生物が自分の体をもつとは、自分の体と、そうでないものとの区別があるということです。これが境界となる。(たしかに境界は、はっきり・くっきりしたものではなく、ボヤっとしたものかもしれないですが。)
「自分の体」というのは、多細胞生物の場合、自分を構成する細胞ネットワーク組織のことです。細胞間の連絡に使われる物質も、「自分の体」に含めていいでしょう。それから寄生していて共生関係にある微生物も、「自分の体」に含めていいでしょう。(正社員ではないけど業務に必須な派遣社員みたいなものです。こういうのがあるから、境界はボヤっとしていると言ってます。)
しかしヒトが愛用しているメガネや義足を、「この細胞ネットワーク組織の一員であり、そのヒトの一部だ」と言うことは、生物学上はできない。メガネや義足には、血も流れていなければ、神経も通ってない。そのヒトの肉体とはつながっていない。そのヒトが死んだら、肉体は崩壊していくが、メガネや義足は何の影響も受けない。
「脳が認識する自分の身体」としての自己だと、また別の話になります。精神的自己は、肉体的自己とは違う。タクシー運転手にとって、自分が毎日運転している車は、自分の体も同然でしょう。運転しているときのそのヒトの身体は、そのヒトの脳の側から見れば自己が拡張している。しかし肉体的自己が拡張しているわけではない。私が今回、話題に出している自己は、肉体的自己です。
私はときどきロボット批判じみた発言をしますが、ロボットを目の敵にはしていません。
「生きているとはどういうことか」
「死ぬとはどういうことか」
これをとことん考えたいだけです。ロボットと生物を比較することで、それが見えてくる。
ロボットには命がないし、自己もない。死なない。体は、すべて取換えのきく部品でできています。そしてロボットは、他力によって動かされています。他力とは、自然の物理法則や、そのロボットを動かすために作られたプログラムのことです。
生物は違う。命があるし、自己がある。いずれ死ぬ。体の部品の取換えはできない。義足のようなものを装着することはできるが、体細胞レベルで異物(非自己)と同化することはない。(移植された臓器も、同化することはなくずっと異物のままである。薬で拒絶反応を抑えているだけ。)そして生物は自力で生きています。
ここが問題です。
この自力は、はたしてあるのかないのか。自力のようなものがあるように見えるけど、実は自然の物理化学法則(あるいはシステム原理)によって物質が動いているだけなのか。そうだとしたら自力はないし、自己(自力を発動する主体)もないことになる。生命自体、無いことになる。(あるように見えるだけ。)しかしそれは変です。
生物に自由はあるのだろうか。
人間に自由はあるのだろうか。
未来型ロボット(人工の脳神経が自己組織化・創発するタイプ)は、自己や意識や心を持つようになるのだろうか。それはヒトのそれと、どこが同じで、どこが違うのだろうか。
「自分の体」というのは、多細胞生物の場合、自分を構成する細胞ネットワーク組織のことです。細胞間の連絡に使われる物質も、「自分の体」に含めていいでしょう。それから寄生していて共生関係にある微生物も、「自分の体」に含めていいでしょう。(正社員ではないけど業務に必須な派遣社員みたいなものです。こういうのがあるから、境界はボヤっとしていると言ってます。)
しかしヒトが愛用しているメガネや義足を、「この細胞ネットワーク組織の一員であり、そのヒトの一部だ」と言うことは、生物学上はできない。メガネや義足には、血も流れていなければ、神経も通ってない。そのヒトの肉体とはつながっていない。そのヒトが死んだら、肉体は崩壊していくが、メガネや義足は何の影響も受けない。
「脳が認識する自分の身体」としての自己だと、また別の話になります。精神的自己は、肉体的自己とは違う。タクシー運転手にとって、自分が毎日運転している車は、自分の体も同然でしょう。運転しているときのそのヒトの身体は、そのヒトの脳の側から見れば自己が拡張している。しかし肉体的自己が拡張しているわけではない。私が今回、話題に出している自己は、肉体的自己です。
私はときどきロボット批判じみた発言をしますが、ロボットを目の敵にはしていません。
「生きているとはどういうことか」
「死ぬとはどういうことか」
これをとことん考えたいだけです。ロボットと生物を比較することで、それが見えてくる。
ロボットには命がないし、自己もない。死なない。体は、すべて取換えのきく部品でできています。そしてロボットは、他力によって動かされています。他力とは、自然の物理法則や、そのロボットを動かすために作られたプログラムのことです。
生物は違う。命があるし、自己がある。いずれ死ぬ。体の部品の取換えはできない。義足のようなものを装着することはできるが、体細胞レベルで異物(非自己)と同化することはない。(移植された臓器も、同化することはなくずっと異物のままである。薬で拒絶反応を抑えているだけ。)そして生物は自力で生きています。
ここが問題です。
この自力は、はたしてあるのかないのか。自力のようなものがあるように見えるけど、実は自然の物理化学法則(あるいはシステム原理)によって物質が動いているだけなのか。そうだとしたら自力はないし、自己(自力を発動する主体)もないことになる。生命自体、無いことになる。(あるように見えるだけ。)しかしそれは変です。
生物に自由はあるのだろうか。
人間に自由はあるのだろうか。
未来型ロボット(人工の脳神経が自己組織化・創発するタイプ)は、自己や意識や心を持つようになるのだろうか。それはヒトのそれと、どこが同じで、どこが違うのだろうか。
私が思うに、コンピュータもロボットも、人間の生活の利便のための道具なのですね。それはそれで何も問題はないと思います。でも昨今の報道のなかで「近未来社会ではロボットが家族の一員になる」というような記事を散見します。これに私は違和感を感じるのです。ロボットに人間の仲間になるような能力を身につけさせることは不可能です。なのに人間が、まるで生きている動物や、生きている人間に接するように、ロボットに感情移入して、家族の一員にしてしまうのは、非常に危険だと思っています。(電池で動く人形に、「○○○ちゃん、お腹すいた? いまエネルギーを補充してあげるね」なんて話かけるのは、おかしい。)
不気味であり、異常であり、危険です。
犬に服を着せる方が、よっぽどマシですね(笑)。
ただ、そうしてやがて今の人間がおかしくなって滅びゆくとしたならば、まあ数万年後の人類から見ればそれも自然という事でしょうね。
それじゃあ、困るのですがね!
> 電池で動く人形に、「○○○ちゃん、お腹すいた? いまエネルギーを補充してあげるね」なんて話かけるのは、おかしい。
という概念の適応される知的切断面に相当するのであれば、それは「ごっこ遊び」のレベルがイメージされる概念だと思います。すなわち、すでに、
> 未来型ロボット(人工の脳神経が自己組織化・創発するタイプ)は、自己や意識や心を持つようになるのだろうか。それはヒトのそれと、どこが同じで、どこが違うのだろうか。
というレベルの「未来型ロボット」概念から、現在、(知的・幻想的に)共有可能な「電池で動く玩具」概念へのすり替えが生じています。
moriさんは、実は、質問の内に、答えを埋め込まれているような気がします。
ヒトの脳が「自己や意識や心を持つ」という不思議さ。その根本的なところが、論理的・理論的・無矛盾な説明可能性(すなわち、知的・幻想的に共有可能な概念)にて、「わかった・理解できた」つもりになるということは、すなわち、未来型ロボットの人工脳が「自己や意識や心を持つ」という不思議さを「わかった・理解できた」つもりになるということにも繋がります。
「創発」ということばは、実際のところ、上記「不思議さ」という概念を、「そういうものだ」という知的・幻想的に共有可能な概念としてコード化したものです。
そういう言葉を裏打ちする論理的・理論的・無矛盾な説明可能性をもってして、「わかった・理解できた」というのならば、(物質)一元論か(物質・自力)二元論かといった、いかなる説を採ったとしても、未来型ロボットとヒトとの差異は無いことになるでしょうし、「分かった・理解できた」つもり(知的切断面)というのは、所詮そういったレベルを超え得ないということになると思います。
すなわち、moriさんの根本的な疑問は、
> この自力は、はたしてあるのかないのか。自力のようなものがあるように見えるけど、実は自然の物理化学法則(あるいはシステム原理)によって物質が動いているだけなのか。
という(物質)一元論的説明可能性と(物質・自力)二元論的説明可能性に集約されると言っても過言ではないような気がします。
で、moriさんは、(物質)一元論的説明可能性が採択されるとした場合、「電池で動く玩具」という知的切断面をそのまま「未来型ロボット」に外延できるということは、ヒトにも外苑できるということを意味すると考えるゆえ、
> そうだとしたら自力はないし、自己(自力を発動する主体)もないことになる。生命自体、無いことになる。(あるように見えるだけ。)しかしそれは変です。
という発言に繋がる。
でも、それは「変」なのではないでしょうか?
すなわち、moriさんは(物質・自力)二元論を念頭においておられるゆえ、未来型ロボットが「創発」という概念にて説明可能な「自力」を有したとすれば、すでに「未来型ロボット」は「電池で動く玩具」という概念、すなわち(物質)一元論的に説明可能な概念とは異なるはずです。そこを同一視しようとするところが「変」なのだろうと思います。
そのようなすり替えはしていません。私は「未来型ロボット」が意識や心を持つ可能性も否定できないと考えています。しかしそれは、ヒトのそれと同じものではないという気も強くします。
私が「現代型ロボット」に感情移入することに違和感を感じ、警笛を鳴らしているのは、次のような理由です。
私は学生のとき(30年くらい前)、学校祭でバイオリズム占いのプログラムを作りました。そして「占いの回答文」を50パターンくらい用意しました。学校祭当日、非常に驚いたことは、占い依頼をしてコンピュータから出力された「回答文」を読む人が、皆、本気で「コンピュータが考えて答えを出してくれた」と思いこんでいるのです。若者だけでなく多くの大人も。(当時はコンピュータもめずらしかった。)私が書いた他愛もない文章を、本気で読んでいる。
中身のからくりを知れば、そんなものはお遊びに過ぎないと、すぐにわかります。しかし、それを知らないと、「コンピュータが考えてくれた」と本気で信じてしまう。西垣通さんの「AI」には、コンピュータに命や心があるかのように錯覚して、コンピュータに感情移入してしまった人の例が、いくつか紹介されています。西垣さんは、こんな発言もなさっています。
http://www.kairyudo.co.jp/chu/gijutsu/siryou/data/kgk40_1.pdf
さきごろの新聞でロボット犬アイボと幼児を一緒に遊ばせる実験の記事が出ていました。ロボット犬開発者としては、幼児に「本物の犬だ」と感じてほしいようです。でも私に言わせれば、とんでもなく間違った実験です。命のないものに「命がある」と思わせるのは、人間の感性をおかしくする。すぐにやめるべきだと思います。
●<moriさんは(物質・自力)二元論を念頭においておられるゆえ、未来型ロボットが「創発」という概念にて説明可能な「自力」を有したとすれば、すでに「未来型ロボット」は「電池で動く玩具」という概念、すなわち(物質)一元論的に説明可能な概念とは異なるはずです。そこを同一視しようとするところが「変」なのだろうと思います。>
同一視していません。「未来型ロボット」は「電池で動く玩具」と同じだとは、考えていません。ただしヒトと同じになるとも、思っていません。
単に、乱数の発生関数を「知っている」とか、書き込んだ文章の全てを「知っている」とかいったレベルですよね。
占いの占いたるゆえんは、その出会いにあると思います。ようするに「当人」がどのように受け止めるか?という点に尽きるはずです。
「コンピュータが考えた」と言う発想が間違っているとはいえないでしょう。
なぜなら、予め用意された文章のどれが配当されるかは、「コンピュータと文章と当事者と、それを含む全宇宙」の相互作用によって決定されるからです。「考えた」という背景に、コンピュータ単体を意識するとき(大部分はそうでしょうが)は、確かに問題です。
すなわち、コンピュータというものがもたらす結果が「コンピュータ」という閉じた箱の内部からしか出てこないという概念を抱くときには問題になる。
同様に、結果が「コンピュータ+プログラマー」のみによってもたらされるという概念を抱くことにも同じ問題が潜んでいると考えます。
西垣氏が問題視しているのは、そういった「閉じた世界感」で狭義に情報を捉えてしまうことだろうと思います。
> さきごろの新聞でロボット犬アイボと幼児を一緒に遊ばせる実験の記事が出ていました。ロボット犬開発者としては、幼児に「本物の犬だ」と感じてほしいようです。でも私に言わせれば、とんでもなく間違った実験です。命のないものに「命がある」と思わせるのは、人間の感性をおかしくする。すぐにやめるべきだと思います。
ですが、
http://hotwired.goo.ne.jp/news/print/20020520206.html
でしょうか?
ところで「ごっこ遊び」の重要性については、どのように考えられるでしょうか?
上記記事を読むと、「生きものではない」という認識をした上で、なおかつ「愛情を育む感性を育てる」という意味での「ごっこ遊び」の範疇にあると読めます。
問題は、「生きもの」との交流が遮断されて、「生きものでない」アイボとの交流のみに限局されることにあるとしています。すなわち「閉じた・遮断された・切断された」世界感のみを経験することにあります。
すなわちそこには「生きものである」と「生きものでない」という切断面が有ります。
もし、アイボが「生きものである」というレベルになったとすれば、すなわち、人間が人間に感じるのと同じ「交換不可能なもの」を有しているということと等価であると考えられるのならば、そういった切断面・境界を超えているが故に「生きものである」と感じるはずです。でなければ、永遠に「生きものでない」と判断されるはずです。
もし、ロボットが「生き物である」ということに等しい「もの」を備えたならば、「生きものとして」ヒトに劣る・同じ・超える・異なるといった概念に、どのような意味があるのでしょうか?
ロボットが「生き物である」ということに等しい「もの」を備えたならば、もはや、超える・超えないと言う概念を抱くことすら恥ずかしくなるような感覚を覚えるのではないだろうか?と思ったりします。
「生きている」とは、そのように「知る」ことではなく、そのように「感じる」ことである限り、「知」を超えています。
それゆえ、ヒトと同じになると考えても・考えなくても、「知」を超えた存在として「生きている」となったときには、「そうである」とのみ言えるのであって、「同等・優れる・劣る・異なる」という概念(知的切断面)は、もはや無意味な概念になろうかと思われます。