「たが」について考える-2・・・・「たが」としての「貫」「差鴨居」

2008-01-27 19:07:04 | 建物づくり一般
[表記変更:1月28日、1.12][文言追加:1月29日、9.55]

先回に続き、「たが」について考える。

12世紀末ごろから使われるようになる「貫」工法も、見方を変えれば、柱群に、水平の「たが」を何段もはめて締める工法と見なすことができるのではないか。
しかも、この場合は、「長押」と大きく違って、外周だけではなく、内部の柱群にも「たが」をはめることができる。一つの直方体が、面を共有した「たが」をはめられた小長方形の集合体となる(小直方体に分節される)。
さらに、「長押」に比べて材料の断面は小さくてすむ。それでいて柱に楔で締められるから、柱群をより強固に締め付けることができる。

こうして、はめられる箇所すべてに「たが」がはめられた直方体は、それ自体で自立できる立体になり、当然、変形とはほとんど無縁になる。東大寺・南大門のような、壁もほとんどなく、平面に比べてとてつもない高さの建物が、礎石に置かれただけで自立できている。

別の言い方をすれば、柱・横架材で構成され、「貫」という「たが」が何層にもかけられた各面開放の直方体は(もっとも底辺は柱が突き出している恰好だが)、形を維持したまま、クレーンで持ち上げることができるだろう。
実際、最近の地震でも、寺の四脚門などが、形を維持したまま転倒したり、あるいは位置を移動したりしている例が見られる。

戦国時代の頃から、「土台」の上に柱を立てる方法が発案される。
それに「たが」:「貫」が嵌められると、足元も含めて稜線すべてが木材でつくられ、いわば各面が「貫」を含め骨だけでつくられたサイコロ様になる(もちろん、直方体の内部にも骨がまわる)。だから、仮に転がしても、形を維持し続けるだろうし、また、クレーンで持ち上げることがますます可能になる。

   註 もちろん「貫」が使えるようになるには、柱を貫く孔を
      開ける道具がなければならないから、その時代までには、
      道具にも進展があったのである。

日ごろ工作に従事している工人たちにとって、「貫」工法のすぐれた効能を理解することは、何の苦もないことだったにちがいない。
実際、「大仏様」(架構だけで空間を作り上げる方法)は、重源の時代だけ行われ、広く使われることはなかったが、そこで用いられた「貫」だけは、広く、しかも早く、広まっていった。
もちろんそれは、現代のように、《専門家》や、ときの政府がその技法・工法を推奨したわけではない。その技法のすぐれた点が、広く工人の間で理解され、評価されたからなのだ(これが技術の進展の本来の姿である)。

しかし、柱相互をやみくもにすべて「貫」を通すのでは、単なる「構築物」。「建物」の場合は、どこもかしこも「貫」を通す:「たが」をはめるわけにはゆかない。開口が必要だからである。「住まい」の「建物」は特にそうだ。
「貫」を通せない、言い換えれば「たが」をはめられない箇所と、「たが」が十分にかけられる箇所とができてしまうのが「建物」。

一般に、日本の建物では、通常、出入口の高さを一定にし(「内法寸法」)、小さな開口は、その位置からどれだけ下げるかで下枠の寸法を決めていることを、以前紹介した。

   註 「建物づくりと寸法-2」(07年2月26日)参照。
      内法寸法の測り方は、昔と今では、若干異なる。

「貫」が一般に使われるようになると、社寺建築などでは、開口部の上枠、つまり「鴨居」の外側に、構造部材として使われなくなった「長押」様の「付長押」と呼ぶ材を添えるのが普通になった。

   註 柱の外側を水平にまわる「付長押」は、空間を横長に見せる
      効果があり、それが好まれたようで、和様」「和式」として
      その手法は、現在でも使われている。
      この点については、内法寸法の話に続いて、2月27日に
      F・Lライトが多用した trim に関連して触れている。

平安時代の頃から、社寺や公家系の建物で、軒を深く出すために「桔木(はねぎ)」を用いる手法が使われるようになるが、このような形式を採った建物では、開口の上部:鴨居から小屋組を支える桁までの部分(「小壁」)の丈が高く(内法が1間だと、「小壁」も1間はあった)、そこに、鴨居レベルの「内法貫」のほかに数段の「貫」をまわすことが可能だった。
また、足元まわりでは、礎石上に立つ柱の床レベルに、「足固め貫」または「足固め」をまわすのが普通であった。

  註 「貫」の厚さは、柱径の3/10~2/10程度が普通。 
     たとえば、4寸3分角の柱の場合、
     「貫」の断面は〔3~4寸〕×〔1寸~1寸3分〕程度。
     現在の市場流通品のヌキは「貫」用の材ではない。[表記変更]

その結果、架構の直方体は、開口部を除いて、上下に何段もの「たが」:「貫」がまわされ、締められていたことになる(この方式は、「書院造」に典型的に示されている)。
さらに、この直方体の上に載せられる桔木を使った小屋組は、一層直方体の変形を防ぐのに効果的であった(いわば、樽、桶の蓋の役割)。

このような架構形態のゆえに、建物の開口部を自由、任意の大きさにすることが、「長押」の時代よりも、より一層保証されるようになったのである。

と言うよりも、「開口部を自由、任意につくるべく、この方式が考案された」と言った方が適切だろう。
「建物」は、単なる「構築物」ではないからである。

   註 このあたりのことについては、07年2月24~26日の
      「建物づくりと寸法」で紹介した龍吟庵方丈、光浄院客殿、
      あるいは「日本の建築技術の展開」で紹介した大仙院方丈
      などの全面開放のつくりを見ていただければ、お分かり
      いただけるのではないかと思う。
      これらの建物は、内法下にはほとんど「壁」がないのである。
      しかし、地震などで大きな被害を蒙ったという事実はない。
     
このように見てみると、「貫」もまた、「たが」の理屈で考えることができそうに思える。
すなわち、林立する柱群を「貫」という「たが」をはめ、締めつける技法は、とりたてて「壁」を設けなくても架構が自立でき、しかも地震などの外力によっても大きな影響を受けないことを、工人たちは、経験で分っていたのである。

考えるまでもなく、もしも自立もできず、地震で容易に影響を受けることが分っていたならば、この方式を長きにわたって使うはずもない。
逆に言えば、長い間、しかも広く、この工法が使われてきた、ということは、それだけ信頼度の高い工法であった、という証にほかならないのである。

   註 当今の《構造専門家・学者》は、この歴史的事実を
      残念なことに、まったく認めないのである。
      と言うより、その事実を知らないか、知っていても
      そこから学ぶ術を持っていないのである。
      その言い訳の最たるものは、「(この技法・工法は)
      現代科学と無縁に発展してきたものであるだけに、
      その耐震性の評価と補強方法はいまだ試行錯誤の状態
      で(ある)」(坂本功)というもの。[文言追加]
                        
     

一方、庶民の建物では、社寺等とはちがい、背丈が低いから、内法上の「小壁」の丈を高くとることはできなかった。つまり、開口上部に何段もの「貫」を通すことはできなかった。
しかし、開口は十分にとりたい。
これはまったくの私見だが、そこで生まれたのが「差鴨居」「差物」の技法だったのではなかろうか。「差鴨居」「差物」に、数段の「貫」の役割を代替させたのである。
これは、「差鴨居」の技法が、商家や農家には見られても、社寺等には一般に見られないことからの推測である。

庶民の建物以外で「差鴨居」「差物」が使われているのは、城郭建築だけではないだろうか。城郭建造には、その地域の工人が参画している。地域の工人すなわち庶民の建物をつくる工人にほかならない。多分、庶民の工人の知恵が城郭建築に注がれたのであろう。

また、武家の住まいにも、「差鴨居」は本格的に使われた例は少ないようだ。
武士たちは、接客を重視することから「書院造」様の空間構成:間取りを好んだ。しかし、大名屋敷の建屋などの大建築を除き、中流以下の武家の住まい:建屋は、架構の点では「書院造」とは違い、内法上の「小壁」の丈がなく、したがって「貫」:「たが」の効果を得にくかった。けれどもそこで、農家や商家の技法はほとんど使われなかったようだ。つまり、書院造の「形式」にこだわったように思える。

以前にも触れたが、明治、大正の震災で被害が多かった家屋には、新興の都市住民の住まいが多かった。それらはほとんど、武家の住まいの系譜のつくりであった。なぜなら、新興の都市住民は、圧倒的に、廃業した武士が多かったからである。しかも、その大半は、地盤の悪い土地に建てられていた。

つまり、「地盤の悪い土地」に建つ「構造的に弱い架構」のつくり、これがあいまって、倒壊家屋を増やしたように考えられる。
震災を蒙ったのは、すべての木造家屋ではなく、被害の少ない、あるいは受けなかった木造家屋もあったのである。

そして、現在のいわゆる「《在来》工法」とは、「新興の建築学者」たちの、「悪い地盤に建つ、華奢(きゃしゃ)なつくりの都市住民の住居」の「救済」から始まった、と考えてよい。新興の学者たちは、華奢なつくりの建屋は、木造建築のごく一部に過ぎないことを知らなかったのである。
なぜ知らなかったか。
日本の文物は捨て去るべきもの、と信じていたからだ。今でも、その風潮が残っていないか?だからこそ、木造工法を、《在来》と《伝統》に分けて平然としていられるのだ。


以上、柱群に「たが」をはめる、という考え方で、いわば強引に、日本の木造建築技術をながめてみた。
それを通じてあらためて感じたことは、建築とは「建物をつくること」であって、「単なる構築物」をつくることではない、という事実。
残念ながら、いま盛んな「耐震補強」は、どうみても「単なる構築物の耐震補強」になっているような気がしてならない。
「人が暮す空間」としての視点が忘れられていないだろうか。

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