不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

幻想と実在

2017-07-23 08:50:23 | 日記
例えば国家。例えば民族。それは人々の共同幻想だと多くの知識人が言う。本当は存在しないのに、そういうものが存在するという人々の思い込みによって、集落や集団が特定の名前で呼ばれ、まるでそれが一つの確固たる実在のように扱われる。

また例えば企業や会社。これもそういう論法で言えば、本当は存在しない幻想だ。会社の実体がどこにあるかというと、社長でもなく、本社社屋でもなく、登記簿でもなく、社員でもなく、実体のない、人々の共同幻想にすぎない。

そしてまた例えば神社や仏閣。その本殿の奥の秘められ場所には、神や仏が鎮座していると語られ、訪れた人は手を合わせるが、ほとんどの人は、そういう神や仏は、神社仏閣の建物の中には本当はいないだと、心の奥ではわかっている。

そのような、本当は存在しないものを、実際に存在するものであると思いこんで、その思いこみを多くの人々が共有することで、社会生活も可能になるのだが、これは脳の仕業であると、養老孟司さんなんかは言う。脳にはそういう幻想を作り出して人間同士で共有する機能があるのだと。

しかし「唯脳論」とか「脳化社会」という養老孟司さんの解説の言葉に、どうも私は納得できない思いでいる。実在すると言えるのは物質メカニズムとしての脳機能だけみたいな、つまり科学的思考に偏りすぎているのだ。科学的に存在を実証できないものを、実在しない幻想と言い切っていいのかどうか。

いまこの現代は、たいへんな科学主義の時代で、人間の意識や心さえも、非実在で、人間の共同幻想であるかのように言われることが少なくない。「いまここに昨日から連続している自分がいる」という自己意識の感覚さえも、人間の脳が作り出す幻想・幻覚だというのである。

「実在とは何か」を議論し出すと、途方もない泥沼にはまっていくが、とりあえず言うと、人間の五感で感じられるもの(クオリア)は、人間の感覚器と脳が作り出す幻想・幻覚であって、実在そのものではない。

科学的な計測装置も、人間の五感の感覚器の延長上のものであって、本当の実在を計測するものではない。感覚器が計測した数値や量や構造の、その意味を考えて法則を見出す(存在するものを特定する)のは、人間であって、科学という客観観察手続きではない。人間を抜きにした科学的な、純粋に客観的な実在というものは、ないのだ。

こんなふうに考えていくと、真に実在すると言えるものは、何ひとつない。でもそんなことを語っても、人間にとっても社会にとっても、何の役にも立たない。

思考の方向が逆なのだと思う。我々は純粋客観世界を究明する冷徹な観察者ではない。生身の身体を持って生きていて、いずれは死んでいく一人ひとりの人間だ。その人間の意識や心に「存在する」と感じられるものを、わざわざ「本当は存在しないものだけど」という前置きをする必要はないように思う。

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