願栄寺広報紙 「福峯だより」 9月号の発行準備を進めています。
ご門徒皆さまのお手元にお届けするまで、しばらくお待ちください。
9月 拝読 「阿弥陀如来本願」 の御文 (第五帖 第十五通)
【原 文】
夫(それ)、弥陀如来の本願ともうすは、なにたる機の衆生をたすけ給(わまう)ぞ。又いかように弥陀をたのみ、いかように心をもちてたすかるべきやらん。まず機をいえば、十悪・五逆の罪人なりとも、五障(ごしょう)・三従(さんしょう)の女人なりとも、さらにその罪業(ざいごう)の深重(じんじゅう)に、こころをばかくべからず。ただ他力の大信心一(ひとつ)にて、真実の極楽往生をとぐべきものなり。されば、その信心というは、いかのようにこころをもちて、弥陀をばなにとようにたのむべきやらん。それ、信心をとるというは、ようもなく、ただもろもろの雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)自力なんどいうわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころのうたがいなきを、真実信心とはもうすなり。かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめて、この機を、光明をはなちてひかりの中におさめおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり。これを、念仏衆生を摂取したまうということなり。このうえには、たとい一期(いちご)のあいだもうす念仏なりとも、仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の念仏とこころうべきなり。これを、当流の信心をよくこころえたる念仏行者というべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
【現代語訳】
さて、弥陀如来の本願というのは、どのような衆生をおたすけくださるのでしょうか。また、どのように弥陀をたのみとし、どのようにこころがけておたすけにあずかるのでしょうか。まず衆生についていえば、十悪・五逆の罪人であっても、五障(ごしょう)・三従(さんしょう)の女人であっても、決してその罪業(ざいごう)の深く重いことにこころをかけてはなりません。ただ他力の大信心一つばかりで、真実の極楽への往生を遂げることができるものなのです。つまり、その信心をとるというのは、何のはからいもなく、ただ様々な雑行(そうぎょう)や雑修(ざっしゅ)、自力などをたのみとする悪いこころを振り捨てて、一心に深く弥陀に帰依するこころに疑いのないものを真実の信心と言うのです。このように一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくお知りになり、この衆生を放たれた光明の中におさめおかれ、必ず極楽へと往生させてくださるのです。これが、念仏の衆生を摂取されるということなのです。このうえには、たとえ一生の間に申す念仏であっても、それは仏恩に報謝するための念仏であると心得なければなりません。これを当流の信心をよく心得た念仏行者と言うのです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。
8月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。
意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。
8月 拝読 「末代悪人 (まつだいあくにん)」 の御文 (第五帖 第十九通)
【原 文】
それ、末代(まつだい)の悪人たらん輩(ともがら)は、みなみな心を一(ひとつ)にして、阿弥陀仏をふかくたのみたてまつるべし。そのほかには、いずれの法を信ずというとも、後生のたすかるという事ゆめゆめあるべからず。しかれば阿弥陀如来をばなにとようにたのみ、後生をばねがうべきぞというに、なにのわずらいもなく、ただ一心に阿弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまえとふかくたのみ申さん人をば、かならず御(おん)たすけあるべき事、さらさらうたがいあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。
【現代語訳】
さて、末の世に生きる悪人は、みなこころを一つにして、阿弥陀仏を深くおたのみ申し上げるべきです。そのほかにはどのような教えを信じたとしても、後生がたすかるということは決してありません。それでは、阿弥陀仏をどのようにおたのみして、後生を願うべきであるかといえば、何の心配もなく、ただ一心に阿弥陀如来をしっかりとたのみ、後生をおたすけくださいと深くおたのみ申し上げるのがよいでしょう。そのような人を必ずおたすけくださることは断じて疑いありません。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。
7月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。
意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。
7月 拝読 「当流聖人 (とうりゅうしょうにん)」 の御文 (第五帖 第十八通)
【原 文】
当流(とうりゅう)聖人のすすめまします安心(あんじん)というは、なにのようもなく、まず我身(わがみ)のあさましきつみのふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)のこころをさしおきて、一心に、阿弥陀如来後生(ごしょう)たすけたまえと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとえば十人は十人、百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまうべし。これさらにうたがうべからざるものなり。かようによくこころえたる人を、信心の行者というなり。さてこのうえには、なお我身の後生のたすからんことのうれしさを、おもいいださんときは、ねてもさめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
【現代語訳】
当流親鸞聖人がお勧めになる安心(あんじん)というのは、何のはからいもなく、ともかくも我が身の浅ましく罪深いことに煩(わずら)わされずに、さまざまな雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)をたのみとするこころを打ち捨てて、一心に阿弥陀如来よ、後生をおたすけくださいと一念に深くおたのみ申し上げるならば、そのような者を、たとえば十人であれば十人ながら、百人であれば百人ながら、みな漏らすことなくおたすけくださるに違いないというものです。このことを決して疑ってはなりません。このようによく心得た人を信心の行者というのです。さてこのうえには、さらに我が身の後生がたすかることのうれしさを思い出すにつけても、寝てもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えるべきです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。
6月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。
意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。
6月 拝読 「一切聖教 (いっさいしょうぎょう)」 の御文 (第五帖 第九通)
【原 文】
当流の安心(あんじん)の一義というは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとえば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまえるこころなるがゆえに、南無の二字は帰命のこころなり。帰命というは、衆生の、もろもろの雑行(ぞうぎょう)をすてて、阿弥陀仏後生(ごしょう)たすけたまえと、一向にたのみまてまつるこころなるべし。このゆえに、衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめて、たすけましますこころなり。これによりて、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆえに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなわちわれら一切衆生の、平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるというも、これ、しかしながら、南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆえに、一切の聖教(しょうぎょう)というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を、信ぜしめんがためなりというこころなりと、おもうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
【現代語訳】
当流の安心についての教えというのは、ただ南無阿弥陀仏の六字の意味合いに極まります。つまりそれは、南無と帰命すれば、ただちに阿弥陀仏がおたすけくださるこころを表しているものです。ですから、南無の二字は帰命の意味であり、その帰命というのは、衆生がさまざまな雑行(ぞうぎょう)を捨てて、阿弥陀仏よ、後生(ごしょう)をおたすけくださいと一向におたのみ申し上げるこころを言うのです。そして阿弥陀仏の四字は、このたのむ衆生を漏らすことなく、阿弥陀仏がよくお知りになり、おたすけくださるこころをいいます。これによって、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏がおたすけくださる道理となるのですから、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなわちわれわれ一切衆生が必ず平等にたすかるというすがたなのだと知られるのです。それゆえ、他力の信心を得るというのも、そのまま南無阿弥陀仏の六字のほかありません。したがって、すべての聖教(しょうぎょう)というものも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信じさせようとするためのものだと思うべきです。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。
5月の月忌参りの際に拝読させていただく御文は次のとおりです。
意味をある程度思い浮かべながらお聴きいただくと、趣きもより深く味わえると思います。
5月 拝読 「信心獲得 (しんじんぎゃくとく)」 の御文 (第五帖 第五通)
【原 文】
信心獲得(ぎゃくとく)すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆえに、南無と帰命する一念の処(ところ)に、発願回向(ほつがんえこう)のこころあるべし。これすなわち弥陀如来の、凡夫(ぼんぶ)に回向しましますこころなり。これを『大経』には「令諸衆生功徳成就(りょうしょしゅじょうくどくじょうじゅ)」ととけり。されば無始巳来(むしいらい)つくりとつくる悪業(あくごう)煩悩を、のこるところもなく、願力不思議をもって消滅するいわれあるがゆえに、正定聚不退(しょうじょうじゅふたい)のくらいに住(じゅ)すとなり。これによりて、煩悩を断ぜずして涅槃をうといえるは、このこころなり。此義(このぎ)は当流一途(いちず)の所談(しょだん)なるものなり。他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざる所なり。能々(よくよく)こころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
【現代語訳】
信心を得るというのは、弥陀の第十八願を心得ることをいいます。そして、この願を心得るというのは、南無阿弥陀仏の意味合いを心得ることをいいます。つまり、南無と帰命(きみょう)する一念のところに、発願回向(ほつがんえこう)のこころがあるのです。すなわちこれは、弥陀如来が凡夫に功徳を回向してくださるこころです。これを『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』には「令諸衆生功徳成就(りょうしょしゅじょうくどくじょうじゅ = 諸々の衆生に功徳を満足させる)」と説いています。そこで、はるか遠い昔よりつくってきたすべての悪業(あくごう)や煩悩を残すことなく、不思議なる願力のおはたらきによって消してくださる道理があることとなって、正定聚不退(しょうじょうじゅふたい)の位(くらい)につくことができるのです。したがって、自らの力で煩悩を断じることなく涅槃(ねはん)を得るというのは、この意味合いをいうものなのです。この教えはただ当流において談ずるものです。他流の人に対して、これについてあれこれ論ずるべきではありません。よく心得てください。あなかしこ、あなかしこ(= 敬って申し上げます)。