ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「峠(歴史小説)」

2020年11月02日 | 旅の豆知識
〇河井継之助と戊辰戦争
 河井継之助は、1827年(文政10)に越後の長岡城下に生まれました。諸国を遊学した後、長岡に戻り、その才知と先見性により、藩の要職を任されるようになります。幕末の越後長岡藩の家老上席で、戊辰長岡戦争の軍事総督でした。薩長諸藩と対峙する重大事に家老となり、奥羽越列藩同盟の結成に参加し、薩長軍(西軍)と対決することになります。地理的に、最初に西軍の攻撃を受け、会津藩等の支援を受け、奮戦しますが、長岡城が落城し、一度は八丁沖渡渉の奇襲により、奪還に成功しますが、再び敗走します。明治維新期の内戦として、多大な犠牲を払いながらも近代国家が形成されていく過程の出来事でした。これをテーマに書かれた小説はいくつかありますが、司馬遼太郎の『峠』は河井継之助に焦点を当てています。

〇河井継之助の敗走した道
 『峠』は、1966年(昭和41)から約1年半にわたって毎日新聞に連載された司馬遼太郎の歴史小説です。主人公は若い頃諸国を旅し、江戸から現在の岡山県高梁市まで行って、山田方谷に学び、果ては長崎まで遊学しています。しかし、小説中、最も印象的なのは、二度目の長岡落城後の敗走で、継之助は戦闘で左足に重症を負っており、戸板に乗せられて、見附、吉ヶ平を経て、八十里越を会津へ向います。会津藩領内に至ったものの、傷が悪化して、動けなくなり、会津城下にたどり着くことなく、会津塩沢において42歳で没しました。
 以下に、歴史小説『峠』の冒頭部分を引用しておきます。

☆『峠』冒頭部分
「幕末、雪深い越後長岡藩から一人の藩士が江戸に出府した。藩の持て余し者でもあったこの男、河井継之助は、いくつかの塾に学びながら、詩文、洋学など単なる知識を得るための勉学は一切せず、歴史や世界の動きなど、ものごとの原理を知ろうと努めるのであった。さらに、江戸の学問にあきたらなくなった河井は、備中松山の藩財政を立て直した山田方谷のもとへ留学するため旅に出る。  ・・・・・・・」

☆河井継之助最後の旅の行程
7月24日
 ・夜半から長岡城奪還の八丁沖渡渉作戦を開始
7月25日
 ・長岡城奪還に成功し、西軍を敗走させる
 ・午後3時頃、継之助が銃弾に当たって、左足を負傷
7月26日
 ・東軍の会津・米沢藩兵ら長岡城に入城する
7月29日
 ・長岡城が西軍の猛攻で再度落城し、敗走する
8月2日
 ・継之助、戸板に乗せられて見附を立つ
8月3日
 ・継之助、吉ヶ平に到着
8月4日
 ・継之助、八十里越の途中、山中で泊まる
8月5日
 ・継之助、会津領の叶津着、叶津番所に泊まる
8月6日
 ・五十嵐清吉宅に逗留して、傷の加療を行う
8月12日
 ・継之助、塩沢に到着するも重体で動けなくなる
8月16日
 ・塩沢の医家矢沢家で息を引き取る、享年42歳・10月30日

☆歴史小説『峠』の関係地
 
(1)河井継之助旧宅址・河井継之助記念館<新潟県長岡市>
 小説『峠』の主人公でもある幕末の長岡藩政を担った河井継之助ゆかりの品々などを展示する記念館です。長岡市制100周年・合併記念事業の一環として、河井継之助の屋敷跡にあった建物を改修し、2006年(平成18)12月27日にオープンしました。継之助が西国遊歴の際に書いた旅日記『塵壺(ちりつぼ)』や、旅先の九州で買った蓑、司馬遼太郎の小説『峠』の自筆原稿など、ゆかりの品約30点を展示しています。窓からは継之助が暮らした当時の面影が残る庭を眺めることもできました。継之助の足跡を調べたり、小説『峠』を訪ねたりする場合には、ぜひ立ち寄りたいところです。

(2)慈眼寺<新潟県小千谷市>
 薩長軍(西軍)との戦いを避けるため、1868年(慶応4)5月2日に西軍方の軍監岩村精一郎と会談した場所です。会談は30分ほどで決裂し、長岡藩は会津藩擁する奥羽列藩同盟に参加、長岡に同調する越後諸藩を加えて「奥羽越列藩同盟」を結成しました。この結果、戊辰長岡戦争へ突入することになります。現在でも、寺の中に、その会談の部屋が、“河井・岩村会見の間”として当時のまま残されています。2004年(平成16)10月23日の新潟県中越地震で建物が大きな被害を受けましたが、やっと復旧し見学できるようになりました。このときの会見の様子について、歴史小説『峠』では次のように描いています。

 ・・・・・・・・
「とにかくも、いましばらく、時日をかしていただきとうござりまする。時日さえかしていただければ必ず藩論を統一し、かつ会津、桑名、米沢の諸藩を説得して王師にさからわぬよう申し聞かせ、越後、奥羽の地に戦いのおこらぬように相努めまするでござりましょう」
(なにをほざいている)
と、岩村軍監はおもった。岩村の先入主からみれば、継之助の腹の中はすきとうるほどにあきらかである。「時日をかせ」というが、うかうか時日をかせばかならず戦備をととのえるであろう。戦備をととのえるための小細工に相違なかった。そういうことはすべて諸種の情報からみてあきらかなのである。岩村は、そうおもった。
継之助は、懐中から書状をとりだし、用意の三方にのせ、岩村に押しやり、
「嘆願書でござりまする。申しあげたきこと、すべてはこの書面にくわしく書き連ねてござりまするゆえ、ぜひぜひお取り次ぎくださりますように」
官軍総督である公卿に奉ってほしい、というのである。
岩村軍監は両膝の上においた手をにぎりしめ、肩を怒らせた。
-舐めるな。
と叫びたそうな心情が、その表情にあらわれている。すぐ声をはっした。
「お取り次ぎはできぬ」
つづけさまにいった。
「嘆願書をさしだすことすら無礼であろう。すでにこれまでのあいおだ一度でも朝命を奉じたことがあるか。誠意はどこにある。しかも時日をかせ、嘆願書を取り次げ、などとはなにごとであるか。その必要いささかもなし。この上はただ兵馬の間に相見えるだけだ」
 ・・・・・・・・
         歴史小説『峠』 司馬遼太郎著より

(3)長岡城跡<新潟県長岡市>
 戊辰長岡戦争の舞台となった所ですが、戊辰戦争後城跡は徹底破壊され、駅前の厚生会館脇に石碑が建っているだけです。しかし、旧城下には、長岡藩の本陣となった光福寺や“米百俵の碑”、“明治戊辰戦跡顕彰碑”、“河井継之助開戦決意の地記念碑”などの記念碑、関係者の墓石等が散在していて当時を偲ぶことがことが出来ます。「長岡市立科学博物館」(長岡市幸町2-1-1)内の「長岡藩主牧野家史料館」には、長岡藩関係の展示と共に、長岡城の復元模型が置かれていますが、とても立派な城郭だったことがわかります。

(4)『峠』文学碑<新潟県小千谷市高梨>
 司馬遼太郎の『峠』文学碑は小千谷市高梨の「越の大橋」のたもとの小公園にあります。信濃川を挟んだ対岸は長岡市妙見、そして南に小千谷に通じる険しい榎峠と朝日山が続くのが見渡せるところです。碑文の表面には、『峠』の一説で、この付近の事を書いた部分が書かれています。裏面には、作者の司馬遼太郎自身が書いた、『峠』の解説が載せられています。

     峠                                司馬遼太郎

 主力は十日町を発し、六日市、妙見を経て榎峠の坂をのぼった。坂の右手は、大地が信濃川に落ちこんでいる。
 川をへだてて対岸に三仏生村がある。そこには薩長の兵が駐屯している。その兵が、山腹をのぼる長岡兵をめざとくみつけ、砲弾を飛ばしてきた。この川越の砲弾が、その方面の戦争の第一弾になった。

   『峠』文学碑の碑文表面より

 江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。 17世紀から270年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われたのである。
 その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは、藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自な近代的な発想と実行者という点で、きわどいほどに先進的だった。
 ただこまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。
 その勢力が小千谷まできた。かれらは、時代の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。
 継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。といって屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。
 かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることにのみ終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はいない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。
 「峠」という表題は、そのことを小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。
 
    平成5年11月                        司馬遼太郎
    
   『峠』文学碑の碑文裏面より

(5) 八丁沖古戦場<新潟県長岡市>
 当時は、南北約5㎞、東西約3㎞にわたる大沼沢地でしたが、今では一面の水田地帯となっています。1868年7月25日未明、西軍によって5月19日に落城した、長岡城奪還のため、河井継之助の指揮のもと690余名が渡渉して奇襲した所です。この作戦は、西軍の虚を突き、みごと長岡城奪還に成功します。現在では、渡渉地に八丁沖古戦場パークが作られ、記念碑が建てられています。また、その近くの日光社には、この作戦の先導役を務め、戦死した鬼頭熊次郎の碑があって、激しかった戦闘を偲ぶと共に、継之助の戦術の巧みさに驚かされます。

(6) 吉ヶ平<新潟県三条市>
 7月25日、長岡軍は八丁沖から新政府軍を奇襲し長岡城を一時奪い返しましたが、この戦闘で軍事総督河井継之助が左膝下に鉄砲の玉を受けて負傷、戦線から離脱せざるを得なくなります。戸板に乗せられた継之助は昌福寺、見附、文納、葎谷を経由し、8月3日に吉ヶ平にたどり着き、庄屋椿家で泊まりました。ここからが会津へと向かう山越えの難所の八十里越で、苦労して越え、8月5日には会津側の叶津へ着いています。吉ヶ平は、この八十里越の越後側の最後の集落で、江戸時代から峠越えの拠点となっていましたが、1843年(天保14)に、塩の輸送を主目的として改修され、馬も通れるようになったため交通量も飛躍的に増加しました。しかし、大正末期に只見地方に鉄道が開通すると八十里越の交通は減少し、街道としては衰退していきます。それでも炭焼き等で生計を立ててきましたが、昭和30年代以降の木炭需要の減少や豪雪もあって、1970年(昭和45)に集団離村して廃村となりました。その後は、旧分校を利用した「吉ヶ平山荘」だけが残り、八十里越ハイキングや守門岳等の登山客の利用に応じ、近年は「吉ヶ平自然体感の郷」としてキャンプや釣り堀客などが訪れ、建物も新しくなっています。この吉ヶ平について、歴史小説『峠』では以下のように描いています。

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八十里 こしぬけ武士の 越す峠

 このときはじめて咆えた。「置いてゆけ」頼むからおれを戦場に置いてゆけ、という。きかずに担架をすすめた。担架は松蔵がつくったもので、ちょうどベットに屋根をつけ、棒を渡して大型の辻駕籠のようにしつらえたものであった。底には戦利品の毛布(ケット)をたっぷり敷いて、衝撃を緩和するようにしてある。
見附へゆき、そこから東方の烏帽子山をのぞみつつ幾日もかかって山村を通過してゆく。8月3日吉ヶ平に着いた。このさきは会津へ越える国境の八十里越である。
置いてゆけ。と、ここでも激しくむずかった。
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      歴史小説『峠』 司馬遼太郎著より

(7) 叶津番所跡(旧長谷部家住宅)<福島県南会津郡只見町>
 継之助が負傷し、戸板に乗せられて、八十里越した後、8月5日に1泊した所で、すでに重篤な状態でした。この建物は河井継之助が敗走時泊まった所としては、唯一当時のまま現在地に保存され、福島県の重要文化財に指定されています。江戸時代前期の1643年(寛政10)築といわれ、茅葺き屋根の曲り屋づくり、会津藩の役人が滞在するために造られた奥座敷や囲炉裏を囲む座敷、高い天井なども見られます。また、敷地内には隠し部屋なども残されてきました。尚、番所後方には築300年程度といわれる国重要文化財「旧五十嵐家住宅」があり、見学することもできます。

(8) 河井継之助記念館<福島県南会津郡只見町>
 継之助終焉の地で、医家矢沢家で息を引き取った部屋(矢沢家は1962年の滝ダムの建設で湖底に水没)が、記念館内に移築保存されています。享年42歳、8月16日のことで、塩沢に着いて4日後でした。館内の展示によって、彼の偉大な業績と先駆的な考えを知ると共に、戊辰長岡戦争の全貌を考える上では大変重要な施設です。近くの医王寺には、火葬後の細骨を集めて、村人が建てた墓があります。継之助終焉の様子について、歴史小説『峠』では以下のように描いています。

 ・・・・・・・・
「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」と命じた。
松蔵はおどろき、泣きながら希みはお待ちくだされとわめいたが、継之助はいつものこの男にもどり、するどく一喝した。
「主命である。おれがここで見ている」
松蔵はやむなくこの矢沢家の庭さきを借り、継之助の監視のもとに棺をつくらざるをえなくなった。
松蔵は作業する足もとで、明かりのための火を燃やしている。薪にしめりけをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、風はなかった。
「松蔵、火を熾(さか)んにせよ」と、継之助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがて自分を焼くであろう闇の中の火を見つめつづけた。
夜半、風がおこった。
8月16日午後8時、死去。

       歴史小説『峠』 司馬遼太郎著より

(9) 栄涼寺<新潟県長岡市>
 光輝山栄凉寺は、長岡藩主牧野氏の菩提寺で、長岡藩軍事総督として北越戊辰戦争の指揮をとった河井継之助をはじめ、12代藩主牧野忠訓や北越戊辰戦争後、廃墟となった長岡の復興に尽力した、三島億二郎らの墓があります。牧野氏が三河国牛久保(愛知県豊川市)城主時代に創建され、牧野氏の移封に伴って、上州大胡(群馬県前橋市大胡地区)を経て、現在地に移りました。


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