羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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四神会する場所 第二部 中村淳一著

2017年08月25日 | 小説
四神会する場所 第二部

泡だらけの純情

 羽黒蛇は思う。相撲とは、こんなにも面白いものだったのかと。
羽黒蛇は、今、相撲の歴史が生んだ過去の名力士たちの。そして、現役力士たちのその取組の映像を、連日、むさぼるように見続けた。
 今までも、ボリュームとしては、AKB48をはじめとする、アイドルたちの映像を見る、その合間にではあったが、羽黒蛇は、そういった映像は見ていた。だがそれは、彼が目指していた理想の相撲、理想の力士。そのあるべき姿を求めて、という大きな目的があった。
 今の彼は、もう、それを目指してはいない。
 心にこだわりを持たずに見る相撲。それは楽しかった。その気持ちは心に余裕を生み、これまで気づかなかったような多くの発見があった。
 日々の稽古についても。
 羽黒蛇の基調となる相撲の取り口に大きな変化があったわけではない。だが、その相撲は、これまでの彼の相撲とは、やはりどこかが違っていた。
張り詰めた、見るものが思わず襟を正してしまうような典雅なる均衡は、失われてしまったのかもしれない。その代わりにやってきたもの。それは、見るものが心躍らせる、伸びやかな破却だった。


 メールが届く。毎日何度も。電話も架かってくる。毎日一回。
メールに対して返信することはほとんどない。一度、ごく短く返信したら、ご返信ありがとうございます、という喜びに溢れた、いつも以上に長文のメールが返ってきた。それ以来、返信するのはやめた。
 だが、架かってきた電話には出ない訳にはいかない。
「利菜さん」
荒岩亀之助は、遠慮がちな声で話し始める。亀之助は本名ではないそうで、本名も教えられたのだが、よく覚えていない。興味がないから覚える気にもなれない。
「こちらは、少し雲が出ていますが、良い天気です。東京はどうですか」
 いつも同じ話だ。
 
 名古屋と東京の、今日の天候がどうなのか。そんなことは、ネットで調べれば、すぐ分かるのに。
利菜が、普通な感じで。ましてや明るい口調で返事をしようものなら大変だ。
 荒岩は、本人は面白いと思っているようだが、少しも面白くない話を、どんどん続ける。
 だから、電話に対しても、利菜は、必要最小限の答えをぶっきらぼうに、答えるだけだ。
 話の接ぎ穂をなくしてか、あるいは、早く電話を切ってほしい、という利菜の気持ちをそれなりに察してか、荒岩は長電話というほどではない時間で電話を切る。
 荒岩からのメールも、電話も、利菜には気が重い。ひとこと、迷惑です。と言えば、彼はもうメールも電話も、ぴたりと寄こさなくなるだろう。
相手が嫌がっている、ということがはっきりと分かって、そういったことを続けるようなひとではない。そういうひとだということは、利菜にも分かる。
だが、利菜は、そのひとことが言えない。
それを言ってしまったら、利菜は、大相撲という世界とは何の縁も持たない、ただの人になってしまう。

こんな形であっても、利菜は、大相撲の世界と繋がりを持っていたかった。
利菜が好きで好きでたまらなかった人。いや今でも好きで好きでたまらない人。
力士、豊後富士。新谷照也と、また再び、繋がりを持つために。

利菜は、自分が類稀な美少女だということは充分に自覚していた。ごく幼い少女だった頃から、利菜に思いを寄せる少年はひきもきらなかった。
その中で、レベルが高いと思える、まあ付き合ってあげてもいいかな、と思える少年は何人かいたし、実際付き合ってもみた。
だが、どの少年もどこか物足りなかった。
利菜のほうが、本気で好きになった少年は、いなかった。

豊後富士を初めて見たのは、利菜の父が経営する企業が関係する、何か大掛かりなパーティーの会場だった。
父にとって、利菜は言うまでもなく、自慢この上ない娘であり、この種のパーティーに連れ出したがった。利菜も気が向いたときは付き合った。
豊後富士は後援者からの立っての依頼。それは、アイドル顔負けの美少年、超人気力士である豊後富士を同行者として参加したら、鼻高々になれるという思惑があっての依頼であったが、父である照富士親方の、部屋の経営のためにも、ちょっと顔を出してやってくれ、との口添えもあり、参加したのだった。

豊後富士を初めて見た時、利菜は、その美少年ぶりに心を奪われた。そんなことは初めてだった。今までも、メディアの映像として、豊後富士を見たことはあったが、自分に関係がある人物とは思わなかったし、お相撲さんにも、ずいぶんかっこいい人がいるんだなという感想を持っただけだった。

その美少年は。パーティーの席上で利菜に声をかけてきた。そして、今度、別の場所でも会おうよ、と言って、すぐに利菜の連絡先を訊いてきた。
こんなかっこいい人でも、やっぱり、私を見ると、すぐそういう気持ちになるのね。
利菜は、満足感とともに、連絡先を教え、すぐにかかってきた誘いに、少しだけ、勿体をつけたあと、応じた。

さほど、長くもない月日が経過した。
利菜は、自分が初めて本当に好きになった男に、あっさりと捨てられてしまった女になっていた。
自分が、そんな女になってしまうなど、利菜は想像したことも無かった。

名古屋場所の初日の数日前。
その日の電話で、荒岩は、
名古屋場所を応援に来てほしい、と告げた。
利菜は、十八歳になっていたが、今、高校三年生である。利菜が、高校生であることを知ったとき、荒岩はずいぶんと驚いていた。
名古屋場所。前半戦は、利菜が通っている、私立の女子高校は、まだ夏休みにはなっていない。が、既に短縮授業にはなっているので、その時期、授業は昼まで。学校が終わって、すぐに東京を発てば、幕内力士の取組の時間には間に合う。
でも、
利菜が黙っていると、荒岩は、来てくれる日を決めてくれたら、その日の桝席を送るという。豊後富士と付き合っている中で、利菜は少し、相撲界のことは勉強したので,桝席が、四人席だということは知っていた。
「桝席を送っていただいても、一緒に行く人はいません」
利菜は結局、行くとも行かないとも答えなかった。

翌々日、利菜のもとへ、荒岩からの郵便が届いた。
中には、初日から千秋楽まで、十五日間すべての、最も土俵に近い椅子席のチケットが入っていた。そして、高級ホテルの一泊分プラス新幹線の往復代、そう考えても、多すぎると思われる現金も、別に送られてきた。
精一杯の愛嬌のつもりなのだろう。似ているとはとても思えない、本人の似顔絵が描かれた、来名をお願いする手紙も同封されていた。


弘子が考えた四人の新弟子の四股名は、
 玉の輿乗造。
 お金持成造。
 金大事耕助。
 玉玉田又造
だった。

武庫川親方は、深くため息をついた。
四人の新弟子も、深くため息をついた。
四人の新弟子は、揃って、すがるような眼で、武庫川の方を見た。
弟子たちが何を言いたいのか、武庫川にはよく分かった。
親方の力で、何とか、違う四股名にできないんですか。
四人は黙って、そう訴えていた。
武庫川は、軽く頭を振った。

四人の弟子たちは、それ以上、何も訴えなかった。
どうやら、親方は、おかみさんに対しては何も言えないらしい。一緒に暮らした日は、まださして長くはない。
だが、その短い日々で、弟子たちは、既にそのことが、もう分かっていた。

武庫川親方は思った。十四年経っても、弘子の、このセンスは変わらないか。
それにしても、四人の内、三人は、金銭関係の四股名か。
十四年間、弘子が、どんな暮らしをしてきたのか。
まあ、わが女房ながら、かなりの美人だ。出奔したときは、まだ三十歳にもなっていなかったのだから、何か、それなりの関係があった男性がいたのかもしれない。
弘子は詳しくは語らないし、武庫川も訊いてはいない。
だが、我が女房は、どうやら、金には、結構苦労したようだ。

武庫川は、それでも何とか、弟子たちの気持ちを引き立ててやりたかった。金銭には関係のない、唯一の四股名を付けられた、四人の中では最年少の自分の甥、好造に声をかけた。
「好造」
「はい」
「玉玉田か。兄弟横綱の、若乃花関と貴乃花関の元々の四股名は、若花田、貴花田だったんだぞ。似ていなくもないな。頑張れ」
「親方」
「ん」
「本当にそう思われているのでしょうか」
言葉に詰まった。どう言ったらよいのか分からない。
「でも」
「ん」
「おかみさんは、僕に親方のお名前を付けて下さったんですね」
「おお、そうだそうだ。期待しているぞ。頑張れ」
俺の名前か。期待している、か。どうせ四股名とのバランスで付けただけだろう。可哀想に。
うちの部屋に入門したばっかりに、こんな四股名を付けられてしまった弟子たち。不憫だな、と武庫川は思う。
精一杯、可愛がってやろう。


近江富士明は、113kgになった。昨年初場所の初土俵から一年半で、約30kgの増量である。幕内力士の中で最軽量であることに変わりはない。
 近江富士の相撲の基調となっているもの、それはスピードである。立ち合い、相手の当たりを微妙にずらし、その圧力をまともには受けない。以降は、素早い動きで相手を翻弄する。組まれた場合は、がっぷりになることは避け、左四つ半身の姿勢からの右上手投げを炸裂させる。この相撲で、近江富士は、幕内力士になり、先の夏場所でも、初日に金の玉征士郎に敗れたあとは、白星を重ねた。
だが、終盤になって当てられた荒岩、羽黒蛇、玉武蔵には、通用しなかった。
公約の三年以内に横綱になるためには、もちろん、現役最強ランクの力士にも勝っていかなければならない。
自分は、もっともっと強くならなければならない。それも急激に。
スピードだけでは駄目だ。おのれの力士としての地力を、一段も二段もあげていかなければ駄目だ。
過去の力士の中で、自分が目指すべき相撲を取った力士がいるだろうか。
近江富士明は、見つけた。
その力士の名は、千代の富士貢。
立ち合い。120kg代の体で、相手にまともに当たる。相手に押し込まれることはない。
いや、時に当たり勝ち、そのまま相手を一気に寄り切ることさえある。あの体で何故、そんなことが出来るのか。
速く、鋭い立ち合い。その速さ、鋭さで、数10kg 上回る体重をもつ対戦相手であっても互角以上の立ち合いをする。
近江富士明は、おのれの相撲の一大転換を図った。
そして、近江富士は、自分の地力が、一段増したと、日々の稽古ではっきりと感じることが出来た。
申し合い。これまでほとんど勝つことの無かった兄、伯耆富士に、まだ稀ではあるが、時に勝てるようになり、今まで、はっきりと分の悪かった豊後富士に対しては、ほぼ互角の勝負が出来るようになっていた。


 上位力士には、今、各々、定着しつつあるニックネームがあった。
 アキバの御大、羽黒蛇六郎兵衛。
 吉原の大将、あるいはソープの義兄、玉武蔵達夫。
 土俵の名探偵、伯耆富士洋。
 相撲大百科事典、若吹雪光彦。
 緑色の絵画、早蕨守。
 ソープの義弟、荒岩亀之助。
 薩摩の義士、曾木の滝久信。
 若武者、あるいは落武者、緋縅力弥(元々、四股名のイメージから若武者だったが、取組の最中、髷の元結が切れ、ザンバラ髪となったことがあり、以降、特に不調の場所は、落武者とも合わせ呼ばれるようになった)。
 フンドシ王子、あるいは少年美剣士、豊後富士照也。
 疾風、近江富士明。

さくらスポーツの野口記者は、荒岩亀之助には深い恩義を感じていた。ほぼ二ヶ月分の給与にあたる金額を失った自分を救ってくれた人である。その恩人のニックネーム、それは、自分にとってもぴったりのものではあったが、このニックネームでは申し訳ないではないか。
野口は、しばし考えた末、好漢、というニックネームを思いつき、自らが執筆する相撲記事に、その名称を頻出させた。
荒岩が、好人物であることは、関係者の間ではよく知られていたので、このニックネームは、徐々に定着していった。


ニッポン新聞の清水記者とその上司の笠間は、今日は珍しく、揃って内勤だった。
昨夜は、横綱玉武蔵と、関脇荒岩の接待。思惑通り、笠間も清水も、西尾社長の陪席を仰せつかった。
豪華な会食のあと、これまた思惑通り、揃って、吉原の超高級ソープ、ベルサイユへ。
清水にとっては、短期間で二度目。笠間にとっては、実に久し振りのベルサイユだった。

笠間は、椅子に座っていても、ついつい、昨夜のことを思い出し、頬が緩む。
やっぱり、ベルサイユはいいなあ。
清水が、昨夜の玉武蔵と荒岩のことを話題に出す。ベルサイユに行くことが決まった時のあの表情。実に素直な二人だ。

「荒岩関、好漢というニックネームが定着してきていますね。昨夜の関取を見ていると、ソープの方も残していおきたいですけどね」
「そうだなあ」
 笠間は、しばし考えた。
「ふたつを融合させたらいいな。よし、うちは、これでいこう。「泡だらけの純情」でどうだ」
「映画のタイトルみたいですね」
「まあ、私は、元々は、作家志望だったしな」
笠間佳之。慶應義塾大学文学部卒。その気品に満ちた容姿から、学生時代は、ノーブル笠間と呼ばれていた。


名古屋場所が始まった。
初日、新横綱、伯耆富士洋の本場所最初の土俵入りは、大歓声を浴びた。
露払い、近江富士明。太刀持ち、豊後富士照也。
照富士三兄弟による横綱土俵入りである。

近江富士の、初日の対戦相手は神剣(みつるぎ)。小柄な三十四歳のベテラン力士だが、かつて、三役に定着していた時期もある。今は、横綱、大関の対戦圏内では負け越すが、幕内中位に落ちれば、勝ち越す。幕内中堅の大きな顔となっている力士だ。
立ち合い。ぶつかるやいなや、右で前みつを引き、一気に寄り立て、そのまま寄り切った。
今、転換を図っている、その相撲が取れた。

新横綱としての緊張があったとは思えない。だが、新横綱の初日は鬼門だ。名横綱と呼ばれる多くの力士が星を落としている。
伯耆富士も、初日に土がついた。

初日の取組結果(数字は、幕内での対戦成績)
  勝                負
近江富士(1勝) 寄り切り (1敗)神剣
曾木の滝(1勝) 寄り切り (1敗)若飛燕
荒岩(1勝) 押し出し (1敗)神翔
早蕨(1勝) 叩き込み (1敗)安曇野
豊後富士(1勝)1 上手出し投げ 1(1敗)若吹雪
松ノ花(1勝) 寄り切り (1敗)伯耆富士
玉武蔵(1勝) 突き出し (1敗)緋縅
羽黒蛇(1勝) 寄り切り (1敗)早桜舞


二日目の取組結果(数字は、幕内での対戦成績)
  勝                負            
近江富士(2勝) 上手投げ (2敗)神天勝
荒岩(2勝) 寄り切り (2敗)安曇野
曾木の滝(2勝) 寄り切り (2敗)光翔
若吹雪(1勝1敗) 叩き込み (2敗)緋縅
早蕨(2勝) 押し出し (2敗)神翔
羽黒蛇(2勝) 引き落とし (1勝1敗)松ノ花
伯耆富士(1勝1敗) 送り出し (2敗)早桜舞
玉武蔵(2勝)1 突き出し 1(1勝1敗)豊後富士


今日も来ていないのか。
荒岩は、眼は良い。
西の椅子席の最前列。
土俵に上がり、仕切りの間、その空席は眼に入る。
確かに昨夜の電話でも、利菜は、行くとは言わなかった。でも、日が変われば気が変わるかもしれない。
はかない期待は、今日も叶わなかった。
この日、関脇荒岩に初黒星がついた。

何故、僕はあの女の子のことが、こんなにも気になるのだろう。荒岩亀之助は、時々、自分に問うてみる。たしかに尋常ではない可愛らしさだ。一目惚れもした。
でもあの子以上に可愛い子というのは、想像しにくいが、同じレベルで可愛いという子であれば、世間に全くいない訳ではないだろう。例えば芸能界であれば、凄く可愛い、と言い得る子はたくさんいる。
でも、今の僕は、あの子以外は眼に入らない。

泣き顔なのかな、と荒岩は思う。女の子があんなに泣く姿、というのを荒岩は初めて見た。それは、失恋の涙。言うまでも無く自分ではない、別の男に拒絶された涙なのだ。
あの子の本当の笑顔を見たいと思う。でも、その本当の笑顔は、結局のところ、あの男、豊後富士照也しか、生み出すことはできないのだろう。
自分が、今、置かれている立場を思うと、荒岩は切なかった。

三日目の取組結果(数字は、幕内での対戦成績)
  勝                負
近江富士(3勝) 押し出し (2勝1敗)竹ノ花
曾木の滝(3勝) 小手投げ (1勝2敗)萌黄野
緋縅(1勝2敗) 引き落とし (2勝1敗)荒岩
早蕨(3勝) 押し出し (3敗)早桜舞
若吹雪(2勝1敗) 浴びせ倒し (3敗)神翔
玉武蔵(3勝) 突き落とし (1勝2敗)松ノ花
羽黒蛇(3勝)2 寄り切り 0 (1勝2敗)豊後富士
伯耆富士(2勝1敗) 上手出し投げ (3敗)安曇野


四日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
  勝                負
近江富士(4勝) 上手投げ (1勝3敗)神王
荒岩(3勝1敗) 寄り倒し (4敗)早桜舞
緋縅(2勝2敗) 押し出し (3勝1敗)曾木の滝
若吹雪(3勝1敗) 寄り切り (1勝3敗)松ノ花
早蕨(4勝) 2 突き落とし 0(1勝3敗)豊後富士
伯耆富士(3勝1敗)押し出し (2勝2敗)若飛燕
玉武蔵(4勝) 突き出し (4敗)神翔
羽黒蛇(4勝)  寄り切り (4敗)安曇野


五日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
  勝              負
近江富士(5勝) 寄り切り (4勝1敗)芙蓉峯
豊後富士(2勝3敗) 寄り切り (1勝4敗)萌黄野
曾木の滝(4勝1敗) 押し倒し (5敗)早桜舞
荒岩(4勝1敗) 寄り切り (1勝4敗)松ノ花
早蕨(5勝) とったり (2勝3敗)緋縅
若飛燕(3勝2敗) 叩き込み (3勝2敗)若吹雪
羽黒蛇(5勝)  下手投げ (5敗)神翔
伯耆富士(4勝1敗)  内掛け (1勝4敗)光翔
玉武蔵(5勝) 突き出し (5敗)安曇野


 明日の取組は、豊後富士 対 荒岩。

名古屋に行こう。照くんに会いに行こう。
利菜はそう思った。でも何故、明日なのだろう。荒岩から送られてきたチケットは、初日から千秋楽までのすべて。照也に会うのなら、いつでもよかったはずだ。
日を重ねるにつれ、利菜は、ひたすら豊後富士照也のことばかりを思い続ける自分のことを、情けない、と思う気持ちも芽生えてきていた。
自分は、もっと誇り高い女の子だったはずだ。自分をあっさり捨てていった男に、取りすがる。なんてみじめなんだろう。
忘れよう、照也のことは。もう一度、あの誇り高かった女の子を取り戻そう。
明日、自分にとっては初めての本場所。土俵に立つ、豊後富士照也の姿を見よう。そして、それを最後にしよう。
では、亀之助さんは。あのひとはすごくいい人だ。私と照くんとの間にどんな関係があったのか。あの人は充分に察しがついているはずだ。それでも、あの人は私にひたすらな、好意を寄せてくれる。でも、どうしてもあのひとに恋愛感情はわかない。それなのにこれ以上、あのひとの好意には甘えられない。
最後に、豊後富士照也とともに、土俵の上に立つ荒岩亀之助の姿も見よう。そして、それきりにしよう。もうそれ以降は、電話もメールも断ろう。
そして、私は。
もう二度と相撲は見ない。

その日の夜の荒岩亀之助からの電話に、利菜は「明日見に行きます」と告げた。
そして、今日を最後に、もう電話もメールも最後にしてほしい、とも。
「亀之助さん」
「はい」
「今日まで色々とありがとうございました。どうかお元気で」
「利菜・・・さん」
「頑張って、横綱さんになって下さいね」
「はい、頑張ります。・・・利菜さん、利菜さん」
「素敵なお嫁さんを見つけて下さいね」
利菜の電話が切られた。

 大相撲の本場所を初めて観る、その利菜にも、その取組が大熱戦だったことは分かった。
取組の長さが違った。館内の歓声の大きさが違った。
 一分を超える、その間も、両者が止まっている時間はほとんどない。そんな相撲だった。
その相撲に勝ったのは、豊後富士照也。

 利菜は、西の花道を引き上げる荒岩と眼があった。
 亀之助さんは、別に泣いてはいなかった。
でも、利菜は、若い男性の、これほどに悲しい顔を初めて見た。
 あんなに一生懸命になって、あんなに一生懸命になってくれて。
初めて会った時の、亀之助さんの顔。それから先の、彼のメール、電話。とっても下手な似顔絵。
 私は、私は。
 別の男の子のことが大好きだった女の子だったんだよ。それでもいいの。

勝ち残りのあと、東の花道を意気揚々と引き上げる豊後富士照也の背中が眼に入った。
利菜は、じっと、その背を見つめた。ひとりの男性にあれほど激しい恋心を抱くことはもうないだろう。

 利菜は席を立った。

 愛知体育会館を出る。支度部屋からここまで、荒岩亀之助は、自分に対する情けなさでいっぱいだった。外見のかっこよさでは、はるかに敵わない。その俺が相撲まで負けてどうするんだ。番付は俺の方が上なのに。これであいつに二連敗じゃないか。しかも、一番好きな女の子の目の前で、その女の子が一番好きな男にぶん投げられたんだ。こんなかっこ悪い話があるか。
 体育館の前には力士の出待ちをする、ファンで溢れていた。
 そのファンの中に、荒岩が、この世で一番好きな女の子がいた。
 何故ここに、吃驚したが、すぐに気付いた。そうか、豊後富士を待っているのか、ここでまた声をかけるのか。
 あの悲しい場面が繰り返されるのだろうか。
 だが、その女の子は、荒岩亀之助の目の前に立ち、荒岩に呼び掛けた。
「敏昭さん」
 利菜が、荒岩の本名を呼んだ。

 利菜がじっと荒岩の顔を見つめる。
 太陽の光が、一度の二十分の一だけ向きを変える時が経過した。
「利菜は、敏昭さんのお嫁さんになります」

 利菜は、思った。この人を本名で呼ぶのは、今だけかもしれない。この人は、やっぱり亀之助さんだ。これからもそう呼ぼう。

  

六日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
  勝              負
近江富士(6勝) 寄り切り (5勝1敗)若旅人
緋縅(3勝3敗) 押し出し (6敗)安曇野
豊後富士(3勝3敗)2 下手投げ 0(4勝2敗)荒岩
若吹雪(4勝2敗) 寄り切り (4勝2敗)曾木の滝
早蕨(6勝) 肩透かし (1勝5敗)松ノ花
玉武蔵(6勝) 寄り切り (1勝5敗)光翔
羽黒蛇(6勝)  押し出し (3勝3敗)若飛燕
伯耆富士(5勝1敗) 上手投げ (2勝4敗)緋縅


七日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
  勝              負
近江富士(7勝) 上手投げ (4勝3敗)青翔
曾木の滝(5勝2敗) 送り出し (3勝4敗)豊後富士
荒岩(5勝2敗) 寄り切り (1勝6敗)光翔
早蕨(7勝) 押し出し (3勝4敗)若飛燕
若吹雪(5勝2敗) 寄り切り (1勝6敗)安曇野
伯耆富士(6勝1敗) 寄り切り (7敗)神翔
玉武蔵(7勝)突き出し (7敗)早桜舞
羽黒蛇(7勝) 上手投げ (3勝4敗)緋縅 


近江富士にとっては、先場所敗れた力士との、今場所初めての対戦。
荒岩に対しても、立ち合いで右前みつを引き、やや押し込んだ。だが、そこまでだった。
荒岩が、寄り返す。されば、と右から上手投げを放つ。荒岩の体が傾いたが、その投げもしのぎ、体を密着させ、そのまま荒岩が寄り切った。
俺の新しい相撲は、まだ発展途上だ。近江富士は自覚した。
それにしても、荒岩関の体の奥底から迸るパワーはすごいな。近江富士明はそのように感じた。

八日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)

  勝             負
緋縅(4勝4敗) 突き落とし (2勝6敗)松ノ花
豊後富士(4勝4敗)突き落とし (8敗)早桜舞
荒岩(6勝2敗) 2 寄り切り 0(7勝1敗)近江富士
若吹雪(6勝2敗)7 寄り切り 6(7勝1敗)早蕨
羽黒蛇(8勝) 寄り切り (1勝7敗)光翔
伯耆富士(7勝1敗) 上手投げ (2勝6敗)萌黄野
玉武蔵(8勝)寄り倒し (5勝3敗)曾木の滝


九日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
   勝             負 
緋縅(5勝4敗) 押し出し (4勝5敗)豊後富士
荒岩(7勝2敗) 突き出し (4勝5敗)若飛燕
早蕨(8勝1敗)1 押し出し 0(7勝2敗)近江富士
若吹雪(7勝2敗)寄り切り (9敗)早桜舞
玉武蔵(9勝) 引き落とし (2勝7敗)萌黄野
羽黒蛇(9勝) 掬い投げ (5勝4敗)曾木の滝
伯耆富士(8勝1敗) 寄り切り (3勝6敗)北斗王


十日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
   勝             負 
豊後富士(5勝5敗) 上手投げ (7勝3敗) 若旅人
緋縅(6勝4敗) 寄り切り (2勝8敗)安曇野
松ノ花(4勝6敗) 押し倒し(10敗)早桜舞
近江富士(8勝2敗)1 上手投げ 0(7勝3敗) 若吹雪
早蕨(9勝1敗) 押し出し (2勝8敗)光翔
曾木の滝(6勝4敗) 寄り倒し(8勝2敗)伯耆富士
玉武蔵(10勝)突き出し (2勝8敗)萌黄野
羽黒蛇(10勝)7 打っ棄り 0 (7勝3敗)荒岩
 

十一日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
   勝             負 
豊後富士(6勝5敗)送り出し (4勝7敗)若飛燕
早桜舞(1勝10敗)上手出し投げ (2勝9敗)萌黄野
緋縅(7勝4敗) 突き出し (7勝4敗)若旅人
曾木の滝(7勝4敗) 寄り倒し (4勝7敗)松ノ花
若吹雪(8勝3敗)  寄り切り (2勝9敗)光翔
羽黒蛇(11勝)19 押し出し 2(9勝2敗)早蕨
荒岩(8勝3敗) 3 寄り切り 5(8勝3敗)伯耆富士
近江富士(9勝2敗) 1 押し出し 1 (10勝1敗)玉武蔵


近江富士は、横綱玉武蔵を破り、初めての金星をあげた。関脇荒岩には、先場所に続いて敗れ、初顔合わせの大関早蕨にも勝つことは出来なかったが、やはり初顔合わせだった大関若吹雪からは、殊勲の星をあげた。
そして、十二日目、ついに最強者、羽黒蛇と対戦。

土俵にあがり、近江富士と相対した時、羽黒蛇を、不思議な感覚が襲った。それは、先場所十三日目、金の玉征士郎との対戦の時の感覚にも似たものだった。
世界の全てが消失し、おのれと、対戦者の二人だけで別の世界に浮遊したかのような感覚。
たが、……その感覚は、やがて消えた。
それは、近江富士明が金の玉征士郎ではないからなのか。あるいは、おのれが変貌したからなのか。
自分はもう、あの世界に行くことはない。
そして、この近江富士も。
あるいは、この男も、あの世界の一端をうかがうことがあったのかもしれない。
たが、もうそこに行くことはないだろう。
羽黒蛇の心に、かすかな憧憬と、寂寥がよぎった。
羽黒蛇は、四神が会し、見守る、この地上の土俵で、近江富士と相対した。

立ち合い。近江富士は、右で前みつをひいた。右四つが基調である、羽黒蛇に対し、得意の左四つになった。だが、羽黒蛇は差手にはさほどこだわらない。左四つにこだわる相手であれば、相手得意の、差手にも応じる。
だが、それまでだった。羽黒蛇は一歩も下がらない。左で下手をひき、右は抱え、おっつけて、寄り進む。さればと、近江富士は、疾風と形容される俊敏な動きで、右から上手投げを放つ。
が、あっさりと下手投げを打ち返され、勝負がついた。
圧倒的な力量の差。

近江富士は嬉しくなった。
この男を倒す、と思い定めて、角界に入門した、その相手、金の玉は、もう土俵に立つことはない。俺は公約通りの期間で横綱になることを目指すしかない、と思っていたが、ここに俺が倒さなければならない相手がいるではないか。
横綱、羽黒蛇六郎兵衛に勝つ。
今の近江富士明には、それは、公約通りに横綱になることよりも、さらに困難なことのように思えた。
だが、俺は。
近江富士明は、おのれに誓った。
必ず、この男を倒す。

十二日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
   勝             負 
松ノ花(5勝7敗) 引き落とし (6勝6敗)豊後富士
早桜舞(2勝10敗) 突き落とし (7勝5敗)緋縅
荒岩(9勝3敗) 上手投げ (7勝5敗)若旅人
曾木の滝(8勝4敗) 吊り出し (3勝9敗) 安曇野
玉武蔵(11勝1敗)7 寄り切り 2(8勝4敗)若吹雪
羽黒蛇(12勝) 2 下手投げ 0 (9勝3敗)近江富士
伯耆富士(9勝3敗)9 寄り倒し 4 (9勝3敗)早蕨


十三日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
   勝             負 
豊後富士(7勝6敗) 寄り倒し (3勝10敗)安曇野
松ノ花(6勝7敗) 寄り切り (2勝11敗)早桜舞
近江富士(10勝3敗) 寄り切り (7勝6敗)緋縅
荒岩(10勝3敗) 寄り切り (8勝5敗)曾木の滝
早蕨(10勝3敗) 押し出し (3勝10敗)萌黄野
伯耆富士(10勝3敗)6 上手出し投げ 7 (11勝2敗)玉武蔵
羽黒蛇(13勝)11 寄り切り 1 (8勝5敗)若吹雪


十四日目の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
   勝             負 
近江富士(11勝3敗) 寄り切り (8勝6敗)神天勝
豊後富士(8勝6敗) 上手投げ (9勝5敗)青翔
緋縅(8勝6敗)突き出し (5勝9敗)若飛燕
早桜舞(3勝11敗) 叩き込み (3勝11敗) 神翔
北斗王(7勝7敗) 寄り切り (8勝6敗) 曾木の滝
荒岩(11勝3敗)4 寄り切り 4 (8勝6敗) 若吹雪
羽黒蛇(14勝)  13 寄り切り 3 (10勝4敗) 伯耆富士
玉武蔵(12勝2敗) 14 寄り切り 3 (10勝4敗) 早蕨


千秋楽の取組結果(数字は、幕内での対戦結果)
  勝                負
近江富士(12勝3敗) 寄り切り (10勝5敗)神天剛
豊後富士(9勝6敗) 上手出し投げ (7勝8敗)北斗王
若飛燕(6勝9敗) 突き出し (3勝12敗)早桜舞
緋縅(9勝6敗) 押し出し (4勝11敗)光翔
曾木の滝(9勝6敗) 寄り切り (4勝11敗)萌黄野
荒岩(12勝3敗)3 寄り倒し 5 (10勝5敗)早蕨
伯耆富士(11勝4敗)7 上手投げ 5 (8勝7敗)若吹雪
羽黒蛇(15勝) 13 寄り切り 17 (12勝3敗)玉武蔵


優勝:羽黒蛇 16回目(全勝優勝6回目)
殊勲賞:荒岩(初)、近江富士(初)
敢闘賞:荒岩‘(4回目)
技能賞:近江富士(初)

場所後、荒岩亀之助、大関に昇進。

伝説の終焉

2017年08月25日 | 小説
伝説の終焉

武庫川部屋は、間もなく移転する。今の武庫川部屋は、里井家の自宅に看板を掲げただけであり、金の玉征士郎も普段の稽古は、瀬戸内部屋で行っていた。
新弟子が四人入門し、名古屋場所、全員無事に出世披露を果たした。
秋場所は揃って、序ノ口として、番付に四股名が載る。
親方は自前の稽古土俵を持つことを決意した。今の里井家の敷地にその余地はない。

又造は、久しぶりに征士郎の部屋に入った。雑然としているが、征士郎が再起不能となった、その日のままにしている。征士郎は今も入院中である。症状によっては、自宅療養も検討されている。新しい武庫川部屋では、征士郎の居室も用意することになるだろう。
いずれにしても、この部屋は整理しなければ、ならない。

又造は、征士郎の机の引き出しを開けた。
そこにおびただしい量の薬があった。
 それは、明らかに常用していたことが分かる、使用済の痕跡もった。
 恐ろしい予感を胸に抱いて、又造は、その薬が何なのかを調べた。

予感は当たった。覚醒剤に当たる興奮剤アンフェタミン。さらには、ステロイドもあった。

 金の玉征士郎の常人の常識を超えた集中力。そして人間離れした強さ。それは、元々の本人の性格、激しい稽古の成果であったろう。だが、ここにその秘密の一端が、あるいは大きな原因があったのか。

 又造は、我が子が哀れだった。我が一人息子の現状を思えば、このまま見なかったことにしたかった。
だが、それは許されないことだ。

 又造は、協会に報告した。

 数日後、この事実が公表された。
 同時に金の玉の、入門以来の三十五番の記録もすべて抹消された。
金の玉征士郎の勝利の記録。そして対戦相手の敗北の記録も。
 
輝ける伝説は終わった。賞賛の声は、批判の声に取って代わられたが、金の玉征士郎の現状により、その声は、それほど大きなものとはならなかった。
以降、金の玉征士郎の存在は、相撲史の中で、タブー視されることになった。
もし、薬を常用していなかったとしたら、金の玉は、どの程度の強さの力士だったのだろうか。その疑問は残ったが、それは誰にも分からないことだった。

人々は、金の玉征士郎のことは、もう注釈付きでしか語らず、やがて語られることもなくなっていった。
金の玉征士郎の存在は、大相撲の正史から抹消されたのである。

そのニュースが流れたとき、現役力士の中で、最も大きな衝撃を受けたのは、羽黒蛇と近江富士であった。
金の玉征士郎は、羽黒蛇にとっては、おのれが経験した最高の対戦相手であり、近江富士にとっては、いずれは勝つと心に誓った最高の目標であった。
もう土俵で対戦することは不可能になったが、かつてのその思いは、ふたりにとって、金の玉を心における聖域とも言える存在にしていた。
聖なるものは、汚された。その聖であったはずの本人の過ちによって。
だが、ふたりとも、金の玉を攻める気持ちにはなれなかった。
そこまでして、あの高みに至ろうとしてのか。
そう思うと金の玉が痛ましく、ただ悲しかった。

 ふたりが、そのニュースを知らされたのは、夏巡業の途上だった。
 翌日、期せずして、ふたりは、土俵の上で、それまでに無かったような激しい三番稽古を行った。
 それは、土俵周囲に居並ぶ力士たちが、新たに名乗りを挙げるのを憚らずにはおられないほどの、二人だけの世界があるかのような申し合いだった。
 近江富士の転換を図った新しい相撲も、羽黒蛇には、まだ通用しない。八番立て続けに敗れた。
 だが、その八番の間、羽黒蛇は、近江富士が急激に力を付けているのが、はっきりと分かった。
 九番目、近江富士の立ち合いが決まった。羽黒蛇を押し込んだ。たが、羽黒蛇が土俵際から押し返す、刹那、近江富士は、上手投げを放つ。決まったかに見えたが、羽黒蛇が下手から投げ返す。際どい相撲。
たが、近江富士が勝った。近江富士は、稽古土俵ではあったが、初めて羽黒蛇に勝った。
 この時、近江富士の右肩が破壊した。

 そして、羽黒蛇も数日後の破壊に繋がる、その身体への損傷を受けていたのである。




四神会する場所 第三部 中村淳一著

2017年08月25日 | 小説
四神会する場所 第三部

                 描かれなかった物語

今後、大相撲界が紡ぎ出すであろうストーリーには、いくつかのメインテーマがあった。
ひとつは、横綱、羽黒蛇六郎兵衛。その完成の域に達した円の相撲は、金の玉征士郎の直線の相撲に敗れた。いったんは、引退を決意した羽黒蛇は、人生の師と仰ぐ人物の言により、それまで自分が理想と描いていた相撲を、そして力士像を捨てた。
その彼が得たものは、何物にもこだわらない融通無碍の、そしてこだわらない、ということそのものも捨て去った相撲だった。
先の名古屋場所、彼は、円の相撲の完成により到達した領域さえも超えた、圧倒的な相撲で全勝優勝を果たした。彼はいったいどこまで強くなるのか。古今無双の力士への道をこのまま突き進んでいくのか。

ふたつめは、近江富士明。高校野球のスター。ドラフトで1位指名されながら、三年以内に横綱になるとの公約の元、大相撲界に飛び込んだ男。
この公約については、いかに近江富士が抜群の身体能力、運動能力を持っているにしても、いくらなんでもそれは無理だろう、という意見が大多数であった。
だが、夏場所、新入幕の十一勝。敢闘賞獲得に引き続き、入幕二場所目の名古屋場所、東前頭七枚目で、十二勝。殊勲賞、技能賞を獲得した時点では、公約通り、三年以内に横綱になるのではないか、という意見がむしろ多数を占めるようになった。
近江富士が、新入幕以来喫した黒星は七つ。羽黒蛇、荒岩に各2個。玉武蔵、早蕨、金の玉に各1個。すなわち彼は、現在の大相撲界における最強豪クラス以外の力士には全く負けていないのである。彼のような超軽量力士が、これだけの安定感を持っているというのは特筆されるべきことである。さらには、名古屋場所においては、横綱、玉武蔵。大関、若吹雪から殊勲の星をあげた。
その場所の彼の取り口の変化、実力の向上には目をみはるものがあった。
そして、名古屋場所のあとの夏巡業。それを取材するメディアから、近江富士が更に強くなっているとの記事の見出しが、各紙面を、ネット上をしばしば飾った。
名古屋場所に、それまでの相撲からの転換を図った、近江富士。本場所を経験したこと、日々の稽古により、その立ち合いは、さらに速さ、鋭さを増し、相手がいかなる巨漢であっても、押し込まれることはないし、しばしば、一気に寄り切る。そして、その立ち合いは、彼の元々の、最大の武器であった、右からの上手投げについても、さらに威力を増すという効果をもたらした。一気に寄り切れない場合は、その勢いのままに上手投げを繰り出す。あるいは、増大した立ち合いの威力に対抗し、寄り返そうとする相手のはなに、上手投げを繰り出す。それは面白いように決まった。
来場所、秋場所の番付を予想した時、東横綱、羽黒蛇。そして、近江富士が、新小結として、西小結となることは間違いない。それは、取組編成の慣例として、秋場所初日に、羽黒蛇と近江富士が対戦するということを意味する。
大相撲ファンは、夏場所前、ともに連勝を続けていた、羽黒蛇と金の玉の時と同様、来る秋場所初日の、この両者の対戦に心躍らせていたのである。

もうひとつのメインテーマ、それは、近江富士の実力向上がかくも、著しい、となれば、その弟、豊後富士の実力の伸び次第では、三兄弟同時横綱が、実現するのではないか。そして、そこに至る過程において、三兄弟の内のふたりによる優勝決定戦が、場合によっては、三兄弟による優勝決定戦を観ることができるのではないか。
ファンの中で、そういう声が高まってきたのである。
そんな出来過ぎた、安物のドラマみたいなストーリーなど見たくない。アンチを標榜する一部ファンの声はあったが、近未来予想として、その出来過ぎたストーリーが、様々なメディアで描かれたのであった。

ドラマチックなストーリーは、描かれなかった。

夏巡業の終盤、稽古土俵において、右上手投げを放った近江富士の、右肩が破壊されたのである。腱板断裂。手術を要し、リハビリも含めれば、完治には六ヶ月。但し、手術が成功したとしても、右肩は、日常生活に何とか支障がない、という程度にしか戻らない。それが、医師の診断であった。
その診断は、力士として復帰したとしても、もうあの右上手投げは打てない、ということを意味した。
右上手投げがなくても、近江富士には、今、会得し、完成しつつある、あの立ち合いからの一気の寄りがあるではないか、との声もあがった。
だが、近江富士明には分かっていた。高校時代、150キロを超える速球を投げた、おのれの右肩、そして右腕は、おのれの肉体がもつ、あらゆる力の源泉であったと。この右腕、右肩があったからこそ、あの一気の寄りができた。
あの寄りは、速く、鋭い立ち合いだけではない。前みつをとっての、右での強烈な引付があったからこそ、あの寄りができた。
そして、全治六ケ月。半年後、その番付はどこまで落ちているのか。もう三年以内に横綱になるという公約は、どうあがいても実現不可能になった。いや、期限を区切らなくても、この俺から、あの右肩が失われてしまったとなれば、横綱になることはできない。
三年以内に横綱になり、数場所勤めたら、プロ野球界に転じる。それが、近江富士、新谷明の未来のはずだった。
プロ野球界では、チームのエースとなり、中軸を担うスラッガーとなる。ピッチャーでも、バッターでもタイトルホルダーになる。
それが、新谷明の夢だった。いや、夢ではない。自分ならそれが出来る。明は、そう信じていた。だが、その信念の源となっていたものは、おのれの肉体から失われた。
俺が思い描いていた未来は、もうやってくることはない。
明には、それが分かった。

近江富士の右肩が破壊されたとき、その稽古での対戦相手は、羽黒蛇六郎兵衛だった。

近江富士の右肩が破壊された稽古のあと。
羽黒蛇も、おのれの肉体の変調を感じていた。近年の流行りの言葉でいえば、腰に違和感をおぼえるようになった。今に至るまで、羽黒蛇は、おのれの身体に、そのような不調を感じたことはなかった。
さほど、自覚していたわけでもなかったが、羽黒蛇は、おのれの身体の均衡、頑健さは、所与のものとして、当然のことと思っていたのである。
違和感を感じるまま、稽古を続けた羽黒蛇は、数日後、やはり稽古の最中に、右膝を損傷した。
右膝前十字靭帯断裂。手術後、リハビリを経て、復帰までは六~八ケ月。但し、相撲を続ける限り、再発の恐れは常に伴う。それが医師の診断であった。
近江富士と同様、羽黒蛇も、自らの肉体から、円の相撲を完成させるに至った、そこから先の融通無碍の相撲を完成させるにいたった、その力の源泉が永久に失われてしまったことが分かった。
具体的に言えば、それは、対戦相手のあらゆる攻めを受け、吸収する、その柔軟な下半身だった。かれの持つ精神の力とともに、その下半身こそが、かれの強さの源泉だった。
もう自分は古今無双の力士にはなれない。
羽黒蛇には、そのことがはっきりと分かった。

羽黒蛇が入院する病院に、師がふらりと見舞いにやってきた。
恐縮する羽黒蛇に対して、
師は、そのまま、そのまま、との言葉とともに、ベッドの傍らに座った。
「先生、このようなことになってしまいました」
「この前、横綱が、拙宅に来られてひと場所で、こういうことが起きましたか。なるほどなあ。で、横綱は、どうなさる」
「引退しようと思っております。先生の教えで、私は、また新たな境地で相撲を取ることができました。先日、先生のもとを去ってから、この怪我をするまで。相撲をこれほど面白いと思ったことはありません。」
「うん、名古屋場所の横綱は凄かったですなあ。私は、毎日、横綱の相撲を、見させていただきました」
「先生、あの十五日間、私は、全く負ける気がしませんでした」
「あの相撲であれば、そうでしょうなあ」
「もっと、あの相撲を取り続けたかったと思いますが、これで良かったのかな、とも思います」
「ん」
「先生、私は、ベッドの上で色々と考えました。どんなことにせよ、最高を極めてしまうと、そこから先には、もう行きようがない。なんらかの形で、終焉を迎えるしかないのではないかということです。金の玉関もそうでした。彼は、はるか高みを求めたのでしょう。別の力を借りてでも、その高みを目指してしまったのでしょう。その結果があの破滅に繋がったのだと思います。そして、この私も、金の玉関との相撲を契機とし、先生の教えにより、短期間で、自分として行きつくことの出来る、最高を極めてしまったのでしょう」
師は、黙って聞き続けた。
「少年時代に相撲と出会い、理想の相撲を思い描き、その理想の境地に達したと思ったとき、金の玉征士郎が出現し、その相撲が敗れた。そして一度、引退を決意しましたが、先生の教えを受け、融通無碍の何物にもこだわらない相撲、さらにはこだわらないということ自体も捨て去った境地での相撲。私はこんあところまで来た。そう思っていました。
でも、金の玉が、自分ではない別の力を借りていたということを知ったとき、私の心は乱れました。どう考えたらいいのか分からない。その気持ちのまま、稽古場に立ってしまった。その結果がこれです。」
師はなおも口を開かなかった。
「ここ数ヶ月、色々なことがあり過ぎました。でも、何か大きなものに触れ続けたとも思います。こだわることなく相撲を取るということの楽しさも知りました。自分なりの最高は極めたとも思えます。もう完全な体は望めないとなれば、あの相撲は、もう取れません。もうこれでよいではないかと思います」
「こだわらないこと自体も捨て去った相撲ですか。」
師が言葉を継いだ。
「横綱は、結局、何かの標語を心に刻まねば、相撲は取れないのですな」
羽黒蛇は、思った。おや、また批判されるのか。
「最高の相撲。こわららないことにもこだわらない相撲。つまらんですな」
羽黒蛇は思った。またか。私はもう十分に満足していると言っているのに、それは許されないのか。

「技も、体も何らかのことで制限されることもあるでしょう。そのとき、できる精一杯のことをすれば、それでよいではないですか。心は、そのことだけに使えばよい。それ以上、余計はことを考える必要はない。心に標語を掲示するなど無用。ただ、そのときそのとき感じたことを、受け止めればよい。心に決まった形などないのです」

もし、私が再び土俵に立つとしたら、
その時の私は、・・・最高ならざる力士。
その時の自分が取れる精一杯の相撲を取る。
それが、私か。私は、そんな力士になってしまうのか。
そのことは羽黒蛇を、何だかとても新鮮な、そして、とても愉快な気持ちにさせた。
羽黒蛇は、怪我が癒えた後、再び、土俵に立つことを決意した。

「ところで先生。今日は、わざわざ、こんなところまでおいでいただきありがとうございました」
「いや、いや。見舞いを兼ねて、横綱にお願いしたいことがあってな。それで来させてもらったんじゃよ」
「何でしょう」
「いや、横綱に、一度、連れて行ってもらえんかな、と思ってな」
「はい、どこでしょう」
「アイドルのコンサート」
「・・・・・・・分かりました」
師は、ちょっと恥ずかしそうな顔をした。
「お目当てのアイドルがおられるのですか」
「いやあ、みんな可愛いけどな。区別はつかんのじゃ。横綱にお任せしたい」
「はい」
羽黒蛇は、考えた。
最初はメジャーアイドルかな。それともフレンドリーなローカルアイドルのコンサートにお連れしたほうが喜んでいただけるだろうか。
羽黒蛇の脳裏を様々なアイドルグループが駆け巡った。
まあ、今の私には、時間はたっぷりある。ゆっくり考えよう。


近江富士は、病室で金の玉征士郎のことを思った。
ニュースは、大きな衝撃だった。
結局、金の玉に及ばなかった自分であったが、金の玉を心の聖域に据えることによって、あらたに、金の玉以外の、達成可能な目標に標的を定めていたのに。その男が聖域に据えるべき存在ではなかったというのか。
いや、薬のことがあったとしても、やっぱりあいつは凄い奴だった。それは認めよう。でもそれだけでいい。聖域として金の玉征士郎を観ることはない。

明の心を、自分はもう何もこだわらなくてよいのだ。そのことは、明の心を解放させた。
今、もし、この心で、肩が破壊される前の、あの体が俺にあったら。
俺は、一体どれだけのことが出来ただろう。だがそれはもう敵わないこと。
自分の右肩は、聖域としての存在だった金の玉に捧げたのか。
近江富士明は、そんなことを思った。

 父である、照富士親方が見舞いにやってきた。
近江富士は、これからどうするのかを訊ねた、照富士親方に告げた。
怪我が癒えたら、再び、土俵に立つと。
「じゃ、もう野球に戻るのはやめて、相撲をずっと続けるということかな」
「プロ野球ですか。まだ諦めたくはないですね。取り敢えず、二十五歳くらいまでは、相撲を続けようかと思います」
「何を目指す」
「この秋場所で、番付上は小結になるようですから、番付が落ちたら、もう一度、その地位に戻ること。できれば、それを一つ越えた関脇を目指そうと思います」
「そうか」
「で、野球に戻ります」
「すごくブランクがあるな。それにもうあの速球は投げられんじゃろう。バッターに専念するのか」
「速球を投げるのは無理ですね。バッターとしても、右肩が完全でないとすれば、私が目指していたホームランバッターになるのは無理でしょう。でも、投げられるし、打つことはできる」
しばしの沈黙があった。
「お父さん」
「うん」
「俺は、横綱になって。プロ野球に行ったら、エースになって、三番か四番を打って。俺にはそれが出来た。出来たはずなんだ」
照富士は何も言えなかった。
「お父さん、少しだけ、泣かせてください」
明は、静かに泣いた。
照富士も、わが次男の心を思いやって、涙を浮かべた。

明は涙を収めた。
「関脇、ローテーションの谷間で先発して中継ぎもこなす。そして準レギュラー野手」
「うん」
「ひとつ、ひとつは、地味で、脇役というべき存在ですけどね」
「うん」
「ひとりの人間が、それを全部やってしまったら、とても渋いでしょう」
ずいぶんと焦点が絞られた目標設定だな。照富士は、思った。
横綱。エースに、三番か四番バッター。少年の夢丸出しだった目標が、急に、えらく小父さんぽく、具体的になったな。まあ、こいつも色々考えたのだろう。良いことだ。それだけ揃えば、こいつも将来、食いっぱぐれることはないだろう。

「おっと、放送される時間だ」
明が病室に置かれたテレビのリモコンのスイッチを押した。音楽番組だった。
しばらくして流れてきたのは、
 照富士三兄弟が歌って踊る「土俵をかけめぐる青春」
「これ、流行っているのか」
「ええ、そこそこには」
そうか、こいつには芸能界の道も開かれているんだったな。
あらためて考えたら、かなり羨ましい人生ではないか。さっきは、つられて、思わずもらい泣きしてしまったぜ。ちっ。

照富士の脳裏を、ひとつの映像が浮かんだ。
三兄弟が揃って綱を締め、各々、露払いと太刀持ちを従えて、並び立つ姿。
それは、もう決して実現することはない。
照富士は頭を軽く振った。
儂は、もう二度とその映像を思い描くことはすまい。
照富士は心に誓った。


丸山グループのオーナー社長、丸山春雄は、次女の利菜が、豊後富士と付き合っているということを知ったときは、我が娘よ、でかした。と叫び出したいような気持になった。
丸山グループ。スーパーマーケット、レストラン、ホテルを経営する企業である。だが、その知名度は全国的なものではなく、地方のグループ企業に過ぎない。
丸山は、相撲にはさほど詳しくはない。
しかし、美少年力士、豊後富士のことは、さすがに知っていた。アイドル顔負けのハンサムボーイで、絶大な人気を誇る。
我が娘の交際相手が、豊後富士ということになれば、この丸山グループのことも、大々的にマスコミに取り上げられるはずだ。ましてや、将来、結婚ということにでもなれば、その宣伝効果は計り知れない。

だが、豊後富士との交際を嬉しそうに話していた利菜は、やがて、すっかりふさぎこんでしまった。
豊後富士と上手くいっていないのだろうか。
気になって、豊後富士のことを報じるマスコミの記事を読み込んでみた。豊後富士は相当なプレーボーイのようだ。
うちの利菜もまさか。丸山は不安になった。うちの利菜に限ってまさか。丸山は不安を打ち消した。

やがて、利菜はまた明るくなった。そして、丸山に対して、「会ってほしい人がいるの」と告げた。
「お相撲さんなの」
そうか、豊後富士とのよりが戻ったのか。豊後富士の素行を思うと一抹の不安は残ったが、相手の親に会うというのであれば、利菜のことは、特別に、大切に考えているのであろう。

当日、利菜の横に座っていた相撲取りは、どこから見ても、豊後富士照也には見えなかった。


秋場所が始まる、約十日前。
大関、早蕨は、朝の稽古が終わると、部屋のちゃんこもそこそこに、上野公園に向かった。そこで、妻と娘と待ち合わせた。会って間もなく、早蕨はまた、妻子と別れた。夕食は近くの予約済みのレストランで一緒にたべることを約しているが、それまでの時間は別行動。
妻と一人娘は、上野動物園へ。早蕨は国立西洋美術館へ。
目的は、今開催されている特別展。
最大のお目当ては、ヨハネス・フェルメール「真珠の首飾りの少女」

静謐、典雅なフェルメールは、早蕨の心をとろけさせた。
その絵を観たあと、早蕨はさらに、展示されたヨーロッパ絵画を見続けた。
だが、早蕨は、いつもほどには絵画の鑑賞に集中できない。
早蕨のこころを、ひとりの力士の姿が占める。金の玉征士郎。
世間は、早蕨のことをこう呼んでいた。
「金の玉と、最も多く相撲を取った男」

早蕨は、高校を卒業して十八歳で、瀬戸内部屋に入門した。その瀬戸内部屋に、毎日、稽古に来ていたのが十一歳の里井征士郎だった。
それから八年。いったい征士郎と、どれだけの数の相撲を取っただろう。七歳の年齢差。いかに天才相撲少年とはいえ、まともな相手になるわけがない。だが、征士郎は、いくら土俵に叩きつけても、何度も、何度も向かってきた。
一年前の夏。実力でついに追いつかれたと感じた。と思う間もなく、あの男はどんどん強くなっていった。そして最後は、はるかに手の届かない存在になっていた。

自分は一昨年の秋に大関になった。それから二年。大関として可もなく不可もない。そんな成績を続けている。
今年の初場所から夏場所まで。金の玉征士郎は、わずか三場所で、土俵を去った。三十五勝無敗という成績を残して。
金の玉が去った名古屋場所。早蕨は、一部のファンから、自分が金の玉の身代わりのように見られていることを感じた。
金の玉と、最も多く相撲を取った男。
さらに、早蕨は金の玉同様、押し相撲であり、力士としては小柄である、というのも同じ。
自分があの金の玉の代わりになるわけがない。早蕨にはそれは自明のことだった。一部のファンも、むろん、完全な身代わりと思っているわけではない。そのイメージをわずかに投影させているだけ。
金の玉の相撲、あの最後の一年に満たない、完成された相撲。その押しも早蕨は受け続けた。
だが、金の玉のあの相撲は、薬物の力を借りていたという。三十五勝の記録も抹消された。
そうだったのか。早蕨は、全てが腑に落ちた気がした。

だが、そうであったとしても、あの押しが、自分には及びもつかない、究極の押しであったことに変わりは無い。
その押しは、この体が覚えている。

私は、何をすればいいのだろう。
金の玉征士郎の姿が浮かんだ。その表情は悲しげだった。

別のものの助けを借りずに、押しを完成させよう。自分なりの押しを。
征士郎、私がそれをやっていいか。
答えはない。

もう一度目指してみようか。
早蕨は思った。
横綱を。


曾木の滝が、夏場所十四日目の不戦勝の記録の抹消を願い出たのは、深い思惑があってのことではなかった。
突然倒れ、再起不能となった金の玉征士郎。その生涯記録は三十五勝一敗。その一敗は誰に喫したものだ。将来の相撲ファンは注目するだろう。その相手の名は、曾木の滝。
そして、それが不戦敗であることも同時に知ることになるだろう。
俺は、そのことを一番に語られてしまう力士になってしまうのか。曾木の滝は気が重かった。
そのとき、協会が、金の玉の不戦敗を、記録から抹消することを検討しているという話を聞きつけ、それに便乗しただけにすぎない。
だが、その行為は、早蕨と並んで、最も多く、金の玉と相撲を取った男の義挙というふうに世間には見られた。今は「薩摩の義士」などというニックネームも付けられてしまった。
曾木の滝は面映ゆかった。

金の玉が再起不能になり、さらに記録の抹消がなされた際、曾木の滝はマスコミから多くの取材を受けた。むろん、全て金の玉に関することである。
マスコミが何を求めているかは、よく分かっていた。要は世間を感動させるような、いい話を求めているのである。その線にそった誘導尋問も多かった。
だが、曾木の滝は、その世間の期待にそうことはできなかった。
金の玉征士郎と、何か心の交流があったろうか。
あいつは、いつも一心不乱に稽古に励んだ。
曾木の滝の入門前、幼かったころの征士郎は、よく笑う、活発な少年だったようだ。古くからいる部屋の力士はそう言っている。
だが、曾木の滝は金の玉の笑顔を、ほとんど見た記憶がない。会話をしたというほどの記憶もほとんどない。
両親は、なかなかの美男であり、かなりの美人。その間に生まれた征士郎も整った顔立ちをしていた。だが、常に思い詰めていたことの影響だろう。元々、恵まれていたはずの素材はだいなしになっていた、と思う。蔭にこもった暗い顔立ち、そういう印象しかなかった。

金の玉の薬物のニュースが流れたとき、曾木の滝は、マスコミに雷同しなくてよかったと思った。

夏場所が終わって以降の瀬戸内部屋。
それは、
金の玉征士郎がいない稽古場。
曾木の滝にとっては入門以来、初めてのことである。
最初は、とても自由に伸びやかな稽古場になったような気がした。

寂しい。
曾木の滝は、今、そう感じていた。


金の玉が相撲に開眼したのは、自分との稽古の最中のことだった。
蒲生野は、本人から直接ではなく、誰かにそのことを教えられた。あのほとんど話すことのなかった金の玉が、そのことを誰かに語ったのだろう。
名誉なことだ。蒲生野はそう思った。
蒲生野は、一昨年の九州場所に関取になった。年齢を考えれば、かなりのスピード出世である。だが、そこで停滞した。金の玉が自分との稽古の最中に開眼した際、自分は十両力士だった。そのあとも、蒲生野は十両を抜け出すことができなかった。
金の玉は、今年の初場所、幕下10枚目格付け出しで初土俵を踏んだ。
春場所は十両。夏場所は新入幕。
蒲生野は、あっという間に追い越された。
そのことは仕方がない。自分と比較できるような力士ではない。

金の玉が土俵を去った名古屋場所、蒲生野は、ようやく入幕を果たした。
金の玉関が僕を引き上げてくれたのだ。
蒲生野は、そう思った。
新入幕のその場所、蒲生野は、八勝七敗。勝ち越した。
その後、流れたニュースで、蒲生野は、自分の大切にしていたものが、無くなってしまったと思った。
でも、金の玉征士郎を批判する気にはなれなかった。


月刊国技、秋場所展望記事。

 各種メディアで報じられているとおり、この夏、大相撲界をみっつの悲劇が襲った。
そのうちのひとつ。引退した金の玉征士郎に関して、発覚した事件については、他で特集を組んでいるので、ここではふれない。

あとのふたつ。
横綱羽黒蛇と、新三役、近江富士の故障による長期離脱である。
 五十二連勝を金の玉にストップされ、夏場所終盤三連敗を喫した羽黒蛇は、名古屋場所、見事に復活。いや、連勝時をも超えた自由自在な相撲により、他に冠絶する圧倒的な強さを見せた。新たな連勝記録のスタートの場所。相撲ファンは、誰もがそう感じたことであろう。
今回の横綱の故障箇所は、膝である。それも、元通りに完治することは望めない、という性質のものである。
羽黒蛇は、休場後の現役続行を表明しているが、横綱は、その相撲の基幹をなしていた強靭かつ柔軟な下半身を、今回の故障で、失ってしまったと言わざるをえない。
近年の大相撲は、羽黒蛇の一強時代であった。直近三年十八場所中十二回。直近二年十二場所中では九回の優勝。羽黒蛇一強時代は、突然、その終焉を迎えた。
 投打にわたって卓越した記録を残した高校時代。五球団からドラフト1位指名された甲子園のスター、新谷明は、昨年初場所、三年以内に横綱になる、との公約のもと、大相撲の世界に飛び込んだ。そして、この名古屋場所まで、土俵に鮮やかな軌跡を残した。先の名古屋場所では、最強豪力士たちに互するだけの力量を示し、その後の夏巡業では、羽黒蛇との稽古相撲で右肩靭帯を断裂させるその瞬間まで、さらに強みを増した姿を見せていた。
羽黒蛇時代のあとの大相撲界を展望した時、その時代を担う力士としては、照富士三兄弟、若吹雪、荒岩といった力士の名前があげられるが、近江富士は、その抜群の身体能力から、それらの力士の中でも、ひとり抜きん出るのではないか。そう思わせるものがあった。
初土俵以来三年以内の横綱昇進も、この男であれば、成し遂げたであろう。但し、近江富士は、横綱昇進後、短期間での引退。野球の道への再転向も表明していた。
ゆえに、彼、近江富士明の土俵人生は、金の玉征士郎にも似た、短く、栄光と伝説に彩られた物語として完結するはずだった。
物語は、未完に終わった。

残された力士たちにより、きたる秋場所は、行われる。この場所の優勝予想をするとなると、大相撲界は、群雄割拠の時代を迎えたと言うことになろう。
優勝候補としては、横綱、玉武蔵。伯耆富士。新大関、荒岩の名前が挙げられよう。
今年に入って、初場所からの成績を列挙すれば、
玉武蔵:11勝、全休、12勝、12勝。
伯耆富士:13勝、13勝、14勝、11勝。
荒岩: 9勝、11勝、10勝、12勝。
羽黒蛇が不在となった今、成績の上では、この三力士の、中でも伯耆富士の安定感が、目立つ。弟である近江富士の長期離脱というショッキングな出来事はあったが、横綱二場所目。
本命には、伯耆富士をあげたい。
対抗は、玉武蔵。全盛期から比べれば、衰えを感じさせていたが、ここ二場所は、しばしば往年の力を取り戻したかのような、相撲を見せている。一昨年名古屋場所から二年間、賜杯から遠ざかっているだけに、この秋場所、優勝に対する意欲は強いであろう。
三番手は、荒岩。何かと行事の多い新大関の場所だけに、その分、割引は必要だが。先の名古屋場所、特に後半戦は、一皮向けたかのような強みを見せた。
ここのところ停滞気味の、大関早蕨、若吹雪も優勝争いに加わるだけの活躍を期待したい。
先場所ともに九勝六敗だった関脇曾木ノ滝と緋縅。羽黒蛇との対戦がないとなれば、それだけで二桁。十勝が望めるわけだが、さらに白星を重ね、大関候補と名乗りを上げてほしい。
十八歳九ヶ月。貴花田の記録を一ヶ月更新、史上最年少三役となる豊後富士。夏場所は横綱玉武蔵から、名古屋場所は、大関若吹雪から殊勲の星を挙げ、更には新大関荒岩にはここまで二連勝。既に大物キラーと言いえるだけの実績を残しており、その若さを考えれば、前途洋々。下位への取りこぼしが無くし、安定して二桁の星を残していけば、十代大関への展望も開けるであろう。
その他、この秋場所は、横綱、大関、三役との対戦圏内に、松ノ花、竹ノ花、神天勝、神天剛の若手有望力士が集結した。その活躍も楽しみにしたい。
羽黒蛇、近江富士が長期離脱となり、この秋場所は、その最初の不在場所となるが、まだまだ見どころは多い。白熱した場所となることを期待する。



秋場所番付(各末尾は、前場所成績)

東横綱、羽黒蛇。二十六歳。山形県出身。庄内部屋。186センチ、154キロ。優勝十六回。15-0
西横綱、玉武蔵。三十歳。埼玉県出身。菱形部屋。194センチ、172キロ。優勝二十三回。12-3
東張出横綱、伯耆富士。二十二歳。東京都出身。照富士部屋。185センチ、132キロ。優勝二回。11-4
東大関、早蕨。二十六歳。奈良県出身。瀬戸内部屋。181センチ、135キロ。10-5
西大関、若吹雪。二十三歳。北海道出身。千葉乃海部屋。190センチ、155キロ。優勝一回。8-7
西張出大関、荒岩。二十一歳。兵庫県出身。菱形部屋。188センチ、141キロ。12-3
東関脇、曾木の滝。二十三歳。鹿児島県出身。瀬戸内部屋。188センチ。147キロ。9-6
西関脇、緋縅。二十三歳。群馬県出身。石見部屋。183センチ、123キロ。再関脇。9-6
東小結、豊後富士。十八歳。東京都出身。照富士部屋。186センチ。128キロ。新小結。9-6
西小結、近江富士。二十歳。東京都出身。照富士部屋。185センチ。113キロ。新小結。12-3
東前頭筆頭、若旅人(わかたびと)三十四歳。秋田県出身。志摩部屋。185センチ。127キロ。9-6
西前頭筆頭、松ノ花。二十四歳。宮城県出身。浜寺部屋。187センチ。156キロ。竹ノ花の兄。7-8
東前頭二枚目、神天勝(しんてんしょう)二十三歳。愛知県出身。神竜部屋。185センチ。163キロ。9-6
西前頭二枚目、竹ノ花。二十二歳。宮城県出身。浜寺部屋。184センチ。143キロ。8-7
東前頭三枚目、神天剛(しんてんごう)二十一歳。モンゴル出身。神竜部屋。188センチ。150キロ。10-5
西前頭三枚目、神剣(みつるぎ)。三十四歳。静岡県出身。神竜部屋。180センチ、134キロ。8-7
東前頭四枚目、青翔。二十六歳。モンゴル出身。芦名部屋。187センチ。134キロ。9-6
西前頭四枚目、北斗王。三十五歳。北海道出身。飛鳥部屋。193センチ、155キロ。7-8
東前頭五枚目、若飛燕。二十三歳。青森県出身。越ヶ浜部屋。184センチ。116キロ。6-9
西前頭五枚目、神王(しんおう)。三十一歳。モンゴル出身。神竜部屋。176センチ。125キロ。8-7
東前頭六枚目、芙蓉峯。三十二歳。山梨県出身。秋月部屋。189センチ、176キロ。8-7
西前頭六枚目、早桜舞(はやおうぶ)。三十歳。京都府出身。沢渡部屋。191センチ、137キロ。3-12
東前頭七枚目、神翔(しんしょう)。三十七歳。兵庫県出身。神竜部屋。179センチ。130キロ。4-11
西前頭七枚目、光翔。三十四歳。モンゴル出身。鳴尾部屋。182センチ。155キロ。4-11
東前頭八枚目、安曇野。二十九歳。長野県出身。志摩部屋。186センチ、130キロ。3-12
西前頭八枚目、萌黄野(もえぎの)。二十九歳。千葉県出身。志摩部屋。188センチ。147キロ。4-11
東前頭九枚目、優翔、二十九歳。徳島県出身。美馬部屋。177センチ。132キロ。8-7
西前頭九枚目、光翼(こうよく)。三十四歳。岡山県出身。鳴尾部屋。185センチ。153キロ。7-8
東前頭十枚目、神天勇(しんてんゆう)二十四歳。青森県出身。神竜部屋。184センチ。145キロ。8-7
西前頭十枚目、印南野、二十五歳、兵庫県出身、伊豆部屋。188センチ、147キロ。9-6
東前頭十一枚目、白鳥、二十六歳、静岡県出身、結城部屋、185センチ、139キロ。8-7
西前頭十一枚目、蒲生野、二十二歳、滋賀県出身、瀬戸内部屋、186センチ、158キロ。8-7
東前頭十二枚目、颯(はやて)、三十歳、岩手県出身、結城部屋、180センチ、133キロ。再入幕。10-5
西前頭十二枚目、獅子王。二十九歳。中国出身。飛鳥部屋。183センチ、167キロ。5-10
東前頭十三枚目、高千穂。三十一歳。宮崎県出身。日高部屋。183センチ、144キロ。5-10。
西前頭十三枚目、月桜(げつおう)。三十二歳。石川県出身。朝比奈部屋。181センチ。134キロ。雪桜の双子の弟。6-9
東前頭十四枚目、光聖(こうせい)。二十八歳。福岡県出身。鳴尾部屋。191センチ。142キロ。6-9
西前頭十四枚目、光優(こうゆう)。三十二歳。山口県出身。鳴尾部屋。171センチ。148キロ。5-10
東前頭十五枚目、雪桜(せつおう)。三十二歳。石川県出身。朝比奈部屋。181センチ。131キロ。7-8
西前頭十五枚目、北乃王。二十四歳。ロシア出身。高梨部屋。193センチ。210キロ。再入幕 10-5
東前頭十六枚目、筑州山。二十八歳。福岡県出身。淡路部屋。191センチ。142キロ。6-9
西前頭十六枚目、飛鳥王。三十四歳。奈良県出身。飛鳥部屋。182センチ。168キロ。6-9


双葉山について、中村淳一

2017年04月14日 | 読者からのコメント、中村淳一他読者の投稿
双葉山について

かつて「大相撲」誌にしばしば執筆されていた故小坂秀二氏は、双葉山の信奉者だった。
私は相撲を観るとき、双葉山という理想像を心に抱きながら観る。そうすれば、その相撲の、その力士のどこに足りないところがあるかよく分かる。
このような意味のことを語られていたかと思う。

そのような力士に出逢うことができ、そのように感じることの出来た小坂氏は幸せであられた、と思う。

相撲、力士に限らず、物事に何らかの理想を設定し、それとの比較において他のものを眺めるという物の見方は、少なくとも私においては害が多かった。
「理想」を思い描くという、そのような概念設定は不要なのではないかと思う。
むろん、これは性分の問題であり、良い、悪いということではない。どういう心持でいるのが心の収まり、居心地がよいか、ということである。

仮に双葉山が、全ての力士が目指すべき理想の力士像である、としよう。
全ての力士が、余計な所作をしない風格に満ちた土俵態度で、立ち合いは決して変わらず、相撲を通じて人格の完成を図る求道者となる。
そのような相撲界は、・・・・・かなりつまらない。

六十九連勝という偉大な記録を樹立した双葉山。
が、記録の面だけでも理想ならざる突っ込みどころは色々あると思う。
・二十歳そこそこで第一人者級の力量に達した、大鵬、北の湖、貴乃花に比較して、その力量となったのが二十三歳から二十四歳にかけてとやや遅かったこと。
・初優勝から最終優勝までの期間が七年間。大横綱としては優勝期間が短いこと。
・三宅充氏がかつて著書で書かれた強豪ランキングで史上五十傑以内の力士とは、玉錦、照国、東富士、三人と対戦があるが通算対戦成績でその三人すべてに負け越していること。
・六十九連勝樹立以降も、不調、成績が悪かった場所が数場所あること。
さらには引退後、「璽光尊事件」で、世間を騒がせたこともあった。

だが、第一人者となる年齢がやや遅かったとしても、それは雌伏の時期からの劇的な変貌という出世譚となる。
玉錦に対しては六連敗後四連勝という時代の覇者の劇的な交代を示し、幕下時代からキン坊と呼び掛け、目をかけて稽古をつけてきた東富士との唯一の対戦における敗戦は、相撲の世界における「恩返し」という言葉のサンプルとなるような事例である。
不調の場所は、信念の歯車が狂ったと引退を決意し、そこから妙音の滝に打たれて精神修養の果てに復活というドラマに繋がる。
いずれも双葉山の物語を述べるうえで欠かせないエピソードである。

璽光尊事件については、双葉山の信仰心の篤さにより生じた事件であろう。
双葉山は法華経を深く信仰し、勤行を欠かさなかったという。
信仰により、些末事に心を煩わせない不動心を作り上げたのであろう。

双葉山を理想の力士として仰ぎ見ることはしたくない。
が、双葉山の映像を見ると、私は心が溶けて、トローンとなってしまう。
その表情、その動き。
双葉山は美しい。

2010年原稿、中村淳一

2017年04月14日 | 読者からのコメント、中村淳一他読者の投稿
最近、プロレスラーの棚橋弘至氏著「棚橋弘至はいかにして新日本プロレスを変えたのか」という本を読んだ。とても面白く、今後、心情的に氏を応援していきたい、と思わせる内容だった。
この著作の中で「なるほどなあ」と感じさせられたことがある。
氏は、ブログを執筆したり、ラジオなど色々なメディアで、自身と自身が所属する団体に関する情報を発信したりと、アピールに努めているが、大事なことは、何度も何度も繰り返し、書いたり、話さないとだめ。一度言ったからもういい、では多くの人には伝わらないという主旨のことを書いておられた、そのことに関してである。

私も相撲に関して色々主張したいことはある。そのほとんどは、既に本ブログに投稿済で、
本ブログの「読者からのコメント」の項に収まっている。最も言いたかったことは本ブログ開設の初期に投稿させていただいたものが多い。
だが、6年も7年も前に書いたものをわざわざ読む、そういう方はまずおられないだろう。
当方もそれなりの時間をかけて書いたものと同様主旨の事を、また書く気にはなれない。
だが、今はコピペという便利な方法がある。使わせていただきたい。
で、以下2010年に投稿したものをコピペしているのだが、以下の二題には、文章の途中で、長山聡氏が出てくるという共通点がある。
雑誌「大相撲ジャーナル」が次号からリニューアルされ、かつて読売大相撲誌で健筆をふるわれた長山氏が新しく編集長になられるという予告記事を読んだので、以下の文章をコピペする気になったわけである。
長山氏とは、羽黒蛇氏を含めて三人で一度だけお会いしたことがある。前世紀の終わり頃、私が四十歳になったばかりの時期であったかと思う。渋谷で会っていただいたのだが、相撲談義もそこそこにカラオケに行って、歌うことに時間を費やした記憶がある。
かつて長山氏が大相撲誌で論じておられることには、共感することが多かった。

二十年近くの時が経過したが、長山氏が当時の論調を変えることなく、角界に一石を投じていただけることを期待させていただきたい。


「私の相撲の見方」

波乱が多ければ、横綱、大関陣を批判し、横綱、大関が強ければ、関脇以下と差がありすぎると批判し、12勝、13勝で優勝すれば、讃えることよりも、負けた2番、3番をあげつらう。そういうマスコミ、解説者の見方は、私はとりたくない。 

プロ野球のチームは6割勝てば超一流。優勝チームでもシーズンで7割の勝率を残すというのはきわめて稀なことである。5割台で優勝という例が最も多いはずである。だが、優勝チームなのに負けすぎ、という野球ファンはほとんどいないであろう。

長年の記録の積み重ねにより、トップクラスの技量をもつ人々の集団が100数十試合戦えばそうなる。野球とはそういうゲームであるということは自明なことだからである。

野球は相撲とは違って、各選手に地位による格差があるわけではないから相撲と同列には論じられない、と言われるかもしれない。

では名人をはじめとして7つのタイトルが存在する将棋はどうだろう。将棋の棋士は7割勝てば、超一流なのである。15世名人大山康晴も、16世名人中原誠も、17世名人谷川浩司もその通算での勝率は6割台。ピーク時でも7割台で、8割に達する年度があればそれは特別なことである。

だが、「名人なのに負けすぎる」という将棋ファンはほとんどいないであろう。長年の記録の積み重ねにより、将棋とはそういうゲームである、ということは自明のことだからである。

相撲は野球、将棋以上に長年にわたる記録の集積がある。その記録を虚心坦懐に眺めれば、相撲とはどういう競技か。力士としての一流、超一流の基準をどこにおくかは、本来、自明なことであるはずである。

積み重ねた過去の歴史を見れば、少なくとも7割勝てば(私は横綱、大関と常に顔が合う位置であれば6割でもそうだと思うが)一流。8割勝てば、超一流と考える。

8割といっても常に12勝ということではなく、例えば、14勝、11勝、13勝、9勝、13勝、12勝というような流れであれば、その力士は超一流である、という意味である。比較的不調な場所のことを批判するより、こういう力士が存在すればその強さを素直に讃えたい。これは「大相撲」誌によく論述されていた長山聡氏のお考えでもあると思うが、全面的に賛成する。 

相撲を見るなら、批判的に見るよりは、そのすごさを讃えて見たい。私が大学時代、相撲同好会で相撲を取っていたとき相撲部の110Kgの部員の方を一歩だって動かすことはできなかった。それを考えれば、関取になる、ということの凄さ。幕内力士になるということの凄さ。三役になり、三役に定着することの凄さ。その上・・・ 私は日常的に凄いものを見させてもらえる、ということを有難いことと思う。


「横綱について考える その1 」(中村淳一) 
地位ではなく称号として、弱くなっても相撲を取り続けることのできる制度の提案

 把瑠都は、大きな破壊力を感じる相撲っぷりで、上に強く下に弱いというイメージですが、それがずっと横綱に勝てないということを不思議に思っていました。横綱、大関を除く上位力士で、今、最も大物感があるのは把瑠都以外には稀勢の里ですが、最近はとんと横綱に勝てなくなってしまいました。序盤から5連勝した時には大器ついに花開くか、と思ったのでしたが・・・ 関脇以下で大物感のある若手有望力士が横綱には勝てない、というのはたしかに、むしろ珍しいことかもしれません。

 さて魁皇のことです。3回目の優勝をしたあたりで横綱に昇進すべきであったと書きましたので、「本当にそうだったのだろうか」ということが気になり、彼の残してきた場所毎の成績を一覧してみました。
3回目の優勝をした直近3場所は、 13-2(2回目の優勝)、4-5-6休、13-2(3回目の優勝)でした。2場所前に優勝していたというのは記憶にあったのですが、2度の優勝にはさまれた場所(貴乃花最後の優勝場所ですね)が、途中休場だったというのは記憶にありませんでした。「これは3回目の優勝の時点で横綱に昇進すべきとは言えなかったな」と先ず思いました。あとどこを切り取っても横綱昇進にふさわしい成績を残していたと言い切れる時点はなく(5回目の優勝の翌場所12勝の時点では昇進してよかったとは思いますが)「5回もの優勝をしていても、魁皇は大関どまりであっても仕方なかったのか」とも思いました。
が、しばらく考えてみて、そういう風に感じるのは、横綱昇進について、私がまだまだ直近3場所にこだわっているからだ、と思い直しました。自説に固執するという気持ちが働いていたことも全否定はできませんが、たとえ間に途中休場があっても、直近3場所中2回の優勝。直近8場所で3回の優勝は、それだけで横綱昇進にふさわしかったとあらためて主張したいと思います。

 さて、その時点で魁皇が横綱に昇進していたら、それ以後は横綱としての成績ということになります。さらに2回の優勝を重ねているとはいえ、決して強い横綱であったとはいえません。
幕内通算勝ち星の新記録を樹立した今場所よりも数年早い段階で引退に追い込まれていたでしょう。

 では次に「横綱になるのが幸せか、長く力士を勤め続けられることが幸せか」という設問について考えてみたいと思います。個人レベルでは違う考えをもつ力士もいるでしょうが、「横綱になる」ということが多くの力士にとって最高の夢であり、もし横綱になれるのなら、以降も続けることができたはずの数年の力士生活を棒に振っても構わないと考えるのではないかと思います。
 が、このふたつは本当に対立する概念なのでしょうか。この両者を融合させた考え方はできないでしょうか。
「できる」と私は思います。たったひとつ「横綱、大関は強くなければならない」この既成概念を捨ててしまえば、それが可能になります。
 横綱は、そして大関は、ある力士が、大相撲の長い歴史と伝統により積み上げられてきた過去の幾多の力士の昇進例を鑑みて、昇進するにふさわしいだけの成績を残した。そういう力士に対して与えられる地位であり、称号である。それでよいのではないでしょうか。ひらたく言えば、横綱になった時点で、大関になった時点で、もう責任は果たしている。あとはその力士が「充分に取りきった」と満足するまで取ってくれれば良い。そうなればファンは、今は現役力士の中でそうではないにしろ、かつては最強レベルまで到達したことのある力士の熟練の技を堪能することができます。

 ただこの考え方にたてば、横綱、大関が10人、15人と増える。あるいは、負け越しが続く横綱が出現する、といった事態もありえる。本当にそれに耐えられるのか。また、毎日、延々と続く横綱土俵入りを見せ続けるのかということも検討しなければならない。
 従って、このことについては、現時点では自説として主張する段階には至らないが、私案として陳述し、さらに考えてみたいと思う。
(私が脳裏に描くのは名人失冠後も長く現役棋士であり続けた大山康晴、中原誠、米長邦雄の姿であり、今も加藤一二三、谷川浩司、丸山忠久、佐藤康光、森内俊之と元名人が5人存在する将棋会の姿である。)

中村淳一
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「横綱について考える その2」 (中村淳一)


 先の私案について補足したい。
 力士は大関にあって横綱昇進にふさわしい成績を残すことによって「横綱」という地位と称号をえるわけだが、横綱にふさわしい成績を残すことができなくなったとき、引退以外に横綱という地位を返上するという選択肢もあってよいとする。

 横綱返上を申し出る力士があらわれたとき、横綱審議委員会が招集される。その席上で過去の横綱の引退例と比較し「それには及ばない」という結論が出る場合もあるが、原則としてその返上は受け入れられ、審議委員会で返上が正式決定される。

 翌場所からその力士の地位は「大関」となるが、番付には「横綱」も併記される。横綱大関である。つまり地位は大関であるが、横綱の称号は保持したまま現役を続けることができるということである。ただし、その時点で巡業等花相撲では横綱土俵入りは自由に行われるが本場所では横綱土俵入りは行えず、大関以下の力士と一緒に地位に応じた入場順で土俵入りを行う(ただし、土俵入りの際「横綱○○○」と力士名を呼び上げられる。大関になって以降は大関以下の力士同様に番付は昇降する。二場所連続負け越せば、関脇に陥落であるが、称号はそのまま、横綱関脇である。小結に落ちても、平幕になっても同様。

将棋の世界は現在、名人と元名人合わせて6人の名人経験者がいて「名人の称号が軽くなりすぎているのでは」という意見もあるいはあるのかもしれないが、棋士一覧をみると贅沢な気持ちになれる。

相撲界も、例えば横綱4人。大関以下に4人の横綱称号保持者、合計8人の横綱がいる、ということになれば番付をみていてとても贅沢は気持ちになり、取組表にもより華があるようになるのではと思う。

 ここ半世紀をみても大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花、朝青龍、白鵬とほぼ途切れることなく大横綱が出現し続け、相撲の世界においてはむしろ大横綱が存在していることが常態化されているように感じるが、それら大横綱が国民的な関心を得たヒーロー、スーパースターであったかと問われれば、そうであった力士もしれば、そうとはいえない力士もいたということになるだろう。国民的関心を得たスーパースターの有無を比較するとむしろ不在であった時代のほうが長いように思う。
 であれば、大相撲も興行である以上、個としてのスーパースターが不在であっても、集団としてのより多くのスター力士を揃えることができる制度的な工夫はなされてもよいのではないかと思う。


「横綱について考える その3」

横綱という存在をどう考えるかにつき、先に将棋を例にあげて私案を申し述べた。横綱という存在について考えるときもうひとつ参考にしたいのは、皇室に対する接し方である。後述する。

例えばきたる春場所の上位陣の成績が白鵬15勝。朝青龍14勝。日馬富士12勝。琴欧州12勝。魁皇12勝。琴光喜11勝。把瑠都9勝。豊ノ嶋7勝。稀勢の里8勝。安美錦7勝だったとする。

「横綱、大関が全て好成績で素晴らしい」と思われるであろう。と同時に「把瑠都と大関取りのチャンスを逃した」「稀勢の里はなかなか化けないな」とこの両力士については批判の声があがるかもしれない。

だが、先に述べた成績、これは横綱、大関は関脇以下の力士にはひとつも負けず全勝。関脇、小結(予想番付による)は平幕以下の力士にはひとつも負けず全勝。このふたつがあって始めて実現する成績なのである。

かつて故小坂秀二氏が大相撲誌に「(当時のたしか貴乃花をはじめとする最上位5力士くらいであったと思うが)上位力士が下位力士には全く負けない、そういう場所こそ私の理想である。そういう場所をみてみたいと、照国、安芸の海が横綱に昇進して四横綱になった場所、横綱が場所をとおして大関以下に1敗しかしなかった場所を例にあげて書いておられた。たしかにそういう場所があれば「すごい」と思うであろう。

が、ほとんどそのような成績に終始する場所が続いた場合、見ていて楽しいだろうか。そうは思わない。現に昭和50年代の最終盤、千代の富士独裁時代がやってくるその前夜の時代、独裁者は不在であったわけだが、このときの集団としての横綱、大関陣は強かった。以前書いた大関琴風、若島津が年間70勝に達する勝ち星をあげたのもこの時代である。

が、このときのマスコミは、そういう上位陣の強さに自足するよりも関脇以下と力の差がありすぎて面白くないという論調のほうが優勢であったと記憶する。つまり大相撲は、どういう姿になったにしろマスコミには満足してもらえないのだ。

むろん、私が知る限りという意味でだが、相撲ほど常に批判的に見られるスポーツはないように感じる。それについては、これもかつて長山氏が書いておられたと記憶するが、相撲の社会に属する内部の人から現役力士のその強さをおとしめる発言が相次ぐことにも一因はあるかと思う。

さて論が飛んでしまったが、「品格、力量抜群に付き」推挙される横綱について、

この推挙文については、これは一種の修辞と考えるべきであろう。概ね20歳代で昇進することになる横綱が、その年齢で品格抜群であるということはなかなか難しいとは従来から言われていたが、力量については、抜群である力士も現に存在しているが全ての横綱にそれを求めるのは先の力士の超一流、一流の基準をどこにおくかから考えても字義通り「抜群である」ことを求めてしまうと、多くの横綱に対して常に批判的な目で見ざるをえなくなってしまうであろう

(今の横綱ふたりは力量の面できわめてレベルの高い横綱である。このことにより、これまでの多くの横綱が残してきた事績が忘れられ、横綱にこのレベルの強さを常に求めることになってしまうことを恐れる)。

さてそこで皇室である。連綿として続く皇統の中には、品格、識見、容姿といった面で衆に優れた方もおられたであろうが、皇室は、そういった面が優れていたから世の人々の崇敬を集めたわけではない。

また、自由、平等こそ人間にとって最も大切なものという価値観にたてば、その存在自体あってはならないものとなる。
皇室に属する方々もひとりの人間としてみれば、概ね特に優れた方であるわけではない、それは世の人々の暗黙の了解事項であろう。が、連綿と続く歴史と伝統が皇室をいわく言いがたい、「なにやらよくはわからないが、尊い」という存在にした。

主に残してきた場所の成績という、いわばきわめて俗なことに拠り横綱は誕生する。が、いったん横綱になれば、その瞬間からその力士は、相撲という長い歴史と伝統をもつ世界が保持してきた最も尊いものの体現者であり、以降の場所ごとに残す成績は副次的なものである。

横綱が字義通り「品格、力量抜群」なわけではない、ということは世の人々の暗黙の了解事項であっても、それを声高に叫ぶべきではないと思う。

横綱はただ横綱であるから尊い。それで充分なのではないだろうか。

「横綱」 それは、常人が批判することは許されない半神である。

中村淳一

編集者よりの注:この原稿は朝青龍が引退する前に頂いたものです。

続、立合いの変化について 中村淳一

2017年04月14日 | 読者からのコメント、中村淳一他読者の投稿
立ち合いの変化だが、現状、あるべき姿より成功率が高いかな、とは感じる。
経済学の初歩である、需要曲線、供給曲線に習えば、
立ち合いで変化すれば、勝つ確率が高くなるとなれば、立ち合いの変化はもっと増える。
増えれば、力士の中に、立ち合いの変化ということの意識が高まり、対応策が考えられ、立ち合いの変化の成功率がだんだん低くなっていき、立ち合いの変化が減る。どんどん減っていけば、立ち合いの変化に対する意識が弱まり、また立ち合いの変化の成功率が高まる。
自ずから、立ち合いの変化の割合は、成功するか失敗するか確率は半々というあたりで均衡する。こういうメカニズムが働くと思うのだが、現状はそうなってはいないようだ。
需要曲線、供給曲線については、他の与件は排除した抽象概念であり、現実の世界は、様々なその他の条件が加わり、理論どおりにはならない。
立ち合いの変化が、現状あるべき姿より成功率が高い、本来均衡すべきポイントで均衡していないとしたら、それは、力士の中に「立ち合いの変化は良くないことである」という意識があるからではないだろうか。勝つということに徹すれば、もっと変化があってしかるべきなのに、現状はそうなっていない。
立ち合いの際、本当は、三分の意識を持つべきなのに一分程度の意識しかないので、変化に対応できない、というのが現状なのではないだろうか。
であるならば、立ち合いの変化に対する批判の声が、かえって立ち合いの変化の成功率を高めているということになる。
立ち合いの変化も正当な作戦。この共通認識が広がれば、立ち合いの攻防の緊張感。見応えは今より高くなるのでは、と思うのだが、どうだろうか。

立ち合いの変化についての一考察(中村淳一)

2017年03月29日 | 読者からのコメント、中村淳一他読者の投稿
立ち合いの変化についての一考察

いったい誰が言ったことだったのか。何で読んだのか、はっきりとした記憶はないのだが、ある力士が双葉山と羽黒山について、このように語ったのを読んだか、聞いたかしたことがある。
双葉山の土俵生活における晩年。同部屋だった羽黒山とは、本場所の土俵で対戦することは中たわけだが、もうあるいは、羽黒山の方が強いのでは、と言われ出した時代背景での発言である。
「羽黒山関と対戦するときは、もしかしてもしかしたら、立ち合いに変わられるかもしれない。心の奥底にそんな気持ちも抱いたまま、立ち合いました。一方、双葉関については、絶対変わらないということが、分かっていたので、その安心感の元、立ち合いでは思い切りぶつかることができました」
立ち合いに決して変わらなかった双葉山。それは彼の信念だったのだろうか。信念だったと考えると、話はそこで終わってしまう。
安芸の海に敗れ69連勝でストップした際、彼は、師、安岡正篤に宛、我未だ木鶏足りえず、と電報を打った。
双葉山が目指したものは木鶏。静かに佇むが、誰も敢えて戦いを挑もうとはしない至高の強者。果たして双葉山はその土俵生活において、木鶏の境地に達しえたのだろうか。
以前、別の場で書いたことだが、双葉山は相撲に相撲以上のものを求めた人であったと思う。彼は相撲道を極めることによって、人としての高き境地、人格の完成を求めた人であったのであろうと思う。昭和以降の強豪では、貴乃花も同タイプの力士であったかと思う。関心があるのは己れ。己の相撲の完成。
大鵬、北の湖については、自らが力士として最高の地位にある。その集団の最高者としての意識が強く、それに伴う責任感をしっかりと認識する。そういう力士であったと思う。
千代の富士、朝青龍、そして栃若時代の一方の雄、若乃花については、他者の目に映る己の姿に関心が強かったように思う。
白鵬については、求道者、最強者の意識、他者の目に映る己。この三つをいずれも包含しているタイプでは、と思う。

話が飛んだ。双葉山にとって、立ち合いに変化しない、ということは信念だったのだろうか。
信念だったとすると、何かそのことに捉われて、自由闊達なイメージにならない。変わるとか変わらないとかいうこと、そんなことはどうでもよい。ただ本質から外れた無駄な動作はしない。無駄な相撲は取らない、その意識が、やがて血肉となり、無意識の境地で相撲を取る中で、変化は彼の相撲の中では不要なものとなった。このように考えてみたい。

対戦する全ての力士が、絶対に変化しない、という安心感を持って全力でぶつかることのできる力士。
決して変化しない相撲。それは世紀にひとり。特別に選ばれた至高の力士だけが持つことのできる特権だ。

では、世紀にひとりならざる力士は。
お客さんによい相撲を見せることを心掛ける。勝敗は度外視。そのような勝ちにこだわらない相撲がかえってよい結果を生む場合もあるだろう。
だが観客の目を第一として相撲を取るのなら、それはプロレスだ。
相撲は勝つことを目的とした競技だ。勝利を求めた結果、立ち合い一瞬の変化で決まるあっけない取組も生まれ、時に観客の感動を呼ぶ名勝負も生まれる。
世紀にひとりならざる力士は。
それが勝利を得るための最善策と思うのなら、好きなだけ、いくらでも変わったらよい。

稀勢の里-照ノ富士戦を観て(中村淳一)

2017年03月29日 | 読者からのコメント、中村淳一他読者の投稿
稀勢の里-照ノ富士戦を観て

大相撲の歴史の中で、後世まで語り継がれている取組。
昭和14年春場所四日目、双葉山-安芸の海、双葉山70連勝ならず。
昭和35年春場所千秋楽、若乃花-栃錦、史上初の横綱千秋楽全勝決戦。
昭和38年秋場所千秋楽、柏戸-大鵬、史上二度目の横綱千秋楽全勝決戦、そして、休場を続けていた柏戸の復活。
昭和46年夏場所五日目、貴ノ花-大鵬、大横綱最後の取組。
昭和50年春場所千秋楽、貴乃花-北の湖、熱狂する場内、人気力士大関貴乃花の初優勝(筆者が、生まれて初めて本場所を観戦した日。5歳の時、母親に連れられて支度部屋で大鵬に握手してもらったことはあったが、それは、当時は開催されていた10月の大阪準本場所でのこと)。
昭和56年初場所千秋楽、千代の富士-北の湖、後の大横綱であり、既に人気力士となっていた千代の富士の初優勝。
平成3年夏場所初日、貴花田-千代の富士、大横綱と未来の大横綱の唯一の対戦。
平成13年夏場所千秋楽、貴乃花-武蔵丸、膝の故障をおして出場した貴乃花、勝利直後の鬼の形相。
輪島-北の湖。朝青龍-白鵬の対戦の中にも相撲史における意味合いで言えばこれらの取組と並ぶ名勝負はあったであろう。が、その取組においてどちらか一方が、あるいは双方が国民的なと言えるだけの関心を擁する人気力士であったかどうかという一項を加えると、前記と並ぶレベルで語り継がれる一番は無かったのではないだろうか。

本来であれば、前記と並ぶ歴史的取組であるはずなのに注釈付きでしか語れない勝負もある。昭和46年初場所千秋楽、大鵬-玉の海。
平成7年九州場所千秋楽、若乃花-貴乃花。
前者においては勝者が、後者においては敗者が、その一番の大相撲史における意味、背景よりも、その一番だけの周囲、あるいは己れの思惑、感情を優先させた結果であったかと思う(断言することは慎まなければいけないのだろうが)。

さて、この春場所千秋楽の稀勢の里-照ノ富士。前記と並んで後世まで語り継がれることになるのは間違いあるまい。
ひとつ特異な点があるとすれば、前記が、いずれも昭和以降の七大横綱及び名横綱栃若が絡んだ取組であり、その取組の時点でそれにふさわしい実績も残していたのに対し、稀勢の里も照ノ富士も少なくとも現時点では、そのレベルの力士ではない、ということだ。
稀勢の里は、何とも不思議な力士だ。彼が十七歳で関取になり、更には十九歳の白鵬が新入幕の場所に十二勝の成績を残した時、私は、大力士を予感させる若い力士が二人出現したことに興奮した文章を書いたことがある。
白鵬は、その時の私の予想を超えた大横綱になった。
たが、稀勢の里はそうはならなかった。
外国人力士の制覇の舞台となった相撲界。彼は本来、それを食い止め、若くして覇者の一翼を担う使命をもっていたはずだ。
30歳までの彼が描いた軌跡は、敗者の歴史。朝青龍、白鵬だけではない。日馬富士にも琴欧洲にも把瑠都にも、対戦成績で大きく負け越している。
30歳8カ月で、優勝二回。このことだけを取り上げれは、並レベル以下の横綱でしかない。
だが、今の稀勢の里の、この存在感の大きさは、何だろう。
長かった、長すぎた敗者としての歴史は、今のこの時を、よりドラマチックに盛り上げるためのプロローグでもあったかのようだ。並み外れた強さではなく、こんな形で人々の共感を呼び、時代に祝福された力士。
相撲の歴史が、十年に一度見せてくれる極上のドラマ。
今は素直に受けとめ、感動しよう。
ドラマの主役は、稀勢の里寛。

(再録)平成16年九州場所を終わって思うこと 04.12.10記 白鵬と稀勢の 里。そして琴欧州 (中村淳一)

2017年03月29日 | 読者からのコメント、中村淳一他読者の投稿
平成16年九州場所を終わって思うこと     04.12.10記  白鵬と稀勢の 里。そして琴欧州 

1.
 新入幕の時点で、「この力士は歴史に残る大横綱になる可能性がかなり高い」 という期待をもたせた力士というと、昭和35年初場所に入幕した大鵬(新入幕 時(番付発表)、 19歳7ヶ月) 昭和47年初場所に入幕した北の湖(18歳7ヶ月)、そして平成2年夏場所に 入幕した貴乃花 (貴花田:17歳8ヶ月) ここ半世紀では、この3人くらいであろうと思う。
 そしてこの3人は、その期待通り、戦後4大力士の中の3人と言い得るだけの 力士に なった。4大力士のもうひとり、千代の富士は20歳2ヶ月で新入幕を果たし、 この3人ほどでは ないにしろスピード出世だったが、20歳代前半の内は、中堅幕内力士の域を出 ることはなく、 25歳になって、急に強くなった晩成型の力士であり、また新入幕の時点で、横 綱になる、 と予想した人が、もし、いたとしても、それは少数派であったろう。

 さて、大鵬と北の湖の間が12年。北の湖と貴乃花の間が18年。平均したら 15年周期と なる。そして貴乃花が入幕を果してから14年後の今年、またそういう期待を抱 かせる力士が 出現した。白鵬(19歳1ヶ月)と、稀勢の里(18歳3ヶ月)である。

 大鵬と同じ新入幕の場所での12勝という勝星を、大鵬より半年若くして、あ げて、その後も 順調に出世している白鵬。ちなみに大鵬は 新入幕から 12、7,11、小結 11、関脇12、 関脇13。6場所で大関に昇進した。入幕後、4場所経過した白鵬のここまでは 、12、11、 8、12。4場所経過時点で、通算勝ち星で、大鵬を2勝リード。が、白鵬の不 運は、これだけ の勝ち星をあげながら、来場所、ようやく三役昇進という、その番付運のなさだ 。 が、いずれにしても、ここまでは、優勝32回を成しえた大鵬と並ぶ、あるいは それを上回ろうかという出世振りだ。

 一方、稀勢の里は、史上2番目の若さで、関取昇進、入幕を果たし、ともに1 位の記録をもつ貴乃花も ともに3位の記録をもつ北の湖も成しえなかった新入幕勝ち越しを、先の新入幕 である 九州場所に果した(9勝)。貴乃花、北の湖が各々、22回、24回、の優勝回 数を誇る ことを考えれば、稀勢の里は優勝回数20回以上の力士の昇進ペースということ になる。

 ほぼ15年周期で誕生する、大力士を期待することができる力士が出現したわ けだが、今、すごいと思うのは そういう期待をもつことができる力士が2人、出現した。ということだ。  こういう時代は、少なくとも私の記憶にはない。

 では、それぞれが、優勝30回、20回以上できるか、となれば、19歳、2 0歳で初優勝して 以後10年間、年間5回平均で、この2人が優勝していけば、合計して50回と いう数字になるので、 不可能な数字ではない。  が、ふたりを通算しての優勝回数ということになれば、 大鵬32、柏戸5、 計37。 北の湖24、輪島14、計38。 千代の富士 31、隆の里4、計35。 貴乃花22、曙11、計33。 これをみると、強豪力士とその最大のライバル2人の通算優勝回数は、おしなべ て30回代である。 白鵬と稀勢の里は、その若さからいって、これを上回る可能性は充分にある、と は思うが、やはり30回代 におさまるか、多くても40回をさほど超えない数字。どちらかが、20回代で 、もうひとりが10回代 というのが、現時点では最も穏当な予想のように思う。

 さて、特に白鵬という力士には驚かされる。稀勢の里は、三段目時代に「16 歳でここまで昇進している 力士がいるのか」と思い、その時点から注目していた。また琴欧州については、 そのアマ時代の実績もあり、 入門した時点で、当時の十両力士、幕下力士と遜色のない稽古をしている、との 相撲雑誌の記事を読み、 新弟子時代から注目していた。が、白鵬については、下の頃は全く、注目してい なかった。関取 昇進の間際になって、「この若さでここまで昇進している」というのに、ようや く気付いた。
 ホームページの中で、平成19年初場所の番付を予想しているが、この予想は 白鵬が十両に昇進する その場所の前に行った。白鵬については、それまで注目していなかったこともあ り、「たまにいる、 ここまでの出世は早かったけれど・・・」の力士かな、と思ったが、18歳での 関取昇進というのは、 やはり出色のことなので、小結に予想しておいた。
 また、その後、平成21年初場所の番付も予想したが、そこでは23歳になっ ている白鵬を横綱で、 優勝回数は、その時点で6回、と予想した。これは、先の19年初場所の予想で 、平成16年以降 栃東、千代大海、若の里の3人で7回、優勝する、と予想していたので、それを 引き継いだ予想とした ため、朝青龍、萩原(稀勢の里)、琴欧州にも優勝を割り振ると、それ以上カウ ントすることができな かったのだ。 (だが、予想はそのままにしておく。ある程度長期の予想をしたのに、その時々 の状況でころころ 変えるのはみっともないし、個人的には、千代大海、栃東、若の里、琴光喜の世 代に頑張ってもらいたい、 と思っており、この世代から横綱が誕生して欲しいし、上記の回数程度の優勝を してほしいと思っている からだ。もちろん上回る分にはいくらでも構わない)。

 私は、相撲を見始めてから、既に40年以上経つ。少年時代から、この予想行 為というのは、ほとんど、 自分の頭の中だけではあるが、よくやっていた。では、どの程度当たっただろう 。

 先ほど、貴乃花は、新入幕の時点で、大横綱となることを期待され、その通り 、 大横綱になった、と書いた。この書き方であれば、たしかに予想は当たった。し かし、新入幕の 時点で、私は貴乃花については、大鵬の優勝32回。双葉山と大鵬の全勝優勝8 回。大鵬の6場所連続優勝。 双葉山の69連勝。それら、全ての史上最高記録を更新する力士になる、と予想 していた。
はずれた。

 父親の貴乃花については、やはり当時の史上最年少で、十両、幕内と昇進して いったが、体が小さかった こともあり、将来、独裁時代を作る大横綱になるとは予想しなかったが、兄、若 乃花のように、好敵手を 得て、二強時代の一方の立役者になると予想し、そのトータル成績では、若乃花 を上回るであろうと予想した。
はずれた。

 昭和58年から59年にかけて、大乃国、小錦という200Kgを超える力士 、北尾という身長199cm の力士が幕内に登場してきた時代にはどういう予想をしたか。
 この3人は、新入幕の時点で、大乃国、小錦は20歳。北尾は21歳になって おり、大鵬級の横綱に なるとは思わなかったが、それに準ずる横綱は生まれる、と思った。具体的には 北尾がそうなると思っていた。  柏戸(188cm)、大鵬(187cm)以降、身長の面でこの2人を上回る 横綱は登場しなかった。 唯一、ほぼ同身長だった二代目若乃花は体重がこの2人より軽かった。北尾は、 20数年ぶりに登場した 体格の面での柏戸、大鵬級の横綱であり、身長の面では、超柏戸、大鵬級だった 。
尚、大乃国、小錦に ついても、体重はもちろん、超々柏戸、大鵬級であるし、身長はほぼ等しい。( 大乃国189cm、小錦187cm。 尚、小錦については土俵生活の晩年には、185cmあるいはそれ以下になって いたと思うが、新入幕当時は この身長で表記されていたと記憶する。過大な体重により、徐々に骨が磨り減っ ていったのかな、と推測する。)

 さて、新国技館開館(昭和60年初場所)以降は、千代の富士は、その年に3 0歳になることもあり、 もう優勝回数を重ねることはできず、前記3人を中心とする、超大型力士が君臨 する時代がすぐにやってくる と予想していた。優勝回数については、北尾20回、小錦10~15回。大乃国 5~10回。3人合わせて40回。 このあたりを予想していたように記憶する。
 事実はどうであったか、北尾(双羽黒)0、大乃国2、小錦3、3人合わせて 5回である。35回は、どこに いってしまったのか。  千代の富士は、新国技館開館以降21回の優勝を重ね、私が「大関に昇進すれ ば上出来」と予想していた 保志(北勝海)、旭富士が各々 8回、4回優勝している。合わせて33回。こ の3人が、減ってしまった35回 のそのほとんどを肩代わりしている。すなわち、結局、超大型力士が君臨する時 代はやってこなかったのだ。

以上の経験則により、「私の予想ははずれる」という結論が導き出される。

 新入幕の時点で、「この力士は歴史に残る大横綱になる可能性がかなり高い」 と思われた力士。 大鵬以前では、千代の山(新入幕は昭和20年)、武蔵山(新入幕は多分昭和4 年)があげられる かと思う。15年周期で出現という頻度はやっぱりその通りである。 この両力士が、ある意味で、大鵬、北の湖、貴乃花、白鵬、稀勢の里以上であっ たのは、入門した 時点で、その抜群の大物感により、周囲から「未来の横綱」と見られていた、と いうことである。
大鵬以下の5力士については、例えば、北の湖、貴乃花については、入門した時 点で、将来は横綱になる、 と予想した識者がおられたかもしれない。しかし、その声は、武蔵山、千代の山 の入門の時点ほど、 大きなものではなかった、と推測する。

 さて、その武蔵山と千代の山だが、入門後、周囲の期待通り順調に出世して、 武蔵山は、21歳 という当時の史上最年少で初優勝した。千代の山は、終戦後の最初の場所である 、昭和20年秋場所、 19歳(千代の山は6月生まれ)で、新入幕となった、その場所で、10戦全勝 という成績を残した (但し、当時は優勝決定戦の制度はなく、優勝はやはり10戦全勝だった横綱の 羽黒山)。  この武蔵山初優勝の時、そして千代の山の新入幕の場所が終わったとき、私が この世にいたとして、 両力士の将来予想を行ったとしたら「雷電、太刀山級の、いや、それを超えた史 上最高の力士になる」 と後年の貴乃花の時と同様に、いささかミーハー的な予想をしたであろうと、容 易に推測できる。

 さて、この両力士、その後はどうなったか。武蔵山はその後、土俵上で負傷が あり(沖ツ海戦で 腕の故障であったと記憶する)、それが土俵生命の上で致命的な負傷となった。 結局、横綱には なったが、優勝は初優勝のあと、一度も重ねることはできず、横綱昇進後の成績 も歴代横綱の中で ワーストに近い。
 千代の山は、そのような致命的ともいえる負傷はなかったと記憶するが、やは り、横綱にはなったが、 その優勝回数は、6回に留まった。千代の山が主として活躍したのは年3場所、 4場所の時代であったから 当時の6回は、現在で言えば10回程度に相当すると思うが、いずれにしても大 横綱とよべる成績では ない。

 以上により、白鵬と稀勢の里。その大横綱としての将来は決して保証されたも のではない、ということ も合わせて認識はすべきだが、これは勝負事である限り、当然のこと。  このふたりが、現時点では大横綱ペースで昇進を続けている、ということは充 分に言い得よう。


2.
 上記の文章で、今の白鵬、稀勢の里。この2人が相俟って、大横綱ペースで昇 進しているというのは 大相撲史上、類例がない。と書いた。が、あえて、類例を探せば、 先ず、梅ノ谷(後の二代目梅ヶ谷)が、続いて常陸山が幕内に登場してきたとき がそれに当たるかと思う。
梅ノ谷については、当時としては出色の若年出世であった。が、常陸山には若い 頃に数年間、出奔して、 関西相撲に身を投じていた、ということもあって、東京相撲に再入門し、幕内に 昇進した時点では、ほとんど 第一人者と言いえるだけの力量を身につけていた。が、既に力士として壮年とい うべき年齢に達していた。  ゆえに若々しさという面で欠けるところがあった。

 次に、柏戸と大鵬のペアがいる。が、柏戸については、若年出世のスピードと いう面で、大鵬、白鵬、 稀勢の里に及ばない。但し、この2人は、当時の相撲界にあっては、特にその身 長の面で抜群の大型力士であった。 白鵬、稀勢の里は、体格においては、若年当時の柏戸、大鵬を、特に体重の面で は大きく上回っているが、周囲の 力士の体位向上により、当時の柏戸、大鵬のような大型力士とは見られていない 。ゆえに、若年昇進、体格 をトータルすれば、その大物感ぶりは互角であろうかと思う。

 梅ノ谷、常陸山ペアも、柏戸、大鵬ペアの時も、幕内登場のとき、その人気は 沸騰した。 さらに人気の面では、大鵬の新入幕のときから、千代の富士の初優勝のときから 、 貴乃花(貴花田)が幕内下位で初日から11連勝した場所から、ブームと呼ぶべ き現象が巻き起こった。 これは、各人が第一人者として、はっきりと君臨するようになった時期に、それ ぞれの爆発的人気は終息した。

 この若くて強い力士が、第一人者の座を目指して駆け上がっていく時期という のは、本来、相撲人気 が最も大きくなる時期のはずなのだ。
現状はどうか。相撲人気は、湧き上がるど ころか、数十年ぶりとでも よぶべき不人気にあえいでいる。なぜなのか。

 大鵬、千代の富士、貴乃花と、この三人を並べてみて、もうひとつ気付くこと がある。この3人は、 いずれも美男。それも相当にレベルの高い、さらに、多くの若い女性に騒がれる に足るアイドル的要素も含んだ 美男であるということだ。戦後4大力士の内3人までが、かくもレベルの高い美 男であったということは、 相撲協会は確率論的にいえばほとんどありえないような僥倖に恵まれていたのか 、とも思う。
 誠に失礼ながら、北の湖が、駆け上がって行った時期にはかくのごときブーム は起きなかった。  付言すれば、昭和以降までさかのぼれば、5大力士としてここに加わる双葉山 も、アイドル的要素という のは無いとしても(但し、現代の感覚でそう思うのであって、当時はそういう要 素もあったのかもしれない)、 やはり相当にレベルの高い古典的美男だ。

 白鵬、稀勢の里については、ぱっと目を惹くような美男ではないし、アイドル 的要素もない。 白鵬は、最初に雑誌で見たときは、地味な風貌というのが第一印象だったのだが 、よくよく見れば、いい男、 美男だと思う。ただ、多くの若い女性に騒がれるタイプの顔立ちではないかな、 とは思う。
稀勢の里は、美男とはいえないかもしれないが、結構、可愛い顔立ちだと思う。

さらにこのふたりについては、 仮に外面的な素材が平凡であったとしても、自信が、その意志の強さが、いわゆ る内面の充実が 外面をどんどん立派に、また美しくしていく。そういうタイプなのではないか、 とも思う。

 いずれにしても、現状、人気は沸騰していない。人気先行ということばがある が、このふたりについては 全く逆。実力先行。その実力に人気が全くと言っていいほど、ともなっていない 。  だが、このふたりの大成を願うのなら、それはむしろ望ましいことなのかもし れない、と思う。


3.
 さて、ほぼ白鵬、稀勢の里にしぼったこの文章だが、次代の大力士の可能性と いうことになれば 琴欧州にもふれておく必要があるかと思う。琴欧州の将来を、白鵬、稀勢の里よ り下に予想した のは、ひとつはまもなく来年2月で22歳になるという、その年齢だ。  が、琴欧州は入門した時、既に20歳の直前だったのだから、これはどうしよ うもない。 初土俵以来の昇進のスピードという点では、ふたりをさらに上回る驚異的なもの だ。

 もうひとつ、琴欧州のように極端に長身で、力士としては痩身という体形につ いて、過去に そのような体形の大力士が思い浮かばなかったということもある。もし、類例を 探せば、それこそ 上記の武蔵山、千代の山が当時としては相当な長身力士であり、痩身でもあった ので、それに 当たると思う。その両力士の事跡を考慮したとき、あるいは琴欧州も、と思った わけである。
 が、現在140kg台の琴欧州が例えば160kgくらいまで増量すれば、そ れは素晴らしく 大力士型の体形になるかと思う。また 体重が現状とほとんど変わらないままで あったとしても 歴史における前例は大いに参考にすべきではあるが、絶対的なものではないはず であり、 琴欧州が新たな前例を作るという可能性はあると思う。
 また、先の九州場所、白鵬との初顔合わせで、「呼び戻し」と医っても良いよ うな下手投げ で豪快に投げ飛ばしたのは、両力士が大力士となった場合には、将来、繰り返し 取り上げられるであろう 初顔合わせの相撲で、このような大技で勝利したということになり、そのことを 意義深いことと感じた。


 未来予想という観点で主に白鵬と稀勢の里、そして琴欧州にもふれたが、まだ 24歳で、既に 大横綱ペースの実績をあげている朝青龍という存在も、むろん、考えないわけに はいかない。
 現在、既に将来的には白鵬が朝青龍を超えるだろう、という予想のほうがむし ろ多数派のよう であるが、朝青龍が今後、5年、6年、白鵬以下の若手の追随を許さず、第一人 者として君臨し 続けるという可能性も、もちろん否定できない。

 ここに取り上げていない力士が天下を取る、あるいは天下の一翼を担う、とい う可能性だって もちろんある。  未来はどうなるかわからない。

 ここに多く記述したような、いわば、可能性の高い王道を行く未来もよいが、 紆余曲折のある 意外な未来を見てみたい、という気持ちも大きい。

 最後に、私の予想ははずれるのだ。ということを、あらためて強調しておく。  

サラリーマンなら相撲を取れ 中村淳一

2017年02月01日 | 小説
サラリーマンなら相撲を取れ


中之島販売株式会社衣料事業部営業第二部に所属する岡田は、その日もいつものように出社した。会社の自分の机の前に着席して彼が朝一番に行なう事は決まっている。机の右側手前に張り付けた紙に書き込まれた数字、そこには「9,324」とあったが、彼は一桁目の「4」を消してそこに新たに「3」と書き込んだ。
「定年まであと9,323日か」前途はまだ遼遠たるものがある。しかし、約二年前に「10,000」が「9,999」になった時の感激を彼は思い出した。以前、彼はこの作業を一日の仕事が終わった時に行なっていた。だが、朝の憂鬱を少しでも緩和しようと、去年からは朝一番で実施しているのだ。
「岡田君ちょっと」
部長の田部の彼を呼ぶ声が聞こえた。
「はい」
彼は返事をすると部長の席に着く約5メートルの間にすばやく考えを巡らせた。田部からは何件も仕事を言いつかっている。「あれだろうか。それともあのことだろうか」が、いずれにしても岡田は、そのうちどれも完了してはいなかった。明確な答弁も行えそうになかった。
田部の席の前に着いた。
「いや、仕事の話ではないんだけどね」
ほっとする。しかし、では一体何の話だろう。プライベートでそんなに親しくしてきたつもりはないが。
「今度の部内の相撲コンペだけれど、君また欠席するようだね」
「はあ」
「君はいつも欠席だけど、何故かね」
「相撲は……嫌いなんです」
「嫌いと言ったって、君も去年から管理職になったんだろう」
「はあ」
「サラリーマンにとって、相撲での付き合いがどんなに大事かということは君だってわかっているんだろう」
「はあ、それはまあ」
「君、何かほかにやっているスポーツがあるのかね」
岡田は覚悟を決めた。
「ゴルフをやっております」
「ゴルフだってぇ」
田部は素っ頓狂な声をだした。予想通りの反応だった。
「君はあんな自然を破壊する、反社会的なスポーツをやっているのかね」
「はい」
田部は一瞬、けがらわしいものを見るかのような目つきを岡田の方に向けた。
「とにかく」
田部がきっぱりと決めつけた。
「今度の相撲コンペは出席するように。これは業務命令だと思ってくれ」

その日の仕事は終わった。岡田は帰路についた。雨が降っている。岡田は傘をさして駅に向かった。彼は今朝の田部とのやりとりを思い浮かべていた。
「相撲か」
彼は自分の幼かった頃のことを思い出していた。相撲は……大好きだった。いや、この国に生まれて相撲の嫌いな少年など皆無だろう。小学生時代も、岡田は毎日相撲を取っていた。そして、彼はなかなか強かった。クラスでも一、二を争う強さだった。その彼がなぜ相撲が嫌いになったのか。全ては彼の性格がなせる業だった。岡田の性格を構成する大きな要素に「他人と同じ事をしたくない」ということがあった。長じるにつれて彼は相撲から離れていった。
大学時代、そういう彼の前に現れたのがゴルフだった。友人に初めて誘われた際、その時点では彼はゴルフには何の関心もなかった。友人が余りにも熱心に誘うので断るのに忍びなくなった。
初めてのゴルフコースに出たとき、その広さに岡田は驚嘆した。
「何と贅沢なスポーツなのだろうか」
人口が過密な現在、人々はより小さなスペースで日々の活動を行なおうとする。
「より小さく、より狭く」
それはこの時代に生きる人々の、基本的なモラルだ。所得の多い人ほどこれ以上はどうあっても狭くはできない、という家に住み、その狭い居住空間の中に生活していくためのあらゆる設備が整っていることを誇る。
「スモール イズ グレート」が総意とされる価値観であるこの世界において、遊びのためにこれほど広大な場所が用意されているというのは、空恐ろしいことだった。
世間の人達がゴルフを反社会的なものと評価しているのも当たり前だ。そう思った。しかし、世間の評価とおのれの心中に感じる爽快感、その二つを比較したとき、彼は後者を選択した。その選択をなした一つの理由に、岡田と一緒にコースをまわったメンバーの姿があった。世間に対して公然と反抗しているという印象はなかった。自分たちのやっていることの反社会性を自覚し、そのことで世間に気兼ねしつつも、やりたいことをひっそりと、つつましやかにやる。その態度はそのまま岡田の生きる姿勢でもあった。

駅に着いた。
岡田はホームで電車を待っていた。周りを見渡す。そこにはいつもの見慣れた光景がひろがっていた。サラリーマンたちがそこここで体を動かしている。
ある人は四股をふんでいる。別の人はコンクリートの地面に手をつけて立ち会いの稽古を行なっている。そしてまた別の人はホームの柱に向かって懸命に左右の手を動かしていた。
(鉄砲というそうだ)
いつもの彼なら決してそんなことはしなかった。しかし、今朝のことが彼の頭にひっかかっていた。
「俺だって」
岡田は手に持っていた傘の先をコンクリートにつけた。彼は傘をクラブにみたててパットの型を練習した。

2、30秒も続けただろうか。彼は自分の周囲に異様な雰囲気を感じた。
周りにいる人達がみんな彼の方を見ていた。今朝の田部と同じ目をしていた。岡田にはそれ以上続ける勇気はなかった。彼は目を伏せた。



部内の相撲コンペが行われる日が間近に迫ったある日の就業時間後、岡田は部の同僚たちと飲みに行った。みんなで狭い場所に体をくっつけあってワイワイやる。その日の話題は、相撲一色である。
「今度のコンペの会場は、中央区の区立体育館ですよねえ」
岡田よりも少し後輩にあたる桑住が、嬉しそうに喋っている。
「よく、あんな名門の会場がとれましたねえ.谷井さん」
岡田の記憶によれば、この話題は初めてではない.部の酒席で、これまでに何度も口にされてきた。岡田にはよく分からないことだが、中央区の区立体育館で相撲を取るというのは大変なことらしい。
「まあ、僕はええところのボンボンやからねえ。親戚に中央区立体育館の土俵会員権を持っているのがおるからね。そっちのコネを使ったわけや。でも本当だったら君達みたいな庶民がおいそれと入れるような場所やないからね。失礼のないように身だしなみには気をつけてや」
今度のコンペの幹事であり、五十年輩とはとても見えないツヤツヤの顔色をした谷井が得意そうに鼻をうごめかす。
褌を一本緊めるだけなのに、身だしなみもないだろう。岡田にはそう思えるのだが、相撲の廻しにも、フォーマル、インフォーマルと色々あるらしい。こういうことに特にうるさい谷井などは、廻しを八本も持っていると聞いた覚えがある。
岡田は廻しは一本も持っていない.今回どうしてもコンペに参加せざるをえなくなり、先日、父親に貸してくれるよう頼みに行った。
父親は
「そうか、お前もとうとう相撲を始めるのか」と嬉しそうだった。
「儂ももう随分やっていないからなあ。どこにしまったかな。探しておくよ」
そして、昨日、父親から、「廻しが見つかった」との連絡があった。
岡田の両親は、岡田の家のすぐ近くに住んでいる。時間関係で言えば、岡田が、両親の家のすぐ近くに住むことにした、ということなのだが。
今日は帰りに廻しを借りに実家に寄ることになっていた。
しかし、と岡田は思う.「親父の廻しは、中央区立体育館の土俵に立つのにふさわしいものなのだろうか」おそらくそうではあるまい。会場が中央体育館であることは父親には話していない。でも、そこまでつき合っていられるか。コンペに参加するということ自体、俺には最大限の譲歩だ。それ以上グチャグチャ言われるなら「コンペよさらば」と言って、席を蹴って退場するまでだ。

「いやあ、嬉しいなあ。中央区立体育館で相撲を取るのは、小さいころからの夢だったんですよね」
桑住の声が押こえる。まだその話か。桑住は切れ長の目をしたなかなかの好男子だが、相撲の話をしている時の彼は、まるで無邪気な小学生だ。相撲は、あらゆる人を軽薄にする。
「でも、今度のコンペでは、とうとう岡田さんがデビューですよね」
桑住よりもさらに少し後輩にあたる石尾がニコニコと話しかけてくる。その態度には、相撲に関しては部内で実力ナンバー2であるとの自信にあふれていた。
「そう言えは、岡田君」
岡田のことが話題になったのを耳聡く聞き及んだ谷井が会話に割り込んできた。
「田部部長に聞いたんやけど、あんたゴルフをやってるんやて」
「はあ」
「あんたは、いっつもむっつり黙ってて、何を考えてるかわからん奴やと思うてたけど、あんな恐ろしいもん、やってはったんかいな」
「岡田さん、もう少しサラリーマンらしくしなきゃだめですよ」
今度は岡田より一年後輩の萩本だ。額の秀でたノーブルな顔をしかめ、眼鏡のずれを指でスッと直してから忠告する。
「ちょっと考えたら、我々がやっていいことかどうかわかるでしょ」
「うるせえ、このパソコンおたく」
岡田は思う。
「パソコンにかぶれるのも、ゴルフにかぶれるのも、たいして差はないだろう」
勿論、口に出しては言えない。そんなことを言っても「全然違う」の一言で終わりだ。それに器械オンチである岡田は、パソコンの使い方が分からなくなるとすぐに萩本に尋ねなければならないので、萩本には決して逆らえない。
「でもまあ、ゴルフばっかりやっていた人が、どんだけ相撲ができるもんか、じっくり見せてもらいましょ」
谷井の言葉を最後に岡田に関する話題は打ち止めになった。
岡田以外のメンバーは、また楽しそうに相撲についての話を続ける。
「僕は思うんだけど相撲というのは、本当に奥が深いよね」
部長の田部がしみじみと話し始めた。
「土俵というのは、とても狭い空間だけど、でも時にはとても広い。なんていうかあの狭い空間に全ての世界が凝縮されているんだねえ」
「何を訳の分からないことを言ってやがる」
岡田は思う。勿論、口に出しては何も言わない。
「それに、あの姿」
田部が話し続ける.
「廻し一本で、あれ以上、身につけるものを少なくするわけにはいかないギリギリの格好でしょ。かたちだって基本は決まっている。今、世の中に沢山出ている廻しはその制限されたなかで、色々と工夫しているよねえ。廻しの幅を少し変えてみたり、少しだけラインを曲線にしてみたり。そういうのがたまらないよねえ。やっぱり芸術というのは、拘束があってこそその内容が豊富になると思う。ね、そう思わない」
「そのとおりやと思いますよ、部長」
谷井が田部の言葉を引き取った。
「だけど、廻しの色については、最近は随分、増えましたよねえ。儂が若い頃は、黒か紺がほとんどで、それ以外の色の廻しを締めていると変わり者扱いされたもんやけど。今はなんでもありやもんなあ」
「今年の流行色は黄色ですよ」
去年、田部の所属する支店に転勤してきた、まだ20代の梶村が「待ってました」とばかりに話しに割り込んできた。スマートな容姿の持ち主で、服装もいつもきまっている。
でもその実、とても能天気なお兄さんでもある。
相撲に限らず、部内ではいささか浮いた存在でもある岡田に対しても、彼は転勤早々からちょこちょこと話しかけてくるし、話し終わるとだいたいは岡田の尻をそっとなでてから去っていく。
「薔薇の人なのか」
岡田は最初は当然そのように思ったが、どうもそういう訳ではないらしく、彼の親愛の情の表現らしい。それが分かってからは、岡田も彼についてはそれなりに対処するようになった。すれ違うときには腰をかがめてお尻を相手に差し出し合うようになったし、仕事中も、視線が合って見つめ合うことがしばしばある.何故そんなことをするのかと言えは、当然、周り(特に女子社員)に受けたいからである。
さて、さっきの続き……、
「サルマーニが発表した黄色の地に花柄をちりばめるデザインが、えらく売れ出しているみたいですよ。僕はもう買いましたけどね.かっこええですよ。ね、谷井さん」
「あんたはすぐにゆうてしまうんやなあ。嬉しゅうてしゃあないねんなあ。ベストドレッサー賞かてあるねんから、そういうことは秘密にしとかんとあかんでえ」
「へへへ」
岡田は思う。
「親父の廻しは、ベストドレッサー賞の対象になるようなものであろうか」
そんなことはあるまい。少年時代、岡田の育った家庭はけっして裕福ではなかった。つつましくやりくりするなかで、きっと廻しはずっと同じものを使っていただろう。小学校の低学年の頃までは岡田も父の出場する相撲大会によく応援に行ったものだった.岡田の記憶の中で父親はいつも同じ廻しを締めていた。おそらくはその廻しをずっと使っていたのではないだろうか。
岡田にとってけっして楽しくはなかった飲み会は終わった.



帰途、両親の家に寄り、居間に入った。
父が廻しを持ってきた.案の定、ほとんど無地で紺色の古めかしい廻しだった。
「捜すのに時間がかかったわ。押し入れの奥の方に放りこんどった」
「ああ、どうもありがとう」
「でもこんな古くて汚い廻しでええんか。会社のコンペやろ。恥ずかしいやろう」
「いえいえ。これで充分ですよ」
「ふうん、で、コンペの会場はどこやねん」
「中央区立体育館」
「なんやてえ」
父の声が引っ繰り返った.最近は相手を驚かすことが多い。こちらにはそんなつもりはないのに。
「そりやまたすごいところでやるんやなあ。さすがに上場会社は違うなあ」
「そういう訳やないねん。たまたま幹事をやっている人にコネがあるんや」
谷井の得意そうな顔が頭に浮かぶ。
「それにしてもすごいやないか。でもそれやったらやっぱりあかんでえ」
「何が」
「こんな廻しで相撲取ったらあかんというこっちゃ。なあ、おまえも相撲を始めるんやったら、これを機会にちゃんとした廻しを買いいや」
「始めたわけやない。今回限りの付き合いや」
そうなんだろうか。岡田の胸に不安がよぎる。一度付き合ったが最後、もうけっして逃れることは出来なくなるのではないだろうか。
「ふうん、ほんまにおまえは相撲を取らんようになったなあ。小さいときは大好きやったのになあ。儂かて腰さえ悪うせなんだら今も現役で取っていたいんやで」
おっと、今日は親父の愚痴に付き合ってあげる心の余裕はない。
「ほなこれで。廻し借りますね」
「コンペは応援に行ってもええんか」
「あきまへん」
岡田はきっぱりと言った。本当は構わないし、みんな結構家族の応援が来るようだが、相撲を取る姿など、家族に見られたくはない。

深夜、岡田は自宅で、ゴルフの世界選手権のビデオをデッキに挿入して再生した。
もう数カ月も前に行われたその選手権は、ゴルフがテレビで放映される唯一の試合だ。
岡田は深夜に録画で放映されたその番組を当然ダビングした。岡田はこのビデオを何度繰り返して見たことだろう。もっとも、たかだか三十分に編集されたダイジェスト版だ。
相撲となれば、小学生の地域の大会でさえテレビ放映されるというのに。ビデオの画面を漫然と眺めていた岡田の胸に不意に画面の中でプレーをしているゴルファーへのいとおしさがこみあげた。
ここにゴルフというスポーツにおける世界最高の技量を有する人たちがいる。しかし、称賛のことばも喝采のことばも彼らには無縁だ。むしろ世間からは反感と蔑視の対象となっている。今年の世界選手権の優勝者は史上最年少の記録を更新した。さすがに少しは話題になるのでは、と思って、期待に胸をはずませて翌日のスポーツ新聞を購入した岡田の目に入ったのは、いつもどおりに優勝者の名前のみの一行だけの記事だった。
「がんばれ」
岡田は心の中で叫ぶ。
「ばくは応援し続けるから」

「ああ、またゴルフのビデオ見てる。好きねえ」
子供を寝かしながら自分も一緒に寝入っていた妻が起きてきた。岡田の傍らに座る。
「何かほしい」
「うん」
「何が要る」
「我にコーヒーを与えよ。しからずんば死を与えよ」
妻は「またか」といったいささかうんざりした表情を顔に浮かべたが、それでも
「死を与える」
と言いつつ、手刀を作って、岡田の首の後ろに振りおろした。
「ねえ、もういい加減にやめない。コーヒーを作るたびにやらされたんじゃ疲れる」
「日常生活の中にも色々な決まり切った型というものが必要だ」
「あなたも頑固ねえ」
「何言うてんねん。たしかに言い出したのは俺やけど、「死を与える」と応じたのはあんたのオリジナルやないか」
「へえへえ」
妻が台所に向う

「ねえねえ」
コーヒーを喫みながら妻がまた話し掛けてくる。人が熱心にビデオを見ているというのに五月蝿い奴だ。いつものことだが。
「お父さんが相撲を取るって言ったら真澄も可愛も喜んじゃって.特に真澄はやっぱり男の子ねえ。もうはしゃいじゃって。『絶対応援にいく』って張り切ってるわよ」
またか。まったく、どいつもこいつも。
「だめ。相撲を取ってる姿なんか子供に見せられるか」
「そんなあ。真澄ががっかりするわよ.別に応援したっていいじゃない.ほかのひとのところだって応援に来るんでしょう」
「だめなものはだめ」
「意地っ張り」

 4

コンペ当日の朝になった。「ついていく」と叫んでいた長男の真澄を振り切って、岡田は中央区立体育館に向った。
集合時間は午前十時、岡田は三十分前に到着した。入り口をくぐった。
中は……狭い。ロビーといえるような空間はなく、すぐに受付があった。しかし、内装は実に豪華だ。檜と杉の区別もつかない岡田だが、そこここに自然の木が使われているらしいこと、そして今日においてはそれは大変贅沢なことであるということはわかった。
受付で鍵を受け取り、岡田は「仕度部屋」と書かれたロッカールームに入った。自分としては早めに着いたつもりだったのだが、コンペのメンバーのほとんどが着替えを済ませていた。カラフルな色彩が岡田の目に飛び込む。
「やあ、岡田さん、待っていましたよ」
今日の岡田のパートナーである梶村が岡田に声をかけてきた。相撲の廻しは二人がペアにならなければ締めることが出来ないので、必ずペアが決められる。
「じゃぁ、早速、廻しをお願いします。岡田さんのを先に締めましょうか」
「いや、先に梶村君のを締めましょう」
あの古ぼけた廻しを人目にさらすのは、少しでもあとにしたい。そういう気持ちが岡田の意識のなかに働いた。
「そうですか、ではお願いします」
 梶村が嬉しそうな声を出して、相撲専用バッグ(バッグの中に廻しがスッポリと納まるスペースがある)から、廻しを取り出した。
「これが例のサルマーニの廻しかあ」
「そうなんですよ。いいでしょう」
「ううん、何というか、あざやかなものやねえ」
「へへへ。……あれ、岡田さん」
「なあに」
「廻しを締めるの上手じゃないですか」
「そう。長いことやってないけど、子供の時に覚えたことは、結構身についているもんやねえ」
「はい、締めおわりましたよ」
「どうもありがとうございます」
派手な廻しはともかくとして、廻しを締めた梶村にスーツ姿の時の格好よさは感じなかった。細すぎて貧弱な印象を受けた。
「それじゃあ、岡田さんの廻しを締めましょう。さあ廻しを出してください」
事ここにいたっては仕方がない。
岡田は背負ってきたリュックサック(相撲専用バッグなど買う訳が無い)から、父親に借りた紺色の古ぼけた廻しを出した。
「いやあ、随分と年期の入った廻しですねえ」
梶村が遠慮なく言う。
廻しを締めていた梶村の手がとまった。
「あれ、あれれ」
「どうしたの」
岡田の問いには答えず、梶村が周りにいたコンペの参加者に声をかけた。
「ねえみんな、ちょっとちょっと」
たしかにこの中央区立体育館にこんなにみすぼらしい廻しを持ってきたのは世間様に対して申し訳ないことをしたのかもしれない。でも俺だって少しでも世間に折り合おうと最大限の譲歩はしたのだ。それなのにそうやってみんなの注目をわざわざ集めて恥をかかせなくてもいいじゃないか。普投、好意をもっていた梶村だけに岡田は 
「梶村よ、お前もか」

と裏切られた思いか強かった。
「岡田さんの締めてる廻しを見て下さいよ」
梶村が岡田の廻しを指差す。みんなの目が岡田の腰に集中する。
「やっぱり来るんじゃなかった」
岡田は全身を羞恥の思いで熱くした。
「ぼろっちい廻しゃなあ。そんな廻しでこの名門の土俵にあがるんかいな」
谷井が遠慮の無い声を出した.
「ほらここ。この赤い三本のライン」
「お……おお」
「ね。この廻し、あれでしょ」
「おおそうやそうや。あれやんか。へええ」
「ねえねえどうしたの」
騒ぎを聞き付けて、今まで遠くにいた田部がやってきた.その廻しにはキティーちゃんの顔がプリントされている。
「部長。岡田さんの廻しを見て下さいよ。あの廻しですよ」
「ん、ああ、あれだ。へえ、岡田くんすごいじゃないか」
みんなの話によれば、岡田の締めている廻しは十年以上前に倒産したメーカーのもので、横に赤い三本のラインの入ったものは生産されたものも少なかったことから、もし新品同様のものであれば、マニアの間では百万円は下らない値段のつくものであり、岡田が今締めているような使い込んだものであっても、ニ、三十万円はするだろうとのことだった。
現役で相撲を取っている人の間ではよく知られている話だそうだが、岡田の父もだいぶ前に相撲をやめているから、そのことは知らなかったのだろう。
このことは勿論岡田の気を良くさせた.「恥ずかしい」という思いが「誇らしい」という気持ちに変わったのだから「父よあなたは偉かった」てなものだ。
「岡田君」
田部の声が聞こえる。
「いいよ岡田君いいよ。お腹がポコンと出ているから廻し姿がとても似合っている」

コンペ参加者全員の準備が整った。
「さ、みんな。土俵入りやで.番付順に並んでや」
谷井の呼び掛ける声がする。
これまでの成績を総合して番付は決まっている。地位の下の者から前に並ぶ。初参加である岡田は当然先頭ということになる。
「じゃぁ行司さん.先導をお願いします」
谷井が仕度部屋に行司を呼び入れた.
こういったコンペの会場になるような土俵にはそれぞれ専属の行司、呼出しがついている。プロでは完全な男の世界である相撲も、こういったアマチュアの場合は概ね呼出しは女性が行う。中央区立体育館は名門といわれるだけあって呼出しは美人ぞろいであると評判が高い。
大きな大会であれば土俵入りの時には競技用の廻しとは別に化粧廻しを締めるのだが、

このような定例的なコンペであれば化粧廻しを締めることはまずない。何といっても競技用廻しと化粧廻しの二本を持つということになれば持運びが大変になってくる。もっとも最近では「相撲宅配便」というような商売もあり、前もって申し込んでおけば運送会社が会場まで運んでくれる.今回谷井などは「名門の土俵を使うんやし、ここらでうちの部のコンペでも化粧廻しを締めての土俵入りをやりましょうよ」と事前に相当主張したようだが今回は結局見送られた。何といっても化粧廻しは高い。化粧廻しを所有するということはひとつのステータスであり、部内でも特に若手はまだ持っていない者が何人もいたのだ。

呼出しの析の音が響いた。行司の先導によってコンペ参加者は稽古場に入っていった。
入場した途端、「ウワー」という歓声がこだました.岡田はびっくりした。上がり座敷にびっしりと何十人もの老若男女がひしめきあっていた。
岡田はすぐにそれが参加者のそれぞれの応援にきた家族であることに気付いた。今朝泣き叫んでいた息子の真澄の顔が岡田の頭に浮かんだ。そして、娘の可愛、妻、両親の顔が。
「俺も応援に来させても良かったかな」

そして……相撲コンペが始まる。

(コンペ出場者紹介)

1、田部弘道(たべ ひろみち) 部長 四股名 大資料(だいしりょう)
  四七歳   六八キロ  前頭
理論派である。部下には完璧な資料の作成を要求する。「合理的な営業活動をするために資料を作成するのではない。より完全な資料を作成するために日々の営業活動があるのだ」かつてこのように語った。という説があるが、真偽のほどは不明。
仕事の上ではさらに「そのことについては僕は君にちゃんと言っていたよね。ね、ね。と部下が逃げられないようとことん追いつめるのが得意技である。
相撲は、やはり理論派である。理論の正しささえ証明できれば勝敗にはあまりこだわらない。「相撲をとることの意義。相撲に勝つための戦略と戦術」かつてコンペの前にこのようなテーマでレポートの提出を各人に求めた。という説があるが、真偽のほどはやはり不明。

2、谷井啓一(たにい けいいち) 課長 四股名 一応谷(いちおうたに)
  五一歳   五六キロ  前頭
抜群の営業成績を誇る。当然自信満々の人生を送っている.言葉面だけをみれば口うるさく聞こえるが、人はよく面倒見もいいので、部下には慕われている……らしい。
言葉どおりのただのうるさい親父という説もある。 相撲は、喋りながら取るのを特徴とする。相手の動揺を誘おうとしているようである。四股名の由来は、会議で発表するとき、「一応という単語を最大限、いくつ使って話せるか。ということをライフワークにしているところからとられた。

3、岡田元明(おかだ もとあき) 係長 四股名 世拗人(よすねびと) 
  三四歳   七七キロ  前相撲
世間の大多数の人が持つ価値観と違う価値観を持って世を渡ることに意義を求めているらしい。しかし、そのことに徹しているわけでもない。四股名も最初は「世捨人」というのが候補にあがったのだが、四股名確定委員会で「そんな格好のいいもんじゃない。単に世を拗ねて生きているだけだ」との物言いかついて、現在のものに落ち着いた。本人はクールにしているつもりだが、実は目立ちたがりであることはばれている。
どんな相撲を取るのかは謎。昔は強かったようだが二五年のブランクがある。

4、萩本賢二(はぎもと けんじ) 係長 四股名 数管理(かずかんり)
           三三歳   七六キロ  前頭
やんごとなきかたのご落胤では、と思われるほどの貴族的な容貌と、お腹の垂れ下がった下品な肉体の持ち主。仕事もプライベートもあらゆることを自分のパソコンに入力してデータ管理を行っている。飲み会の席では「僕が事業部長になったら……」という未来の話が大好きである。「社長」と言わないところが妙にリアルで、岡田は「今からコビを売っておかないといけないかなあ」などと考えている。
相撲は、当然過去のコンペの記録は全てパソコンに入力済み。しかしだからといって相撲が強いとは限らない。恵まれた頭脳、恵まれた容貌、恵まれた肉体を相撲に生かしきれていないようである。

5、桑住基治(くわずみ もとはる)    四股名 求同意(きゅうどうい)
  三二歳  六九キロ  小結
一見明るい好青年.実際もそうなのだが、仕事にはいたって厳しいらしい。常に自分の置かれている部署の立場を憂いている真面目な人。公私を問わず自分の意見を堂々と弁論して、しかるのちに「だってそう思いませんか」と相手に同意を求める。四股名はそこからきているのだが本人はこの四股名がいやでたまらず再三変更を求めている。(そんな四股名は絶対にいやです。本人がいやがってるのに無理矢理つけるのはおかしいですよ.だってそう思いませんか)却下。

6、竹村裕一(たけむら ゆういち)    四股名 桃乃色(もものいろ)
  三一歳   七六キロ  関脇
部内のファッションリーダー。部内で初めてピンクの廻しを締めた人。コンペのべストドレッサー賞は彼のためにある。しかし、まわりに気を配り、常に部内の平和を心がける人でもある。学生時代は柔道部に所属。有段者。当然相撲も強いはずなのだか、寝業得意のため、相撲では負けになってしまう。

7、猪江成彦(いのえ なるひこ)    四股名 時厳守(ときげんしゅ)
  三○歳   五四キロ   前頭
とにかく時間にうるさい。ギャンブラー。それだけ。

8、石尾逸実(いしお いつみ)     四股名 面影橋(おもかげばし)
 三〇歳   七四キロ   大関
学生時代は野球部。その時のマネージャーだった後輩と交際していたのだが、彼女は今や有名な女優さんである。彼女と一緒に橋の上から川面を見つめていたあの日。
美しい思い出である。美しい四股名である。しかし「先輩という立場を利用して無理矢理一回だけデートさせた」という説もある。
相撲は、無敵大高に勝つ可能性のある唯一の男と言われている。

9、大高紀彦(おおたか のりひこ)   四股名 高扇子(たかせんす)
 三十歳   六九キロ  横綱
強い。コンペにおいても無敵である.その自信がにじみ出てしまうのか、全身から威圧感がただよっている。常に左手に扇子を持ちゆっくりと風を送りながら仕事をする。風格である。四股名はそこからきているのだが、ハイセンスのもじりでもある。
夫人の天光子(あみこ)さんとは大恋愛の末に結ばれた.交際期間が長く、ある人に「結婚するつもりなのか」と問われた時、「僕と天光子との間には厳粛な事実がある。結婚する」と答えたという話。一方、天光子夫人も正式に婚約した際、友人たちの席に大高を連れてきて「私の選んだ人を見て下さい」と紹介した話は、それぞれ語り草となったのである。
しかし時々「イヤーン」という奇声を発する.真意は不明である。

10、関井光彦(せきい みつひこ)   四股名 不思議関(ふしぎせき)
  二九歳  六〇キロ  前頭
美青年。しかし笑うと庶民的な顔になってしまう。黙っていれば良さそうだし、実際無口なのだが、人から話し掛けられるとついつい愛想よく笑ってしまうという悲しい性の持ち主。梶村と並んで最もスマートな体型をしている。学生時代は陸上の選手で百メートルを十一秒で走った記録を持っている。現在恋愛中。相撲の成績はこれまでいまひとつであったが、今回彼女の応援を前にしては負けられないところである。

11、梶村修一郎(かじむら しゅういちろう) 四股名 天命(てんめい)
   二八歳  六二キロ  前頭
能天気なお兄さん。カメラが趣味なのだが、なぜか「天命、天命」と叫びながらポーズをつけて撮影する。

12、家田掌(いえだ はじむ)    四股名 深海艇(しんかいてい)
   二四歳  六五キロ  前頭
部内の最若手。「僕は……さんに一生ついていきます」というセリフを誰に対しても連発する。
相撲は体勢を低くしてのもぐり専門であったが、実力の向上につれ本格的な四つ相撲に変身中。

(コンペのルール)

長幼の秩序を重んじる相撲の世界において、以前は通常以下のようなルールでコンペは行われていた。
先ず、出場者を年齢順(場合によっては肩書順)に一位から最下位まで順番をつける。
出場者は総当たりでそれぞれ二番ずつ取り組む。
最初の一番は必ず上位の者が勝つ。下位の者は明らかに実力が上回っていても決して勝ってはいけない。一生懸命に演技をして誠実に負ける。この取り組みのことを「公務」(おおやけのつとめ)と称する。
二番目の取り組みは真剣勝負で行う。この取り組みは「実力が上の者が勝つ理屈に合った取り組み」ということで「合上」(あうえ)と称する。
したがってこの取り決めを「こうむアンドあうえ」という。
このやり方では、例えばコンペの参加者が十人だったりすると、順位が一位の人は、最悪でも九勝九敗である。逆に最下位の者はどんなに強くても九勝九敗であり、決して優勝はできない。
が、相撲のもつ伝統と格式からいえばそれが当然であり、目下の者は簡単に優勝などするべきではない、とされてきた。
しかし、近年、民主化の波は相撲コンペの世界にも押し寄せてきた。「こうむアンドあうえ」方式ではあまりにも前近代的であるとの主張が若い世代からわき上がった。また出場者か多人数となれば、二番ずつ取るというのでは時間がかかりすぎるという事情もあった。
そこで最近では以下のやり方が普通に行われている。
各人は年齢を百倍して、体重で割ったものを持ち点とする。
勝ち星にこの持ち点を掛けたものが各人の得点となりこの得点により成績の順位が決められる。
このやり方は相撲にとって最も影響される年齢と体重という二つのハンデが考慮されているためその合理性から現在ではこれが一番よく採用されている。
縁阿之介〈へり あのすけ)という人が考案したためその名前から「へりあ方式」と呼ばれる。
岡田の所属する、中之島販売株式会社衣料事業部営業第二部のコンペもこの「へリア方式」で行われる。
参加者の持ち点は、田部69(小数点以下は四捨五入される)、谷井91、岡田44、萩本43、桑住46、竹村41、猪江56、石尾41、大高43、関井48、梶村45、家田37、である。
土俵入りは終わった。土俵に上がる際、一人一人に家族から大きな声援が送られたが、岡田だけは、その歓声とは無縁であった。岡田の胸を再び軽い後悔の念がよぎった。元々は他人に注目されるのが好きなのだ。しかし、岡田の記憶ではこれまでの人生で真の意味で人から注目されたことはなかった。岡田には他人の賞賛に値するような特別な才能はなかった。そのことが世の中を斜に構えて見る岡田の性格の形成に大きく寄与したのである。
「そこにただいるだけで、人から注目され、歓声を浴びることができる」そういう世界が身近に存在したことに、岡田はうかつにもこれまで気がつかなかったのである。岡田の自意識は、「みんなが知っている、みんながやっている世界」で自己実現をはかるのではなく「ほとんどの人が知らない、やっている人は変わり者と思われる世界」にひたって自己の存在の特異性を確認するという方向に走っていたのである。
土俵入りのあと、各自が土俵の内外で体を動かしている中、岡田は壁の大鏡に自分の全身を映してみた。さっきの田部のセリフを確認したかったのだ。岡田も否応無く他人の廻し姿を見る機会はたくさんある。それらと比較してみても、大鏡に映るおのれの姿は美しかった。田部が指摘したおなかの出具合の品の良さ。出っ尻。短足。素人としては見事なものである。
二十五年ぶりに入る稽古場、土壌。そしてそれらが醸し出す匂い。岡田の心に反感をよぴおこすはずのそれらは、岡田に別の気持ちをもたらした。
「なつかしい」岡田はそう感じたのだ。
「もしかして俺は」岡田は思う。「これまでの人生で何か取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか」
「そんなことはない」別の岡田がそれを否定した。三十歳を超えて、自分のそれまでの人生を否定するということは難しい。
部長の挨拶。応援する家族代表の挨拶。前回の優勝者(当然大高である)の優勝旗の返還。開会のセレモニーの間、岡田の心にはそういった葛藤があった。

取り組みが開始された。
岡田の最初の相手は家田である。前頭とはいえ何と言っても部内の最若手である。ありあまる体力を一気にぶつけてくるのであろう。
「最初から、いやなのにあたったなあ」
岡田は思った。そのように考えること自体、やる気になってしまっている証拠である。
取り組みは進み、いよいよ岡田の番となった。
呼出し(確かに凄い美人だ)の声が響く。
「ヒィガーシ、シンカアーイテ。ニイシー、ヨスネービィートー」
土俵に上がった。塵浄水をきる。塩をまく。四股を踏む。二十五年ぶりにもかかわらず体がそれらの動作を覚えていた。
家田の方を見る。真剣な表情で仕切っている。動作も一つ一つが決まっているように岡田には感じた。目が怖い。
「思い切り投げ飛はされるのだろうか」
岡田の中の弱気の虫が目を覚ました。
「やっぱり、家族を連れて来なくてよかった」
最後の仕切となった。大きくひとつ深呼吸をする。
手をついた。
立ち上がった。
いきなりがっぷり右四つになった。
「そういえば子供の頃は右四つが得意だったよなあ」
そんなことを考えた。
それにしても……軽い。相手を軽く感じる。
家田はじっとしている。ためしにちょっと仕掛けてみるか。
右下手を手前に向けて稔りながら、左上手から投げてみた。
「うわー」という声を発して家田か足元に転がった.
ドッと歓声が上がった。
「ええ!」「おいおい」「強いじゃないか」
 そんな声が岡田の耳朶を快くくすぐった。
この時岡田は心の底から家族の応援を断ったことを後悔した。こんなに格好いい父親の姿を見せられる機会などほかにあるとは思えない。
「お父さん凄い」
「こら、喋っちゃだめでしょ」
今聞こえてきたのは何だ。聞いたことのある声だ。
声のした方を見る。そこには真澄と妻がいた。可愛もいる。両親も。
妻がいたずらを見つけられた子供のような表情をして岡田を見やった。
岡田はしはらくそちらを見ておもむろに頷いた。できるだけ表情を変えないようにして。
「来てたのか」
「よくぞ、よくぞここに来てくれた。ありがとう、ありかとう」
岡田は神に感謝した。
岡田の心にやる気の炎が燃えた。

岡田の快進撃が始まった。
ぶつぶつと何やら喋っている谷井を突き出し、関井を吊り上げ。桑住とは、がっぷり四つに組んでの長い相撲の末、寄り切った。
「投げるのはやめてよ」と事前に予防線を張る田部をそっと寄り切り、立ち会い一発に賭けて右に大きく変わった猪江の奇襲もよく見てつかまえたあと寄り切った。
その都度おこる家族の大歓声が嬉しい。
陰の実力者、竹村には綺麗に投げ飛ばされた。「ついに負けたか」そう思った岡田の耳に「またやっちゃった」という竹村の声がした。竹村はかつてやっていた柔道の癖で、投げる時に大きく体をしずめるのだが、その時膝がついていたのだ。
これで七連勝。あと四番である。
「俺は強いんだ.こんなに強かったんだ」
二十五年以上前のことを岡田は思い出した。確かに岡田は小学校一年、二年の時、クラスで一番相撲が強かった。岡田は相撲が大好きだった。休み時間も放課後も相撲を取り続けた。父親にも暇があれば取ってもらっていた。
テレビの相撲中継も熱心に見ていた。技もいっぱい覚えた。
子供の世界では相漢が強いこと、即ちヒーローだったのだ。
しかし、小学校三年の二学期にクラスに転校生かやって来た。岡田よりひと回り体の小さいその子は相撲が強かった。全身がバネでできていた。最初の対戦で、気楽に立ち上がった岡田は、いっぺんに土俵の外までもっていかれた。
真剣に取った二番目、岡田は目いっぱい土俵に叩きつけられた。何度も何度も岡田は挑戦した。しかし、ただの一番も勝つことができなかった。岡田はヒーローの座から転落したのだ。
二番目に強い、ということは岡田には何のなぐさめにもならなかった。相撲は、相撲だけは、岡田には一番でなければならなかったのだ。
岡田は……相撲からはなれた。もう決して積極的に取ることはしなかった。
それは岡田の心の奥深いところに封印されていた記憶だった。小学校三年生の時の気持ちが、何度挑戦しても負け続け、泣きながら家に向かって走っていった時の気持ちが、岡田の心にくっきりと甦った。
岡田の目に熱いものがあふれた。
岡田は三四歳になった。この年齢になれば本当の意味で世の中で一番になれるものなど常人には何もないということが分かる。世界は広い。とてつもなく広い。どんなに自分が得意だと思っていることでも、必ず上には上がいる。
岡田の人生はそのことを確認していく人生だった。いや、岡田だけではない.誰もがみなそのようにして大人になっていく。
それでも人は生きていく。決して一番になることのない人生を人は生きていく。
人がもし一番になることがあるとしたら、それは自分が所属している狭い世界の中でだけなのだ。
もしも人生の中でそういうことがあれば、それは、その人の人生にとっての光り輝く時なのだ。いつまでも胸にあたため、思い返しては人生の原動力とする。ひとりひとりにたったひとつしかない人生の、その人だけの宝石なのだ。
岡田はタオルを顔にあて、汗といっしょに目のまわりをふいた。岡田は、前を見た。
土俵の向こうに大高が立っていた。岡田と大高の視線が交差した。大高はニャッと笑って廻しに差していた扇子を左手で抜き取り、ゆっくりと顔に風を送った。
七番終わって、全勝は大高(高扇子)、石尾(面影橋)、岡田(世拗人)の三人。
次に岡田は大高と当たる。
現時点での勝ち星は並んでいても、持ち点が三人の中では一番多い岡田が今は例えトップであるとしても大高の強さはやはり圧倒的だった。
年間二回行われるコンペで大高は三年間六回に渡って全勝を続けているのだ。
チョイチョイと電子手帳のキーを押して、萩本が
「大高君。今度勝ったらちょうど七〇連勝だよ」
と話し掛けているのが聞こえた。
「岡田さん、すごいじゃないですか。みんなびっくりしてますよ」
梶村が岡田のところにやってきて話し掛けてきた。
「すごい」「みんなびっくりしている」
なんと心地良いことばだろう。岡田はウットリする。
「そう、たまたまだよ」
岡田は、笑いくずれそうになるのをこらえて、無理矢理眉間にシワを寄せて答えた。喜びが大きければ大きいほど、岡田は表情を変えまいとしてしまうのだ。
「またまたあ。そんな顔してえ。嬉しいくせに」
そう言った後、岡田の尻をそっとなでて、梶村は去っていった。裸の尻へのタッチはなかなかこたえる。
岡田はゾクッとした。
「勝ちたい」岡田は思った。心の底から勝ちたいと願った。応援に来てくれた家族のために。そして自分のために。一生あたため続けることのできる宝石を得るために。
呼出しが土俵に上がった。扇子を開く。
「ニィーシー、ヨスーネービィーイト。ヒィガーシー、タカセエーンスー」
行司の呼び上げが続く。
「カタァヤー、ヨスネエビトー、ヨスネエビトー.コナーター、タカセンスー、タカセンスー」
稽古場は今日最高の歓声につつまれた。この時点で既に岡田は今日最高のヒーローである。
大高は強い。とにかく強い。おそらくこの相撲も大高が圧勝するだろう。しかし、ほかのメンバーと違って岡田は初顔合わせである。「もしかして」という期待感も応援する人たちの心の中になかったわけではない。勝ちつづける大高の負ける姿を見てみたい。
それは誰もが潜在的に持っている願いであった。
岡田は大高を見る。学生時代に相撲を含め色々な格闘技を経験したというその肉体は、三〇歳となった今も、隆々と筋肉がもり上がっていた。
大高の相撲の取り口を分析してみれば、岡田に勝ち目はほとんどないと思われた。
大高は岡田と同じ右四つの相撲だ。がっぷり右四つになってしまっては力で劣る岡田にはどうしようもない。しかしこれまで七番取ってみて岡田には自分もまた右四つに組まないと力が出ないことも実感していた。二五年のブランクを経ても岡田の相撲は子供の頃と少しも変わっていなかった。
身長は数センチ大高が上回る。体重では岡田の方が重い。数字だけ見れば、肉体的条件では大きな差はない。しかし、素材が全然違う。
美しいと感じたおのれの肉体も大高の筋肉の美しさにはかなわない。
もし上回るものがあるとすれば、足の長い大高に対し胴長、短足の自分の体型は相撲を取るには有利なはずというくらいだ。
岡田の思いは千々に乱れた。結局どのような相撲を取るかということは決まらなかった。
「時間です」
行司の声がした。
岡田は呼出しからタオルを受け取り上体に流れる汗をぬぐった。
目をつぶった。
「精神を集中させねば」
心をしずめた。
「よし」心を決めて目を開き、土俵中央に向き直った。
「とにかく、大高は立合いに変わることは決してしない。思い切りぶつかろう。あとは成り行きだ」
蹲踞する。立ち上がる。足の位置を決める。腰をおろす。大きく息を吸い込んで……息を停めた。

立ち上がった。
全力で大高の胸にぶつかった。
コンクリートのような胸板だった。
はね飛ばされた。
大高の左の突きが岡田の体をのけぞらせる。右の突きがはいろうとする間際、岡田は体を開いた。左手が大高の廻しにかかった。廻しをつかむ。
大高が強引に右をねじこんできた。岡田は上手を浅く引き、大高の右をしぼって殺し、下手を引くことを許さない。
岡田は頭を大高のあごの下につけた。右がはいった。岡田はこの右下手を返して、大高に上手も許さない。
岡田は望みうる最高の形に組んだ。
大高は上手を取ろうと左手を伸ばしてくるが、岡田は腕を返し、これを許さない.胴長の体型も幸いした。
さらば、と大高は左で岡田の右を抱え込んだまま、強引に右から岡田の体を起こそうとする。すごい力だ。岡田の体が浮きあがる。が、何とか残した。岡田はさっきの体勢を死守する。
大高がもう一度、岡田の体を抱え上げた。右足を踏み込み、掬い投げを打つ。投げられようとする時、岡田の短い左足が踏み込んだ大高の右足にかかった。
岡田は思い切り引き付け、体を大高に浴びせた。とっとっとっと大高の左足が後ろに下がったかと思うと、二人の体が重ね餅になって倒れた。
岡田が上。大高が下。
「ああ、それはいけない」
大高夫人天光子さんの絶叫が、館内にこだました。

コンペは終わった。
岡田は持ち点計算を加味して、優勝者となった。
しかし、持ち点の計算をいれないグロスでは準優勝だった。
大高との大一番のあと、岡田は先ず萩本に勝った。彼の肉体のたっぷりした感触を充分楽しんでから寄り切った。
「頼む石尾。岡田さんともう一度取らせてくれ」
と大高に送り出されてきた石尾に対しても、彼のスピーディーな動きを土俵際で何とか止めて、投げの打ち合いの結果、辛勝した。
この一番により、岡田の優勝は決定した。
しかしもし、最高の勝ち星をあげた参加者が複数存在すれば、同点決勝を行い、持ち点計算を加味しないグロスの優勝者も決めるという規定が別にあった。
が、残る一事の相手は、梶村。今回のこれまでの成績は三勝七敗。
岡田の勝ちは動かないと思われた。
岡田自身も「梶村なら」と日頃感じている好意もあり、もう全勝優勝は決まったような気持ちになった。最後の取り組みを待つ間、優勝スピーチの内容を考えていた。
梶村との一戦、立ち合いでがっちりと右四つに組み止めた。これでさらに安心した。

「最後は綺麗に決めよう。土俵に思い切り投げ飛ばしてやろう」
そんなことを考えていると、梶村が右の下手から投げてきた。岡田は左足を梶村の右足に掛け、外掛けの体勢に入った。
「大高戦と同じだな。まあ外掛けでもいいか」
と思うやいなや梶村が右足を掛けられたまま、高くはねあげた。足は梶村の方がはるかに長い。岡田の左足は梶村の右足とともにはね上がった。しっかりと地を踏んでいる梶村の左足に対して、岡田の右足は地面から浮き上がった。
岡田は下手投げで敗れた。

結びの相撲で石尾を敗った大田との優勝決定戦(グロス)は岡田の完敗だった。あっという間に土俵の外に飛ばされた。
しかし、岡田に口惜しさはなかった。自分の詰めの甘さを悔やむ気持ちも不思議と起こらなかった。
岡田は満足感でいっぱいだった。
たとえグロスでの優勝は逃したとはいえ、岡田はこのコンペの正真正銘の優勝者なのだ。
コンペが終わって、参加者はそれぞれ応援に来た家族と談笑している。岡田も家族の元へ行った。

「よう頑張ったなあ。お前はもともと強かったものなあ」
父がうなづく。
妻は泣いていた。
岡田は胸がいっぱいになった。
「ありがとう奈々菜」
妻は同じ音が三つ重なる自分の名前を嫌っていた。「人前では名前で呼ばないでね」と言われていた。そのことを忘れて、つい名前を呼んでしまったのだが、妻は気がつかないようだ。岡田は何か気のきいたことを言おうと思った。
「本当にありがとう。今日勝てたのは君のおかげだ。この優勝は君の勝利だ」
「いいえ」
妻は頭を横にふってから答えた。
「これは、あなたの勝利です」
真澄が岡田に抱きついた。
「お父さん格好いい。格好が良かったよ」
真澄が尊敬の思いを全身からあふれさせて岡田を見つめていた。
思えば岡田の父も相撲は強かった。岡田は真澄に二五年以上も前の自分の姿を重ね合わせた。
父から自分へ、そして我が子へ。思いは引き継がれていく。そしてきっとその先へも。
岡田は真澄の頭をなでた。思いをこめて言った。
「息子よ。未来は美しい」

参加者が次々に岡田の元へやって来た。
谷井も、田部も、萩本も。みんなが岡田に祝福の言葉を浴びせた。
大高が来た。にっこり笑って岡田に握手を求めた。
梶村が来た。「やるだろうな」と思ったらやっぱり黙って尻をなでて去って行った。

岡田は思う。「みんなみんな何ていい人なんだ」
今の岡田にとって世界は光り輝いていた。
あらゆるものが美しかった。あらゆるものが素晴らしかった。
岡田はあらためて稽古場を、土俵を見た。
「帰ってきた。僕はやっとここに帰ってきた」
それは何と遠い道のりだっただろう。僕はいったい何をやっていたのだろう。
相撲を取れば、相撲を取りさえすれば世界は一変する。自分か相撲を取るだけでみんながこんなに喜んでくれる。自分の周りにいる人間をしあわせにする。それ以上のことはこの世界には存在しない。
簡単なことだったんだ。本当に簡単なことだったんだ。
「この国に生まれたから、みんなと同じように相撲を取る」
たったそれだけのことだったんだ。
 岡田は誓った。
 「僕はもう二度と相撲からはなれない」
 この時、岡田の脳裏をチラッと先日ゴルフのビデオを見た時に誓ったことばがかすめた。
 しかしそれは一瞬のことだった。


 私は、ある中年男の受容する人生への目覚めと、苦悩する魂の再生を描いた。のであったりするのだ。

 了

(注)作中ところどころ歴史上の有名なセリフを借用させていただいております。出典は特に明記しません。







白鵬-稀勢の里戦を観て、中村淳一

2017年01月28日 | 読者からのコメント、中村淳一他読者の投稿
白鵬-稀勢の里戦を観て、中村淳一

千秋楽の白鵬-稀勢の里戦。立ち合いからの即戦即決を求めて、一気に押し込んだ白鵬の相撲は、長い相撲になれば相手のほうが有利、つまり、自分の方が弱いと自覚している力士の取り方ではないかと感じた。
それに対して、その猛攻をしのぎ、土俵際で突き落とした稀勢の里の相撲は、実力が上の者の勝ち方であったかと思う。
その場所の流れ、勢い、調子というものがあり、その一番だけで軽々には言えないが、両者の対戦は、直近、稀勢の里の三連勝。
現時点では、両者の力関係は逆転しているのだろうか。

不祥事で突然引退となった朝青龍だが、最後の場所は優勝だった。
それ以外の戦後の大横綱の、最後の優勝から引退に到るまでの流れ。
大鵬は、昭和46年初場所、14勝1敗で優勝したあと、12勝3敗。夏場所3勝2敗となって、引退。ただし故玉の海梅吉氏が語ったことが真実であれば、その最後の優勝が本当の優勝だったのかどうかは分からない。

北の湖は、昭和57年初場所23回目の優勝をしたあと、休場が多く、出場した場所での成績の劣化も激しかったが、昭和59年夏場所、全勝で最後の優勝を飾ったあと、昭和60年初場所、両国国技館最初の場所、初日、二日目と連敗して引退。

千代の富士は、平成2年九州場所、31回目の優勝を飾ったあと、途中休場、全休を経て、翌夏場所、貴花田に負け、板井に勝ち、貴闘力に負け。で引退。

貴乃花は、平成13年夏場所、決定戦で、武蔵丸に勝ち、鬼の形相を残したあと、7場所全休。1年以上振りに出場した平成14年秋場所、優勝争いを演じるだけの星を残した。翌九州場所は、再び全休。
翌平成15年初場所、途中休場、再出場を経て、4勝3敗(含む不戦敗)1休となったところで引退。
なお、14年秋場所、大相撲となった朝青龍との二度目の対戦について、かつて何かの番組で、デーモン小暮閣下が、貴乃花が休んでいる間に朝青龍がどんどん強くなり、優勝もして、この二度目の対戦を迎えた、とコメントされたことがあったが、朝青龍の初優勝は、その翌場所、14年の九州。朝青龍は、優勝経験者として、貴乃花と対戦したことはない。

さて、平成28年夏場所、全勝で37回目の優勝を飾ったあとの白鵬の星取は、10勝、全休、11勝、11勝。
前記の大横綱たちを超える実績を残している白鵬。もしこのまま優勝なしで引退するとしたら、37回目の優勝以降の星取は、現時点で既に、この戦後最高の大横綱に相応しくない。来場所以降の白鵬が、彼に相応しい星を残していくのか、私は、大相撲の歴史とともに見守っていきたい。

大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花、朝青龍に共通するのは、最後の優勝のあと、引退するまで、優勝できなかった皆勤場所は、ゼロ、ないし一場所だけだったということです。
平成28年夏場所の優勝のあと、白鵬は、優勝できなかった皆勤場所が三場所となり、それも10勝、11勝という、大横綱としては、かなりの低調場所が重なっている、ということになります。

中村淳一、1月23日

稀勢の里。中村淳一著

2017年01月22日 | 読者からのコメント、中村淳一他読者の投稿

例えば、33代横綱武蔵山武や、41代横綱千代の山雅信のように、入門した時から、未来の横綱という評価を得る力士がいる。
が、多くは、際立ったスピードで、あるいは、際立った若さで番付を駆け上がっていくことによって、将来の天下人の候補と目されるようになる。
稀勢の里の昇進は飛び切りだ。
北の湖、貴花田に続く史上三人目の十七歳関取。優勝二十回以上の横綱の昇進ペースだったのだ。
彼がそうならなかった一番の理由は、むろん、優勝三十七回、一歳年上の白鵬の存在。だがそれだけでもない。
稀勢の里は、対琴欧洲十五勝二十七敗。対把瑠都六勝二十一敗。一から三歳年上の世代にかくも大きく負け越している力士が三人いては、天下はうかがえない。
そして、ここ一番の勝負どころで負け続けた稀勢の里。
その稀勢の里が、ついについに優勝した。さらには、横綱昇進も確実だという。
近年、三十歳を超えて横綱になった力士は、琴桜、三重の海、隆の里、旭富士。通算優勝回数は、各々、5、3、4、4。
横綱昇進後の優勝回数は、1、2、2、1。
ある範囲の中に収まっている。
もし稀勢の里もこの範囲内に収まってしまうのであれば、昇進後の優勝は二回。通算三回ということになる。
が、稀勢の里は、前記四力士とは、決定的に違うことがある。前記力士は、高齢横綱昇進者らしく、そこに到るまでの各地位の昇進年齢も比較的高い晩成型。若い頃こら、横綱になる可能性がかなり高いと評価されていたわけでもない。
が、稀勢の里は、少なくとも、十両、幕内においては、超早熟タイプの昇進。
さらには、前記力士は、横綱昇進時点で、ある程度の長い期間、第一人者と成りうる、という予想はもたれていなかった、と思う。が、稀勢の里は、現在の相撲界の状況をみれば、以降二年ないし三年程度、第一人者になる、そんな可能性もあるのかな、と感じる。
だが、そんな記録好き、相撲史好き、当たりもしないのに予想好きの一ファンの講釈などどうでもいい。
書いていて何やら恥ずかしい気もする。
稀勢の里は、期待され続け、大舞台で期待を裏切り続けてきた。相撲史上でも特筆すべき劇的な敗者だった。
敗者はついに勝者となった。17歳で関取。18歳で幕内力士となった男が、十二年の星霜を経て、30歳で横綱になるという、相撲史上でも稀な、美しきストーリーを紡いだ。
横綱稀勢の里が、これからどんなストーリーを造っていくのか。楽しみに待ちたい。

中村淳一、1月22日

1月20日金曜日、13日目観戦。中村淳一

2017年01月22日 | 読者からのコメント、中村淳一他読者の投稿
1月19日、仕事で上京。20日は休みを取り、一昨年の夏場所以来の国技館での相撲観戦を楽しんだ。
両国に泊まり、朝早くから並んで当日券で。と考えていたが、羽黒蛇氏が、この日の前売り券を入手済だったのが、仕事により、行けなくなったとのことで譲っていただいた。
お陰で並ぶ必要もなくなり、朝もゆっくりできた。序ノ口から観戦したが、13日目以降は、番数も少なくなるので、10時50分開始だった。
何と言っても宇良の襷反りが見れたのは幸運だった。
先日、本ブログに寄稿させていただいた中で、日馬富士、鶴竜、稀勢の里、豪栄道の時代が来てほしいと書いたので、今場所、この四人は、成績は悪くなるのでは、との予感はあったのだが、稀勢の里以外の3人が揃って休場というのは、予感も超えて黙ってしまうしかない。
まあ、どういう状況に成るにしろ、その状況の中で楽しませていただくという心構えは出来ている。
久しぶりの国技館。楽しかったです。
相撲が終わったあとは、仕事を終えた羽黒蛇氏、荒岩氏。さらにもう一名の方、かつての相撲同好会のメンバー四人で、若瀬川のご子息のお店、若 で会食していただいた。
会食のあとは、羽黒蛇氏のお誘いで、荒岩氏も含め三人で秋葉原に移動。
さくらシンデレラというアイドルグループのイベントに参加。
私の娘よりも若い女の子たちのミニコンサートを最前列で観賞するという、得難い体験をさせていただいた。
アニメ、相撲、アイドルは、日本が世界に誇る文化であると、改めて感じたのであった。うむうむ。
ところで、元AKB 48のなっちゃん、平嶋夏海。羽黒蛇氏は、各種イベントに精力的に参加。なっちゃん本人にも名前を認識してもらっていたくらいのファンだったのだが、もうしばらく会っていないそうである。
ちょっと寂しかった。

中村淳一、1月20日

千代翔馬、朝日龍、そして羽黒蛇氏。中村淳一、1月18日

2017年01月22日 | 読者からのコメント、中村淳一他読者の投稿

私が、力士の将来予測をする際、ポイントにしているのは、年齢である。
この年齢でここまで昇進しているのだから、過去の力士の例から言って、このあたりまで昇進するのではないか、あと、取口や、顔つきに大物感を感じるかどうかを加味することもある。
羽黒蛇氏から、千代翔馬は、大関になると思う旨のメールをいただいた際、新入幕が25歳で大関になった力士というのは記憶がない、と返信したが、すぐ、おやっと思って調べたら、霧島の新入幕が25歳だった。

朝日龍については、私も、羽黒蛇氏の書かれているように、相撲誌の座談会で、あまり高く評価されていなかったので、名前をあげなかった。

大学時代、飲み会の席で、当時、平幕で停滞していた千代の富士について、私は、もしかしたら大関になる可能性はあるかもしれないが、関脇どまりだろう、と予想した。対して、氏は、いや横綱になる、と断言された。
その氏が名前をあげた、千代翔馬と朝日龍。私も注目していきたい。

私事だが、私が高校三年の時、同じクラスに相撲好きが何人かいて、私を含め5人で、3番総当たり計12番、星取を付けて、武庫川の河原で、相撲を取ったことがあった。
その1場所だけの武庫川場所限定で、私が名乗った四股名が、朝日龍だった。

さらに私事。
羽黒蛇氏が創設された大学の相撲同好会、私は、3年の途中から入会した。相撲部の稽古が終わったあと、土俵を使わせてもらっていた。
稽古は自由参加。たまに5人程度以上集まり、その中に羽黒蛇氏もいたら、氏の音頭で、場所を開催していた。総当たりで、番数は、人数により、15番近くになるよう調整。記録は氏が管理。みんな四股名を付け、場所の成績により、番付が作られる。

中村淳一、1月18日
羽黒蛇氏は、優勝を何度も重ねた横綱。
私は、優勝は一度もできなかったが、二度、優勝決定戦に進んだことがある。その二度とも羽黒蛇氏に敗れ、結局一度も優勝できなかった。
が、二度目の決定戦進出の場所の終了後、その実績により、羽黒蛇氏より、大関にご推挙いただき、謹んでお受けした。
ゆえに、はばかりながら、今の相撲界に比定したら、羽黒蛇氏は白鵬。私は、稀勢の里ということになる。
羽黒蛇氏は、腕を前に出し、懐に飛び込ませない。前さばきで、対戦相手を翻弄する。相当に技巧的な相撲である。
私は、右四つ得意の四つ相撲で、氏より私の方が余程、本格的な取口だ、と自負しているが、勝てなかったのだから仕方がない。
この世界では、大関が横綱に物申すのは許されないこと、との自覚はある。
ごく稀に反論させていただいたこともあったが。

白鵬-荒鷲戦を観て、中村淳一

2017年01月16日 | 読者からのコメント、中村淳一他読者の投稿
荒鷲は、たたずまいの静かな力士だ。俯きかげんに淡々と仕切る。
風貌、土俵態度、取口、体格、どれをとってみても、これ見よがしなところがない。
変な表現だが、地味さという面では、今の関取衆の中でも出色な力士であると思う。
今場所前、白鵬との対戦が予想される十五人の力士を概観した時、波乱の可能性が、最も少ない力士は、荒鷲。私は、そう思っていた。初顔合わせになるが、白鵬の初顔合わせの力士に対する強さはよく知られている。
三十歳になって、入門以来、初めて取る結びの一番で、殊勲の星をあげた荒鷲。
今日以降も彼の静かなたたずまいが変わることはないであろう。
土俵人生の全てを概観してみた時、おそらくは、地味で平凡な幕内力士ということになるのであろう。
だが、荒鷲は、彼の土俵人生が語られる時、特筆されるべき代名詞となる一番を得た。
どんな力士であっても、その土俵人生の中で、最も大きな舞台となる一番があるはずだ。
荒鷲は、その土俵人生随一の大舞台で耀き、勝利した。

もう十数年以上前のことだが、何かの企画で、本場所前に相撲部屋の稽古見学プラスちゃんこ鍋を食したことがあった。
同行者は、このブログの管理人である羽黒蛇氏及び彼のご尊父とご長男(羽黒蛇氏親子三代)。
行った先は、元小結二子岳の荒磯部屋。
荒磯部屋には当時、関取はおらず、力士数も少なかったが、懸命な稽古を見せてくれた。
私には記憶は無いのだが、そのなかに、まだ入門間もない荒鷲がいた、と、後年、羽黒蛇氏が教えてくれた。

荒鷲関、おめでとうございます。見事な殊勲の星でした。
中村淳一