不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

茂木さんの著作から(3)

2009-06-08 20:33:59 | インポート

「脳内現象」(NHKブックス:茂木健一郎)より引用させていただきます。

■引用はじめ■(P227)
認知的閉鎖か、ブレイクスルーへの曙光か?

 イギリスの哲学者、コリン・マッギンは、過去の多くの優れた知性が意識の謎に挑戦したにもかかわらず、結局その本質が解明されていないことをふまえて、意識は、人間の知性には理解不能なものであるという 「認知的閉鎖」(Cognitive Closure)説を唱えている。高度に発達した脳を持つ人間も、結局は一つの生命体に過ぎない。自然界の様々な生命体を観察すると、それぞれの種に固有の認知的限界が存在することは明らかである。私たち人間はコウモリであるとはどういうことかを決して理解できないだろうし、逆にコウモリは人間であるとはどういうことかを理解できないだろう。過去に世界観を変えるような発見を積み重ね、無限の知性を持つかのように見える人間も、結局は人間という種固有の認知的閉鎖の中にいる。
(中略)

 しかしそのような限界の中にあるかもしれない人間も、意識の起源がこの世界に関する様々な謎のうちでもっとも深遠で、挑戦する価値のある問題であることを理解することはできる。実際、世界中の多くの研究者が、今日も意識の謎を説くために奮闘している。
 私自身は、メタ認知的ホムンクルスをめぐる考察を通じて、ブレイクスルーへの曙光が徐々に見えてきたように感じている。マッギンの認知的閉鎖説は、論理的に証明されたわけではない。証明されていない以上、私は意識の本性を理解するための努力を続けたいと思う。
■引用おわり■

私は、普通の会社員に過ぎないですが、

「心とは何か? 自分とは何か?」
「生まれてこれたことの不思議」
「自分が自分であることの不思議」

には、少年のころから特に興味があって、いままでずっと考えてきました。

けれど7~8年前、出勤途中の電車の中で、集英社の 「ここまでわかった脳と心」 という特集雑誌を読んでいたとき、精神分裂症の患者の書いた手紙が載っていて、それを読んでいるうちに、私の意識に、とても気味の悪い変調が起こり、周囲の人や景色が異形に見えはじめ、冷や汗が流れ出し、発狂する恐怖を感じて、すぐに電車を降りて家に戻りました。

その本を読むのはやめ、必死に好きな歌を心の中で歌ったり、家族と旅行に行って楽しかったことを思い出したりして、気味の悪い変調から逃れようとしました。家についたら、すぐに布団を敷いて横になり、カミさんに手を握ってもらいながら、心が元に戻るのを待ちました。

それ以来、自分の心や自分の自我を詳細に観察するような危ないことは、意識的に避けています。5月26日の明大での茂木先生と合田先生の対談でも、茂木先生は、「自分の<私>を分析することは自我崩壊を招きかねない危険なことだ」 と仰っていました。あの発言の際にも、私は冷や汗が流れ始めかけたので、そのことを極力考え続けないようにしました。

茂木先生は、「意識の本性を理解するための努力を続けたい」 と引用文中で書いておられますが、脳科学者といえども、自分自身の内感に頼ったり(茂木先生談)、自分自身を実験材料にするしかないわけで、どうぞお気をつけてと、心配せずにはいられないです。

そういうことなので、私は、意識や心の考察に深入りするのはやめて、命とは何か、という、より本質的な考察を続けています。

     *     *     *     *

そろそろ蚊が家の中に入ってきて、手足を刺され、その強烈なかゆみに悩まされる季節になりました。

蚊のような、あんな小さな生物でも、「生きて」 いて、「守るべき自己」 を持っています。叩きつぶそうとすると、必死に逃げ回る。

蚊は、どう考えても、「単に物理化学法則によって動く物質」 ではない。殺虫剤で殺された後、つまり 「死んで」 しまった後には、「守るべき自己」 は消滅し、物理化学法則に完全に従う、ただの物質となる。

死んでしまった命は、決して生き返らない。復元できない。

生物 (動物) とは、

「自分(自己)というものが在る状態」
「自分を守るために自由に動き回る、ある意味では気味の悪いもの」
「出会うと食うか食われるかの緊張関係になるもの」

という直覚的な定義を、私は持っています。(もちろん科学的定義じゃないです)

(ちなみに私の娘ふたりは、もう小中学生でもないのに、蛾が家の中に入ってきたりすると、怖がって大声を出して逃げまわります。別に噛みつかれるわけじゃないのに。)

「意識とは何か」
「心とは何か」

を考えるより、

「命とは何か」
「生きているとはどういうことか」

を考えるほうが、ずっと易しいような気がします。(そう素朴に思うだけですが)
少なくとも、発狂する心配がない。

私の考えでは、命を持たないものが意識や心を持つことは、あり得ないです。

「命がある」
「生きている」

という大前提があってこそ、

「<私>というホムンクルス」(同書より)

という存在も出現してくる。

意識とは、心とは、命が自分で自分の存在と行動を自覚できるようになったもののことだと、思えてならないです。

だから脳細胞のシステム的な構造だけで、意識や心を考えることには、とても違和感があります。(茂木先生のことではありません。)