不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

美と命・「生きる」ということの実相

2005-11-27 22:56:34 | 哲学
脳科学者でクオリア研究者の茂木健一郎さんが、「美の究明よりも美の創出のほうが「生きる」ということの実相に近い」 と語っています。「私が科学者をやめようと思った理由」(潮 1999)から全文引用します。

■引用はじめ■
 私は、今まで一度だけ、科学者をやめようと思ったことがある。

 それは、初夏のことであった。私は、琉球大学で開かれた学会に出席するため、那覇を訪れていた。会合も済み、私は、国際通りをふらふらと歩いていた。

 「チャクラ」というライブハウスの前に、看板が出ていた。後で知ったのだが、ここは、『喜納昌吉とチャンプルース』の本拠地だった。

 そうか、ここでは、喜納さんの歌が、生で聞けるのか。

 以前から、喜納さんの歌「花」の歌詞とメロディーを愛していた私は、看板を見た瞬間に、ライブハウスの階段を登り始めていた。ちょうど、その夜の大一回目のステージが始まる時間だった。アメリカに「黒船」ならぬ「白船」を送るための資金を集めるために、喜納さんの歌に合わせて、イラストレーターの黒田征太郎さんが絵を描き、即売するという特別なコンサートだった。

 オリオン・ビールを飲みながら、私は開演を待った。やがて、白装束に長髪の、ちょっとシャーマンのような雰囲気を漂わせた喜納さんがやってきた。その歌が世界中でカバーされているスターの登場というよりは、まるで、親族の集まりに、仕事を終えた当主がふらりと帰ってきた、そのような雰囲気だった。

 それから、喜納さんは、汗をかきながら、次々と歌を歌った。エネルギッシュで、それでいて脱力したような、心に素直に入ってくる歌だった。黒田さんは、喜納さんの歌に合わせて、次々と絵を描いた。納豆をまぜる人のように激しく腕を動かしながら描いた。描くと、紙を広げて、観客にどんな絵ができたか見せた。絵は、次々とステージの後ろの壁に貼られていった。名曲「花」が登場した。「ハイサイおじさん」が登場した。私の心は次第に黄金色にメルトダウンしていった。

 1時間あまりのステージは、あっという間に終わった。私は、階段を降り、国際通りの脇道の暗闇にまぎれると、どこへ行くともなく歩いた。頭の中には、今まで耳や眼がとらえていたものの残像が残って、音と光の渦を巻いていた。私は興奮していた。

 そして、唐突に思った。

 「ああ、科学者など、やめてしまいたい。科学など、やめてしまいたい。」

 その時の私の衝動は、本当にそうしてしまいかねないほど、強いものであった。

 なぜ、私がこんなことを思ったのかということについては、少々の説明が必要だろう。

 科学は、再現性のある、普遍的な真理をとらえるところにこそ、その真価がある。再現性と普遍性を追うことで、科学は、「いつでもどこでも」成り立つ法則を明らかにして、世界の真実の一端を明らかにしてきた。

 一方、芸術は、一つの美の具体例を見出せれば、それで良い。例えば、ここに、一台の美しい車があったとしよう。芸術家にとっては、たった一つの、美しい車のデザインをつくれば、それで良い。それが全てだ。

 もし、科学的に「美とは何か」を究明しようとしたら、ある一つの美しい車をつくり出すだけではなく、一般に、我々人間にとって「美」とは何か、その法則性を明らかにしなければならないだろう。科学が、全てのものに成り立つ法則を求めるのに対して、芸術は、ある特定のすばらしい作品をつくり出すことに全力を注ぐ。ここに、科学と芸術の違いがある。

 私があの夜、科学をやめてしまおうかと思ったのは、喜納昌吉、黒田征太郎という二人のアーティストのパフォーマンスに触れて、普遍的な法則など関係なく、ただ一つの、具体的な作品を生み出すことに生命を燃やしている、その生き方が心からうらやましく思えたからである。「美とは何か」などと抽象的に考えているより、美しいものを一つ創ってしまう方が、勝ちだ、そう思ったからである。その方が、「生きる」ということの実相に近い、そう思ったからである。

 あの夜、私は、確かに科学をやめようと思った。だが、結局はやめなかった。脳科学の立場から、脳と心の関係を究明するというのが私の研究テーマである。ここにも、芸術とはまた違った意味で、「生きる」ということの実相に迫れるルートがある、そのように思い直したからだ。なぜなら、芸術を感じる心も、人生に意味を見い出し、懸命に生きていく心も、全ては脳の働きとして生まれてくるから。脳と心の関係こそが、人間にとっての、最大のミステリーであるから。

 芸術には、人の心を揺さぶる力がある。あの日の私も、確かに揺さぶられた。あの日、あの場所であの二人のアーティストに接することで、私の中で、何かが確かに変わった。その何かを、脳科学者として、心と脳のミステリーの解明に生かすことも、私の課題の一つだと思っている。
■引用おわり■

「生きる」ということと「美」の関係が語られていて、非常に興味深い文章です。

私はこのブログで、「美の客観的定義は不可能だ」 とか 「心を人工的に作り出すのは不可能だ」 ということを語り続けているのですが、自分の書くものの不毛性も、つねづね感じています。

必要なのは、具体的な美を創出すること。ブログでそれを実現するなら、詩やエッセイのかたちで、確かな《心》を描くこと。理屈っぽく人工美の不可能性をくどくど説くことではない。そんな文章には誰も感心しない。

でも私の読む本は、どうしても科学系のものになってしまいます。音楽が好きなのに、楽器を奏でて新しい音楽を作ることができず、楽器やオーディオ装置のしくみにばかりこだわってしまう少年のようなものです。

「美の創出のほうが「生きる」ということの実相に近い」

茂木さんのこの言葉には、素直に共感します。美とは生命のことだと思うから。生命感を感じさせるものだけが、真に美しい。

楽譜に書かれているとおりに、毎回同じ自動演奏をする機械は、人々を感動させません。与えられたシナリオやマニュアルの通りの行動しかしないロボットも、人々から愛されることはありません。人々はそこに命も心も感じません。(道具として愛着を持つということはあるでしょうが。)

美にも生にも、法則性や原理性を超越しているところがあります。法則や原理をつきやぶって自由をめざすものが美であり生です。美にはライブ性(その場限り・一度限りという性質)が必須です。これは生そのものです。

新鮮な感受性を失っている人、ワンパターンの応答行動しかしない人、理念的なものを信じきって疑わない人、教条されたものを自分で確かめようとしない人、こういう人は精神的な死者と言えるでしょう。

生を回復するためには、強烈な美に接する必要があります。優れた芸術家は、そういう美を私たちにもたらしてくれる。芸術家ではない無名の人でも、真にいきいきと生きている人は、そういう美を周囲の人々にもたらしているものです。そしてこれこそが、望ましい人間の生き方なのだと、私は思います。

美しいとは、生きているということであり、生きているとは、自己を有していることであり、自己を有しているとは、法則や原理に還元されない自由を有していることです。

すなわち 美、生、自己、自由 これらはすべて同じものの代名詞だと思います。そしてこれを、もっとズバリとひと言で言えば 魂 です。


居場所・疎外・人間の原罪を見すえて(3)

2005-11-23 22:48:25 | 哲学
先日、仕事から帰ってきて、家で夕食をとりながらテレビを見ていたら、驚きと感動のドキュメンタリーをやっていました。日本テレビの「ザ!世界仰天ニュース」のなかの「愛犬が足をなめ重病が完治」と題された場面です。

イギリスのある青年が、海軍にいたときに足に怪我をして、神経までも損傷し、歩けなくなりました。その数年後に、医師から 「手術をすれば直るかもしれない」 と言われ、手術を受けるのですが、結果はかえって悪くなります。足が下の部分から、どんどんどす黒くなり始め(たぶん壊死)、それが膝の上にまで広がってきました。

医師からは、「手術は失敗で、片足を切断するしかない」 と宣告され、青年は絶望状態になります。しかし切断手術を数日後にひかえたある夜、眠っていた青年は、布団のなかに妙な動きを感じて目覚めます。

それは飼っていた愛犬が、布団のなかで青年のどす黒くなった足を、一生懸命なめていたのでした。もういいといってやめさせようとしても、犬はやめずに、足をなめ続けました。そしていざ手術の日になってみると、診察した医者が仰天して言います。「病状がよくなっている。もう手術の必要はない。」

青年は自宅へ帰りました。愛犬はその後も毎日毎日、1日4時間以上もなめ続けたそうです。そして青年の足はついに完治し、歩けるようになります。

科学者の話だと、犬が足をなめることによって、足の中の毛細血管が刺激され、止まりかけていた血流が復活したのだろう、ということです。

それにしても私は感動しました。西洋医学があきらめた病気を、犬が直したということもありますが、それ以上に、犬が、自分をかわいがってくれている主人が重い病気だと察知したこと、主人の患部を自分がなめてあげれば直るのだとわかっていたこと、についてです。

もちろんこの犬は、そういう「知識」を予めもっていたわけではないでしょう。「本能」によってそのように感じとったのです。

Like_an_Arrowさんは「心の誕生に関する進化論的仮説(2)」のなかで 「心とは各個体が持つ、快と苦のセンサー(受容器)なのだ」 と書かれています。

この犬は、自分の飼主の苦を受容して、あのような行動に出たのだと思います。犬にもおそらく「痛みを感じる心」はある。人間との間に共通の言葉がないだけです。けれど言葉は通じなくとも、同じ命と心を持つ者同士、通い合うものがあります。

そういうつながり合いの状態においては、相手を守ることと、自分を守ることは、同じです。相手の痛みは、決して「他人事」ではない。だからこの犬は主人の患部を必死になめる行動に出ました。

「手当て」という言葉があります。病気を治療する意味ですが、これは文字どおり「手を当てる」ことでもあります。私は手には不思議なパワーがあると感じています。自分の愛する子や愛する人の患部をさすってあげるとき、手から不思議な力が出て、患部の細胞を元気づけるような気がするのです。

これは「疎外」と正反対の行為です。病に落ちた細胞を無視したり切り捨てたりするのではなく、全体のなかへ復帰させようとする愛のよびかけのように思います。(ちょっと恥ずかしい表現ですが。)

この犬は、舌によって自分のご主人(朋友)の「手当て」をしました。このような種類の本能は、動物なら皆持っていると、私には思われます。

生物のなかの細胞と細胞の関係は、同一種の生物の個体と個体の関係と、似ているところがあります。生物は、自分とつながりのない、まったく無関係な存在に対しては、死にそうになっていても無視する。追い出そうとさえする。これが人間や動物の、生まれながらにして持っている「原罪」だと思うのです。

だからキリストは、「汝の隣人を愛せ」 と説きました。これはしかし難しいことです。生物原理に反しているとも言える。(だから神の道なのだろうけど)


居場所・疎外・人間の原罪を見すえて(2)

2005-11-16 00:24:48 | 哲学
自分には居場所があるか、無視されていないか。自分や自分が属する共同体は、誰かを疎外していないか。この問題を考える上での枠組みは、いくつもあります。

家族、地域社会、学校、企業、国家、民族、そして地球社会。そしてさらに生命界。

おりしもフランスでは、差別されて職にありつくこともできない郊外の若者たちが、暴動を起しています。差別や疎外が生まれる要因も、一様ではない。

今回は企業について考えてみます。

企業は、所属する者にとって優しい共同体ではないです。能力の劣る者や、他者とのコミュニケーションをうまくとることのできない者には、過酷な場所です。会社が給料を上げてくれたり、各種の優遇をしてくれるのも、その者が会社にとって、役に立つ存在であることが大前提です。

入社試験や中途採用面接を突破して入ってきた人でも、実務をやらせてみたら著しく能力が劣っていたということが、ままあります。そういう人はどうなるか。誰にでもできる簡単な仕事しか与えられなくなり、周囲からも厄介者扱いされ、次第に仲間はずれにされていきます。

実務能力が劣っていても社交性があり、明るいユーモアをふりまくことのできる人柄なら、まだその会社の中で生き残っていくことができる。そういうキャラの営業員としての道もある。でもそれもない人は、みじめなことになります。そして悲しいことに、そういう人ほど、周囲から「かわいそう」とか「気の毒」とか、思われない。ほとんどの場合、徹底して馬鹿にされ、無視される。愚図は、残念ながら、誰からも愛されない。

これをどう考えるか。弱者が共同体から脱落していくのは仕方がない、と考えるのか。

そのような弱者ではなくても、いつの間にか居場所がなくなって、肩をたたかれて追い出される人も、少なくない。それは世渡りの下手な人です。社会や組織の動静にうとく、打算も保身も知らず、指示されるままにノホホンと仕事をしている、とろい人です。(テツガクなぞに憂き身をやつしてきた私も、幾分そのくちです。)

こういう人は窓際に追いやられてリストラされても仕方ないのか。自分の年齢にふさわしい役割や責任を果たせない人は、居場所がなくなってもやむを得ないのか。

居場所がなくなるのは、その人の自己責任なのか。それともそういう疎外された人を生んでしまう組織や共同体のほうに問題があるのか。

前者だとする人は、アメリカ型の自由主義的な考え方をする人です。後者だとする人は、北欧型(?)の社会主義的な考え方をする人です。

私はと言えば、どちらでもない。どちらかの意見だけが、一方的に正しいとは思わない。

弱者を放り出す組織は、いわば「愛なきエゴ集団」だと思うし、かと言って、「弱者を守れ」「弱者にも仕事と収入を保障せよ」という保護主義で、すべてが丸く治まるとも思えない。多くの人が「俺も弱者だ」と言い出す体質が生まれ、組織は衰滅していく。そして皆が共倒れになる。

セオリーで解決できる問題ではないのだと思います。実際の現実を見据えて、その場その場で、真剣勝負の答えを出していくしかない。場合によってはリストラも善でしょう。

愛とは、弱者に施しを与えることではないはず。ここを世の中のかなり多くの人が、誤解していると思う。私は、寄付やボランティア活動を”麗しい善”だとして宣伝するテレビ番組などに、いつも大きな違和感を感じています。

私は弱者に対して説教をする資格など無い人間です。私も弱者だから。

でも弱者のままでいると、世の中に迷惑をかけるだけなのだ、ということは忘れずにいたい。そして同じような弱者と、叱咤し合って生きていきたい。

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安易な逃避(自分にはこれしかできないのだというあきらめ)をしがちな人々と接する上で、いじめや差別ではない、愛ある厳しさを保つ。これは何と難しいことでしょう。

私も安穏な生活に逃避したいです。

生きること、食べていくことは、辛くて苦しいことのほうが多いから。

でもこのことに対して「それは社会が悪いからだ」とは思わない。(この世に生まれてくるとは、宿命的な辛さを背負いこむことなのだから。・・・たぶん)


居場所・疎外・人間の原罪を見すえて(1)

2005-11-13 12:31:49 | 哲学
居場所という言葉をキーワードに、人間のあり方、社会のあり方について、思うところを数回に分けて書いてみようと思います。いきがいと幸福、それを喪失させる疎外、差別、いじめ、といった人間のいわば原罪についても考えてみたい。それを生命論、生物論にも敷衍させたい。

まずは宮台真司氏の文章をご紹介します。

朝日(2005.10.31)の「郊外の60年」という記事のなかで、氏は次のように述べています。

■引用はじめ■
50年代末から始まった第1段階が『団地化』だ。田舎の次男、三男が都会に出てきて工場や事務所で働き、住んだ場所が郊外団地だった。以前は生産労働を家族で担ったが、郊外住宅は食って寝る場所に特化した。バラ色の郊外生活を賛美するアメリカのテレビドラマで夢が売られたが、そこには親族・地域ネットワークは存在せず、専業主婦を中心とした家族の内閉化が進んだ。

70年代後半からの第2段階は『ニュータウン化』。モノの豊かさが達成され、家族の目標が消えた。何が幸せか、各人がバラバラになっていく時代。幻想が保てず、様々な問題が噴出した。

第2段階の郊外化は、実は家族の負担を軽減した。コンビニ、ファミレス的なものは、家族でご飯を食べる必要を免除した。電話とテレビの個室化が進み、さらに携帯電話、インターネット空間が生まれる。

家族のメンバーは個室から家族、地域という同心円を飛び越え、匿名の他人とつながった。市場化、行政化が家族の空洞を埋め合わせ、便益も感情的な安全も、家族に依存しないで済むようになった。それは、現在につながっている流れだ。

以前の家族像が崩壊しても、必要な機能を担うものが別に出てくれば問題はない。昔の家族に戻れ、といった見当違いのバックラッシュも、過去の記憶を持つ世代が退場すれば、じきに終わる。だが家族の空洞化を埋め合わせる代替物の模索は、成果を生んでいない。

僕は以前、匿名ネットやストリートが家族に代わって感情的な安全を提供してくれると思っていたが、それは見込み違いの夢だった。

個人がバラバラで流動性の高い社会では、人々は不安になり、自分が何者だか分からなくなる。地域社会が崩壊した今、再帰的に自分のホームベースを構築し、そこから世界を把握しなければ、多くの人は自分を保てない。今の日本人は、個々人が自分の居場所を自分で模索しなければならない過度的な状況だと思う。
■引用おわり■

(つづく)

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クリックすると拡大表示されます。この写真はHello World! 世界旅行の「バスの外から、しきりにマネーマネーと叫んでいた子供たち。」から掲載させていただいています。