6月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。
意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。
6月 拝読 「一切聖教 (いっさいしょうぎょう)」 の御文 (第五帖 第九通)
【原 文】
当流の安心(あんじん)の一義というは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとえば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまえるこころなるがゆえに、南無の二字は帰命のこころなり。帰命というは、衆生の、もろもろの雑行(ぞうぎょう)をすてて、阿弥陀仏後生(ごしょう)たすけたまえと、一向にたのみまてまつるこころなるべし。このゆえに、衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめて、たすけましますこころなり。これによりて、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆえに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなわちわれら一切衆生の、平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるというも、これ、しかしながら、南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆえに、一切の聖教(しょうぎょう)というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を、信ぜしめんがためなりというこころなりと、おもうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
【現代語訳】
当流の安心についての教えというのは、ただ南無阿弥陀仏の六字の意味合いに極まります。つまりそれは、南無と帰命すれば、ただちに阿弥陀仏がおたすけくださるこころを表しているものです。ですから、南無の二字は帰命の意味であり、その帰命というのは、衆生がさまざまな雑行(ぞうぎょう)を捨てて、阿弥陀仏よ、後生(ごしょう)をおたすけくださいと一向におたのみ申し上げるこころを言うのです。そして阿弥陀仏の四字は、このたのむ衆生を漏らすことなく、阿弥陀仏がよくお知りになり、おたすけくださるこころをいいます。これによって、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏がおたすけくださる道理となるのですから、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなわちわれわれ一切衆生が必ず平等にたすかるというすがたなのだと知られるのです。それゆえ、他力の信心を得るというのも、そのまま南無阿弥陀仏の六字のほかありません。したがって、すべての聖教(しょうぎょう)というものも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信じさせようとするためのものだと思うべきです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。