「 」が引用部で、( )内は私が付け加えたものである。引用は1部略、改変したものもある。
1960年の安保闘争から始まり、1965年頃から全共闘運動は、マルクス、トロツキズム、反スターリン、この頃泥沼化してきたベトナム戦争への反戦を掲げ、国家独占資本主義に対して、労働者階級による階級闘争を行い、世界同時革命による社会主義国家の成立を目指して国家権力と闘った。それは慶応大、早稲田大などの授業料値上げ反対運動から始まり、時の佐藤総理の東南アジア訪問あるいは訪米を阻止しようとした羽田闘争、新宿騒乱事件、東大医学部のインターン制反対運動による安田講堂のバリケード封鎖を経て、1969年1月の機動隊によるバリケード封鎖解除で終息を迎え、1970年に日米安保は自動延長された。70年代に入ると全共闘各セクトの内ゲバが起こり殺し合いとなり、この頃から労働組合などの社会から学生の左翼運動が見放されていって、ついには極左テロリスト集団連合赤軍が生まれ、総括と称した大量リンチ殺人事件を起こし、逃げ延びた先があさま山荘だった。結局こうした全共闘運動によって革命は起きなかったし社会主義国家にもならず何も社会に残さなかった。池上彰氏と佐藤優氏の討論の著書1)では全共闘運動は社会主義革命の幻想を追っていただけだったと言っている。
「左翼が理性で世の中を組み立てられると思っているところにあります。理想だけでは世の中は動かないし、理屈だけで割り切ることもできない。人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらをすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。」
「哲学・思想の面で新左翼に優れたものがあったのは間違いありません。しかし、政治的には全く無意味な運動だったと言わざるを得ないでしょうね。革命を成就させられなかったというだけでなく、その後の日本社会に何らかのポジティブな影響を及ぼしたわけでもありませんでした。」
「佐藤氏:新左翼運動は現代から振り返ればすべて「ロマン主義」の一言で括れてしまうと思います。池上氏:ロマン主義であるがゆえにますます現実から遊離していった。」
今も、脱原発や反戦を主張する左翼は、全共闘が人間が労働から解放された自由で平等な国家を目指したのと同様に、戦争のないユートピアを追いかけるだけなのだと思う。だから、原発のどこがどう危険なのか根拠を言えないし、ただ放射能という得体のしれないものに対する、なんとなくの雰囲気で危険というだけなのだ。また戦争なんかないほうが良いに決まっているのだが、現実的には他の国から戦争をしかけられる可能性がある。そのとき反戦論者は戦わないで降伏するのか。どこかの刈り上げボンズの支配する国民になるのか。地球温暖化が吃緊の課題である中(どこかのブログで、どこかの学者の論文を基に、地球温暖化なんか嘘だという、もう空いた口が塞がらないようなあきれたのがあったが。)、電力供給が逼迫している現実の前で、炭酸ガスを排出しないで、原発並みの電力をどうやって供給するのか。反戦、脱原発論者はこうした問いに答えられない。
池田氏の著書2)では、「進歩的文化人の劣化」の章で、左翼知識人達は、
「原発が本当に危険かどうかとか、エネルギー供給がどうなるかには興味がない。」
「社会を変えるにはどうすればいいか、という問いについては、何をどう変えるのか具体的な事は何も書いていない」
「原発事故が起きたことで、左翼文化人は新しい反権力のネタを発見して、「脱原発」にとびついた。彼らは「原子力村」を攻撃し「子供の未来」を守る戦いを始めた。原発が悪である事は、自明の理であり、それを擁護する御用学者は悪党に決まっているのでこれは容易な戦いに見えた。こういう悪党を糾弾すれば1市民が政府を倒す正義の味方になれる、そういう思い込みで多くの人が官邸デモに集まった。開沼博の言葉でいうと、これは日本人の再「宗教」化である。日本人は、周りの人の言う事は何でも信じやすいからだ。社会的にも、経済的にも行き詰まった状況で変化を求める人々の不満が、反原発と言う宗教に結集したのだろう。人々の感情に迎合する手法はマーケティングとしては正しい。人を動かすのは、事実でなく、感情だから、必要なのは、科学的データではなく、共通の敵である。反原発デモに参加して、原子力は、人間のコントロールできない反自然のテクノロジーだとか原発と共に資本主義を廃絶しようなどといっていた柄谷行人はその後どうしたのだろうか」
著書3)で、浅羽氏は、池田氏と同様なことを述べている。
「「現実生活のリアル・ゲーム」と「世界観内のバーチャル・ゲーム」→「世界観」の闘いです。あるいは「世界観」内の闘いとか、「脳内の闘い」とかいったほうが伝わりやすい」
デモ(反戦、反原発デモや安保闘争、全共闘運動)で社会を変えることができなかったのがリアルでの敗北であり、デモは左翼のバーチャルな世界観に基づいて、国家や資本と闘う基礎となる国民のアソシエーション(共感)を築いたもので、バーチャルでは勝っているという欺瞞である。
バーチャル脳内観念世界とは、「原発も、デモも柄谷氏にとっては氏の壮大な理論体系の一端へ位置づけられていると言う点です。原発は資本が儲けるためと国家が核武装したいために、建設され稼働されているとか。デモは国家と資本から自立したアソシエーションを生み出す契機となる」
「「原発」というものが世界全体のなかで意味づけされ価値づけされるのです。 柄谷行人氏に言わせたら、資本が盲目的に金儲けをするためにここ数十年で建設し、国家的には核兵器開発の準備をしている一例が「原発」です。氏はこうした「資本と国家」へ対抗するのをよしとしています。「資本と国家」が悪、それに対抗するのが善つまり正義です。だから、「原発」は悪が繰り出す怖ろしい尖兵であり、君が正義の味方だったら、なくすため闘わなくてはならない。」
「60年安保知識人たちのバーチャル脳内勝利」では、「「(安保)闘争」の3カ月後に刊行され、以後30年間も版を重ねた共産党系哲学者・古在由重の『思想とは何か』(岩波新書)は、当時デモに参加し興奮した高校生の素朴な作文を幾つも紹介して、「世代や階層のあらゆる障壁にもかかわらず、あの(安保闘争の)日々にはひろい国民層のうちにひとつのちからづよい共感がうみだされた」とし、「平和と民主主義の旗のもとにこの意想外なエネルギーが爆発したという事実の根底には、このような政治によって維持される今日(安保闘争の当時)の社会そのもののありかたへの反逆がひそんでいる」と断じています。」
「彼ら(左翼)のルールでは、安保条約を阻止できるかできないかというリアルな勝ち負けよりも、反対運動が盛り上がり日本にデモのある社会が出現したという脳内バーチャルでの勝利のほうが、はるかに価値があったからなのです。」
「バーチャルの方では平和国家で、民主主義の日本が存亡の危機にある。そこで自分こそが日本の運命を握る戦士=リベラル知識人であり、集団的自衛権を容認する安全保障関連法案が来襲したらデモに参加して戦う。だが、この勝ち負けは実は重要ではなくてそれらの戦いによって日本がデモのある社会となり我々(左翼)が真に具体的なこの国の主権者となる計画が進行していくことが重要である」
「左翼にとっては、国家に反抗すること自体が大事なのであり、「原発ゼロ」や「反戦」をスローガンにデモを行うのも、国家に反抗することが目的であって、実際に原発をなくすとか平和を実現するということはどうでもいいのだ。」
「福田恒存は一つ一つの抵抗運動において、彼らは勝つことを目的としているのではなく、進歩主義的気分に守られながら、その気分を守り、その気分に浸ることが目的となっているのではないかと推測していました。この「進歩主義的気分」が、「バーチャル脳内観念」としての「平和で民主主義な日本」である。リベラル(左翼)たちは、本当(現実の、リアルでの)日本の危機(原発や安全保障関連法)よりも、むしろこちら(バーチャル観念)の危機のほうに、いてもたってもいられなくなる(=デモをする)のです。福田の言葉で言えば、進歩を阻止するもの(原発や安全保障関連法)より、進歩主義的気分を害するするものに対して敏感に反応しやすい。つまりリアル「進歩」(=民主主義)の敵(原発や安全保障関連法)でなく、バーチャル脳内進歩(=民主主義)を害する何か(=国家(権力))と闘いたがるというわけです。」
最後に三島由紀夫氏と東大全共闘の討論(1969.5)の中で、三島氏がこのように述べていたことを記します。
「モーリヤックの書いたテレーズデスケルーという小説を思いだします。あの中で亭主に毒を飲ませて殺そうとするテレーズという女の話が出てきます。なぜ亭主を毒殺しようとしたか。愛してなかったのか、憎んでいたのか、はっきり言えない。だがどうしても亭主に毒を盛りたかった。その心理をモーリヤックは色々追求しているのだが、最後にテレーズは、亭主の目の中に不安を見たかったからだと言う。諸君(全共闘)も国家権力、体制の目の中に不安を見たいに違いない。」
参考著書:
1)激動日本左翼史
戦後左派の失敗の本質
池上彰、佐藤優著
2)戦後リベラルの終焉 なぜ左翼は社会を変えられなかったのか
池田 信夫著
3)反戦、脱原発のリベラルはなぜ敗北するのか
浅羽通明著