ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「弘仁・貞観文化」

2019年12月21日 | 旅の豆知識
 平安時代前期に花開いた文化で、平安京に遷都された794年(延暦13)から遣唐使が廃止された894年(寛平6)までの約1世紀の文化です。その特徴は、①平安京を中心とした貴族文化で、晩唐文化の影響が見られること、②天台宗・真言宗など密教の影響が濃い仏教文化でもあること、③神仏習合の動きが強まったのがこの時期であること、などとされてきました。
 平安時代前期には、班田収授の法が崩れはじめ、荘園が増加していきますが、まだ国衙、郡衙などの機能は維持されていきます。また、797年(延暦16)に坂上田村麻呂が征夷大将軍に就任し、東北地方の蝦夷との戦いが激化します。802年(延暦21)に胆沢城を築城、803年(延暦22)に志波城を築城し、徐々に支配権を北に拡大していきました。紆余曲折がありながら、811年(弘仁2)に文室綿麻呂が征夷大将軍となって、9世紀の中ごろまでに、ほぼ東北地方を支配下に置いたと考えられてきました。その中で、894年(寛平6)に遣唐使が中止されるまでは、唐との交流が続き文化的にも大きな影響を受けます。遣唐使により唐から帰国した最澄が天台宗を開き、空海が真言宗を開いたのもこの時代でした。
 その代表として、室生寺金堂・五重塔などの仏教建築、元興寺薬師如来立像、観心寺如意輪観音坐像、室生寺弥勒堂釈迦如来坐像、法華寺十一面観音立像、薬師寺僧形八幡神像などの彫刻、園城寺不動明王像(黄不動)、東寺両界曼荼羅、神護寺両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)などの絵画、書道では唐風がもてはやされ、嵯峨天皇、空海、橘逸勢が三筆と称せられ、真筆としては、教王護国寺(東寺)の空海筆『風信帖』、延暦寺の嵯峨天皇筆『光定戒牒』などが残されています。また、文学としては、『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』、『性霊集』、『菅家文草』などの漢詩文集、『日本霊異記』などの説話集、歴史書としては『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『類聚国史』などが編纂されました。
 尚、有力貴族は子弟の教育のため大学別曹という私的な寄宿施設を設けましたが、和気広世創立の弘文院、藤原冬嗣創立の勧学院、橘嘉智子・橘氏公創立の学館院、在原行平創立の奨学院の4つが有名で、一般庶民のための教育機関としては、空海が創立した綜芸種智院が知られています。

〇弘仁・貞観文化を巡る旅7題

 旅先で弘仁・貞観文化の関係地を訪れ、良かった所を7つ、北から順に紹介します。

(1) 志波城跡<岩手県盛岡市>

 平安時代前期の803年(延暦22)に、征夷大将軍の坂上田村麻呂が造営した古代城柵跡です。『日本紀略』延暦22(803)年には、越後国から米と塩とを志波城に送ったことが書かれていました。蝦夷の首長アテルイ(阿弖流爲、阿弖利爲)を滅ぼした後、朝廷が蝦夷を統治するために設置したものです。陸奥国の最北に位置し、国府の多賀城に劣らない規模を持ち、政治・軍事上の拠点でしたが、雫石川の洪水被害をたびたび受けたため、10年後に主要な機能を南にある徳丹城へ移転しました。長らく所在地がはっきりしませんでしたが、東北自動車道建設にともなう、1976年~1977年の発掘調査で、築地塀や大溝、竪穴式住居跡が発見され、1984年(昭和59)に、『日本紀略』に記載のある「志波城」の遺跡として、国の史跡に指定されました。発掘の結果、城の外郭は、840m四方の築地塀で囲まれ、その外側に928m四方の堀を設けて2重に区画し、その中に官衙の建物が配され、外郭の外側には兵舎と思われる多数の竪穴住居跡があったことがわかっています。現在は、「志波城古代公園」として整備され、外郭南門、築地塀、政庁の南・西・東それぞれの門、官衙建物などが復元されました。復元された官衙建物は、コンピューターグラフィックで当時の姿を鑑賞できる展示室として整備されています。また、2015年(平成27)より、ガイダンス施設である「志波城古代公園案内所」と復元竪穴建物が公開開始となりました。

(2) 下野国庁跡<栃木県栃木市>

 国庁は、律令国家体制の地方行政庁で、この所在地を国府と言います。栃木県栃木市にある下野国府跡の発掘調査として、1976年(昭和51)から開始され、1979年(昭和54)に国庁跡が確認されました。その後、1982年(昭和57)に国の史跡に指定されて保存され、1994年(平成6)には、前殿が当時の姿に復元されています。また、1996年(平成8)に、敷地内に「下野国庁跡記念館」が開館し、出土品が無料公開されており、当時の国庁での政務や官人の生活の一端を知ることが出来ます。

(3) 信濃国分寺・国分尼寺跡<長野県上田市>

 奈良時代の741年(天平13)に出された、聖武天皇の「国分寺建立の詔」により日本各地に建立された国分寺(僧寺と尼寺)のうちの一つの跡です。七堂伽藍を備え、南大門、中門、金堂、講堂は南北に1列に並び、塔は南東側の回廊の外にある、いわゆる東大寺式(国分寺式)伽藍配置を成していました。平安時代前期までは存続していましたが、その後衰微したと考えられています。以前から古瓦を出土するとともに、土壇、礎石などが遺存していたので、1930年(昭和5)に礎石の状態がいい中心部が国の史跡に指定されました。1963年(昭和38)から1971年(昭和46)にかけて発掘調査が行われた結果、金堂跡、講堂跡、塔跡、回廊跡などの存在が明らかになり、100間(約178m)四方の寺域がほぼはっきりします。さらに、西方に接して国分尼寺跡の遺構も発掘されたため、1968年(昭和43)に、史跡の指定地域が拡大されました。現在は、史跡公園として整備され、遺構は埋め戻しによる基壇復元方式がとられていて、見学できます。1980年(昭和55)には、公園の一角に「上田市立信濃国分寺資料館」が開館し、出土品等が展示されるようになりました。また、その300m北に後継の国分寺があり、三重塔(国重要文化財)、本堂(県宝)などの建築物があります。

(4) 志太郡衙跡<静岡県藤枝市>

 郡衙(ぐんが)は、日本の古代律令制度の下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所です。静岡県藤枝市にあるこの郡衙跡は、1977年(昭和52)、住宅団地の造成工事に伴って発見された遺跡で、掘立柱建物や門、板塀、井戸、道路などの遺構群が検出されました。同時に「志太」の郡名や官職名など記した大量の墨書土器や木簡、硯、食器類、木製品が多数出土したことから、奈良・平安時代の郡役所であることが分かりました。1980年(昭和55)に国の史跡に指定されて公園化され、門や板塀が復原され、中心建物の位置が表示されています。また、公園内の「志太郡衙跡資料館」では、遺跡の発見から復原整備までの様子を展示しており、古代の郡役所の生活を立体的に学習することができます。

(5) 斎宮跡<三重県多気郡明和町>

 斎王の宮殿と斎宮寮という役所のあったところで、飛鳥・奈良時代から南北朝時代にわたる遺跡です。斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣されました。1979年(昭和54)に国の史跡に指定されて、公園となっており、その一角に「斎宮歴史博物館」が立っています。ここでは、文献史料、葱華輦、群行模型、斎王居室復元模型、斎宮に関係する古典文学等を展示しています。また、徒歩15分のところにある「いつきのみや歴史体験館」は、斎宮が最も栄えた平安時代を中心に、歴史や文化を身近に体験・学習できる歴史体験施設となっています。また、2015年(平成27)には史跡公園「さいくう平安の杜」が完成しました。

(6) 教王護国寺(東寺)<京都府京都市南区>

 東寺真言宗の総本山(山号は八幡山)で、東寺とも呼ばれています。平安時代初期の796年(延暦15)に桓武天皇が羅城門の左右に平安京の鎮護のため、東寺、西寺を創建したのに始まるとされ、823年(弘仁14)に嵯峨天皇から空海に勅賜され、50人の僧を置いて真言密教の根本道場となりました。鎌倉時代に文覚が寺威の高揚をはかって堂舎を修復、南北朝時代に頼宝、杲宝(こうぼう)、賢宝が出て教学を大成し、寺は内外ともに隆盛となります。しかし、室町時代後半の1486年(文明18)の火災で堂塔など大部分を焼失し、のち豊臣秀吉や徳川家光の助力により、金堂・五重塔などが再建されました。何度かの火災により、創建当初の建造物はありませんが、南大門から金堂、講堂、食堂と一直線に並ぶ伽藍配置は奈良の諸大寺の伝統を受け継いでいます。現存の建物では、蓮華門(鎌倉時代)、大師堂(室町時代)、金堂(安土桃山時代)、五重塔(江戸時代前期)が国宝となり、講堂(室町時代)、灌頂院(江戸時代)などが国重要文化財に指定されました。寺宝として、講堂の密教諸尊像、その他『兜跋毘沙門天立像』、『不動明王坐像』などの仏像彫刻、『真言七祖像』、『両界曼荼羅図』、『十二天像』、『五大尊像』などの仏画、伝空海将来の密教法具類、『犍陀穀糸袈裟』、『海賦蒔絵袈裟箱』などの工芸品、空海の書『風信帖』など多数の国宝指定の美術工芸品、歴史的資料を収蔵しています。1934年(昭和9)に境内は国指定史跡となり、1994年(平成6)には「古都京都の文化財」の一部として世界遺産(文化遺産)に登録されました。

(7) 室生寺<奈良県宇陀市>

 奈良盆地の東方、三重県境に近いところにある山岳寺院で、室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在していて、荘厳な雰囲気が漂っています。弘仁・貞観文化を代表する建築(金堂、五重塔)や仏像(木造釈迦如来立像、木造十一面観音立像、木造釈迦如来坐像、)が多く残されてきました。いずれも国宝に指定されていて、この時代の文化財を見るには欠かせないところです。また、女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名があります。境内はシャクナゲの名所としても知られています。

☆弘仁・貞観文化の主要な文化財一覧

<文学>

・『凌雲集』:勅撰の漢詩文集(814年)
・『文華秀麗集』:勅撰の漢詩文集(818年頃)
・『経国集』:勅撰の漢詩文集(827年)
・『性霊集』:空海の漢詩を弟子の真済が編纂した漢詩文集(835年頃)
・『菅家文草』:菅原道真編纂の漢詩文集(900年献上)
・『文鏡秘府論』:空海による漢詩文の評論書(弘仁年間完成)
・『日本霊異記』:景戒編纂の仏教説話集(822年)

<歴史書>

・『続日本紀』:官撰の正史(797年完成)
・『日本後紀』:官撰の正史(840年完成)
・『続日本後紀』:官撰の正史(869年完成)
・『類聚国史』:菅原道真編纂の勅撰史書(892年)

<建築>

・室生寺金堂・五重塔

<彫刻>

・教王護国寺(東寺)講堂五大明王像・不動明王像
・元興寺薬師如来立像
・観心寺如意輪観音坐像
・室生寺弥勒堂釈迦如来坐像・金堂釈迦如来像・十一面観音立像
・新薬師寺薬師如来像
・法華寺十一面観音立像
・薬師寺僧形八幡神像・神功皇后像
・神護寺薬師如来像

<絵画>

・園城寺不動明王像(黄不動)
・教王護国寺(東寺)両界曼荼羅(通称:真言院曼荼羅または西院曼荼羅)
・神護寺両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)
・西大寺十二天像

<書道>

・『光定戒牒』:嵯峨天皇の書(延暦寺蔵)
・『風信帖』:空海の書(教王護国寺蔵)

<教育>

・和気広世創立の弘文院(800年頃)建物は現存せず
・藤原冬嗣創立の勧学院(821年)建物は現存せず
・橘嘉智子・橘氏公創立の学館院(844年頃)建物は現存せず
・在原行平創立の奨学院(881年)建物は現存せず
・空海創立の綜芸種智院(828年)建物は現存せず


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