古宮城跡から国道301号を南下して、新城市内に向かいました。
作手の標高520メートル地点から新城市内標高80メートルまで、長い下り坂です。
作手には、岡崎から登ってきたのですが、301号を南下していくと眼下に新城市内が見える
場所があります。長い下り坂の途中で、新東名の下をくぐったあとぐらいに、
臼子城跡の上り旗、左側の空いた場所に停めて、上り旗のところを上がってみました。
右側は、墓地となっていますが、櫓台の後、左は、本曲輪の場所に上り旗がありました。
////////愛知の史跡巡りから引用///////臼子(うすご)城 新城市 - 愛知の史跡めぐり (goo.ne.jp)
天文14年(1545) 新城古城 の 菅沼定継 に攻め滅ばされました。その後、奥平貞勝の嫡男貞能が菅沼氏の臼子城を攻めて城を取り戻し、先の城主佐宗勝重の子重昌を城代としました。奥平休可という武将もこの臼子城の城代として入りました。「兵法の師」と三河国二葉松が記載しているので、軍師だったと思われます。
天正18年(1590年)、奥平氏が徳川家康 に従って関東に下り、臼子城は廃城となりました。
白鳥神社の東側の駐車場に車を止めて、神社の階段を上っていまと虎口です。
右側が、主郭東曲輪で、左側が、西曲輪となっていて、その境には、大堀切が
あります。
城内の案内板がそれぞれの曲輪・堀・等にありました。
作手歴史民俗資料館の資料に記載のあった城跡は、北から川尻城・寒之神城・文殊山城
・古宮城・石橋城・亀山城です。そのうち、亀山城跡に行ってきたので、
北側の「創造の森」城山公園、川尻城跡に行きました。公園と整備されていますが、
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天授年間(1375年~1380年)に上州に住む奥平貞俊は、外戚の山崎左衛門高元を頼って移住してきた後、応永年間(1394年~1428年)初期に川尻城を築いて本拠とした。川尻城を本拠として勢力を伸ばした奥平氏だが、次第に手狭となり、応永31年(1434年)には清岳を切り開いて亀山城を築城し本拠を移したと言われている。