不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

脳と心/エックルスの「魂」

2017-07-16 13:35:49 | 哲学
養老孟司さんの「脳・心・言葉」によれば、エックルスとペンフィールドが、晩年にそれぞれこんなことを言っているそうだ。(二人はともに大きな研究実績を残した脳神経細胞の学者)

エックルス:「唯物論者の答えでは、心の独自性の経験を説明できないので、自己あるいは魂の独自性を超自然的な精神的創造に帰することを余儀なくされる。各自の魂は神の新しい創造によるもので、受胎と生誕の間のどこかの時点で胎児に植えつけられる」

ペンフィールド:「心を、脳の働きのみに基づいて説明しようと長年務めてきたが、人間は心と体のふたつの要素でできていると考えたほうが、はるかに理解しやすい。脳の神経作用によって心を説明するのは、絶対に不可能だと私には思える」

そして東大医学部の解剖学の教授だった養老さんもこう言う。「科学は客観性、実証性を必要とし、実証性がないものは否定される。ところが脳科学は最初からこの矛盾を抱えている。脳科学をやりつつ、自然科学の形態を保存しようとしたら、心と体は別のものとして切り離さざるを得ない」

エックルスはノーベル賞受賞者だったから、この「各自の魂は神の新しい創造によるもの」という発言のせいで、世界の学者から「彼は頭がおかしくなった」と言われた。科学者が「神」を持ちだしたら、それは科学放棄と神秘主義への転向になるのだ。

しかし科学は万能ではない。「客観性、実証性を求める」というそのことが「心というものには実体はなく、すべては物質の運動や反応によって説明できる」という立場に、最初から立っていることになるのだ。ところが「主観性」そのものである「心」は「客観的」には扱えないのだ。

エックルスが「自己あるいは魂の独自性」「受胎と生誕の間のどこかの時点で胎児に植えつけられる」という表現をしていることが、とても興味深い。意識主体としての「自己」は、生まれてから死ぬまで同一性を保っていて、不変だ。これを科学者である彼が認識していたことが、私はうれしい。

なぜなら私は、いままで知り合った論客たちの誰にも、私の「心の意識主体として同一性は生まれてから死ぬまで不変」という考えを、支持してもらえなかったからだ。誰もが私の考えを否定した。そんなものは存在しないと。

この「意識主体」なるものを、日常の言葉でひと言で表現すると、いまのところ「魂」しかない。エックルスもこの言葉を使っている。長ったらしい「意識主体として生まれてから死ぬまで不変のもの」という言葉を繰り返すのも煩わしいので、私もここで「魂」という言葉を使う。

「魂」は人の誕生とともに(あるいは胎児成長の過程のどこかで)この世に出現し、死んだら消滅する。二度と再生しない。死んだ人の「魂」を科学の力でよみがえらせることはできない。

「人工知能に、ある人のすべての記憶をコピーできたら、その時点でその人の不死は実現する」なんていうことを真顔で言う科学者もいるが、たとえ人工知能に全記憶がコピーできたとしても、異なる「意識主体」ができるだけで、コピーされた人が永遠の命を手にするわけではない。

「魂」は人の命とともに、一回こっきりだ。複製も再生もできない。だから生まれ変わりもない…、と言いたくなるが、ここは微妙だ。なぜなら「複製も再生もできないのだから、生まれ変わりもない」という理屈は「科学的」な思考だからだ。しかし科学は全知を手にできる道具ではない。

従ってエックルスが言うように「魂」が人智を超える神の御業だとしたら「生まれ変わりはない」と断言できなくなる。しかしここはゲーテも言うように深入りしてはならない領域だ。神秘主義に心を委ねてしまうと待っているのは狂気の世界だ。過去の多くの事件がそれを教えてくれている。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 汎地球経済社会の支配者/哀... | トップ | 幻想と実在 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

哲学」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。