いよいよ大晦日、新聞も元旦号にそなえて薄い。年末の“この一年を振り返る記事”も気持ちに響くものがなかった。
今朝一番、コーヒーを飲みながら朝日新聞をめくっていて、危うく見過ごしそうになりました。
オノ・ヨーコさんの年末のメッセージです。今年はジョン・レノンを亡くして30年です。
ことばのちから
あなたのことばは
水に落とした小石が
世界中の海にひびくように
永遠に
かけめぐるのです。
その力を信じましょう。
山をも、海をも動かす
大きな力。
Yes.
オノ・ヨーコ 12月31日2010
やはり オノ・ヨーコさんには、yes・・・ですね。やはり言葉を発しなければいかんですね。この頃、しゃべることが少なくなった。
やはり新聞ですね。
もうひとつ。
日本経済新聞の最終面“文化面”のウィリアム・J・ペリーさんの“私の履歴書”を1か月ずっと読んできました。
1994年に米国国防長官に就任した際、“核全廃に近づく努力をする”と決め、その気持ちを持ち続けてきた半生を、毎朝一番に読んできました。
今日が最終回です。その最後の最後です。
<初めて広島を訪れた時、私の心に浮かんだ、1つの疑問についても最後に触れておきたい。核兵器の使用を巡って、日本にはまだ深い悲しみや憤りがあることは理解している。ただ、広島で原爆に関する展示物、説明を目にした時、その悲惨さを訴える文言や写真は数多かった半面、そのような悲劇がなぜ起こったのかについての記述が一切なかったことに違和感を覚えた。>
<どうして、原爆投下という悲運に日本は見舞われなければならなかったのか。その「原因」について自問、自省する文言を広島で目にすることはできなかった。いろいろな事情があるとは思うが、そのことを私は残念に思っている>
“う~~~ん”。
こういう指摘を外国人からうけることが、日本に住む国民として、ひどく恥ずかしい。
私は、昭和20年6月28日深夜の米軍機による岡山市空襲で焼かれ、広島県との境の山中に育ちました。
小学校6年の卒業旅行(たぶん昭和30年)は、広島・宮島の一泊二日でした。まだまだ平和公園というものもなかったかも知れません。原爆ドームのあたりも、そのまま惨状をさらけ出している状態だったでしょう。
その後、2度ほど広島に行きましたが、平和公園、原爆資料館に行ったことはありません。行くのが恐ろしかった・・・・ほんとうです。
“あやまちはくりかえしませんから”と、読みたくなかったという気持ちも、どこかにあったでしょう。
【おまけ】