願榮寺 福峯だより ブログ版

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12月の御文

2019年11月30日 | お寺のこと

   12月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。

 意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。

 

  12月 拝読  「五劫思惟(ごこうしゆい)」の御文 (第五帖 第八通)

 【原 文】

  それ、五劫思惟(ごこうしゆい)の本願というも、兆載永劫(ちょうさいえいごう)の修行というも、ただ我等一切衆生をあながちにたすけ給わんがための方便に、阿弥陀如来御身労(ごしんろう)ありて、南無阿弥陀仏という本願をたてましまして、まよいの衆生の、一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、もろもろの雑行(ぞうぎょう)をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚とらじとちかい給いて、南無阿弥陀仏となりまします。これすなわち我らがやすく極楽に往生すべきいわれなりとしるべし。されば、南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきいわれなるとしるべし。このゆえに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏の我等をたすけたまえるこころなり。このゆえに南無の二字は、衆生の、弥陀如来にむかいたてまつりて、後生たすけたまえともうすこころなるべし。かように弥陀をたのむ人を、もらさずすくいたまうこころこそ、阿弥陀仏の四字のこころにてありけりとおもうべきものなり。これによりて、いかなる十悪・五逆、五障三従(さんしょう)の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら、後生たすけたまえとたのまん人をば、たとえば十人もあれ、百人もあれ、みなことごとく、もらさずたすけたまうべし。このおもむきを、うたがいなく信ぜん輩(ともがら)は、真実の弥陀の浄土に往生すべきものなり。あなかしこ。あなかしこ。

 

 【現代語訳】

  さて、五劫(ごこう)の間ご思案なされた本願というのも、はかりしれない永きのご修行というのも、ただわれわれ一切の衆生を何としてでもたすけようと思われてのものであります。そのためのお手だてとして、阿弥陀如来はご苦労くださり、南無阿弥陀仏のいわれを誓われた第十八願をお立てになられたのです。すなわち、迷いの衆生が一念にわれをたのみとし、さまざまな雑行(ぞうぎょう)を捨て、一向一心にわれに帰依するならば、そのような衆生をたすけよう、もしたすけないということがあれば、わたしも覚りを得まいとお誓いになられて、南無阿弥陀仏となられたのです。これがとりもなおさず、わたくしたちがたやすく極楽に往生することのできるいわれであると知らなければなりません。したがって、南無阿弥陀仏の六字の意味合いは、すべての衆生が報土に往生することを表された、そのすがたなのです。つまり、南無と帰命すれば、ただちに阿弥陀仏がわれわれをおたすけくださる意味合いを表しているのです。ですから、まず南無の二字は、衆生が弥陀如来にこころを向け、後生(ごしょう)をおたすけくださいと申すこころを言うのです。そして、このように弥陀をおたのみする人を漏らすことなくお救いになられるこころこそ、阿弥陀仏の四字のこころなのだと思うべきです。こういうわけで、どのような十悪・五逆、五障・三従(さんしょう)の女人であっても、さまざまな雑行を捨て、ただひたすら後生をおたすけくださいとたのむならば、たとえば十人であれ、百人であれ、みなことごとく、漏らさずおたすけくださるに違いないのです。この趣を疑うことなく信じる人こそ、真実の弥陀の浄土に往生することができるのです。あなかしこ、あなかしこ(=敬って申し上げます)。


同朋の集い 大圓寺報恩講に参詣

2019年11月19日 | お寺のこと


 毎月、第4土曜日に当院にて開催しています「同朋の集い」ですが、今月はご門徒様と一緒に、赤穂市西有年にあります大圓寺様の報恩講にお参りさせていただきました。

 普段はあまりよそのお寺にお参りすることがないので、ご講師様(愛媛県・善照寺住職 真城義麿 師)のお話しをはじめ、厳かなお勤めやお荘厳など、大変お勉強になりました。
 ちなみに住職は法要の導師として出仕させていただきました。【坊守】