クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

白井宿八重桜祭り武者行列 R- 5- 4-23

2023-04-24 08:24:58 | 伝説・史跡探訪
今日は白井宿八重桜祭りの武者行列見物だが
kamehanaさんの記事によると4/18の時点で
既に「見頃過ぎの葉桜」とあったから八重桜には
全く期待は出来ない。
高渋バイパスで渋川市内を北に突き抜け「吹屋」で
右折して台地を下れば「こもち道の駅」の駐車場。
混雑を避けて早めに来たが到着は未だ九時前で
施設は開いては居ないのにほぼ満車で誘導員さんの
指示で漸く隅に潜り込み。

予期した通り道の駅付近の八重桜は殆ど花は無く
緑の樹葉たっぷりの景観。行列迄一時間半もあるので
桜見物の代わりに史跡などを一回り。


ここ白井は宿場町でもないのに、白井宿と呼ばれている。
1624年の廃城後は城下町から市場町になったのだが
町並の形態は宿場町そのものであったのが「宿」と
呼ばれる所以かも。

武者行列では「白井城主長尾景仲」役のみが馬上に
ありその軍団と幟が目立つのだが



南北朝時代に長尾景忠が
白井の地に入り白井・総社長尾家を開いており、
関東無双の知恵者と称された景仲(1388-1463)の代に
享徳の乱などの戦乱のため、白井城が築城された事が
その根拠と聞く。



景仲の没後、北条氏・上杉氏・武田氏による攻防が繰り
返される中、白井長尾氏は景信、景春、景英、景誠、憲景、
輝景、景広と代替わりするが、1590年の秀吉の小田原攻めが
始まると、前田利家・上杉景勝の両軍を前に開城を余儀なく
された。そして徳川家康の関東入府後、本多広孝が封ぜられ、
沼田城の真田昌幸を押さえる前線基地の役目を果たしたそうだ。
そこで中興の祖としてこの広孝の幟も武者行列の重要メンバー。



次いで広孝の子康重が城主となるが、岡崎に移封となり、
康重の第二子紀貞が入城するも、1624年に死去、嗣子がなく
取りつぶされ廃城。山内上杉氏の配下で家老職を勤めた長尾
一族のうち、白井を本拠とした白井長尾氏も消えた。

本丸跡


本多一族の墓所は白井の源空寺にある。



一回りしている間に定刻になったので出発地点に戻る。
しかし、小幡の大群集を見た目では観衆も少なく参加武者も
少々寂しい人数。客寄せタレントが居ないせいかもしれない。

その行列の様子。
白井宿武者行列


白井宿武者行列2



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