きな顔となっている力士だ。
立ち合い。ぶつかるやいなや、右で前みつを引き、一気に寄り立て、そのまま寄り切った。
今、転換を図っている、その相撲が取れた。
新横綱としての緊張があったとは思えない。だが、新横綱の初日は鬼門だ。名横綱と呼ばれる多くの力士が星を落としている。
伯耆富士も、初日に土がついた。
初日の取組結果(数字は、幕内での対戦成績)
勝 負
近江富士(1勝) 寄り切り (1敗)神剣
曾木の滝(1勝) 寄り切り (1敗)若飛燕
荒岩(1勝) 押し出し (1敗)神翔
早蕨(1勝) 叩き込み (1敗)安曇野
豊後富士(1勝)1 上手出し投げ 1(1敗)若吹雪
松ノ花(1勝) 寄り切り (1敗)伯耆富士
玉武蔵(1勝) 突き出し (1敗)緋縅
羽黒蛇(1勝) 寄り切り (1敗)早桜舞
二日目の取組結果(数字は、幕内での対戦成績)
勝 負
近江富士(2勝) 上手投げ (2敗)神天勝
荒岩(2勝) 寄り切り (2敗)安曇野
曾木の滝(2勝) 寄り切り (2敗)光翔
若吹雪(1勝1敗) 叩き込み (2敗)緋縅
早蕨(2勝) 押し出し (2敗)神翔
羽黒蛇(2勝) 引き落とし (1勝1敗)松ノ花
伯耆富士(1勝1敗) 送り出し (2敗)早桜舞
玉武蔵(2勝)1 突き出し 1(1勝1敗)豊後富士
今日も来ていないのか。
荒岩は、眼は良い。
西の椅子席の最前列。
土俵に上がり、仕切りの間、その空席は眼に入る。
確かに昨夜の電話でも、利菜は、行くとは言わなかった。でも、日が変われば気が変わるかもしれない。
はかない期待は、今日も叶わなかった。
この日、関脇荒岩に初黒星がついた。
何故、僕はあの女の子のことが、こんなにも気になるのだろう。荒岩亀之助は、時々、自分に問うてみる。たしかに尋常ではない可愛らしさだ。一目惚れもした。
でもあの子以上に可愛い子というのは、想像しにくいが、同じレベルで可愛いという子であれば、世間に全くいない訳ではないだろう。例えば芸能界であれば、凄く可愛い、と言い得る子はたくさんいる。
でも、今の僕は、あの子以外は眼に入らない。
泣き顔なのかな、と荒岩は思う。女の子があんなに泣く姿、というのを荒岩は初めて見た。それは、失恋の涙。言うまでも無く自分ではない、別の男に拒絶された涙なのだ。
あの子の本当の笑顔を見たいと思う。でも、その本当の笑顔は、結局のところ、あの男、豊後富士照也しか、生み出すことはできないのだろう。
自分が、今、置かれている立場を思うと、荒岩は切なかった。
三日目の取組結果(数字は、幕内での対戦成績)
勝 負
近江富士(3勝) 押し出し (2勝1敗)竹ノ花
曾木の滝(3勝) 小手投げ (1勝2敗)萌黄野
緋縅(1勝2敗) 引き落とし (2勝1敗)荒岩
早蕨(3勝) 押し出し (3敗)早桜舞
若吹雪(2勝1敗) 浴びせ倒し (3敗)神翔
玉武蔵(3勝) 突き落とし (1勝2敗)松ノ花
羽黒蛇(3勝)2 寄り切り 0 (1勝2敗)豊後富士
伯耆富士(2勝1敗) 上手出し投げ (3敗)安曇野
四日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
近江富士(4勝) 上手投げ (1勝3敗)神王
荒岩(3勝1敗) 寄り倒し (4敗)早桜舞
緋縅(2勝2敗) 押し出し (3勝1敗)曾木の滝
若吹雪(3勝1敗) 寄り切り (1勝3敗)松ノ花
早蕨(4勝) 2 突き落とし 0(1勝3敗)豊後富士
伯耆富士(3勝1敗)押し出し (2勝2敗)若飛燕
玉武蔵(4勝) 突き出し (4敗)神翔
羽黒蛇(4勝) 寄り切り (4敗)安曇野
五日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
近江富士(5勝) 寄り切り (4勝1敗)芙蓉峯
豊後富士(2勝3敗) 寄り切り (1勝4敗)萌黄野
曾木の滝(4勝1敗) 押し倒し (5敗)早桜舞
荒岩(4勝1敗) 寄り切り (1勝4敗)松ノ花
早蕨(5勝) とったり (2勝3敗)緋縅
若飛燕(3勝2敗) 叩き込み (3勝2敗)若吹雪
羽黒蛇(5勝) 下手投げ (5敗)神翔
伯耆富士(4勝1敗) 内掛け (1勝4敗)光翔
玉武蔵(5勝) 突き出し (5敗)安曇野
明日の取組は、豊後富士 対 荒岩。
名古屋に行こう。照くんに会いに行こう。
利菜はそう思った。でも何故、明日なのだろう。荒岩から送られてきたチケットは、初日から千秋楽までのすべて。照也に会うのなら、いつでもよかったはずだ。
日を重ねるにつれ、利菜は、ひたすら豊後富士照也のことばかりを思い続ける自分のことを、情けない、と思う気持ちも芽生えてきていた。
自分は、もっと誇り高い女の子だったはずだ。自分をあっさり捨てていった男に、取りすがる。なんてみじめなんだろう。
忘れよう、照也のことは。もう一度、あの誇り高かった女の子を取り戻そう。
明日、自分にとっては初めての本場所。土俵に立つ、豊後富士照也の姿を見よう。そして、それを最後にしよう。
では、亀之助さんは。あのひとはすごくいい人だ。私と照くんとの間にどんな関係があったのか。あの人は充分に察しがついているはずだ。それでも、あの人は私にひたすらな、好意を寄せてくれる。でも、どうしてもあのひとに恋愛感情はわかない。それなのにこれ以上、あのひとの好意には甘えられない。
最後に、豊後富士照也とともに、土俵の上に立つ荒岩亀之助の姿も見よう。そして、それきりにしよう。もうそれ以降は、電話もメールも断ろう。
そして、私は。
もう二度と相撲は見ない。
その日の夜の荒岩亀之助からの電話に、利菜は「明日見に行きます」と告げた。
そして、今日を最後に、もう電話もメールも最後にしてほしい、とも。
「亀之助さん」
「はい」
「今日まで色々とありがとうございました。どうかお元気で」
「利菜・・・さん」
「頑張って、横綱さんになって下さいね」
「はい、頑張ります。・・・利菜さん、利菜さん」
「素敵なお嫁さんを見つけて下さいね」
利菜の電話が切られた。
大相撲の本場所を初めて観る、その利菜にも、その取組が大熱戦だったことは分かった。
取組の長さが違った。館内の歓声の大きさが違った。
一分を超える、その間も、両者が止まっている時間はほとんどない。そんな相撲だった。
その相撲に勝ったのは、豊後富士照也。
利菜は、西の花道を引き上げる荒岩と眼があった。
亀之助さんは、別に泣いてはいなかった。
でも、利菜は、若い男性の、これほどに悲しい顔を初めて見た。
あんなに一生懸命になって、あんなに一生懸命になってくれて。
初めて会った時の、亀之助さんの顔。それから先の、彼のメール、電話。とっても下手な似顔絵。
私は、私は。
別の男の子のことが大好きだった女の子だったんだよ。それでもいいの。
勝ち残りのあと、東の花道を意気揚々と引き上げる豊後富士照也の背中が眼に入った。
利菜は、じっと、その背を見つめた。ひとりの男性にあれほど激しい恋心を抱くことはもうないだろう。
利菜は席を立った。
愛知体育会館を出る。支度部屋からここまで、荒岩亀之助は、自分に対する情けなさでいっぱいだった。外見のかっこよさでは、はるかに敵わない。その俺が相撲まで負けてどうするんだ。番付は俺の方が上なのに。これであいつに二連敗じゃないか。しかも、一番好きな女の子の目の前で、その女の子が一番好きな男にぶん投げられたんだ。こんなかっこ悪い話があるか。
体育館の前には力士の出待ちをする、ファンで溢れていた。
そのファンの中に、荒岩が、この世で一番好きな女の子がいた。
何故ここに、吃驚したが、すぐに気付いた。そうか、豊後富士を待っているのか、ここでまた声をかけるのか。
あの悲しい場面が繰り返されるのだろうか。
だが、その女の子は、荒岩亀之助の目の前に立ち、荒岩に呼び掛けた。
「敏昭さん」
利菜が、荒岩の本名を呼んだ。
利菜がじっと荒岩の顔を見つめる。
太陽の光が、一度の二十分の一だけ向きを変える時が経過した。
「利菜は、敏昭さんのお嫁さんになります」
利菜は、思った。この人を本名で呼ぶのは、今だけかもしれない。この人は、やっぱり亀之助さんだ。これからもそう呼ぼう。
六日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
近江富士(6勝) 寄り切り (5勝1敗)若旅人
緋縅(3勝3敗) 押し出し (6敗)安曇野
豊後富士(3勝3敗)2 下手投げ 0(4勝2敗)荒岩
若吹雪(4勝2敗) 寄り切り (4勝2敗)曾木の滝
早蕨(6勝) 肩透かし (1勝5敗)松ノ花
玉武蔵(6勝) 寄り切り (1勝5敗)光翔
羽黒蛇(6勝) 押し出し (3勝3敗)若飛燕
伯耆富士(5勝1敗) 上手投げ (2勝4敗)緋縅
七日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
近江富士(7勝) 上手投げ (4勝3敗)青翔
曾木の滝(5勝2敗) 送り出し (3勝4敗)豊後富士
荒岩(5勝2敗) 寄り切り (1勝6敗)光翔
早蕨(7勝) 押し出し (3勝4敗)若飛燕
若吹雪(5勝2敗) 寄り切り (1勝6敗)安曇野
伯耆富士(6勝1敗) 寄り切り (7敗)神翔
玉武蔵(7勝)突き出し (7敗)早桜舞
羽黒蛇(7勝) 上手投げ (3勝4敗)緋縅
近江富士にとっては、先場所敗れた力士との、今場所初めての対戦。
荒岩に対しても、立ち合いで右前みつを引き、やや押し込んだ。だが、そこまでだった。
荒岩が、寄り返す。されば、と右から上手投げを放つ。荒岩の体が傾いたが、その投げもしのぎ、体を密着させ、そのまま荒岩が寄り切った。
俺の新しい相撲は、まだ発展途上だ。近江富士は自覚した。
それにしても、荒岩関の体の奥底から迸るパワーはすごいな。近江富士明はそのように感じた。
八日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
緋縅(4勝4敗) 突き落とし (2勝6敗)松ノ花
豊後富士(4勝4敗)突き落とし (8敗)早桜舞
荒岩(6勝2敗) 2 寄り切り 0(7勝1敗)近江富士
若吹雪(6勝2敗)7 寄り切り 6(7勝1敗)早蕨
羽黒蛇(8勝) 寄り切り (1勝7敗)光翔
伯耆富士(7勝1敗) 上手投げ (2勝6敗)萌黄野
玉武蔵(8勝)寄り倒し (5勝3敗)曾木の滝
九日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
緋縅(5勝4敗) 押し出し (4勝5敗)豊後富士
荒岩(7勝2敗) 突き出し (4勝5敗)若飛燕
早蕨(8勝1敗)1 押し出し 0(7勝2敗)近江富士
若吹雪(7勝2敗)寄り切り (9敗)早桜舞
玉武蔵(9勝) 引き落とし (2勝7敗)萌黄野
羽黒蛇(9勝) 掬い投げ (5勝4敗)曾木の滝
伯耆富士(8勝1敗) 寄り切り (3勝6敗)北斗王
十日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
豊後富士(5勝5敗) 上手投げ (7勝3敗) 若旅人
緋縅(6勝4敗) 寄り切り (2勝8敗)安曇野
松ノ花(4勝6敗) 押し倒し(10敗)早桜舞
近江富士(8勝2敗)1 上手投げ 0(7勝3敗) 若吹雪
早蕨(9勝1敗) 押し出し (2勝8敗)光翔
曾木の滝(6勝4敗) 寄り倒し(8勝2敗)伯耆富士
玉武蔵(10勝)突き出し (2勝8敗)萌黄野
羽黒蛇(10勝)7 打っ棄り 0 (7勝3敗)荒岩
十一日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
豊後富士(6勝5敗)送り出し (4勝7敗)若飛燕
早桜舞(1勝10敗)上手出し投げ (2勝9敗)萌黄野
緋縅(7勝4敗) 突き出し (7勝4敗)若旅人
曾木の滝(7勝4敗) 寄り倒し (4勝7敗)松ノ花
若吹雪(8勝3敗) 寄り切り (2勝9敗)光翔
羽黒蛇(11勝)19 押し出し 2(9勝2敗)早蕨
荒岩(8勝3敗) 3 寄り切り 5(8勝3敗)伯耆富士
近江富士(9勝2敗) 1 押し出し 1 (10勝1敗)玉武蔵
近江富士は、横綱玉武蔵を破り、初めての金星をあげた。関脇荒岩には、先場所に続いて敗れ、初顔合わせの大関早蕨にも勝つことは出来なかったが、やはり初顔合わせだった大関若吹雪からは、殊勲の星をあげた。
そして、十二日目、ついに最強者、羽黒蛇と対戦。
土俵にあがり、近江富士と相対した時、羽黒蛇を、不思議な感覚が襲った。それは、先場所十三日目、金の玉征士郎との対戦の時の感覚にも似たものだった。
世界の全てが消失し、おのれと、対戦者の二人だけで別の世界に浮遊したかのような感覚。
たが、……その感覚は、やがて消えた。
それは、近江富士明が金の玉征士郎ではないからなのか。あるいは、おのれが変貌したからなのか。
自分はもう、あの世界に行くことはない。
そして、この近江富士も。
あるいは、この男も、あの世界の一端をうかがうことがあったのかもしれない。
たが、もうそこに行くことはないだろう。
羽黒蛇の心に、かすかな憧憬と、寂寥がよぎった。
羽黒蛇は、四神が会し、見守る、この地上の土俵で、近江富士と相対した。
立ち合い。近江富士は、右で前みつをひいた。右四つが基調である、羽黒蛇に対し、得意の左四つになった。だが、羽黒蛇は差手にはさほどこだわらない。左四つにこだわる相手であれば、相手得意の、差手にも応じる。
だが、それまでだった。羽黒蛇は一歩も下がらない。左で下手をひき、右は抱え、おっつけて、寄り進む。さればと、近江富士は、疾風と形容される俊敏な動きで、右から上手投げを放つ。
が、あっさりと下手投げを打ち返され、勝負がついた。
圧倒的な力量の差。
近江富士は嬉しくなった。
この男を倒す、と思い定めて、角界に入門した、その相手、金の玉は、もう土俵に立つことはない。俺は公約通りの期間で横綱になることを目指すしかない、と思っていたが、ここに俺が倒さなければならない相手がいるではないか。
横綱、羽黒蛇六郎兵衛に勝つ。
今の近江富士明には、それは、公約通りに横綱になることよりも、さらに困難なことのように思えた。
だが、俺は。
近江富士明は、おのれに誓った。
必ず、この男を倒す。
十二日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
松ノ花(5勝7敗) 引き落とし (6勝6敗)豊後富士
早桜舞(2勝10敗) 突き落とし (7勝5敗)緋縅
荒岩(9勝3敗) 上手投げ (7勝5敗)若旅人
曾木の滝(8勝4敗) 吊り出し (3勝9敗) 安曇野
玉武蔵(11勝1敗)7 寄り切り 2(8勝4敗)若吹雪
羽黒蛇(12勝) 2 下手投げ 0 (9勝3敗)近江富士
伯耆富士(9勝3敗)9 寄り倒し 4 (9勝3敗)早蕨
十三日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
豊後富士(7勝6敗) 寄り倒し (3勝10敗)安曇野
松ノ花(6勝7敗) 寄り切り (2勝11敗)早桜舞
近江富士(10勝3敗) 寄り切り (7勝6敗)緋縅
荒岩(10勝3敗) 寄り切り (8勝5敗)曾木の滝
早蕨(10勝3敗) 押し出し (3勝10敗)萌黄野
伯耆富士(10勝3敗)6 上手出し投げ 7 (11勝2敗)玉武蔵
羽黒蛇(13勝)11 寄り切り 1 (8勝5敗)若吹雪
十四日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
近江富士(11勝3敗) 寄り切り (8勝6敗)神天勝
豊後富士(8勝6敗) 上手投げ (9勝5敗)青翔
緋縅(8勝6敗)突き出し (5勝9敗)若飛燕
早桜舞(3勝11敗) 叩き込み (3勝11敗) 神翔
北斗王(7勝7敗) 寄り切り (8勝6敗) 曾木の滝
荒岩(11勝3敗)4 寄り切り 4 (8勝6敗) 若吹雪
羽黒蛇(14勝) 13 寄り切り 3 (10勝4敗) 伯耆富士
玉武蔵(12勝2敗) 14 寄り切り 3 (10勝4敗) 早蕨
千秋楽の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
近江富士(12勝3敗) 寄り切り (10勝5敗)神天剛
豊後富士(9勝6敗) 上手出し投げ (7勝8敗)北斗王
若飛燕(6勝9敗) 突き出し (3勝12敗)早桜舞
緋縅(9勝6敗) 押し出し (4勝11敗)光翔
曾木の滝(9勝6敗) 寄り切り (4勝11敗)萌黄野
荒岩(12勝3敗)3 寄り倒し 5 (10勝5敗)早蕨
伯耆富士(11勝4敗)7 上手投げ 5 (8勝7敗)若吹雪
羽黒蛇(15勝) 13 寄り切り 17 (12勝3敗)玉武蔵
優勝:羽黒蛇 16回目(全勝優勝6回目)
殊勲賞:荒岩(初)、近江富士(初)
敢闘賞:荒岩‘(4回目)
技能賞:近江富士(初)
場所後、荒岩亀之助、大関に昇進。
泡だらけの純情
羽黒蛇は思う。相撲とは、こんなにも面白いものだったのかと。
羽黒蛇は、今、相撲の歴史が生んだ過去の名力士たちの。そして、現役力士たちのその取組の映像を、連日、むさぼるように見続けた。
今までも、ボリュームとしては、AKB48をはじめとする、アイドルたちの映像を見る、その合間にではあったが、羽黒蛇は、そういった映像は見ていた。だがそれは、彼が目指していた理想の相撲、理想の力士。そのあるべき姿を求めて、という大きな目的があった。
今の彼は、もう、それを目指してはいない。
心にこだわりを持たずに見る相撲。それは楽しかった。その気持ちは心に余裕を生み、これまで気づかなかったような多くの発見があった。
日々の稽古についても。
羽黒蛇の基調となる相撲の取り口に大きな変化があったわけではない。だが、その相撲は、これまでの彼の相撲とは、やはりどこかが違っていた。
張り詰めた、見るものが思わず襟を正してしまうような典雅なる均衡は、失われてしまったのかもしれない。その代わりにやってきたもの。それは、見るものが心躍らせる、伸びやかな破却だった。
メールが届く。毎日何度も。電話も架かってくる。毎日一回。
メールに対して返信することはほとんどない。一度、ごく短く返信したら、ご返信ありがとうございます、という喜びに溢れた、いつも以上に長文のメールが返ってきた。それ以来、返信するのはやめた。
だが、架かってきた電話には出ない訳にはいかない。
「利菜さん」
荒岩亀之助は、遠慮がちな声で話し始める。亀之助は本名ではないそうで、本名も教えられたのだが、よく覚えていない。興味がないから覚える気にもなれない。
「こちらは、少し雲が出ていますが、良い天気です。東京はどうですか」
いつも同じ話だ。
名古屋と東京の、今日の天候がどうなのか。そんなことは、ネットで調べれば、すぐ分かるのに。
利菜が、普通な感じで。ましてや明るい口調で返事をしようものなら大変だ。
荒岩は、本人は面白いと思っているようだが、少しも面白くない話を、どんどん続ける。
だから、電話に対しても、利菜は、必要最小限の答えをぶっきらぼうに、答えるだけだ。
話の接ぎ穂をなくしてか、あるいは、早く電話を切ってほしい、という利菜の気持ちをそれなりに察してか、荒岩は長電話というほどではない時間で電話を切る。
荒岩からのメールも、電話も、利菜には気が重い。ひとこと、迷惑です。と言えば、彼はもうメールも電話も、ぴたりと寄こさなくなるだろう。
相手が嫌がっている、ということがはっきりと分かって、そういったことを続けるようなひとではない。そういうひとだということは、利菜にも分かる。
だが、利菜は、そのひとことが言えない。
それを言ってしまったら、利菜は、大相撲という世界とは何の縁も持たない、ただの人になってしまう。
こんな形であっても、利菜は、大相撲の世界と繋がりを持っていたかった。
利菜が好きで好きでたまらなかった人。いや今でも好きで好きでたまらない人。
力士、豊後富士。新谷照也と、また再び、繋がりを持つために。
利菜は、自分が類稀な美少女だということは充分に自覚していた。ごく幼い少女だった頃から、利菜に思いを寄せる少年はひきもきらなかった。
その中で、レベルが高いと思える、まあ付き合ってあげてもいいかな、と思える少年は何人かいたし、実際付き合ってもみた。
だが、どの少年もどこか物足りなかった。
利菜のほうが、本気で好きになった少年は、いなかった。
豊後富士を初めて見たのは、利菜の父が経営する企業が関係する、何か大掛かりなパーティーの会場だった。
父にとって、利菜は言うまでもなく、自慢この上ない娘であり、この種のパーティーに連れ出したがった。利菜も気が向いたときは付き合った。
豊後富士は後援者からの立っての依頼。それは、アイドル顔負けの美少年、超人気力士である豊後富士を同行者として参加したら、鼻高々になれるという思惑があっての依頼であったが、父である照富士親方の、部屋の経営のためにも、ちょっと顔を出してやってくれ、との口添えもあり、参加したのだった。
豊後富士を初めて見た時、利菜は、その美少年ぶりに心を奪われた。そんなことは初めてだった。今までも、メディアの映像として、豊後富士を見たことはあったが、自分に関係がある人物とは思わなかったし、お相撲さんにも、ずいぶんかっこいい人がいるんだなという感想を持っただけだった。
その美少年は。パーティーの席上で利菜に声をかけてきた。そして、今度、別の場所でも会おうよ、と言って、すぐに利菜の連絡先を訊いてきた。
こんなかっこいい人でも、やっぱり、私を見ると、すぐそういう気持ちになるのね。
利菜は、満足感とともに、連絡先を教え、すぐにかかってきた誘いに、少しだけ、勿体をつけたあと、応じた。
さほど、長くもない月日が経過した。
利菜は、自分が初めて本当に好きになった男に、あっさりと捨てられてしまった女になっていた。
自分が、そんな女になってしまうなど、利菜は想像したことも無かった。
名古屋場所の初日の数日前。
その日の電話で、荒岩は、
名古屋場所を応援に来てほしい、と告げた。
利菜は、十八歳になっていたが、今、高校三年生である。利菜が、高校生であることを知ったとき、荒岩はずいぶんと驚いていた。
名古屋場所。前半戦は、利菜が通っている、私立の女子高校は、まだ夏休みにはなっていない。が、既に短縮授業にはなっているので、その時期、授業は昼まで。学校が終わって、すぐに東京を発てば、幕内力士の取組の時間には間に合う。
でも、
利菜が黙っていると、荒岩は、来てくれる日を決めてくれたら、その日の桝席を送るという。豊後富士と付き合っている中で、利菜は少し、相撲界のことは勉強したので,桝席が、四人席だということは知っていた。
「桝席を送っていただいても、一緒に行く人はいません」
利菜は結局、行くとも行かないとも答えなかった。
翌々日、利菜のもとへ、荒岩からの郵便が届いた。
中には、初日から千秋楽まで、十五日間すべての、最も土俵に近い椅子席のチケットが入っていた。そして、高級ホテルの一泊分プラス新幹線の往復代、そう考えても、多すぎると思われる現金も、別に送られてきた。
精一杯の愛嬌のつもりなのだろう。似ているとはとても思えない、本人の似顔絵が描かれた、来名をお願いする手紙も同封されていた。
弘子が考えた四人の新弟子の四股名は、
玉の輿乗造。
お金持成造。
金大事耕助。
玉玉田又造
だった。
武庫川親方は、深くため息をついた。
四人の新弟子も、深くため息をついた。
四人の新弟子は、揃って、すがるような眼で、武庫川の方を見た。
弟子たちが何を言いたいのか、武庫川にはよく分かった。
親方の力で、何とか、違う四股名にできないんですか。
四人は黙って、そう訴えていた。
武庫川は、軽く頭を振った。
四人の弟子たちは、それ以上、何も訴えなかった。
どうやら、親方は、おかみさんに対しては何も言えないらしい。一緒に暮らした日は、まださして長くはない。
だが、その短い日々で、弟子たちは、既にそのことが、もう分かっていた。
武庫川親方は思った。十四年経っても、弘子の、このセンスは変わらないか。
それにしても、四人の内、三人は、金銭関係の四股名か。
十四年間、弘子が、どんな暮らしをしてきたのか。
まあ、わが女房ながら、かなりの美人だ。出奔したときは、まだ三十歳にもなっていなかったのだから、何か、それなりの関係があった男性がいたのかもしれない。
弘子は詳しくは語らないし、武庫川も訊いてはいない。
だが、我が女房は、どうやら、金には、結構苦労したようだ。
武庫川は、それでも何とか、弟子たちの気持ちを引き立ててやりたかった。金銭には関係のない、唯一の四股名を付けられた、四人の中では最年少の自分の甥、好造に声をかけた。
「好造」
「はい」
「玉玉田か。兄弟横綱の、若乃花関と貴乃花関の元々の四股名は、若花田、貴花田だったんだぞ。似ていなくもないな。頑張れ」
「親方」
「ん」
「本当にそう思われているのでしょうか」
言葉に詰まった。どう言ったらよいのか分からない。
「でも」
「ん」
「おかみさんは、僕に親方のお名前を付けて下さったんですね」
「おお、そうだそうだ。期待しているぞ。頑張れ」
俺の名前か。期待している、か。どうせ四股名とのバランスで付けただけだろう。可哀想に。
うちの部屋に入門したばっかりに、こんな四股名を付けられてしまった弟子たち。不憫だな、と武庫川は思う。
精一杯、可愛がってやろう。
近江富士明は、113kgになった。昨年初場所の初土俵から一年半で、約30kgの増量である。幕内力士の中で最軽量であることに変わりはない。
近江富士の相撲の基調となっているもの、それはスピードである。立ち合い、相手の当たりを微妙にずらし、その圧力をまともには受けない。以降は、素早い動きで相手を翻弄する。組まれた場合は、がっぷりになることは避け、左四つ半身の姿勢からの右上手投げを炸裂させる。この相撲で、近江富士は、幕内力士になり、先の夏場所でも、初日に金の玉征士郎に敗れたあとは、白星を重ねた。
だが、終盤になって当てられた荒岩、羽黒蛇、玉武蔵には、通用しなかった。
公約の三年以内に横綱になるためには、もちろん、現役最強ランクの力士にも勝っていかなければならない。
自分は、もっともっと強くならなければならない。それも急激に。
スピードだけでは駄目だ。おのれの力士としての地力を、一段も二段もあげていかなければ駄目だ。
過去の力士の中で、自分が目指すべき相撲を取った力士がいるだろうか。
近江富士明は、見つけた。
その力士の名は、千代の富士貢。
立ち合い。120kg代の体で、相手にまともに当たる。相手に押し込まれることはない。
いや、時に当たり勝ち、そのまま相手を一気に寄り切ることさえある。あの体で何故、そんなことが出来るのか。
速く、鋭い立ち合い。その速さ、鋭さで、数10kg 上回る体重をもつ対戦相手であっても互角以上の立ち合いをする。
近江富士明は、おのれの相撲の一大転換を図った。
そして、近江富士は、自分の地力が、一段増したと、日々の稽古ではっきりと感じることが出来た。
申し合い。これまでほとんど勝つことの無かった兄、伯耆富士に、まだ稀ではあるが、時に勝てるようになり、今まで、はっきりと分の悪かった豊後富士に対しては、ほぼ互角の勝負が出来るようになっていた。
上位力士には、今、各々、定着しつつあるニックネームがあった。
アキバの御大、羽黒蛇六郎兵衛。
吉原の大将、あるいはソープの義兄、玉武蔵達夫。
土俵の名探偵、伯耆富士洋。
相撲大百科事典、若吹雪光彦。
緑色の絵画、早蕨守。
ソープの義弟、荒岩亀之助。
薩摩の義士、曾木の滝久信。
若武者、あるいは落武者、緋縅力弥(元々、四股名のイメージから若武者だったが、取組の最中、髷の元結が切れ、ザンバラ髪となったことがあり、以降、特に不調の場所は、落武者とも合わせ呼ばれるようになった)。
フンドシ王子、あるいは少年美剣士、豊後富士照也。
疾風、近江富士明。
さくらスポーツの野口記者は、荒岩亀之助には深い恩義を感じていた。ほぼ二ヶ月分の給与にあたる金額を失った自分を救ってくれた人である。その恩人のニックネーム、それは、自分にとってもぴったりのものではあったが、このニックネームでは申し訳ないではないか。
野口は、しばし考えた末、好漢、というニックネームを思いつき、自らが執筆する相撲記事に、その名称を頻出させた。
荒岩が、好人物であることは、関係者の間ではよく知られていたので、このニックネームは、徐々に定着していった。
ニッポン新聞の清水記者とその上司の笠間は、今日は珍しく、揃って内勤だった。
昨夜は、横綱玉武蔵と、関脇荒岩の接待。思惑通り、笠間も清水も、西尾社長の陪席を仰せつかった。
豪華な会食のあと、これまた思惑通り、揃って、吉原の超高級ソープ、ベルサイユへ。
清水にとっては、短期間で二度目。笠間にとっては、実に久し振りのベルサイユだった。
笠間は、椅子に座っていても、ついつい、昨夜のことを思い出し、頬が緩む。
やっぱり、ベルサイユはいいなあ。
清水が、昨夜の玉武蔵と荒岩のことを話題に出す。ベルサイユに行くことが決まった時のあの表情。実に素直な二人だ。
「荒岩関、好漢というニックネームが定着してきていますね。昨夜の関取を見ていると、ソープの方も残していおきたいですけどね」
「そうだなあ」
笠間は、しばし考えた。
「ふたつを融合させたらいいな。よし、うちは、これでいこう。「泡だらけの純情」でどうだ」
「映画のタイトルみたいですね」
「まあ、私は、元々は、作家志望だったしな」
笠間佳之。慶應義塾大学文学部卒。その気品に満ちた容姿から、学生時代は、ノーブル笠間と呼ばれていた。
名古屋場所が始まった。
初日、新横綱、伯耆富士洋の本場所最初の土俵入りは、大歓声を浴びた。
露払い、近江富士明。太刀持ち、豊後富士照也。
照富士三兄弟による横綱土俵入りである。
近江富士の、初日の対戦相手は神剣(みつるぎ)。小柄な三十四歳のベテラン力士だが、かつて、三役に定着していた時期もある。今は、横綱、大関の対戦圏内では負け越すが、幕内中位に落ちれば、勝ち越す。幕内中堅の大きな顔となっている力士だ。
立ち合い。ぶつかるやいなや、右で前みつを引き、一気に寄り立て、そのまま寄り切った。
今、転換を図っている、その相撲が取れた。
新横綱としての緊張があったとは思えない。だが、新横綱の初日は鬼門だ。名横綱と呼ばれる多くの力士が星を落としている。
伯耆富士も、初日に土がついた。
初日の取組結果(数字は、幕内での対戦成績)
勝 負
近江富士(1勝) 寄り切り (1敗)神剣
曾木の滝(1勝) 寄り切り (1敗)若飛燕
荒岩(1勝) 押し出し (1敗)神翔
早蕨(1勝) 叩き込み (1敗)安曇野
豊後富士(1勝)1 上手出し投げ 1(1敗)若吹雪
松ノ花(1勝) 寄り切り (1敗)伯耆富士
玉武蔵(1勝) 突き出し (1敗)緋縅
羽黒蛇(1勝) 寄り切り (1敗)早桜舞
二日目の取組結果(数字は、幕内での対戦成績)
勝 負
近江富士(2勝) 上手投げ (2敗)神天勝
荒岩(2勝) 寄り切り (2敗)安曇野
曾木の滝(2勝) 寄り切り (2敗)光翔
若吹雪(1勝1敗) 叩き込み (2敗)緋縅
早蕨(2勝) 押し出し (2敗)神翔
羽黒蛇(2勝) 引き落とし (1勝1敗)松ノ花
伯耆富士(1勝1敗) 送り出し (2敗)早桜舞
玉武蔵(2勝)1 突き出し 1(1勝1敗)豊後富士
今日も来ていないのか。
荒岩は、眼は良い。
西の椅子席の最前列。
土俵に上がり、仕切りの間、その空席は眼に入る。
確かに昨夜の電話でも、利菜は、行くとは言わなかった。でも、日が変われば気が変わるかもしれない。
はかない期待は、今日も叶わなかった。
この日、関脇荒岩に初黒星がついた。
何故、僕はあの女の子のことが、こんなにも気になるのだろう。荒岩亀之助は、時々、自分に問うてみる。たしかに尋常ではない可愛らしさだ。一目惚れもした。
でもあの子以上に可愛い子というのは、想像しにくいが、同じレベルで可愛いという子であれば、世間に全くいない訳ではないだろう。例えば芸能界であれば、凄く可愛い、と言い得る子はたくさんいる。
でも、今の僕は、あの子以外は眼に入らない。
泣き顔なのかな、と荒岩は思う。女の子があんなに泣く姿、というのを荒岩は初めて見た。それは、失恋の涙。言うまでも無く自分ではない、別の男に拒絶された涙なのだ。
あの子の本当の笑顔を見たいと思う。でも、その本当の笑顔は、結局のところ、あの男、豊後富士照也しか、生み出すことはできないのだろう。
自分が、今、置かれている立場を思うと、荒岩は切なかった。
三日目の取組結果(数字は、幕内での対戦成績)
勝 負
近江富士(3勝) 押し出し (2勝1敗)竹ノ花
曾木の滝(3勝) 小手投げ (1勝2敗)萌黄野
緋縅(1勝2敗) 引き落とし (2勝1敗)荒岩
早蕨(3勝) 押し出し (3敗)早桜舞
若吹雪(2勝1敗) 浴びせ倒し (3敗)神翔
玉武蔵(3勝) 突き落とし (1勝2敗)松ノ花
羽黒蛇(3勝)2 寄り切り 0 (1勝2敗)豊後富士
伯耆富士(2勝1敗) 上手出し投げ (3敗)安曇野
四日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
近江富士(4勝) 上手投げ (1勝3敗)神王
荒岩(3勝1敗) 寄り倒し (4敗)早桜舞
緋縅(2勝2敗) 押し出し (3勝1敗)曾木の滝
若吹雪(3勝1敗) 寄り切り (1勝3敗)松ノ花
早蕨(4勝) 2 突き落とし 0(1勝3敗)豊後富士
伯耆富士(3勝1敗)押し出し (2勝2敗)若飛燕
玉武蔵(4勝) 突き出し (4敗)神翔
羽黒蛇(4勝) 寄り切り (4敗)安曇野
五日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
近江富士(5勝) 寄り切り (4勝1敗)芙蓉峯
豊後富士(2勝3敗) 寄り切り (1勝4敗)萌黄野
曾木の滝(4勝1敗) 押し倒し (5敗)早桜舞
荒岩(4勝1敗) 寄り切り (1勝4敗)松ノ花
早蕨(5勝) とったり (2勝3敗)緋縅
若飛燕(3勝2敗) 叩き込み (3勝2敗)若吹雪
羽黒蛇(5勝) 下手投げ (5敗)神翔
伯耆富士(4勝1敗) 内掛け (1勝4敗)光翔
玉武蔵(5勝) 突き出し (5敗)安曇野
明日の取組は、豊後富士 対 荒岩。
名古屋に行こう。照くんに会いに行こう。
利菜はそう思った。でも何故、明日なのだろう。荒岩から送られてきたチケットは、初日から千秋楽までのすべて。照也に会うのなら、いつでもよかったはずだ。
日を重ねるにつれ、利菜は、ひたすら豊後富士照也のことばかりを思い続ける自分のことを、情けない、と思う気持ちも芽生えてきていた。
自分は、もっと誇り高い女の子だったはずだ。自分をあっさり捨てていった男に、取りすがる。なんてみじめなんだろう。
忘れよう、照也のことは。もう一度、あの誇り高かった女の子を取り戻そう。
明日、自分にとっては初めての本場所。土俵に立つ、豊後富士照也の姿を見よう。そして、それを最後にしよう。
では、亀之助さんは。あのひとはすごくいい人だ。私と照くんとの間にどんな関係があったのか。あの人は充分に察しがついているはずだ。それでも、あの人は私にひたすらな、好意を寄せてくれる。でも、どうしてもあのひとに恋愛感情はわかない。それなのにこれ以上、あのひとの好意には甘えられない。
最後に、豊後富士照也とともに、土俵の上に立つ荒岩亀之助の姿も見よう。そして、それきりにしよう。もうそれ以降は、電話もメールも断ろう。
そして、私は。
もう二度と相撲は見ない。
その日の夜の荒岩亀之助からの電話に、利菜は「明日見に行きます」と告げた。
そして、今日を最後に、もう電話もメールも最後にしてほしい、とも。
「亀之助さん」
「はい」
「今日まで色々とありがとうございました。どうかお元気で」
「利菜・・・さん」
「頑張って、横綱さんになって下さいね」
「はい、頑張ります。・・・利菜さん、利菜さん」
「素敵なお嫁さんを見つけて下さいね」
利菜の電話が切られた。
大相撲の本場所を初めて観る、その利菜にも、その取組が大熱戦だったことは分かった。
取組の長さが違った。館内の歓声の大きさが違った。
一分を超える、その間も、両者が止まっている時間はほとんどない。そんな相撲だった。
その相撲に勝ったのは、豊後富士照也。
利菜は、西の花道を引き上げる荒岩と眼があった。
亀之助さんは、別に泣いてはいなかった。
でも、利菜は、若い男性の、これほどに悲しい顔を初めて見た。
あんなに一生懸命になって、あんなに一生懸命になってくれて。
初めて会った時の、亀之助さんの顔。それから先の、彼のメール、電話。とっても下手な似顔絵。
私は、私は。
別の男の子のことが大好きだった女の子だったんだよ。それでもいいの。
勝ち残りのあと、東の花道を意気揚々と引き上げる豊後富士照也の背中が眼に入った。
利菜は、じっと、その背を見つめた。ひとりの男性にあれほど激しい恋心を抱くことはもうないだろう。
利菜は席を立った。
愛知体育会館を出る。支度部屋からここまで、荒岩亀之助は、自分に対する情けなさでいっぱいだった。外見のかっこよさでは、はるかに敵わない。その俺が相撲まで負けてどうするんだ。番付は俺の方が上なのに。これであいつに二連敗じゃないか。しかも、一番好きな女の子の目の前で、その女の子が一番好きな男にぶん投げられたんだ。こんなかっこ悪い話があるか。
体育館の前には力士の出待ちをする、ファンで溢れていた。
そのファンの中に、荒岩が、この世で一番好きな女の子がいた。
何故ここに、吃驚したが、すぐに気付いた。そうか、豊後富士を待っているのか、ここでまた声をかけるのか。
あの悲しい場面が繰り返されるのだろうか。
だが、その女の子は、荒岩亀之助の目の前に立ち、荒岩に呼び掛けた。
「敏昭さん」
利菜が、荒岩の本名を呼んだ。
利菜がじっと荒岩の顔を見つめる。
太陽の光が、一度の二十分の一だけ向きを変える時が経過した。
「利菜は、敏昭さんのお嫁さんになります」
利菜は、思った。この人を本名で呼ぶのは、今だけかもしれない。この人は、やっぱり亀之助さんだ。これからもそう呼ぼう。
六日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
近江富士(6勝) 寄り切り (5勝1敗)若旅人
緋縅(3勝3敗) 押し出し (6敗)安曇野
豊後富士(3勝3敗)2 下手投げ 0(4勝2敗)荒岩
若吹雪(4勝2敗) 寄り切り (4勝2敗)曾木の滝
早蕨(6勝) 肩透かし (1勝5敗)松ノ花
玉武蔵(6勝) 寄り切り (1勝5敗)光翔
羽黒蛇(6勝) 押し出し (3勝3敗)若飛燕
伯耆富士(5勝1敗) 上手投げ (2勝4敗)緋縅
七日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
近江富士(7勝) 上手投げ (4勝3敗)青翔
曾木の滝(5勝2敗) 送り出し (3勝4敗)豊後富士
荒岩(5勝2敗) 寄り切り (1勝6敗)光翔
早蕨(7勝) 押し出し (3勝4敗)若飛燕
若吹雪(5勝2敗) 寄り切り (1勝6敗)安曇野
伯耆富士(6勝1敗) 寄り切り (7敗)神翔
玉武蔵(7勝)突き出し (7敗)早桜舞
羽黒蛇(7勝) 上手投げ (3勝4敗)緋縅
近江富士にとっては、先場所敗れた力士との、今場所初めての対戦。
荒岩に対しても、立ち合いで右前みつを引き、やや押し込んだ。だが、そこまでだった。
荒岩が、寄り返す。されば、と右から上手投げを放つ。荒岩の体が傾いたが、その投げもしのぎ、体を密着させ、そのまま荒岩が寄り切った。
俺の新しい相撲は、まだ発展途上だ。近江富士は自覚した。
それにしても、荒岩関の体の奥底から迸るパワーはすごいな。近江富士明はそのように感じた。
八日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
緋縅(4勝4敗) 突き落とし (2勝6敗)松ノ花
豊後富士(4勝4敗)突き落とし (8敗)早桜舞
荒岩(6勝2敗) 2 寄り切り 0(7勝1敗)近江富士
若吹雪(6勝2敗)7 寄り切り 6(7勝1敗)早蕨
羽黒蛇(8勝) 寄り切り (1勝7敗)光翔
伯耆富士(7勝1敗) 上手投げ (2勝6敗)萌黄野
玉武蔵(8勝)寄り倒し (5勝3敗)曾木の滝
九日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
緋縅(5勝4敗) 押し出し (4勝5敗)豊後富士
荒岩(7勝2敗) 突き出し (4勝5敗)若飛燕
早蕨(8勝1敗)1 押し出し 0(7勝2敗)近江富士
若吹雪(7勝2敗)寄り切り (9敗)早桜舞
玉武蔵(9勝) 引き落とし (2勝7敗)萌黄野
羽黒蛇(9勝) 掬い投げ (5勝4敗)曾木の滝
伯耆富士(8勝1敗) 寄り切り (3勝6敗)北斗王
十日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
豊後富士(5勝5敗) 上手投げ (7勝3敗) 若旅人
緋縅(6勝4敗) 寄り切り (2勝8敗)安曇野
松ノ花(4勝6敗) 押し倒し(10敗)早桜舞
近江富士(8勝2敗)1 上手投げ 0(7勝3敗) 若吹雪
早蕨(9勝1敗) 押し出し (2勝8敗)光翔
曾木の滝(6勝4敗) 寄り倒し(8勝2敗)伯耆富士
玉武蔵(10勝)突き出し (2勝8敗)萌黄野
羽黒蛇(10勝)7 打っ棄り 0 (7勝3敗)荒岩
十一日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
豊後富士(6勝5敗)送り出し (4勝7敗)若飛燕
早桜舞(1勝10敗)上手出し投げ (2勝9敗)萌黄野
緋縅(7勝4敗) 突き出し (7勝4敗)若旅人
曾木の滝(7勝4敗) 寄り倒し (4勝7敗)松ノ花
若吹雪(8勝3敗) 寄り切り (2勝9敗)光翔
羽黒蛇(11勝)19 押し出し 2(9勝2敗)早蕨
荒岩(8勝3敗) 3 寄り切り 5(8勝3敗)伯耆富士
近江富士(9勝2敗) 1 押し出し 1 (10勝1敗)玉武蔵
近江富士は、横綱玉武蔵を破り、初めての金星をあげた。関脇荒岩には、先場所に続いて敗れ、初顔合わせの大関早蕨にも勝つことは出来なかったが、やはり初顔合わせだった大関若吹雪からは、殊勲の星をあげた。
そして、十二日目、ついに最強者、羽黒蛇と対戦。
土俵にあがり、近江富士と相対した時、羽黒蛇を、不思議な感覚が襲った。それは、先場所十三日目、金の玉征士郎との対戦の時の感覚にも似たものだった。
世界の全てが消失し、おのれと、対戦者の二人だけで別の世界に浮遊したかのような感覚。
たが、……その感覚は、やがて消えた。
それは、近江富士明が金の玉征士郎ではないからなのか。あるいは、おのれが変貌したからなのか。
自分はもう、あの世界に行くことはない。
そして、この近江富士も。
あるいは、この男も、あの世界の一端をうかがうことがあったのかもしれない。
たが、もうそこに行くことはないだろう。
羽黒蛇の心に、かすかな憧憬と、寂寥がよぎった。
羽黒蛇は、四神が会し、見守る、この地上の土俵で、近江富士と相対した。
立ち合い。近江富士は、右で前みつをひいた。右四つが基調である、羽黒蛇に対し、得意の左四つになった。だが、羽黒蛇は差手にはさほどこだわらない。左四つにこだわる相手であれば、相手得意の、差手にも応じる。
だが、それまでだった。羽黒蛇は一歩も下がらない。左で下手をひき、右は抱え、おっつけて、寄り進む。さればと、近江富士は、疾風と形容される俊敏な動きで、右から上手投げを放つ。
が、あっさりと下手投げを打ち返され、勝負がついた。
圧倒的な力量の差。
近江富士は嬉しくなった。
この男を倒す、と思い定めて、角界に入門した、その相手、金の玉は、もう土俵に立つことはない。俺は公約通りの期間で横綱になることを目指すしかない、と思っていたが、ここに俺が倒さなければならない相手がいるではないか。
横綱、羽黒蛇六郎兵衛に勝つ。
今の近江富士明には、それは、公約通りに横綱になることよりも、さらに困難なことのように思えた。
だが、俺は。
近江富士明は、おのれに誓った。
必ず、この男を倒す。
十二日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
松ノ花(5勝7敗) 引き落とし (6勝6敗)豊後富士
早桜舞(2勝10敗) 突き落とし (7勝5敗)緋縅
荒岩(9勝3敗) 上手投げ (7勝5敗)若旅人
曾木の滝(8勝4敗) 吊り出し (3勝9敗) 安曇野
玉武蔵(11勝1敗)7 寄り切り 2(8勝4敗)若吹雪
羽黒蛇(12勝) 2 下手投げ 0 (9勝3敗)近江富士
伯耆富士(9勝3敗)9 寄り倒し 4 (9勝3敗)早蕨
十三日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
豊後富士(7勝6敗) 寄り倒し (3勝10敗)安曇野
松ノ花(6勝7敗) 寄り切り (2勝11敗)早桜舞
近江富士(10勝3敗) 寄り切り (7勝6敗)緋縅
荒岩(10勝3敗) 寄り切り (8勝5敗)曾木の滝
早蕨(10勝3敗) 押し出し (3勝10敗)萌黄野
伯耆富士(10勝3敗)6 上手出し投げ 7 (11勝2敗)玉武蔵
羽黒蛇(13勝)11 寄り切り 1 (8勝5敗)若吹雪
十四日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
近江富士(11勝3敗) 寄り切り (8勝6敗)神天勝
豊後富士(8勝6敗) 上手投げ (9勝5敗)青翔
緋縅(8勝6敗)突き出し (5勝9敗)若飛燕
早桜舞(3勝11敗) 叩き込み (3勝11敗) 神翔
北斗王(7勝7敗) 寄り切り (8勝6敗) 曾木の滝
荒岩(11勝3敗)4 寄り切り 4 (8勝6敗) 若吹雪
羽黒蛇(14勝) 13 寄り切り 3 (10勝4敗) 伯耆富士
玉武蔵(12勝2敗) 14 寄り切り 3 (10勝4敗) 早蕨
千秋楽の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
勝 負
近江富士(12勝3敗) 寄り切り (10勝5敗)神天剛
豊後富士(9勝6敗) 上手出し投げ (7勝8敗)北斗王
若飛燕(6勝9敗) 突き出し (3勝12敗)早桜舞
緋縅(9勝6敗) 押し出し (4勝11敗)光翔
曾木の滝(9勝6敗) 寄り切り (4勝11敗)萌黄野
荒岩(12勝3敗)3 寄り倒し 5 (10勝5敗)早蕨
伯耆富士(11勝4敗)7 上手投げ 5 (8勝7敗)若吹雪
羽黒蛇(15勝) 13 寄り切り 17 (12勝3敗)玉武蔵
優勝:羽黒蛇 16回目(全勝優勝6回目)
殊勲賞:荒岩(初)、近江富士(初)
敢闘賞:荒岩‘(4回目)
技能賞:近江富士(初)
場所後、荒岩亀之助、大関に昇進。