不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

「社会」と「会社」

2005-05-08 14:14:54 | 哲学
生物論からみて「社会」と「会社」はどう違うか。

生物を、細胞ネットワーク組織と考えた場合、「社会」は生物の特徴が薄い。「会社」は生物の特徴が濃い。(このように生物論は、あいまいで、ぼやけたものにならざるを得ないです。物理学のようなスッキリした厳密さは無い。)

「社会」は生物の自然集落に近い。メンバーは互いに無干渉ではないし、影響を与え合う。ときどき協力し合ったりもする。しかしメンバーかそうでないかの明らかな識別ルールや識別機能はない。生物の免疫システムのようなものはない。メンバーが抜けたり、新参メンバーが来たりしても、それによって、生き死にに影響を受ける生物的実体はない。

「会社」ではその会社の社員か社員でないか、明確に識別される。入社するのにも退職するのにも、明確なルールがある。会社ビルへの入館時にはIDカード等によるチェックがなされる場合もある。これは簡単な免疫システムと言える。会社は、自己(法人人格)を有し、存続を目的とし、「確かな形」を持つ、生物的実体である。(「確かな形」とは、ある時間断面でみた場合です。)アルバイトや短期契約社員や外部委託会社の派遣社員などもいるが、それが「会社組織の輪郭をぼやかす」とは、私は考えない。そういう正社員でない人も、企業の構成員として構わない。

シロかクロか(社員か社員でないか)、どちらかに、はっきりさせる必要は必ずしも無い。中間を認めたっていい。そのことによって、企業が、輪郭(自己と非自己の境界)のある「ひとつの主体」であることが、揺るがせられたりはしない。 と私は考えます。

しかし「社会」にも「会社」にも、ヒトの場合の「意識」や「心」に相当する、統一人格的なものはない。(自分がここにいるという意識や、苦痛や喜びを感じる心がない。)そういう面から言えば、「ひとつの生き物」とは言えない。

私は馬や猿にも心はあると思う。言葉をもっていない(使えない)から、内省的に感じたり考えたりすることはできないけれど、苦痛も喜びも、知っていると思う。

生物論を構成する概念は、非常に多岐にわたります。生物か生物でないかの区別も、様々な考えがあり得る。しかし私は「生きている」ということの本質は、皆同じひとつのことだと思う。


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