テニスプレイヤーの日記

日々の随想や所感を書きます。

30.9.29 台風24号が接近して来ています。

2018年09月29日 | Weblog

30.9.29 土曜日、台風24号が接近しています。台風21号では、強い雨風で、雨漏れと

なりましたが、コーキングした対応していますが、今度の台風24号もほぼ同じか

少し強いので、影響が心配です。明日に備えて、家の周りの台風対策を行いました。

但し、屋根のアマチュア無線のアンテナは、すでに雨で屋根が濡れて登れないので

前回21号の台風前に点検した結果が、大丈夫だったので、今回も大丈夫だと

思っています。明日、台風24号 被害がなく早く過ぎ去ってほしいと願います。

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パワハラをする人が、どうして役職になれたのか。対処方法は?

2018年09月28日 | Weblog

上司や先輩、役職の方のパワハラ発言に悩まされる人は、多いと思います。

パワハラをしている人は、「パワハラ」と全く思っていないところが、一番

問題なのですが、部下や後輩が「パワハラ」と思ったら「パワハラ」なのですが、

なかなか相手に対して 部下や後輩から「パワハラ」だと訴えることは難しいです。

その意味では、あるラグビーの男の子、ある体操の女の子は、すごいです。

パワハラの上司が先輩がなぜ役職になれたのかは、上司や先輩の上司に対しては

「良い部下」だったと推測できます。パワハラの上司、先輩は、パワハラの上司に

仕えてきましたから、そのパワハラを、後輩や部下にやってしまっていると

思われます。この上司や先輩に対して、どう対処するかですが、なかなか難しい。

パワハラしている先輩は、ある本によると、「自己愛性が強く、自分がほかの人

より優れていると誇張したがる傾向にあるとか。それで、過剰に自信を持ち、

後輩は、それに従うべきと勝手に思い込んでいる。そして、一番やっかいなので、

自分から見て、後輩、劣っている人 を攻撃的ななっている点です。

なるべくその人とは議論をさけて、従っているふるをするのが一番ですが、

どうしてもだめな時は、最終は、「パワハラ」相談を会社にすることです。

体操の女の子のように会見を開くことは、難しいので、まず、みんなに相談して

どう対処したのか聞いて、仲間で対応しましょう。一人であたったら負けますから。

 

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上期の仕事で、残業・・・・。

2018年09月27日 | Weblog

上期があと二日で終わります。上期の仕事は、九月中に終えたいので、

火曜日、木曜日、明日の金曜日も残業です。

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大垣から関ケ原間、下り「新垂井線」がありました。

2018年09月24日 | Weblog

日曜日に行った岐阜県垂井町の竹中陣屋跡から菩提山城跡へ向かう白山神社の途中、

単線線路を横切りました。最初は、レールが二本だけの単線なので、私鉄かと思いましたが、

こんなところに私鉄が走っているわけがなく、そうしている間に、特急と思える車両が、

東から西に向かって走っていくのを写真撮影しました。

この区間を走る特急といえば、

車両のタイプから名古屋から米原経由の金沢行きの「しらさぎ」です。時刻から推測

すると「しらさぎ七号」のようです。

帰って地図を見ると、東海道本線の迂回用「新垂井線」ということでした。

これは、大垣駅から関ケ原駅へ向かって急勾配となっているため、蒸気機関車の時代に、

この区間だけ蒸気機関車を増結した。蒸気機関車を連結したり外したり、勾配を上った後に

用済みの機関車を大垣駅へ戻すという手間がかかっていたので、1944(昭和19)年、勾配を

緩やかにした下り列車専用の線路「新垂井線」を作ったとのこと。作った理由は、太平洋

戦争中の輸送力増強。貨車や客車の連結数を増やし、大垣駅と関ケ原駅の機関車の作業を

なくす。両駅を通過させてスピードアップするためだったとか。

これを聞いて、北陸線の敦賀から新疋田間は、登り線が、勾配をあがるため

山を一周しているのと似ていると思いました。

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洋室の押し入れ戸 クロスの塗装

2018年09月24日 | Weblog

押し入れの上の段の戸を、9/22に塗装しましたが、今日は、下の戸を

塗装しました。今回は、ローラーを使って塗装しました。端の方は、ちゃんとテープで

しっかり養生しました。

仕上がりは、写真のとおり。

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一之瀬城跡 桑原家住宅

2018年09月24日 | Weblog

大垣市上石津郷土資料館でもらったパンフレットから、大垣市上石津町の地図に載っている

桑原家住宅に、行って来ました。西高木家陣屋跡から国道365号を北に戻り上石津トンネルを

抜けてから西に入り、狭い道を走っていくと

三差路に説明板、

右に上ると武家屋敷の

住宅 桑原家住宅がありました。1545年に一之瀬に移り住み、織田信長、豊臣秀吉に

仕えた桑原家の遺構、国の重要文化財に指定されています。非公開。

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城巡り 西高木家陣屋跡へ

2018年09月23日 | Weblog

垂井町から21号を西に戻り、関ケ原から国道365号を南下すると西高木家陣屋跡が

あります。目標地点は、上石津郷土資料館です。

資料館手前の坂道は、陣屋の石垣

でした。資料館は100円ですが、

陣屋模型など、貴重な資料がありました。

 

 

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城巡り 菩提山城跡

2018年09月23日 | Weblog

竹中陣屋の前の道を通り過ぎ、鉄道の高架の下を抜けて少し行くと、竹中半兵衛の

墓があり、そこを抜けて岩崎神社さらに登っていくと、菩提山城跡のひとつの

登り口がありました。

いくつかの登り口がありますが、菩提寺の方からの白山神社の方からも

登れます。

城の説明は、駐車場のところに案内板があります。

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菩提山城は、垂井町観光協会のページでは、菩提山の山頂に、

竹中氏の居城が構えられた、この菩提山は竹中陣屋跡の西方にあります。

山城は標高402mの山頂に、およそ南北260m、東西最大幅60mの広大な天嶮を利用して

おり、堅固なつくりと巧妙さは、類を見ない規模になっています。

頂上の菩提山城跡までのハイキングコースでは史跡を訪ねながら、春夏秋冬の自然の

美しさを味わうことが出来ます。とのこと。

 

 

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城巡り 竹中陣屋跡

2018年09月23日 | Weblog

垂井城跡から、北西に向かい、次の城跡、竹中陣屋跡を訪問しました。

道は少し狭いですが、竹中陣屋の立派な門、石垣、堀が残っています。

陣屋門の手前の堀です。

無料の駐車場は、陣屋門を通り過ぎてすぐのところにあります。

竹中陣屋や菩提山城跡の資料がある資料館は、堀のすぐ手前が、岩手公民館

その公民館の隣が、「菁莪(せいが)記念館」天保年間に旗本竹中氏が建てた道場で、

陣屋の復元予想模型や竹中家の史料(約100点)が展示されている。入場料無料

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城巡り 垂井城跡

2018年09月23日 | Weblog

30.9.23 三連休の真ん中 国道8号線、21号線を東に走り、垂井駅の方に左折して、

陸橋を超えてすぐの垂井城跡に行って来ました。最初は、垂井の泉の手前を、登れば

すぐだったのですが、行き過ぎて狭い街中に入ってしまいました。幸い軽自動車に乗って

来たので、なんとかなりましたが、城跡は、石碑だけですが、

小高い地域で、城跡です。

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垂井町観光協会から引用すると、

天安2年、慈覚大師が垂井町にある専精寺の前身である「天台宗 普門山善相院」を建立。当時は勅願寺でした。その後天台宗より浄土真宗に改宗し、寺号を「普門山 専精寺」と改め、現在の地に本堂が創建されました。また、この地は関ヶ原合戦に活躍した西軍の武将平塚為広の居城である垂井城跡と云われています。
平塚為広とは→戦国時代から安土桃山時代の武将。大力で薙刀の名手といわれています。豊臣秀吉の家臣(馬廻)として仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐に参加して武功を挙げました。秀吉死後は豊臣秀頼に仕え、慶長5年(1600)には美濃垂井に1万2000石の所領を与えられました。関ヶ原合戦では西軍の大谷吉継に代わり指揮を執りました。

敗軍の中、辞世の歌を大谷吉継に送っています。

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