旧約聖書にある詩篇は心打たれるものが多く、何度も繰り返し読んだり、暗唱したりしています。
でも、以前から疑問に思っていたことがありました。詩篇には、なぜこんな言葉が聖書に書かれているの? と思うような憎しみの感情を表す言葉が多く含まれているのです。
イエス様は敵を赦しなさいとおっしゃっているのになぜ……?と思ってしまいます。
先日の礼拝で、詩篇137篇の意味を教えていただいて納得しました。詩篇137編には次のように書かれています。
1バビロンの川のほとり。
そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。
その柳の木々に
2私たちは立琴を掛けた。
3それは、私たちを捕らえ移した者たちが、
そこで私たちに歌を求め、
私たちを苦しめる者たちが、
興を求めて、
「シオンの歌をひとつ歌え」と言ったからだ。
(略)
8バビロンの娘よ、荒れ果てた者よ。
おまえの私たちへの仕打ちを、
おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。
9おまえの子どもたちを捕らえ、
岩に打ちつける人は、何と幸いなことよ。
(数字は節を表します)
BC586年に南ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、ユダヤ人はエルサレムから遠く離れた異国に連れて行かれました。この詩編はそのときのことが書かれています。
ひとりではなくて捕虜として連れて行かれた複数ユダヤ人の思いが綴られています。作者はおそらくプロの音楽家で、イスラエルでは神を賛美するために立琴を奏でていました。それなのに異邦人の宴会で歌うことを強要されました。そのときの屈辱が記されています。
8節でバビロニアたちに仕返しする人、バビロニア人の子どもを岩に打ちつけて殺す人は幸いだと、復讐心、憎しみを表す言葉が書かれています。
このような言葉が聖書に記されているのはなぜでしょう?
3つの理由を教えていただきました。
①よい、悪いは置いておいて、人間はこのような感情を持つものであるということを知らせるために書かれています。
こういう思いを持ってはいけないといっているのではありません。
②苦しみ、憎しみを自分ひとりのうちに抱え込むのではなく、同じような苦しみや憎しみを抱いている人たちと分かち合うためです。
ヤコブ5:13に「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」と書かれていますが、ユダヤ人にとって祈るというのは、詩篇を唱えることです。つまり、苦しんでいる人は詩篇を唱えなさいと言っているのです。
③赦せない思いを神に向かって叫ぶ大切さを教えてくれます。
神様は相手に復讐することを禁じています。憎しみの思いが沸き上がったら、神様に訴えなさい。その思いを爆発させてそのまま神に用いてもらいなさい。
クリスチャンになると怒りや憎しみの感情がなくなるわけではありません。憎しみの思い、人を赦せない思いを抱えてどう生きたらいいかわからなくなるときは、詩篇を読み、神様に向かってストレートに感情をぶつけたらいいのです。
わたしを含めて人間は、ひどいことをされたらその人に仕返しをしたくなり、何年も憎しみを抱き続ける者です。そのことを知っていて下さる神様。ご存じのうえで「敵を赦しなさい」と言われたのは、赦しとは、十字架の尊い犠牲のうえに成り立つものだからなのでは……と思いました。
前回、8/27の記事に「花も」のYouTubeを貼り付けています。
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でも、以前から疑問に思っていたことがありました。詩篇には、なぜこんな言葉が聖書に書かれているの? と思うような憎しみの感情を表す言葉が多く含まれているのです。
イエス様は敵を赦しなさいとおっしゃっているのになぜ……?と思ってしまいます。
先日の礼拝で、詩篇137篇の意味を教えていただいて納得しました。詩篇137編には次のように書かれています。
1バビロンの川のほとり。
そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。
その柳の木々に
2私たちは立琴を掛けた。
3それは、私たちを捕らえ移した者たちが、
そこで私たちに歌を求め、
私たちを苦しめる者たちが、
興を求めて、
「シオンの歌をひとつ歌え」と言ったからだ。
(略)
8バビロンの娘よ、荒れ果てた者よ。
おまえの私たちへの仕打ちを、
おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。
9おまえの子どもたちを捕らえ、
岩に打ちつける人は、何と幸いなことよ。
(数字は節を表します)
BC586年に南ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、ユダヤ人はエルサレムから遠く離れた異国に連れて行かれました。この詩編はそのときのことが書かれています。
ひとりではなくて捕虜として連れて行かれた複数ユダヤ人の思いが綴られています。作者はおそらくプロの音楽家で、イスラエルでは神を賛美するために立琴を奏でていました。それなのに異邦人の宴会で歌うことを強要されました。そのときの屈辱が記されています。
8節でバビロニアたちに仕返しする人、バビロニア人の子どもを岩に打ちつけて殺す人は幸いだと、復讐心、憎しみを表す言葉が書かれています。
このような言葉が聖書に記されているのはなぜでしょう?
3つの理由を教えていただきました。
①よい、悪いは置いておいて、人間はこのような感情を持つものであるということを知らせるために書かれています。
こういう思いを持ってはいけないといっているのではありません。
②苦しみ、憎しみを自分ひとりのうちに抱え込むのではなく、同じような苦しみや憎しみを抱いている人たちと分かち合うためです。
ヤコブ5:13に「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」と書かれていますが、ユダヤ人にとって祈るというのは、詩篇を唱えることです。つまり、苦しんでいる人は詩篇を唱えなさいと言っているのです。
③赦せない思いを神に向かって叫ぶ大切さを教えてくれます。
神様は相手に復讐することを禁じています。憎しみの思いが沸き上がったら、神様に訴えなさい。その思いを爆発させてそのまま神に用いてもらいなさい。
クリスチャンになると怒りや憎しみの感情がなくなるわけではありません。憎しみの思い、人を赦せない思いを抱えてどう生きたらいいかわからなくなるときは、詩篇を読み、神様に向かってストレートに感情をぶつけたらいいのです。
わたしを含めて人間は、ひどいことをされたらその人に仕返しをしたくなり、何年も憎しみを抱き続ける者です。そのことを知っていて下さる神様。ご存じのうえで「敵を赦しなさい」と言われたのは、赦しとは、十字架の尊い犠牲のうえに成り立つものだからなのでは……と思いました。
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