脳科学者でクオリア研究者の茂木健一郎さんが、「美の究明よりも美の創出のほうが「生きる」ということの実相に近い」 と語っています。「私が科学者をやめようと思った理由」(潮 1999)から全文引用します。
■引用はじめ■
私は、今まで一度だけ、科学者をやめようと思ったことがある。
それは、初夏のことであった。私は、琉球大学で開かれた学会に出席するため、那覇を訪れていた。会合も済み、私は、国際通りをふらふらと歩いていた。
「チャクラ」というライブハウスの前に、看板が出ていた。後で知ったのだが、ここは、『喜納昌吉とチャンプルース』の本拠地だった。
そうか、ここでは、喜納さんの歌が、生で聞けるのか。
以前から、喜納さんの歌「花」の歌詞とメロディーを愛していた私は、看板を見た瞬間に、ライブハウスの階段を登り始めていた。ちょうど、その夜の大一回目のステージが始まる時間だった。アメリカに「黒船」ならぬ「白船」を送るための資金を集めるために、喜納さんの歌に合わせて、イラストレーターの黒田征太郎さんが絵を描き、即売するという特別なコンサートだった。
オリオン・ビールを飲みながら、私は開演を待った。やがて、白装束に長髪の、ちょっとシャーマンのような雰囲気を漂わせた喜納さんがやってきた。その歌が世界中でカバーされているスターの登場というよりは、まるで、親族の集まりに、仕事を終えた当主がふらりと帰ってきた、そのような雰囲気だった。
それから、喜納さんは、汗をかきながら、次々と歌を歌った。エネルギッシュで、それでいて脱力したような、心に素直に入ってくる歌だった。黒田さんは、喜納さんの歌に合わせて、次々と絵を描いた。納豆をまぜる人のように激しく腕を動かしながら描いた。描くと、紙を広げて、観客にどんな絵ができたか見せた。絵は、次々とステージの後ろの壁に貼られていった。名曲「花」が登場した。「ハイサイおじさん」が登場した。私の心は次第に黄金色にメルトダウンしていった。
1時間あまりのステージは、あっという間に終わった。私は、階段を降り、国際通りの脇道の暗闇にまぎれると、どこへ行くともなく歩いた。頭の中には、今まで耳や眼がとらえていたものの残像が残って、音と光の渦を巻いていた。私は興奮していた。
そして、唐突に思った。
「ああ、科学者など、やめてしまいたい。科学など、やめてしまいたい。」
その時の私の衝動は、本当にそうしてしまいかねないほど、強いものであった。
なぜ、私がこんなことを思ったのかということについては、少々の説明が必要だろう。
科学は、再現性のある、普遍的な真理をとらえるところにこそ、その真価がある。再現性と普遍性を追うことで、科学は、「いつでもどこでも」成り立つ法則を明らかにして、世界の真実の一端を明らかにしてきた。
一方、芸術は、一つの美の具体例を見出せれば、それで良い。例えば、ここに、一台の美しい車があったとしよう。芸術家にとっては、たった一つの、美しい車のデザインをつくれば、それで良い。それが全てだ。
もし、科学的に「美とは何か」を究明しようとしたら、ある一つの美しい車をつくり出すだけではなく、一般に、我々人間にとって「美」とは何か、その法則性を明らかにしなければならないだろう。科学が、全てのものに成り立つ法則を求めるのに対して、芸術は、ある特定のすばらしい作品をつくり出すことに全力を注ぐ。ここに、科学と芸術の違いがある。
私があの夜、科学をやめてしまおうかと思ったのは、喜納昌吉、黒田征太郎という二人のアーティストのパフォーマンスに触れて、普遍的な法則など関係なく、ただ一つの、具体的な作品を生み出すことに生命を燃やしている、その生き方が心からうらやましく思えたからである。「美とは何か」などと抽象的に考えているより、美しいものを一つ創ってしまう方が、勝ちだ、そう思ったからである。その方が、「生きる」ということの実相に近い、そう思ったからである。
あの夜、私は、確かに科学をやめようと思った。だが、結局はやめなかった。脳科学の立場から、脳と心の関係を究明するというのが私の研究テーマである。ここにも、芸術とはまた違った意味で、「生きる」ということの実相に迫れるルートがある、そのように思い直したからだ。なぜなら、芸術を感じる心も、人生に意味を見い出し、懸命に生きていく心も、全ては脳の働きとして生まれてくるから。脳と心の関係こそが、人間にとっての、最大のミステリーであるから。
芸術には、人の心を揺さぶる力がある。あの日の私も、確かに揺さぶられた。あの日、あの場所であの二人のアーティストに接することで、私の中で、何かが確かに変わった。その何かを、脳科学者として、心と脳のミステリーの解明に生かすことも、私の課題の一つだと思っている。
■引用おわり■
「生きる」ということと「美」の関係が語られていて、非常に興味深い文章です。
私はこのブログで、「美の客観的定義は不可能だ」 とか 「心を人工的に作り出すのは不可能だ」 ということを語り続けているのですが、自分の書くものの不毛性も、つねづね感じています。
必要なのは、具体的な美を創出すること。ブログでそれを実現するなら、詩やエッセイのかたちで、確かな《心》を描くこと。理屈っぽく人工美の不可能性をくどくど説くことではない。そんな文章には誰も感心しない。
でも私の読む本は、どうしても科学系のものになってしまいます。音楽が好きなのに、楽器を奏でて新しい音楽を作ることができず、楽器やオーディオ装置のしくみにばかりこだわってしまう少年のようなものです。
「美の創出のほうが「生きる」ということの実相に近い」
茂木さんのこの言葉には、素直に共感します。美とは生命のことだと思うから。生命感を感じさせるものだけが、真に美しい。
楽譜に書かれているとおりに、毎回同じ自動演奏をする機械は、人々を感動させません。与えられたシナリオやマニュアルの通りの行動しかしないロボットも、人々から愛されることはありません。人々はそこに命も心も感じません。(道具として愛着を持つということはあるでしょうが。)
美にも生にも、法則性や原理性を超越しているところがあります。法則や原理をつきやぶって自由をめざすものが美であり生です。美にはライブ性(その場限り・一度限りという性質)が必須です。これは生そのものです。
新鮮な感受性を失っている人、ワンパターンの応答行動しかしない人、理念的なものを信じきって疑わない人、教条されたものを自分で確かめようとしない人、こういう人は精神的な死者と言えるでしょう。
生を回復するためには、強烈な美に接する必要があります。優れた芸術家は、そういう美を私たちにもたらしてくれる。芸術家ではない無名の人でも、真にいきいきと生きている人は、そういう美を周囲の人々にもたらしているものです。そしてこれこそが、望ましい人間の生き方なのだと、私は思います。
美しいとは、生きているということであり、生きているとは、自己を有していることであり、自己を有しているとは、法則や原理に還元されない自由を有していることです。
すなわち 美、生、自己、自由 これらはすべて同じものの代名詞だと思います。そしてこれを、もっとズバリとひと言で言えば 魂 です。
■引用はじめ■
私は、今まで一度だけ、科学者をやめようと思ったことがある。
それは、初夏のことであった。私は、琉球大学で開かれた学会に出席するため、那覇を訪れていた。会合も済み、私は、国際通りをふらふらと歩いていた。
「チャクラ」というライブハウスの前に、看板が出ていた。後で知ったのだが、ここは、『喜納昌吉とチャンプルース』の本拠地だった。
そうか、ここでは、喜納さんの歌が、生で聞けるのか。
以前から、喜納さんの歌「花」の歌詞とメロディーを愛していた私は、看板を見た瞬間に、ライブハウスの階段を登り始めていた。ちょうど、その夜の大一回目のステージが始まる時間だった。アメリカに「黒船」ならぬ「白船」を送るための資金を集めるために、喜納さんの歌に合わせて、イラストレーターの黒田征太郎さんが絵を描き、即売するという特別なコンサートだった。
オリオン・ビールを飲みながら、私は開演を待った。やがて、白装束に長髪の、ちょっとシャーマンのような雰囲気を漂わせた喜納さんがやってきた。その歌が世界中でカバーされているスターの登場というよりは、まるで、親族の集まりに、仕事を終えた当主がふらりと帰ってきた、そのような雰囲気だった。
それから、喜納さんは、汗をかきながら、次々と歌を歌った。エネルギッシュで、それでいて脱力したような、心に素直に入ってくる歌だった。黒田さんは、喜納さんの歌に合わせて、次々と絵を描いた。納豆をまぜる人のように激しく腕を動かしながら描いた。描くと、紙を広げて、観客にどんな絵ができたか見せた。絵は、次々とステージの後ろの壁に貼られていった。名曲「花」が登場した。「ハイサイおじさん」が登場した。私の心は次第に黄金色にメルトダウンしていった。
1時間あまりのステージは、あっという間に終わった。私は、階段を降り、国際通りの脇道の暗闇にまぎれると、どこへ行くともなく歩いた。頭の中には、今まで耳や眼がとらえていたものの残像が残って、音と光の渦を巻いていた。私は興奮していた。
そして、唐突に思った。
「ああ、科学者など、やめてしまいたい。科学など、やめてしまいたい。」
その時の私の衝動は、本当にそうしてしまいかねないほど、強いものであった。
なぜ、私がこんなことを思ったのかということについては、少々の説明が必要だろう。
科学は、再現性のある、普遍的な真理をとらえるところにこそ、その真価がある。再現性と普遍性を追うことで、科学は、「いつでもどこでも」成り立つ法則を明らかにして、世界の真実の一端を明らかにしてきた。
一方、芸術は、一つの美の具体例を見出せれば、それで良い。例えば、ここに、一台の美しい車があったとしよう。芸術家にとっては、たった一つの、美しい車のデザインをつくれば、それで良い。それが全てだ。
もし、科学的に「美とは何か」を究明しようとしたら、ある一つの美しい車をつくり出すだけではなく、一般に、我々人間にとって「美」とは何か、その法則性を明らかにしなければならないだろう。科学が、全てのものに成り立つ法則を求めるのに対して、芸術は、ある特定のすばらしい作品をつくり出すことに全力を注ぐ。ここに、科学と芸術の違いがある。
私があの夜、科学をやめてしまおうかと思ったのは、喜納昌吉、黒田征太郎という二人のアーティストのパフォーマンスに触れて、普遍的な法則など関係なく、ただ一つの、具体的な作品を生み出すことに生命を燃やしている、その生き方が心からうらやましく思えたからである。「美とは何か」などと抽象的に考えているより、美しいものを一つ創ってしまう方が、勝ちだ、そう思ったからである。その方が、「生きる」ということの実相に近い、そう思ったからである。
あの夜、私は、確かに科学をやめようと思った。だが、結局はやめなかった。脳科学の立場から、脳と心の関係を究明するというのが私の研究テーマである。ここにも、芸術とはまた違った意味で、「生きる」ということの実相に迫れるルートがある、そのように思い直したからだ。なぜなら、芸術を感じる心も、人生に意味を見い出し、懸命に生きていく心も、全ては脳の働きとして生まれてくるから。脳と心の関係こそが、人間にとっての、最大のミステリーであるから。
芸術には、人の心を揺さぶる力がある。あの日の私も、確かに揺さぶられた。あの日、あの場所であの二人のアーティストに接することで、私の中で、何かが確かに変わった。その何かを、脳科学者として、心と脳のミステリーの解明に生かすことも、私の課題の一つだと思っている。
■引用おわり■
「生きる」ということと「美」の関係が語られていて、非常に興味深い文章です。
私はこのブログで、「美の客観的定義は不可能だ」 とか 「心を人工的に作り出すのは不可能だ」 ということを語り続けているのですが、自分の書くものの不毛性も、つねづね感じています。
必要なのは、具体的な美を創出すること。ブログでそれを実現するなら、詩やエッセイのかたちで、確かな《心》を描くこと。理屈っぽく人工美の不可能性をくどくど説くことではない。そんな文章には誰も感心しない。
でも私の読む本は、どうしても科学系のものになってしまいます。音楽が好きなのに、楽器を奏でて新しい音楽を作ることができず、楽器やオーディオ装置のしくみにばかりこだわってしまう少年のようなものです。
「美の創出のほうが「生きる」ということの実相に近い」
茂木さんのこの言葉には、素直に共感します。美とは生命のことだと思うから。生命感を感じさせるものだけが、真に美しい。
楽譜に書かれているとおりに、毎回同じ自動演奏をする機械は、人々を感動させません。与えられたシナリオやマニュアルの通りの行動しかしないロボットも、人々から愛されることはありません。人々はそこに命も心も感じません。(道具として愛着を持つということはあるでしょうが。)
美にも生にも、法則性や原理性を超越しているところがあります。法則や原理をつきやぶって自由をめざすものが美であり生です。美にはライブ性(その場限り・一度限りという性質)が必須です。これは生そのものです。
新鮮な感受性を失っている人、ワンパターンの応答行動しかしない人、理念的なものを信じきって疑わない人、教条されたものを自分で確かめようとしない人、こういう人は精神的な死者と言えるでしょう。
生を回復するためには、強烈な美に接する必要があります。優れた芸術家は、そういう美を私たちにもたらしてくれる。芸術家ではない無名の人でも、真にいきいきと生きている人は、そういう美を周囲の人々にもたらしているものです。そしてこれこそが、望ましい人間の生き方なのだと、私は思います。
美しいとは、生きているということであり、生きているとは、自己を有していることであり、自己を有しているとは、法則や原理に還元されない自由を有していることです。
すなわち 美、生、自己、自由 これらはすべて同じものの代名詞だと思います。そしてこれを、もっとズバリとひと言で言えば 魂 です。