テニスプレイヤーの日記

日々の随想や所感を書きます。

西尾城跡のお勧めランチ

2022年03月28日 | Weblog

西尾城跡の近くでのお勧めランチは、中央ふれあいセンターの喫茶室です。

資料館の人に聞いた喫茶店、金曜日のサービスランチ Aすき焼き定食 760円

Bシラス丼 コーヒー付きでは、960円です。御馳走さまでした。

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愛知県のイベント 3/25 3/26で3箇所の御城印をもらいました。

2022年03月27日 | Weblog

西尾市、幸田町、安城市と 3/25 3/26で3箇所の御城印をもらいました。

3/31までの無料イベントなので、次回以降は、どうしょうかな。

4f4c0ce8f8f6685e9e689eecf4798724-2.pdf (aishikyo.com)

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吹き流しが真横になる強風と雨

2022年03月26日 | Weblog

伊勢湾岸道を西に向かい帰路につきましたが、春の嵐となり

強風と雨です。吹き流しは、真横になっていました。速度規制50キロです。

南からの風を受けて、少し走りにくい状態でした。

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城巡り 安城城跡へ

2022年03月26日 | Weblog

御城印がもらえるということで、西尾市からの帰り道の途中で、近距離にある

安城城跡へ向かいました。天気は、春の嵐となる前の雨が降り出す前に到着して、

記念撮影を行って、安城市歴史博物館の受付に提示してもらいました。

これで、愛知県の御城印は、3箇所となりました。

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安城市/安祥城址(安城城跡) (city.anjo.aichi.jp)

もとは安城城と呼ばれていました。安城町に所在し、碧海台地東縁部の半島状にのびる台地上に

位置しています。台地の南・東・西側は湿田となっていて、天然の要害となっていました。

築城・廃絶時期は明らかではありませんが、戦国時代には松平氏の居城となり、城を巡って

織田氏との間で数度の攻防が繰り広げられたことは有名です。清康の代になって本拠地が

岡崎に移され、江戸時代には畑となっていましたが、1792(寛政4)年に了雲院が移転して

きて現在に至っています。1988(昭和63)年以来数度の調査が行われた結果、多くの地点で

堀が確認され、一部の堀は堀の中を区切る畦状の遺構が検出されています。

また、本丸に当たる現了雲院境内地の調査では、江戸時代の畑状遺構のさらに下層に

戦国時代の遺構が残っており、現地表面から1m近く盛り土がれさていることが確認

されました。

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F86Fのある幸田町郷土資料館

2022年03月25日 | Weblog

御城印をもらった幸田町郷土資料館には、屋外展示で、F86Fジェット戦闘機がありました。

あと、自衛隊のヘリー、砲身などもありました。

資料館の建屋内は、改装中で見学は出来ませんでした。

 

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城巡り 深溝城跡へ

2022年03月25日 | Weblog

御城印をもらえるパンフレットをみて、寺部城跡の近くにあるものとして、幸田町の

深溝城へ向かいました。幸田町資料館から250メートルのところに石碑がありました。

ここでも写真を撮り、資料館で、深溝城の御城印をもらいました。

城跡は、石碑があるのみでした。

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城巡り 寺部城跡へ

2022年03月25日 | Weblog

西尾観光ガイドブックに載っていたもうひとつの城跡が、寺部城跡、西幡豆駅の近くに

ありました。駐車場は、登り口の前の狭いところに停めました。小高い山にあり、

三河湾が見渡せます。この本丸跡の掲示で、御城印がもらえるとのことで、道を挟んだ

対面の幡豆図書館で、本丸のデジタルカメラの写真を見せると、寺部城跡の御城印を

もらえました。愛知県史跡整備市町村協議会の30周年記念イベントで、令和4年3月31日

まで行っているとのこと。

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寺部城址 – 西尾観光 (nishiokanko.com)

国時代にこの地域を支配していた幡豆小笠原氏の居城 寺部城(てらべじょう)は戦国時代にこの地域を支配していた幡豆小笠原氏の居城です。創建年代や築城者は不明ですが、永正11年(1514)小笠原定政がそれまで寺部城に拠っていた早川三郎を倒し、寺部城主となったとされます。 天正18年(1590)の徳川家康の関東移封に従って小笠原氏も上総国に移ったため、廃城となりました。 三河湾を見下ろす標高30mの丘陵上に築かれた連郭式平山城で、曲輪、土塁、堀などの遺構がよく残っています。

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城巡り 東条城跡へ

2022年03月25日 | Weblog

西尾城跡を見学後、西尾市の観光地図に記載されていた東条城跡へ向かいました。

県道318号を西から東に向いて走ると右手の小高い山に、城跡はあります。

駐車場は、山の東側にありましたが、すこし見つけにくいです。

過去の令和3年に老朽のため撤去された門や櫓は、ありませんが、

城跡に間違いありません。桜の時期には、まだ少し早かったです。

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古城公園(東条城跡) – 西尾観光 (nishiokanko.com)

吉良荘の東半分を治めた東条吉良氏の居城跡 鎌倉時代前期の承久3年(1221)に起こった承久の乱の後、足利義氏が三河国の守護になり、吉良荘の地頭職を兼務しました。 足利義氏は吉良荘を貫く当時の矢作川を境に、西側を吉良荘西条として現在の西尾城の位置に西条城を、東側の吉良荘東条に東条城を構え、長男長氏(ながうじ・おさうじ)を西条、三男(あるいは四男)義継(よしつぐ)を東条に置き、吉良荘を分けて治めました。 東条城は東条吉良氏の居城跡で、曲輪や一部土塁が残り、中世の城の様子をよくとどめています。平成4年に城門・物見櫓(やぐら)などが復元され、往時をしのぶことができるようになりました。周囲には桜が植えられ、古城公園として春には桜を楽しみに多くの人が訪れます。令和3年城門・物見櫓が老朽化のため取り壊されました。
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城巡り 西尾城跡へ

2022年03月25日 | Weblog

2022.3.25 愛知県  西尾市に向かいました。

伊勢湾岸自動車道豊明インターで、高速を降り、国道23号線バイパスを東に向かいました。西尾西インターでおり、

西尾市歴史公園の駐車場に車を停めました。駐車場には、復元された二之丸丑寅櫓がありました。

本丸丑寅櫓、鍮石門、西尾市資料館を見学しました。

復元された建物がある立派なお城でした。

西尾市資料館では、西尾城のお城カード 二種類をいだきました。

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施設案内 西尾市歴史公園|西尾市公式ウェブサイト (city.nishio.aichi.jp)

西尾城の歴史は古く、承久の乱(1221年)の戦功により三河国守護に任じられた足利義氏(あしかがよしうじ)が築城した、西条城(さいじょうじょう)が始まりと「西尾城郭覚書」写真1伝えられています。足利氏は吉良氏(きらし)と名を改め、この吉良荘を統治しますが、群雄割拠の戦国時代には、城主が牧野成定、酒井正親、田中吉政と入れ代わり、これに従って城域も拡大しました。天正13年(1585)、家康の命により「三河の人夫を挙げて」城が築かれ(『三川物語』『家忠日記』)、これが近世の西尾城の基礎となりました。さらに田中氏の頃に三の丸が造営され、城郭が確定されました。慶長6年(1601)に本多康俊が西尾二万石の藩主として入城し、その後も松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏と、城主は譜代大名の間で次々と代わりました。六万石の西尾藩となったのは、明和元年(1764)に山形藩から大給松平氏(おぎゅうまつだいらし)が入城してのことです。松平氏は代々老中などの幕府の要職を務め、以来、廃藩となるまで5代続きますが、明治維新を迎えると城は天守閣を始め、ほとんどが取り壊されました。

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3/22休暇で、実家の請求書の銀行振り込み等 プリウスも夏タイヤへ

2022年03月22日 | Weblog

実家に泊まった翌日、銀行等へ溜まっていた費用の振込などを

行いました。

帰宅後は、プリウスのタイヤを夏タイヤに交換しました。

雪の多かった冬でしたが、コロナもあり、スタッドレスタイヤの走行距離は、

約2000キロのみ、後ろのホイールには、なぜか油膜の汚れが、左右共

ついていました。どこから?

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