ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

霜村三二著「らぶれたあ」 学級通信

2006年08月13日 | カ行
 前号で取り上げました「イチローに学べ」と言うニセ教育者とは正反対の本当の教師の本に出会いました。霜村三二(さんに)著「らぶれたあ」(かもがわ出版)です。先日、朝日新聞で紹介されていましたので、町の図書館で買ってもらいました。地元の教師のためも思ってのことです。

 この本は埼玉県の小学校で、最近は主として低学年の担任をしている霜村さんが、教師になって以来約28年間、ほとんど毎日欠かさず発行してきた学級通信のまとめです。

 四六版で全部でわずか 175頁の本ですから、とても28年間のものを全部含んでいるとは言えません。最近のものを中心にまとめたと思われます。

 読んでいると、生徒(私は生徒のことを「こども」と呼ぶのに賛成できません)向けのもあるのですが、親向けに発行しているという面も強く持った学級通信だと思います。

 親の方も又、それに応えて、感想などを書いて子供に持たせているようです。それもかなり載っています。断っておきますが、親というのは母親だけではありません。父親もがっばっています。

 主な感想だけをまとめます。

 第1は、ニセの教師と本当の教師とはどこが違うかということです。それは「自分の事を言うか否か」だと思います。

 ニセの教師はイチローを褒めて、イチローに見習えと言うだけで、自分の事は言いません。それに対して霜村さんは自分の事を具体的に沢山書いています。

 根本的に人間観が違います。霜村さんは「いろんな子がいる、だから面白い」(16頁)という考えです。ここからは「イチローのようになれ」という説教は出てきません。

 第2に、霜村さんは自分の考えと指導法を具体的に語っています。とても面白かったのは、「もめごと解決法」(22頁)です。それは次のような箇条書きにできるでしょう。

 例えば或る生徒が「誰かが〔自分を〕ぶった」と言ってきた時。

 まず、「どうして○○はキミのことをぶったの?」と聞く。
 これで、その子がこの事をどう考えているかが分かる。

 次にぶった子を呼んで、話を聞く。
 互いに、相手の話を遮って話そうとするので、相手が言い終わるまで黙って聞くことを求める。

 周りの子に確かめながら事実をはっきりさせる。

 霜村さんの根本的な立場は「先に手を出した方が悪い」(暴力的対応をした方により多くの非がある)というものです。これを具体的に確認する。

 しかし、しこりを残さないように、スカッとした気分で終わる終わり方(逆再現ビデオ)を開発して実行している。

 それは次の通りです。

 (このけんかを)互いに役割を入れ換えて演じ(再演)させる。
 教師がナレーションで過剰な説明をしながら進める。
 途中から笑いだして、どうでもよくなって、大笑いの内に終わる。

 第3に、しいて本書の欠点ないし限界を指摘するならば、校長や教育長のことは書いていないということです。

 「放課後の自由な教育談義が消えかけている」(51頁)、「現状の学校の仕事の大半が上から決められたことをいかにうまくこなすかに終始している」(3頁)といったことは、1教師の力ではどうしようもない事です。しかし、これ以上は論じていません。

 霜村さんは「生涯1教師」でいたいそうです。私は何もこれを批判するつもりはありません。

 しかし、教師としての努力では限界があると感じて校長になった蔭山英男さんのような人もいます。

 とにかく、学校教育は個々の教師が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものである、という観点だけははっきりさせておかなければならないでしょう。

 最後に、しかし、霜村さんの学級通信のようなものこそ「本当の説明責任」( 155頁)だ、という考えは強く支持します。

 最後の後にもう一つ。優れた学級通信や教科通信を地元の公立図書館に備えるように努力しませんか。第 186号で提案したものに本書を加えると次の4点です。

 霜村三二著「らぶれたあ」(かもがわ出版)

 田中正史著「?(なぜ)と!(びっくり)を見つけよう」
   (KKベストセラーズ)

 妹尾和弘編著「私の目は死んでいない」(評論社)

 牧野紀之著「哲学の授業」(未知谷)

 これで小学校、中学校、高校、大学と、それぞれに1冊、出そろったわけです。このほかにも適当なものがありましたら、教えてください。(2006年08月13日発行のメルマガ「教育の広場」)

          関連項目

学級通信と教科通信と学年だより