朋友 I兄が、詩集〝「□□の□□」〟を出版した。兄が42歳のときである。
その出版記念会に、参加者に配布する詩集に添付する冊子を、小生が頼まれもしないのに製作編集して彼に贈った。
執筆をして頂いた方々は、住井すゑはじめ、16名の著名な方々である。
今日梅雨休みの一日、本の整理中(反って散らかしてしまった)、その冊子を見つけた。
以下はその冊子の小生署名のあとがきである。
あとがき
I氏が□□□□の筆名で、詩集「□□の□□」をものしたのには吃驚した。そう思ったのは、小生ばかりではあるまい。夥しい善良な市民が、この快挙に呆れ果て、仰天し絶句して仕舞った。
氏は斯の事について、噯にも口に出さなかったし、建設業と村議会の議員という変哲もない職業上の組み合わせが、氏への評価を一層複雑にしたのである。
さて、この詩集であるが、頗る体裁に富む。段ボール風の外函に嵌め込んだあたりは、妙に格調高く見え、油彩を配した扉部分は、古風であり、閃きがあるなと思った。 恐らく、詩の内容にも相当なものがあるであろう。
嘗て、小生は、西脇順三郎の詩を愛した事があった。
〝AMBARVALLA 〟それは、I書店の書棚の片隅に睡っていたのを、定価五十五円で購い求めたものだ。
其処には、カプリの牧人があり、哀歌があり、生命の破裂があった。遂に、鼠は屋根から落ちることを知らなかったのだが…。
この著名な詩人は謂う。(小生なりの要約であることを赦してくれ給え。)
科学的哲学的考え方は自然界人間界宇宙界にある物の存在の関係を何かしらの法則という組織の中で統一し整頓することであるが、この動かすことのできない関係が少しでも破られた場合には自然界に重大変化が発生する。
詩の方法はこの破壊力乃至爆発力を利用するのであるが、この爆発力をそのまま使用したときは人生の経験の世界はひどく破壊されてしまって、人生の破滅となる。
併し詩の方法としてはその爆発力を応用して即ちかすかに部分的にかすかに爆発をおこさせて、その力で可憐なる小さい水車をまわすのである。今日の多くのシュルリアリズムの芸術は人生が破壊された廃墟にすぎないし、昏倒した夢の世界にすぎない。この水車の可憐にまわっている世界が私にとっては詩の世界である。
(東京出版『〝LE MONDE MODERNE〟』より)
だが、残念なことに、小生には、この言葉を以ってしても、作者I氏の世界を検討するだけの余力を持たぬ。
僅かに、某新聞が、紙面のスペイスを大きく割いてこの詩集を報道したのに、少なからぬ共感を覚えたのみであったのだ。乃公の知的欠如は覆い隠す術を知らないのだった。嗚呼。
聞く処によると、氏の同僚達が、近くこの出版を記念に、盛大なる宴を準備すると謂う。友情に囲まれた実に倖な男がいるではないか。
それ以前、実は近邑の住人として、就中、建設業に係わる知人・同志(小生は建設資材が主体の運送店経営者である)等が、一等先に大袈裟な振舞いでなくとも、ささやかに祝賀の宴を催する計画があった。それを、全く彼等に先手を越されて了ったのは、他意はない。不況の所為と諦めている。
そこで、一つの可能性として、この文集を編むことを試みた。小生の初めの考えでは、氏の作品に酷評を加え、叱咤罵倒し、かつ氏に拘わるゴシップの類を網羅する計画であった。それが氏に対する表敬の手段であろうと考えたからである。
併し識者は明らかにこの企画には拒否反応を示した。I文学この「詩集」への賛辞は止まる処を知らぬ。加之「I宗」は、巷の宗教を凌駕した。
編集に当たり玉斧を乞うた執筆者各位の中には、小生の全く面識の無かった方々も多かったにも拘わらず、即座に快諾の報を得ることが出来た。電話連絡に終始した欠礼をお詫びするするとともに、心からの謝意を表する次第である。
これと言うのも、至極月並みな言葉になるが、詩集「□□の□□」の作品と、I氏の人徳によるものであると断言せざるを得まい。
「鼠算」の項。
2×17の12乗。二七六億八二五七万四四〇二。
I氏の大成を庶幾う所以である(tani)