不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

哲学の目的

2013-02-10 22:56:22 | インポート

■哲学の目的を一言で言うと、「死ぬまでの間、いかに生きるべきか」、これを考えることにある。そうすると必然的に、「なぜ自分はこの世界に生れてきたのか、そもそも世界とは何か」、これを考えることが必須になってくる。

■日本の学校では、哲学はほとんど教えられていない。哲学的な思考の訓練の場がない。哲学が目的としているものを議論したり文章にしたりする機会がない。西欧では当たり前のことなのに。

■日本ではキリスト教も仏教も、冠婚葬祭のひとつのスタイルでしかなく、ほとんどの人が無宗教に近い。そしていわゆる「経済合理主義」が幅をきかせている。(誰しも自覚的ではないが。)

■「経済合理主義」とは、最小の負担で最大の成果を得ようとする実利主義、あるいはそういう行動パターンだ。これは最小リスクで最大多数の最大幸福を実現しようとする主義でもあり、決して悪い事ではない。

■しかしあまりにも物欲オンリーの考え方であり、個人の物質的幸福ばかりが重視されている思想だ。カネ、地位、名誉、便利、健康、長寿さえゲットできれば、それでエエのかい、生まれてきた目的はソレかい、とつっこみたくなる。

■人間は、ひとり残らず皆、いつかは死ななければならないのだ。人間の長寿化がいかに深刻な問題を生んでいるか、いちいち例をあげるまでもあるまい。「いかに生きるべきか」は、「いかに死ぬべきか」にも通じている。

■無宗教だからと言って、即座に悪いことではない。「神様がいつも自分を見てくれていて、この世で良い行いをすれば、神様が天国に導いてくださる」。これを言葉どおりに頭から信じて生きている人が、人間の精神の自由という観点からみて、果たして望ましい事なのかどうかは、かなり疑問がある。

■「神とは何か、神は存在するか」、これも重大な哲学問題だ。神とは、愛と美と道徳の最高理念で、それらを象徴する存在だからだ。「いかに生きるべきか」を考えるとき、神のことを考えずに済ますことは、おそらくできないだろう。

■哲学上の議論に深入りすると、いわゆる物理層というものがそれほど盤石でない事がわかってくる。そして精神層というものの存在の上位性に、徐々に気づいてくる。問題は、その「精神」が、個々の人間(認識主体・生物個体)で閉じているものなのかどうかだ。これをイエスと答えると、独我論になる。

■独我論は、すぐにニヒリズムに堕していく。身も蓋もない不毛な議論になっていく。この不毛に巻き取られまいとするとき、ここからやっと、哲学が始まる。ここがスタート地点だ。私はもう30年も考えている。しかしそこから先へ一歩も進む事ができていない。

■私は「哲学をしている」と自慢などするつもりは全くない。哲学は教養を身につけていく作業とは本質的に異なる。生きていく苦悩そのものだ。そしてまた、哲学をやっていない人など、実はこの世に一人もいないだろう。