不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

命と心とクオリア 「私」という奇跡

2009-04-29 09:25:37 | インポート

茂木健一郎さんの「思考の補助線」(ちくま新書)から引用させていただきます。

■引用はじめ■(P216)
 二十世紀の科学が取りこぼした課題のひとつは、生命現象の本質を理解するということである。(中略)
 部分に分解し、解析するというアプローチは科学にとって欠かせないものであるが、それだけでは生命の本質を理解することなどできない。要するに、分子生物学の知見が積み重なり、人間の遺伝子配列が明らかになり、生命現象を支える物質的カタログが完備されてきた一方で、生命現象を構成的に理解するという試みは、ほとんど緒にもついていないに等しいのだ。(中略)
 部分に分解しても理解することができない生命現象の本質論は、脳という物質に宿る心にまつわる、もう一つの本質論に直結している。意識が脳に宿ることは経験に照らしても疑いようのない事実であるが、その脳という対象を分析し、その一つひとつの部分を理解したとしても、意識が宿るその必然性を解明することなどできないのだ。(中略)
 生命現象の本質を構成的に理解することは、脳の神経細胞の活動の総体に意識が宿るという不思議な事実の意味を探究することと同じ問題領域に投企を行うことを意味する。ここに、意識の起源問題、心脳問題が、より一般的な生命現象の探究の中に位置づけられるべき、論理的必然性があるのである。
■引用おわり■

この補助線をもとに、クオリアやその基盤である命と心について、私がつね日頃考えていることを書いてみます。

■命と心とクオリア
私も、命を持たないものが心を持つことはあり得ないと思っています。根拠はないけれど、かなり強い自信があります。ロボット工学や人工知能技術が飛躍的に進歩して、人間のような言動をするロボットが現れたとしても、それは心のない哲学的ゾンビにすぎないだろうと思います。ロボットはクオリアを感じません。ロボットにはその基となる「自己」や「意識」がありません。自他との境界をつくる「身体」と言えるものもありません。

クオリアは、厳密なカテゴリ化がなかなか困難ですが、あえて大別すれば、それは快と不快でしょう。生物の心身にとって有益なものは、気持ちの良いクオリアやとなり、有害なものは気持ちの悪いクオリアや苦痛のクオリアとなって、生物の心(脳)に感じられる。

クオリアは、その生物史的な意義として、生物が自分を守るためにあると思います。命がない、したがって心もない、すなわち守るべき自己がない物体や物質システムが、周囲の環境を「良い」とか「悪い」とか識別できるはずもありません。そういう仕組みなり機能をロボットの人工頭脳に組み込んで、ロボットに快・不快を言わせても、それは温度計が温度を示すのと本質的に変わりません。そこで行われるのは、単なる、物理現象の変換作業です。

■命とは何だろう
私は、命も、心も、科学の方法では、永久に解き明かすことはできないと考えています。外部から観察して客観的に究明しようするそのことが、「主体」や「主観」といったものの存在を否定する立場に立つことだからです。科学にとって生命は、「語り得ぬもの」です。(哲学にとっても、かな?)

なるほど科学は、「主体」や「主観」を生みだすメカニズムを調べて語ることができます。でもそれは、どの生物個体にでもあてはまる一般論です。物質現象の話であって、生物や生命の本質論ではない。「いまここ」に、「生きて」いて、「死んだ」ら、二度と再生しない、この「私」の「命」。その本質に科学は、近づくことができません。(科学の価値を否定しているわけでは、決してありませんよ。)

生命の本質は、唯一無二性、一回こっきり性だと思うのです。生きているうちは、守るべき「自己」があることです。死んだら二度と再生しない。死んだ生命をよみがえらせることはできない。生命には、分子や原子のような、「どれでも同じ」という性質はない。輪廻転生は、もしかしたらあるのかもしれないけど、その真偽は、永久に誰にもわかりません。(輪廻転生の話は、人間の精神の自由を奪う危険性があります。これはまた別の日に述べます。)

自分がこの世に生まれてきて、ものが見え、音が聴こえ、何が感じられる。これほど驚異的なことはありません。どんなに驚いても、驚きすぎることはない。どんな因果で、私はこの地球に、この時代に、生まれてきたのか? 自分で望んだのか? 何かの力がそうさせたのか? まったくわからない。宇宙に奇跡は起こらないが、唯一これが奇跡です。「私」という「生命」の出現は、奇跡です。そして犬や猫やネズミだって、もしかしたらミミズだって、この不条理な「私」という唯一無二性、一回こっきり性を生きている生物です。(植物や微生物もそうであるかは、私にはまだわかりません。)

■命や心は幻か
命も心も、物質現象に随伴するもので、本当は実在しない幻だと言う人がいます。でも「我思う、ゆえに我あり」です。「私」にとっていちばん確かなことは、物質現象の存在ではなく、「私」がここにいるということです。その「私」が幻だというのは、常識感覚に反する、非常に不健全な思想で、人々の生きる勇気を奪い、倫理道徳の基盤を壊すものです。小林秀雄もそのようなことを言っています。

哲学の議論サイトでそういう意見を述べたら、「そんな話は独りよがりな寝言だ」、「命や心が実在だというのなら、その証拠を示すなり、矛盾のない論理で説明してみよ」と皆につっこまれて、往生したことがあります。「常識で考えれば、誰もが納得する話じゃないか」と反論しても、「逃げるな」とか言われて、誰も賛同してくれないのです。(笑)

しかし、こうも思います。究明できない生命というものを、証明なしで、そっくりそのまま実在として認めてもよいのではないかと。原子や電子を実在とみなすなら、生命だって実在とみなしてよいではないか。人間の心にとって、最もリアリティを感じ、最も影響を受けるものは、他者の存在(命と心)なのだから。私の命と心の実在を疑わないのなら、他者の命と心も、その実在を信じるのが、まともというものです。科学で証明できないから幻だというほうが、よほどおかしい。

■美とクオリア
美もクオリアです。でも美には、「バナナの黄色い色」とか、「チョコレートの甘い味」というような、誰にでもうなずいてもらえるような、確かな共通性はありません。けれど、人の心身を爽快にして健康へと導くもの、乱れたり病んだりした心に落ち着きや安心を取り戻させるもの、マンネリや停滞に刺激を与えて人々の生命力を回復させるもの。そういう「快」のクオリアとして、あるものの美が万人に感じられるのは、確かなことです。

■神とクオリア
「倫理的でない美はない」(「金閣焼亡」より)
小林秀雄のこの言葉にとても共感します。

美のさらに上位に、神というクオリアがあります。神のことになると、個人による感じ方の差は、さらに激しくなります。神とは、ある人々にとってはイエス・キリストや仏陀のことであるし、ある人々にとっては、ご先祖様だったり、お天道様だったりする。でもその本質は共通している。

神を信じないと公言する人でも、何らかの倫理規範(ドグマではなくクオリア)を、胸に秘めています。それはやはり、神といえるものだと、私は思うのです。

心が幻でないのなら、神も幻ではない。神は、人間の内在か外在かといった問いを、超越している。

■神と奇蹟
私の考えによれば、神は奇蹟を起こさないです。宇宙においては物質原理(未発見のものも含めて)に反するようなことは起こらない。

神が人間に対して権力者のようにふるまうことは、あり得ない。誰もが不完全なのだから、罪を犯した人を、地獄に落としたりしない。神の奇蹟を盲信することは、狂気を生まずにはおかない。中世の魔女裁判やオウム事件は、何度も繰り返して反省せねばならない。

■人間は宇宙の鬼っ子か
「私」がなぜこの宇宙に出現するのか? その謎はまったくわからない。でも私は、人間や生物が、何の意味もなく、まったくの偶然で、この宇宙に現れたとは思いません。いまこの地球で生きている全生物。すべての「私」。これらの出現のために、宇宙はその全歴史を要しました。これはおそらく間違いない。

宇宙や自然の営みは、人間や生物の生の営みを一顧だにしない。月は超巨大な隕石が衝突して、地球から分離したものらしいが、今後またもし、そんなことが起こったら、地球上のすべての生物は絶滅するかもしれない。地震などの比じゃない。人間を助ける「神」はいない。

でも人間は、生物は、宇宙の鬼っ子ではない。大宇宙が、生命の偉大なる母であることは、間違いない。

私は、死ぬまでに、なんとか説得力ある言葉で、これを語りたい。


良心と神・語り得ぬもの

2009-04-08 14:41:00 | インポート

私は、人が心に良心を持つとは、次のふたつのことに要約されるだろうと思います。

誰も見ていなくても悪いことをしない。
誰も見ていなくてもすすんで良いことをする。

たとえば、こう質問されたとしたらどうでしょう。

あなたは良心を持っていますか? 持っているのなら、それを証明してください。

この、良心を持っていることの証明を、自分自身で行なうことは不可能です。なぜなら、「証明する」ということは「人に見てもらう」ということであり、良心の前提と言える「誰も見ていなくても」ということに反し、同時には成り立たないからです。

「見られていないところ」を「見てもらう」ということができないからです。なんだか誰もいない部屋の鏡に何が映っているかという話と似ていますね。

人が見ているところで、いくら善行をしても、それは良心を持っていることの証明にはならないです。人に後で見られることがわかっている善行も、事情は同じです。

これみよがしの善行が偽善(名誉心の表れ)として人からあまり尊敬されないのは、こういう理由によるものと思われます。

あなたは誰も見ていなくても悪いことをしませんか? 絶対にバレないということが完全に保証されていても悪いことをしませんか?

人は誰でも、この質問に対して「はい」と答えることができます。その顔を注目する人の数が多ければ多いほど、「はい」と答えざるを得なくなります。でもそれが本当に、その人の真実の言葉かどうか、誰も確かめることができません。

その人自身にも定かではないかもしれない。それがはっきりするのは、たとえば、よその街へ行って誰もいないところで、大金が入っている財布が落ちているのを発見した、というようなときです。

この例で考えた場合、財布をネコババせずに警察に届けたとして、人にこの行ないをさせる理由は何でしょう。どういうものが考えられるでしょう。(盗んでもバレる心配はまったくないとします)

1.法律違反をしてはいけないということを機械的に自分に課しているから。そういう性格だから。
2.死んであの世に行ったとき神様に叱られて天国に入れないから。
3.ネコババすると後味が悪いから。うしろめたいから。
4.落し主がかわいそう。困っているだろう。そう思うから。

まったくの私見ですけど、4の気持ちになることを、いちばん、良心の現れと呼んでいいのではないかと思います。4の気持ちになることと、心に良心を持っていることは、同値でしょう。
 
1は、自分の行動パターンの趣味の問題としか言えないし、2は、罰せられるのが怖いからという臆病な心理の現れにすぎないです。ちなみに、これも私見ですが、
「悪いことをすれば、あの世で神様に叱られて地獄に落とされるから悪いことをしない」
というのは、
「法律違反をすれば警察に捕まって牢獄に入れられるから、悪いことをしない」
というのと、本質的には、まったく変りません。そこには主体性がないから。自分というものがないから。(3は2と4の中間でしょうか)

盲目的な神仏信仰は、決して人間の人格を高めない。群れをなして神を賛美し、神に祈ることは、人間の精神の自由の喪失でもある。そう思います。

聖書のマタイによる福音書のなかに、こういう言葉があります。

『自分の義を見られるために、人の前で行なわないように注意しなさい。施しをするときには、ほめられるために会堂や街の中で、ラッパを吹きならすようにしてはいけない。右の手のしていることを、左の手に知らせてはいけない。それはあなたのする施しが、隠れているためである。

 また祈るときには、街道や大通りのつじに立って、祈ってはならない。自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れたところにおいでになる、あなたの父に祈りなさい。隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。』

この「父」と「報い」をどう解釈し、どう考えるか。宗教(キリスト教)を哲学的に考える場合、それが最重要問題です。私は、ここに表現された「父」を、人間の外部にいる全能の絶対者とは考えません。「報い」が死後の褒賞とも懲罰とも考えません。

万能の絶対者や死後の世界を信じる思想は、人間精神の真の自由を奪い、真の自立を妨げ、現世の価値を低下させる働きをします。(つまり、この世や、いまという時は、将来審判を受けるための成績をあげる場であって、本来行くべき場所は別にあるという。)

また、人を自分本意な(あるいは信者本位な)救済願望(物的にも心的にも)から抜け出せなくします。

...といって私が神を信じていないというわけではないんですが。

良心は人間に生得のものではありません。人は人に育てられなければ、心に良心を宿しません。愛されて育たなければ、人を愛する人になれません。動物に育てられた赤ん坊には、動物の魂しか宿りませんでした。

無人島で、生まれたときからたった一人で暮らす人の内面にも、良心は成就しないでしょう。他者がいなければ、悪をなしようがないので。(内面すらないような気がします。)

良心は、自と他を区別せずに大切にする心ではないでしょうか。街なかにゴミをばらまくことは、自分の部屋のなかに汚物をまくことにひとしい。他者を傷つけることは、自分や自分の家族を傷つけることにひとしい。

そう感じる感性や感情(理屈ではなく)が、社会生活によって醸成され、それが良心となるのではないでしょうか。「自分である」と感じる範囲が、社会生活によって、広がっていくのではないでしょうか。

議論サイトの論客たちと、良心の正体について議論したことがあります。良心は「幼児期の両親からの叱られ経験が、自己の行動を監視する、いわば獄吏として内面化したものである」(フーコー?)という説が出され、私はそれを不服として、いろいろ反論したりしたものです。

良心と神。すごく似ています。すごく近いものがあると思います。そして「《私》という不思議」にも似ていると思います。実体がないという点で。

主と客、内在と外在、抽象と具体、力と法則、それらを超越していて、客観的な定義や存在証明が不可能だという点において。《私》、良心、神、それは、その、つまり、だから...「語り得ぬもの」です。

高2生のとき、書店で万引きしそうになったことがあります。立ち読みしていたら、その本が欲しくなったんですが、金がありません。私のいる場所は店員から死角になっていて、他に客もいず、いまカバンに放りこんでも、絶対バレない。

そう思うとドキドキしてきました。魔がさしました。........。盗もうとしていた本は、タイトルは忘れましたが、人間の精神のなんたらかんたらで、心の神秘性を扱ったものでした。そしたら、ふと、もうひとりの私が声を発しました。

「お前、そういう本は、盗んで読んだら、意味ないだろう」

そう言われて、私は、クスリと笑いました。私の魔は去りました。