不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

ニヒリズムの克服を求めて

2004-09-15 01:04:00 | インポート

これは去年の8月に私がある掲示板に投稿したものです。

《はじめ》
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私の精神の半分(いや5分の1くらい)にはニヒリストが棲んでいます。そいつはいつもこう言います。

『「明日地球が滅びようとも、私は林檎の木を植える」 だって?

それはただの自己欺瞞、自己満足なんだよ。人間がこの世に生まれてくることに、何の意味も目的もない。人間はそういう孤独や絶望に耐え切れなくて、神を信じたり、来世を信じたりして、救いを求めるのさ。ありもしないものを信じて自分をだますのさ。

樹を植えたり、子供を作ったりするのも、同じことだ。自分がいずれ死ぬということを考えないようにしたいのさ。樹や子供が生き延びれば、自分もそれに便乗していっしょに生き続けていけると錯覚しているんじゃないか? 愚かなことだ。

自分がいずれ消滅するということを、直視できないんだ。文学や芸術なんていうのも、みんなそうだ。恐ろしい現実から逃れるための、夢装置にすぎないんだよ。美だの愛だの神だの、ありもしないものを、あるように見せかけて、この世の恐ろしい虚無をごまかすのさ。一時の夢で自分を酔わすのさ。

現実を直視するとは、自分を騙さないことだ。生きることに何の意義も価値もないと、はっきりと認めることだ。そして美だの愛だの神だのという、たわ言を言わないことだ。そんなものは死や虚無を覆い隠す花柄の布みたいなものだ。真の強者に、そんなものは必要ない。』

自分で書いてて恐ろしくなってきました。

でも現代の冷徹な哲学思想や科学思想(特に精神科学)の背後には、この悪魔のささやきともいえる言葉が、いつも感じられます。いえ、現代哲学や現代科学が、はっきりとそう言っているわけではないんです。それらの本を読んでいると、「それって結局、すべては自分をだますための夢にすぎないと言ってるのと同じじゃないか」と言いたくなってしまう、ということです。

このニヒリズムに打ち勝つには、どうしたらいいのでしょう。(ドストエフスキーも、こういう、いわば無神論と格闘していました。たとえば「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」とか)
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《おわり》

私はこのニヒリストのささやきを、断じて間違っていると思います。命と心の実在性や永遠性を説く思想に、私は何とか、言葉の力で、それこそ命と心をふきこみたい。


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5 コメント

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はじめまして 黒骨と申します。 (黒骨)
2004-09-15 22:52:02
はじめまして 黒骨と申します。

 「それって結局、すべては自分をだますための夢にすぎないと言ってるのと同じじゃん」>

 もし夢だったとして あなたはその夢をどう過ごしますか?
 
 私は今でも年に二回くらい同じ夢をみます。
 いじめっ子に泣かされている弟を助けられない夢です。

 目がさめていつも後悔します。
 「夢の中くらい兄貴らしく体を張って弟を助けろよ!オレ!」もう何回おもったことでしょう。

 今いる世界がたとえ夢だったとしても 自分自身に後悔しない生き方ができれば最高ですよね。

 <自分がいずれ消滅するということを、直視できないんだ。文学や芸術なんていうのも、みんなそうだ。恐ろしい現実から逃れるための、夢装置にすぎないんだよ。美だの愛だの神だの、ありもしないものを、あるように見せかけて、この世の恐ろしい虚無をごまかすのさ。一時の夢で自分を酔わすのさ。>これって 仏教ですよ。

 長々とすみません。
「ある」と思えばある(文的) (きすぎじねん)
2004-09-16 03:23:09
「ある」と思えばある(文的)
「ない」と思えばない(理的)
はっきりいってしまえば、moriさんの中では、両者が共存しているが故、矛盾し、対立し、不合理なのでは、ないでしょうか?

片方のみに固執しておられるのなら、内部矛盾は生じないし、苦悩する理由すらない。

「ある」とか「ない」とかにかかわらず、moriさんは生き・考え・行動なさっているはずです。
なぜなら、両方の立場をさまよっているからです。

であるとすれば、「ある」とか「ない」とかにかかわらずに、moriさんの生き方が可能だということです。
これは、両者を超越するとかいったことではなく、両者を並列して受け入れた上で、なおかつ、どちらが真実であろうとも、後悔しない生き方を見つけるということに他ならないと思います。
「死後の世界が有る」と思って自爆テロに走るのではなく、「死後の世界が無い」と思ってこの世の快楽をむさぼりつくそうとするのでもない。
そういった「ある・ない」にとらわれることで生きる方針が左右されることのない、moriさんとしての生きかたを、ご自身で見つけ出すことが、本来的であろうかと思うわけです。
仏教といえば。。。 (きすぎじねん)
2004-09-16 03:57:00
仏教といえば。。。

「ブッダの言葉」(スッタニパータ)、中村 元訳、岩波文庫
http://sugano.web.infoseek.co.jp/
で、
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta.htm#4-2

洞窟についての八つの詩句
779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。
(中村 元訳の岩波文庫版では、「激流」→「流れ」です)

ここにおいて、「所有したいという執着」を「ある・ないのどちらかへの執着」とし、「この世」・「かの世」を「ある」・「ない」に置き換えてみてもいいかもしれません。

すなわち、
779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、「あるとかないとかいったことへの執著」に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、「あるということ」も「ないということ」も望まない。

に、なろうかと思うわけです。
黒骨さん、コメントありがとうございます。 (mori夫)
2004-09-17 19:01:25
黒骨さん、コメントありがとうございます。

> 自分自身に後悔しない生き方ができれば最高ですよね。

まさにそれが大問題ですよね。「後悔しない生き方」とはどんな生き方? 何のために生きればいいのでしょう? 「後悔しない」ということの価値基盤は、どこにあるのでしょう? (反論しているわけではないです。私はいつも、こんなことを考えてきたのでした。)

> これって 仏教ですよ。

私は仏教をよくわかっていないのですが、これは「色即是空」のことを言っているのでしょうか。この世にあるように見えるものも、すべて幻である。というような?

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きすぎじねんさん、毎度どうもです。

<両者を並列して受け入れた上で、なおかつ、どちらが真実であろうとも、後悔しない生き方を見つけるということに他ならないと思います。>

その「後悔しない生き方」って何でしょう? 簡単に見つかるのでしょうか? (あ、いえ、反論してるわけじゃないです。)人生なんて、生まれてから死ぬまで、一生後悔し続けるためにあるような気もします。後悔しなくなると、それで人間も人生も、完成してしまう? そういうことって、あるのでしょうか?

<「所有したいという執着」を「ある・ないのどちらかへの執着」とし、「この世」・「かの世」を「ある」・「ない」に置き換えてみてもいいかもしれません。想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、「あるとかないとかいったことへの執著」に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、「あるということ」も「ないということ」も望まない。>

素直に読んで、深く考えないようにすれば、この言葉も納得できるような気もします。でも、じゃ日々を具体的にどう生きるの? ということになると、どうにもわかりません。「何も望まずに励む」って、何を励むの? きすぎじねんさんは、それが何を意味するか、分かってらっしゃる? (意地悪質問みたいですね。すみません)

「洞窟についての八つの詩句」を読むと、家族愛のような執着も持ってはいけないと、言われている気分になります。
=== (きすぎじねん)
2004-09-18 02:12:58
===
> <両者を並列して受け入れた上で、なおかつ、どちらが真実であろうとも、後悔しない生き方を見つけるということに他ならないと思います。>
>
> その「後悔しない生き方」って何でしょう? 簡単に見つかるのでしょうか? (あ、いえ、反論してるわけじゃないです。)人生なんて、生まれてから死ぬまで、一生後悔し続けるためにあるような気もします。後悔しなくなると、それで人間も人生も、完成してしまう? そういうことって、あるのでしょうか?
===

言い方が悪かったかもしれません。
後悔のない人生などないのは、明白な事実です。
ようするに、「【ある】ということを信じて生きていく自分」だったら、こうするであろう。ということと、「【ない】ということを信じて生きていく自分」だったら、こうするであろう。ということの両者において、心が両側に揺れ動くとき、たとえば、「死後の世界が有るから、現世では、死後の世界に向けて節制しなければならない」と考える自分を見出すとします。そして、他方で、「死後の世界が無いから好き放題生きてやる。他人をだましてでも、法に触れなければいいんだ。」と考える自分を見出すとします。そういう風に、基本的なレベルで考え方が異なっている場合に、(この例の場合は、あまりにも極端ですが)自己の生き方自身が変わりうると思うのなら、そしてそれぞれの立場に対して迷いがあるのなら、後悔のベースにこれら基本的な考え方がかかわってくると思うのです。ようするに、信心など持ったことの無い人が、ある日突然信心を抱くとき、それまでの人生を深く反省し、後悔するはずです。そういった意味での後悔です。
逆に言えば、「【ある】ということを信じて生きていく自分」だったら、こうするであろう。ということと、「【ない】ということを信じて生きていく自分」だったら、こうするであろう。ではなく、どちらの人生を生きたとしても、そして真理がどちらであったとしても、【ある】【ない】にかかわらず納得いくいき方を生きることができれば、それこそ、「とらわれることの無い人生」を生きたといえるのではないでしょうか?

===
> <「所有したいという執着」を「ある・ないのどちらかへの執着」とし、「この世」・「かの世」を「ある」・「ない」に置き換えてみてもいいかもしれません。想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、「あるとかないとかいったことへの執著」に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、「あるということ」も「ないということ」も望まない。>
>
> 「何も望まずに励む」って、何を励むの? きすぎじねんさんは、それが何を意味するか、分かってらっしゃる? (意地悪質問みたいですね。すみません)
> 「洞窟についての八つの詩句」を読むと、家族愛のような執着も持ってはいけないと、言われている気分になります。
===

あわせて、「最上についての八つの詩句」もみてください。下記引用文にて取り上げられている形而上学的論争についての、基本的な考え方が述べられています。

スッタニパータは、仏教(哲)学的に、最古の伝承文と言われています。すなわち、最もブッダの思想に近いといわれています。

「何も望まず」というところの解釈が問題になるかもしれません。素直に読みすぎると、(また、ブッダの生きた時代背景を知らずに読むと)、虚無思想に陥ってしまう嫌いがあります。

「自分が一滴もいない」は真実か?のコメントにて引用した部分を再引用します。
===
ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。
===
かの時代では、「前世」で悪いことをしたから身分低く生まれるのだ。という考え方が主流だった時代です。ようするに、「現世」での善行が、因果として「来世」の自分に「ご利益」として帰ってくるから、善行をする。という意味での「望み」になろうかと思います。
この問題は、そのまま「右手と左手」問題になります。そういった問題を「ある・ない」にかかわらず「生きていく」という基本的な姿勢を求めたものと捉えられるのではないかと思うわけです。

そういう意味で、
「自分が一滴もいない」は真実か?にてmoriさんが引用された
===
ニーチェも、はっきりと、こう言っていました。

人間が人間であることの意味を、超越論的なもの(冥界や背後世界といったもの)に求めるな。「いまこのとき、この生」にこそ、根源的価値があるのだ。これこそを肯定せよ。死後の世界を望むな。現世は来世のための修行の場などではない。
===
は、「来世」があるということと、ないということの両方を否定かつ肯定している発言です。その、どちらであったとしても「今・ここ」のこの人生を精一杯生きよということになるはずです。この点において、ニーチェもブッダも同じことを言っています。

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