この国を・・・・14:遠くに見え隠れして見えるものは

2012-02-04 17:52:37 | この国を・・・
[文言追加 5日 7.42]

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これは、先に紹介した養蚕農家の近くに在る棟持柱方式の養蚕農家。その妻面です。
ちょっとボケています。
棟持柱には、梁と貫(と言ってもかなりの大寸)が挿してあります。
屋根勾配は6寸近くあるのではないか、と思います。
笛吹川沿いの街道では、こういう建物が軒を連ねていたのです。

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社会福祉施設(心身障碍者支援施設)の増築設計、最終段階。規模の大きな仕事(と言っても僅か500㎡の増築)は、最近の法令改変以後、ご無沙汰でした。
確認申請の諸手続きが、大きく変っていて戸惑っています。浦島太郎になった気分です。

今様浦島太郎は、この世が大きく変り、人びとに画一的な思考を求める傾向が顕著になり、さらにその傾向を「歓迎」する人びとが増えていることを知り、仰天しています。いつからこうなってしまったのか?

あれはダメ、これもダメ、カクカクシカジカにせよ・・・。そのカクカクシカジカの「領域」がきわめて限定的で「狭く」なった。おまけに、要らない(と思える)装備を付けることも義務付けられる。世の中には、「絶対的標準」なるものがあると《考え》ている、としか思えない。

なぜここまで、こと細かに「親切に」設定するのか。
それは単純な理由。
だいたい、法令や告示、指針・基準といった類が、「すべての場面・局面」に対応できる、などということはあり得ません。
場面・局面は、端的に言えば、人の暮らしごとに、建物ごとに異なる。
設計者は、「その特有の場面・局面にどう対応するのがよいか」を考える。それが設計という行為の基本である、と私は考えています。
だから、いかなる「個々に異なる場面・局面」にも対応できる指針・基準は、当然ながら、存在する筈がない。

しかし、設計者が、個々に個々の場面・局面を考えることを、法令や告示は嫌うのです。
なぜ?
「管理」できないからです。
個々が異なっていては管理できない。それではやってられないので、一つの指針・基準に(無理やり)「統一」しようとする。
けれども、当然のこととして、意図的か否かを問わず、そういう指針・基準の類のスキマの事例が必ず生じる。
しかし、それでは基準・指針の意味がないと(勝手に)思い、スキマのないように告示、指針・基準といった類を改変する(これを通常「改正」と称する)。
だから、ますます「狭く」なるのです。
と言うより、一つの「形」に集約することを求める、と言った方があたっている。
なぜ?楽だから・・。

何が楽なのだ?
人びとを管理するのが楽になる。
なぜ管理が必要なのか?
管理しないと人びとが何をするか分らないから。
管理するのは誰?
それは「選ばれた人たち」。
誰に「選ばれた」のか?
・・・・・      [以上7行文言追加 5日 7.42]

そういうことの結果、建物の中味にまったく関係のない「諸手続き」に大きな時間を費やされます。

では、このような「法令や告示、指針・基準といった類の限定強化」は、建物の質を高めているのでしょうか。
表立っては言わないでしょうが、大方の建築関係者の答は「NO」であることは間違いありません。

では、「法令や告示、指針・基準といった類の限定強化」は、何か「よい結果」を生んだでしょうか。
それが在るのです。
先ず、「法令や告示、指針・基準といった類」に適合しているかどうかの「審査」に、とんでもない時間と労力を要します。
と言うことは、審査担当者が多数必要。
と言うことは、それができる「人材」が要る。
それでは、そういう「人材」はどこに居る?言わずもがな、でしょう。

それに並行して、この審査に適合するように「導く」「《設計》ソフト」が幅をきかす。
つまり、こういった「法令や告示、指針・基準といった類に適合させる諸手続き」に「係わる」方がたの仕事は増える。それはこの方がたの稼ぎに反映する。

もちろん、審査を「お願い」する側、すなわち設計者の仕事も増える。ただし、建物の中味と関係しない「余計な」仕事が・・・。
もっとも、それが「設計」と思われている方がたも、かなりいるようですが。


おそらく、この先ますます、基準・指針は、その偏狭さを増すでしょう。
一言で言えば、最初の「ボタンの掛け違い」そのものを直すことをせず、その場その場で「不都合」を繕い、そこで生じた新たな「不都合」を、またその場しのぎで繕う、・・・。
なぜか?なぜボタンを掛け直さないか?
なぜ radical な(根本的な)検討(今の世の語で言えば「評価」)が行われないのか。
面倒だから?、
そうではなく、おそらく、「権威」にかかわる、と思うからでしょう。沽券に関わる・・・。だってエライんだから、過ちなんかないのだ・・・。
もちろん、「繕い」でも済む場合もあります。
しかし、全体が「繕い」箇所だらけ、というのは、すなわち「本質が見えなくなる」ということ。


こういうことを続けていたとき、その先に見えるのは何でしょうか。
それは、エライ人が決めた「一つの答」:「《模範》解答」に「従う」ことが強制される世界。
従わない物も者も認めない、という世界。
たしかに、管理する側に立てば、手っ取り早い。
すなわちそれは、、「人びとに、個々の思考の停止を求める世界」。
個々は思考をしてはならず、指示のとおりに動け、ということ。
それは、「いつか来た道」、「破滅に至る道」、と私には思えます。


しかし、関西の方では、選挙で多数を得たのだから、少数者は多数者に従え、それが民主主義だ!なぜなら、多数意見こそが「民意」だから、という《論理》で、好んでこの方向に突進したい方がたが増えているらしい。(「この国を・・・10:民意参照」)
民主主義とは、多数が少数を見殺しにすること?「多数」が「民意」か?

ものごとを、数の多少で《判断》することを、昔から私は採りません。
なぜなら、そういう「考え方」の人たちが、必ず「多数派工作」を行うのを見てきたし、第一、そういう思考は、ものごとの本質からは最も遠い「思考」であることは、言うまでもないことだからです。
片方では「科学的」という言葉を使い、その一方で「数の多少」でものごとを決めようとする、
そういう人がなぜ生まれてしまったのか、理解できません。
どなたか、解説してください。

あるいは、もしかして、このブログで私が書いてきていることは、
どれも、単なる「浦島太郎の愚痴」に見えているのかもしれませんね。

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3 コメント

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コメント (taro-u)
2012-02-07 10:42:14
浦島太郎ではありません、真実は一つでしょう。しかし世の中うまく行かないことばかり、キリスト教だってキリストは聖書に寄り添いなさいと言っているのに、後世の民が教会に神父に免罪符に自分の都合のいいものに寄り添ってしまうのです。社会システムが長続きしないことも歴史が表しています。
自浄 (筆者)
2012-02-08 18:53:19
コメント有難うございます。
現在の状況を改めるには「外圧」が必要かも・・、という方がたがおられます。
たしかに、明治以降、タウトが意見を述べなければ桂離宮は消失していておかしくない・・など「外圧」によってことが決まる事例がたくさんあります。
どうしてこうなってしまったのでしょう?
明治以降の、「人の上に人をつくる」お上が下々の思考の停止を求める施策の結果なのかもしれません。
日々の活動 (taro-u)
2012-02-09 19:24:16
自浄様。
難しいこと、面倒くさいことを、人任せにしすぎる体質がいけないのでしょう。政治など面倒くさいことの最たるもの。生徒会や町内会など人の意見を集約することすら大変なのに。ただ、最近その人任せ体質がひどくなり責任問題まで広がりクレーマーと化しています。仕事でミスるとプロなのに何事かとクレームがくる。プロではあるけれど神様ではないのだからミスはある。いったプロと言われる人間に何をどこまで求めているのでしょう。所詮人間トライアンドエラーの積み重ねこそ人間的で良いと思いますが。チャンスを一回だけに限ること自体がおかしい。昔の建築は何年と言う時間をかけて材木の狂いをとりながら建ててたはずです。ちょっと的外れですかね。

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