茂木健一郎さんの「思考の補助線」(ちくま新書)から引用させていただきます。
■引用はじめ■(P216)
二十世紀の科学が取りこぼした課題のひとつは、生命現象の本質を理解するということである。(中略)
部分に分解し、解析するというアプローチは科学にとって欠かせないものであるが、それだけでは生命の本質を理解することなどできない。要するに、分子生物学の知見が積み重なり、人間の遺伝子配列が明らかになり、生命現象を支える物質的カタログが完備されてきた一方で、生命現象を構成的に理解するという試みは、ほとんど緒にもついていないに等しいのだ。(中略)
部分に分解しても理解することができない生命現象の本質論は、脳という物質に宿る心にまつわる、もう一つの本質論に直結している。意識が脳に宿ることは経験に照らしても疑いようのない事実であるが、その脳という対象を分析し、その一つひとつの部分を理解したとしても、意識が宿るその必然性を解明することなどできないのだ。(中略)
生命現象の本質を構成的に理解することは、脳の神経細胞の活動の総体に意識が宿るという不思議な事実の意味を探究することと同じ問題領域に投企を行うことを意味する。ここに、意識の起源問題、心脳問題が、より一般的な生命現象の探究の中に位置づけられるべき、論理的必然性があるのである。
■引用おわり■
この補助線をもとに、クオリアやその基盤である命と心について、私がつね日頃考えていることを書いてみます。
■命と心とクオリア
私も、命を持たないものが心を持つことはあり得ないと思っています。根拠はないけれど、かなり強い自信があります。ロボット工学や人工知能技術が飛躍的に進歩して、人間のような言動をするロボットが現れたとしても、それは心のない哲学的ゾンビにすぎないだろうと思います。ロボットはクオリアを感じません。ロボットにはその基となる「自己」や「意識」がありません。自他との境界をつくる「身体」と言えるものもありません。
クオリアは、厳密なカテゴリ化がなかなか困難ですが、あえて大別すれば、それは快と不快でしょう。生物の心身にとって有益なものは、気持ちの良いクオリアやとなり、有害なものは気持ちの悪いクオリアや苦痛のクオリアとなって、生物の心(脳)に感じられる。
クオリアは、その生物史的な意義として、生物が自分を守るためにあると思います。命がない、したがって心もない、すなわち守るべき自己がない物体や物質システムが、周囲の環境を「良い」とか「悪い」とか識別できるはずもありません。そういう仕組みなり機能をロボットの人工頭脳に組み込んで、ロボットに快・不快を言わせても、それは温度計が温度を示すのと本質的に変わりません。そこで行われるのは、単なる、物理現象の変換作業です。
■命とは何だろう
私は、命も、心も、科学の方法では、永久に解き明かすことはできないと考えています。外部から観察して客観的に究明しようするそのことが、「主体」や「主観」といったものの存在を否定する立場に立つことだからです。科学にとって生命は、「語り得ぬもの」です。(哲学にとっても、かな?)
なるほど科学は、「主体」や「主観」を生みだすメカニズムを調べて語ることができます。でもそれは、どの生物個体にでもあてはまる一般論です。物質現象の話であって、生物や生命の本質論ではない。「いまここ」に、「生きて」いて、「死んだ」ら、二度と再生しない、この「私」の「命」。その本質に科学は、近づくことができません。(科学の価値を否定しているわけでは、決してありませんよ。)
生命の本質は、唯一無二性、一回こっきり性だと思うのです。生きているうちは、守るべき「自己」があることです。死んだら二度と再生しない。死んだ生命をよみがえらせることはできない。生命には、分子や原子のような、「どれでも同じ」という性質はない。輪廻転生は、もしかしたらあるのかもしれないけど、その真偽は、永久に誰にもわかりません。(輪廻転生の話は、人間の精神の自由を奪う危険性があります。これはまた別の日に述べます。)
自分がこの世に生まれてきて、ものが見え、音が聴こえ、何が感じられる。これほど驚異的なことはありません。どんなに驚いても、驚きすぎることはない。どんな因果で、私はこの地球に、この時代に、生まれてきたのか? 自分で望んだのか? 何かの力がそうさせたのか? まったくわからない。宇宙に奇跡は起こらないが、唯一これが奇跡です。「私」という「生命」の出現は、奇跡です。そして犬や猫やネズミだって、もしかしたらミミズだって、この不条理な「私」という唯一無二性、一回こっきり性を生きている生物です。(植物や微生物もそうであるかは、私にはまだわかりません。)
■命や心は幻か
命も心も、物質現象に随伴するもので、本当は実在しない幻だと言う人がいます。でも「我思う、ゆえに我あり」です。「私」にとっていちばん確かなことは、物質現象の存在ではなく、「私」がここにいるということです。その「私」が幻だというのは、常識感覚に反する、非常に不健全な思想で、人々の生きる勇気を奪い、倫理道徳の基盤を壊すものです。小林秀雄もそのようなことを言っています。
哲学の議論サイトでそういう意見を述べたら、「そんな話は独りよがりな寝言だ」、「命や心が実在だというのなら、その証拠を示すなり、矛盾のない論理で説明してみよ」と皆につっこまれて、往生したことがあります。「常識で考えれば、誰もが納得する話じゃないか」と反論しても、「逃げるな」とか言われて、誰も賛同してくれないのです。(笑)
しかし、こうも思います。究明できない生命というものを、証明なしで、そっくりそのまま実在として認めてもよいのではないかと。原子や電子を実在とみなすなら、生命だって実在とみなしてよいではないか。人間の心にとって、最もリアリティを感じ、最も影響を受けるものは、他者の存在(命と心)なのだから。私の命と心の実在を疑わないのなら、他者の命と心も、その実在を信じるのが、まともというものです。科学で証明できないから幻だというほうが、よほどおかしい。
■美とクオリア
美もクオリアです。でも美には、「バナナの黄色い色」とか、「チョコレートの甘い味」というような、誰にでもうなずいてもらえるような、確かな共通性はありません。けれど、人の心身を爽快にして健康へと導くもの、乱れたり病んだりした心に落ち着きや安心を取り戻させるもの、マンネリや停滞に刺激を与えて人々の生命力を回復させるもの。そういう「快」のクオリアとして、あるものの美が万人に感じられるのは、確かなことです。
■神とクオリア
「倫理的でない美はない」(「金閣焼亡」より)
小林秀雄のこの言葉にとても共感します。
美のさらに上位に、神というクオリアがあります。神のことになると、個人による感じ方の差は、さらに激しくなります。神とは、ある人々にとってはイエス・キリストや仏陀のことであるし、ある人々にとっては、ご先祖様だったり、お天道様だったりする。でもその本質は共通している。
神を信じないと公言する人でも、何らかの倫理規範(ドグマではなくクオリア)を、胸に秘めています。それはやはり、神といえるものだと、私は思うのです。
心が幻でないのなら、神も幻ではない。神は、人間の内在か外在かといった問いを、超越している。
■神と奇蹟
私の考えによれば、神は奇蹟を起こさないです。宇宙においては物質原理(未発見のものも含めて)に反するようなことは起こらない。
神が人間に対して権力者のようにふるまうことは、あり得ない。誰もが不完全なのだから、罪を犯した人を、地獄に落としたりしない。神の奇蹟を盲信することは、狂気を生まずにはおかない。中世の魔女裁判やオウム事件は、何度も繰り返して反省せねばならない。
■人間は宇宙の鬼っ子か
「私」がなぜこの宇宙に出現するのか? その謎はまったくわからない。でも私は、人間や生物が、何の意味もなく、まったくの偶然で、この宇宙に現れたとは思いません。いまこの地球で生きている全生物。すべての「私」。これらの出現のために、宇宙はその全歴史を要しました。これはおそらく間違いない。
宇宙や自然の営みは、人間や生物の生の営みを一顧だにしない。月は超巨大な隕石が衝突して、地球から分離したものらしいが、今後またもし、そんなことが起こったら、地球上のすべての生物は絶滅するかもしれない。地震などの比じゃない。人間を助ける「神」はいない。
でも人間は、生物は、宇宙の鬼っ子ではない。大宇宙が、生命の偉大なる母であることは、間違いない。
私は、死ぬまでに、なんとか説得力ある言葉で、これを語りたい。