クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

木曾義高群馬の伝説  R- 4- 5-2

2022-05-02 06:19:42 | 伝説・史跡探訪
今年の大河ドラマは三谷幸喜氏の脚本で
例によって奇抜な発想の展開が期待され
つつ進行している。
表題が「鎌倉殿の13人」で分かる様に頼朝死後の
幕府体制が主題らしいから源平合戦などの詳細を
展開することなく先を急いで話を進めている感じ。
鎌倉生まれの鎌倉育ちの爺イは2006年頃、懐かしい
故郷の幾つかの伝説を「クタビレ爺イの面白日本史」
なるサイトの2006年のブログに書いたが今回この
大河ドラマで思い出したので再録することとした。
一つ目は熊谷次郎と愛馬に関する伝説だが
三谷脚本では一の谷の決戦などほんの少し語られた
だけで能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、文楽/歌舞伎
『一谷嫩軍記』で知られたエピソードは無かったし
当然ながら熊谷次郎と権田栗毛の匂いもしなかった。
そうこう考えている内に5/1に木曽義仲遺児の義高の
運命が可成り詳しく語れたがその殺戮と政子の
怒りの成敗が定石どおりに進んだのでもう一つの
伝説「群馬に伝わる義高伝説」を先に再録する。
(2006-7-8の記事より)

「群馬郡誌」の口碑伝説の中に一寸苦しい伝説発見。
中室田「冠者塚」がそれ。
先ず、その問題の記録から引用すると「室田町大字
中室田岩城に冠者塚と称して墳塋矍立相並び老樹あり。
その下に石祠あり、荒霊神と崇めその地の
大先祖と伝う。冠者は清水義高と称し木曾義仲の
嫡子にて、頼朝公の女婿となり鎌倉にありしがその殺され
んとするや妻の告ぐる所により木曾に落ちん
とし追捕を避けこの地に入り土民の家に匿る。
時の庄官これを憐れみ庇護す。
遂にその女と馴れ三男一女をあぐ。子孫清水を氏とし
今日に至る」というもの。
つまり、頼朝に人質として差し出されていた木曾義仲嫡男・
義高は逃亡の途中、入間川で殺害されたと「吾妻鏡」に
記載され、それが史実と認定されているのに、実は逃げ延びて
室田に定住し、その地の清水姓の大先祖になったという
のであり、埼玉と張り合う積りは無いが群馬県人としては
何とも心温まる伝承。その塚もあるらしい。確かに旧榛名町
には清水姓が異常に多く500軒を越え、現地付近の8割は
清水姓とか。従来鎌倉幕府の公式の日記的記録とされてきた
「吾妻鏡」も最近では幕府内部の有力者がご家人の記録・公家、
寺社の文書を参考にして鎌倉末期に編纂した所謂勝者の
記録ものとされるし、それを基にした入間川周辺の史跡も
伝説の一つに過ぎないといえるかも。
兎に角、その現物を見に行くことにした。其れに付いては
榛名町史編纂室のS氏から情報を入手。「上州の史話と伝説(4)」
にも10ページに亘り記載
されている。
(1)常識的な歴史の流れ
1156年(保元元年)、保元の乱の直前、比企郡の義朝は
土地争いの末、息子・義平をして弟・義賢を討たせる。
義賢の本拠・多胡村塩にいた義賢嫡男・駒王丸二歳(後の義仲)
は斎藤実盛に背負われ、畠山重能の温情に守られて信州に落ち
延び乳母の夫・中原兼遠にあづけられる。兼遠長男は後の
馬場念流の祖「樋口次郎兼光」、次男は今井四郎兼光、
末子は後の巴御前。
1173年、駒王長じて巴との間に一子をもうけ、それが
「木曾義高」だと言われるが、実際は巴はただの「愛妾」で
義高の生母は兼遠の兄・兼保の娘の「山吹姫」らしい。
1183年、志田義広・源行家の策動で頼朝・義仲が対立、
一時の和睦の証に義高は11歳で鎌倉に人質に出されるが
頼朝長女・大姫7歳と婚約。1184年、義仲が粟津で
敗死すると頼朝は逃亡した人質義高を追って
入間川で殺害。とは吾妻鏡の話。室田の伝説はここから
逃げ延びて中室田に定住、この近辺の清水姓の祖となった
というもの。
(2) 冠者塚
冠者とは元服したが無官の者、つまり、俗に言う若武者の
総称。高崎から29号線で室田へ。室田四つ角の少し手前を
榛名町警察の方の町道に入る。
暫く行って「しみず園芸」先を右折、丁字路を再び右折、
道なりに右目に行くと小高いところに清水一族の大本家
T.S氏の家、生憎留守だったので
庭を横切って裏の岡の梅林へ。その奥にそれらしき石宮発見。
道祖神でも
無し、普通の墓石でもないので先ず間違いは無い。無銘なのは
悲惨な歴史を背負って名乗れなかったからと解釈できる。
石宮以外のニ体に付いてはいずれ榛名町に問い合わせる。

(3) 狭山市・清水八幡
16号線の新富士見橋と本富士見橋の中間の北側に小さな社殿
がある。義高を可愛がり義高逃亡に手を貸したうえ、義高を
殺害した武士を怒りに任せて斬首させたという北條政子が
義高供養のため建立したと伝えられる。

(4) 嵐山鎌形・班渓寺
木曾義仲の正妻、義高の生母とされる「山吹姫」が義仲・
義高の供養の為に建立とつたえられ、門前には「義仲公誕生の地」
という大きな石碑と中には山吹姫の墓がある。寺には
「威徳院殿班渓妙虎大姉」なる位牌もあるという。


(5) 狭山市・影隠地蔵
新富士見橋の近く、奥州道との交叉地点。駒王丸の木曾への
逃亡途中、ここに一時潜んで難を逃れたとか。余り古くないので
後世、地元民が建立したものらしい。

どうも狭山・嵐山は祖父・義賢本拠地と言う事で伝説も多く派手。
一方の室田は隠れ住んだ事なのでひっそり。しかし、近所の多くの
清水姓の方々ははっきり「義高の子孫」と言って胸を張っている。

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