不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

自慰は悪か?(生物と価値)

2004-12-23 12:10:43 | 哲学
立花さん、コメントありがとうございます。

■<(1)人間はなぜその他の動物のように生きないのか?「~は快だけどそれは本当によいことなのか?」と問うことは,もしそこで快と呼ばれているものが生に関わるものだとしても,意味のある問いだと思います.その点で,生と快は定義的な関係なっておらず,生は絶対的価値を(氏(mori夫)が望むような仕方では)有していないのではないか?>

ちょっと露骨な例を出してみますね。若くて真面目な人が悩む問題に「自慰」があります。これは「気持ち良い(快)」であるけれども、果たして「価値がある・倫理的に高い」ことなのか。

人間は獣性と神性を合わせ持つ存在です。そういう言い方に違和感を感じる方もいるでしょうから、肉体性と精神性というふうに言ったほうがいいかもしれません。肉体が欲する欲求と、精神が欲する欲求は、必ずしも一致しません。精神は、どちらかというと、肉体の欲する欲求にブレーキをかける働きをすることが多い。(それだけが精神の役目では、もちろんありませんが。)

しかし、両者は根本的に対立するものではないと思います。人間が、自分や、自分の身近な仲間や、人類全体や、ひいては生物全体が、死んだり(天寿をまっとうできずに)、滅亡したりすることを防いで、より良い状態で生きていくことを目指すことでは、一致しています。そういう意味で、両者は同じ目標を持っている。つまり同じ価値観の線上にいる。

肉体が価値観を「持つ」という言い方は、確かに変だと思います。だから話は逆なのだと思います。肉体の存続(子孫存続の意味も含めて)にとって「より良いこと」を、人間の精神は「価値がある」と感じるのだと思います。

セックスは子孫を残すためのものです。もっとも大事な行為です。だからこれに、人間は(生物は)もっとも深い快感を感じる。でもところかまわず誰とでもセックスしたら、生まれる子供が極端に増えてしまうし、生まれた子供を育てることもできなくなってしまう。赤ん坊に母親が乳を飲ませているのに、父親が家庭をかえりみずに、よそでセックスしまくっていたら、家庭も家族も成り立ちません。これは人間社会の崩壊を招く。人間は社会的動物で、高度分業によって生存を維持していますから、社会が崩壊すれば人類も滅亡する。

だから精神は肉体の暴走にブレーキをかけます。みだらな性行為を「悪」として自身に言い聞かせる。(性行為自体が悪ではない。)

さらに言えば、繰り返しになりますが、精神の働きは、肉体の欲求にブレーキをかけるだけではなく、社会や人類や、ひいては地球全体が「より良い状態」になるにはどうすればいいかを考える。いまの自分たちはこれでいいのかを、いつも考えている。これが、人間の、いわゆる「倫理感」と呼ばれているものの本質だろうと、私は推測しています。

ただし自分の考えた「良いこと」を世間に向かって宣伝して、世間の人にもそれを強制しようとすると、それは悪になり得ます。政治思想はもちろん、宗教思想も、その他もろもろの倫理思想も、例外ではない。これはさらに難しい問題なので、改めて書きたいと思っています。

最初に言った「自慰」の件ですが、私はこれは、トイレでする小便や大便みたいなものと思っています。たまったものは出すしかない。だから若い人は、あまり悩む必要はない。(いまどき悩んでいる人などいないかな。)ただし恥ずかしいことだから、誰にも見られないようにすることは必須ですけどね。

■<(2)自分も少し読んだ限りですが,アリストテレスの倫理学に於いては,人間にとって価値があるということは,動物のそれとだいぶ異なっており,したがって,生という絶対的価値が人間にとってのそれではない,と要っているように思います.(動物にとっては,個体か種かは別としても,生存がそれであることは否定しないでしょう.)もしアリストテレスを読んでおられるようであれば(自分はそうふんでいます),その点についてコメントをいただければと思います.>

上にも書きましたが、「価値がある」と考えるのは、人間の精神(心)です。動物にはこれがない。しかし動物にも「価値がある」と「感じる」ことはできます。動物においては「気持ち良い(快)」と感じることが、それです。

人間と他の動物は、断絶していないです。人間も、立派に、動物の一種です。サルやチンパンジーはもちろん、他の生物とも変わらない存在です。

私mori夫(私でなくても立花さんでも誰でもいい)の先祖を、限りなく昔にさかのぼっていったら、どうなるでしょう。10万年前くらいは、まだヒトかも知れません。1億年さかのぼったら、たぶん何らかの哺乳類みたいな動物でしょう。(いまはもう、たぶんいませんが。)そして30億年さかのぼったら、単細胞生物になるはずです。したがって「ヒトは単細胞生物から進化した」という言い方は間違っていないと思います。他の生物も同様です。30億年の進化・変遷の結果です。だから「地球上の生物は、すべて兄弟だ」という言い方は正しい。みんな親戚関係です。

人間が他の動物と違うところは、精神が発達して、いろいろなことが自覚できるようになった点だと思います。自分や自分の仲間にとって「良いこと・良いもの」を、自覚的に認識できるようになった。自分が仲間だと認識できる範囲も、歴史の歩みとともに大きく拡大してきた。そしてさらに、「もっと良くなるにはどうしたらいいか」を考えるようになった。これが政治思想、宗教思想、倫理道徳思想になって、深化し続けています。

だから「人間にとっての価値と、他の動物にとっての価値は、だいぶん異なる」というのは、違うと思います。それは人間と人間以外の動物を、はっきりと別のものであると考える、非常に西欧文明的な発想だと思うのです。

たしかに、例えばサルの社会などでは、新しいボスが地位を獲得したとき、それまでボスだったサルの子供を、新しいボスが全部殺してしまう、というようなことが起きます。人間社会では決して許されない悪です。しかしこれは残酷ではあるが、より強い子孫を残すための、競争原理です。サルには精神がない(すくなくとも人間より小さい)ので、自分の仲間であると認識する範囲が、非常に狭い。人間だって、大昔は、敵対する部族を皆殺しにして、土地や自然資源を奪うということは、当たり前のように行われていたはずです。これを現代の人間の、現代のそれこそ「価値観」で、「悪である」と評価してはいけない。

私たち現代の人類は、地球上の全生物のいちばんの兄貴(姉貴)、あるいは長老と言えるでしょう。だから幼い兄弟たち(他の動物たち)が殺しあうほどの喧嘩をしても、それは「自然な姿」と見なくてはならないでしょう。(ただしこのような人間優越主義に対しては、批判も多いです。人種や民族を、優劣で序列化する思想につながりやすい。)

以上が私の、価値論であり、生物論です。

さらに言えば「価値」とは「情報」のことでもあり、それは生物の外部にそれ自身で存在するものではなく(自然界に存在するモノやコトではなく)、生物自身が自分の内部に形成するもののことです。(これは西垣通先生が、おっしゃっていることなのですが、いずれ再論します。)

■<自分が読んだアリストテレスの本を自分のブログで書評しております.同じ本であれば議論が一層活発になるのでは,と思います.>

ブログを拝見しました。J.O.アームソン『アリストテレス倫理学入門』ですね? アリストテレスが、遺書の中で自分の子供の世話をする人の順序を、ずらずらと書き並べているほどに、自分の子供のことを大切にしていたという話は、初めて知り、少し驚きました。彼は論理学においては、超が三つくらいつく、超々々天才でしたが、その彼も、自分の命と心を後代に伝えたいという気持ちを強くもっていたのでしょうね。(おそらくそれは、決して我欲としての願望ではなく。)

■<このようなブログがあることを知れてよかったです.>

ありがとうございます。これからもときどき、のぞいてやってください。


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7 コメント

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とても,残念なことですが,あまり議論がかみ合っ... (立花)
2004-12-23 16:17:54
とても,残念なことですが,あまり議論がかみ合っていないように思います.
自分の質問を繰り返しますが,『氏の価値の定式化は定義的関係を形成できないと思われ,その簡単な論証構造も提示しましたが,(1)もしそうであるならばあらためて価値とは何かが問われなくてはいけない,あるいは(2)立花の論証がまちがっており,価値は氏が提起した「生存」と定義的関係を形成しているのであれば,立花の論証に再反論をしなくてはいけないのではないか』というものです.
しかし氏はこの問いには答えずに,マスタべーションの例を出して,快と価値が両立するかという問いをたてています.しかしその問いにはあまり明瞭な答えを出すことなく(「あまり悩む必要はない」と仰ってるだけです),「生存は価値がある」というこれまでの主張を再び繰り返しておられます.どうしたことかと,おもっております.
がんばって氏の例を出して改めて提起しますが,「マスタベーションは快であり,生存に寄与するが,本当によいのか?」という問いが立てられるか否か,が問われているのです.この問いにどのように答えるにしろ,その答えによって,価値とは何かが明らかにされるのであり,それが価値<論>というものではないでしょうか.
氏の仰っていることは極めて(言い意味でも悪い意味でも)常識的であり,価値<論>の提示ではなく,価値<観>の提示にすぎません.三度繰り返しますが,問題なのは,その価値観が<なぜ>そしてどのような仕組みで価値があると言われているのか,を明らかにすることです.それが
簡単な補足:
(1)マスタベーションは<定義的に>子を産まないのだから,生存の観点から悪である,とも言えるのです.
(2)社会にとっては価値があっても私にとっては価値がない,という十分意味が理解できる主張からも推察されるように,(百歩譲って氏の<生存価値定義説>に同意したとしても)生存の対象が何であるのかが明確ではない以上,価値論としては当然不十分に過ぎる.氏の発言から推察するに社会や人類全体をその対象としているように思われますが,人類全体のために極めて少数の人間が生贄になる場合,それは「議論」の余地があるという時点で既に,破綻しているように思われます.

最後に:
氏のプロフィールには「哲学」(しかも存在論と認識論という哲学における二大テーマ!)と書いてあったので,そして氏の文章が丁寧なので対話を試みましたがいまのところ成功していないと思います.それは,既に述べましたが自分にとって氏の意見は(今となっては)価値<観>の提示としか思えないからです.これが自分と氏の哲学<観>ではないことを願います.(そしてその願いが成就されるのはまさしく,氏がわたしの質問の意味を理解して,それに誠実に応答するという「対話」によってのみだと,おもっております.)
今回のは、かなり分かりにくかったですね。 (たかはし)
2004-12-23 19:59:16
今回のは、かなり分かりにくかったですね。

人間が動物と違うのは、人間においては精神が「良いことか、悪いことか」の判断により肉体にブレーキをかけるか否かの行動を選択するが、動物にはおいては「快と感じるか、不快と感じるか」によってその判断を行うというだけであって、それだけの違いであって、「生き続ける」という目的を共有している同じ生き物である、そう言いたいのでしょうか。

それが、“生”が絶対的な価値であるという根拠であると。

共通だから、それは絶対的だ、ということでしょうか。そうだとすると、それは絶対的ということを説明する上では、ちょっと弱いと思います。

ところで、性行動に関して、戦前の話ですが、インドの山奥でヨーガの修行をした日本人が、現地の村で、暑いこともあって男も女も身にまとう物はわずかで、人が、子供が見ていようが、いまいが、おおらかに性生活を楽しんでいる光景を目にしたそうです。それでも全くいやらしいと感じず、それが当たり前にさえ感じたそうです。

人間の精神とは、本当に多様ですね。それだけに、どんな人間にも動物にも共通の「生」という営みを「絶対的価値」と思えるということは、「情的」には共感できます。しかし、「論」としては、やはり弱いと思います。
立花さん、再レス、そしていろいろご指摘、ありが... (mori夫)
2004-12-23 23:39:39
立花さん、再レス、そしていろいろご指摘、ありがとうございます。不誠実な応答をしたつもりなど、毛頭なかったのですが、言葉が足らなかったせいなのか、誤解をお与えしたようです。すみませんでした。

しかしおかげさまで、問題の本質がより明瞭に見えてきました。また、私の書くものが、読んでくださる方々に、今までなぜあまり共感していただけなかったのかも、わかってきました。

立花さんは、もしかして価値の問題が、数学や論理学の問題のように「絶対に間違いのない答えを出せる」と思っていらっしゃるのではないですか。

・自慰をすることは良いことか、悪いことか、どちらでもないのか
・自衛隊のイラク派遣は正しいか、間違っているか、どちらでもないのか
・これらを判断するための「価値」とは何か

これらの問題は複雑なだけで、思考のための条件になるものをすべて洗い出して、その条件の構造を正しく把握し、間違うことなく正確に推論すれば、最終的に「正しい答え」に到達できると、お考えなのではないでしょうか。

私は価値の問題は、そしてそれに必須な言葉の意味の厳密な定義は、数学や論理学とちがって不可能だろうと思います。問題要素の構造や、その要素間の関係を、数式や論理式で表すことができないのはもちろん、意味や価値を記号で扱うこともできない。価値の問題を考える場合は、日常使っている言語によるほかはなく、しかもこの言語というものは非常にあいまいです。

もし価値の問題が数学的もしくは論理学的に処理できるのなら、とっくの昔に人間の心と同じ機能を持つ人工知能が完成しているはずです。それから、翻訳ソフトウェアなども、完璧なものが完成しているはずです。しかし実際は、人工知能はおろか翻訳ソフトだって、とんちんかんな翻訳をしてしまうのを、解決できずにいる。

(すみません。語調が硬いですよね。決して論争モードで書いているわけではありませんから、気にせずに読んでください。)

意味や価値を、「完全に完璧に記号論理で扱う」のは不可能であるということは、科学や工学の世界では、ほぼ立証されつつあります。

したがって立花さんのおっしゃる

「その価値観が<なぜ>そしてどのような仕組みで価値があると言われているのか,を明らかにすること」

というのは不可能なのです。もちろん、それらしいものは考案して提示することはできます。でも、それは、どうも嘘くさい、あいまいだ、どこかに穴がある、というものにならざるを得ないのです。反論の生まれない、誰からも異論の出ない論説は不可能です。

立花さんは、

「mori夫は価値とは何かについては何も語らず、「生存は価値がある」という主張を繰り返しているだけだ。価値<論>ではなく,価値<観>しか提示していない」

ともおっしゃる。(立花さんの言葉どおりではないですが)

価値というものを、人間や生物の外部に存在する「客観的性質」であるかのように錯覚しておられるから、そのように「客観的記述によって明らかにせよ」、のようなことを言われるのではないでしょうか。違っていますでしょうか。

しかし「価値<観>しか提示していない」と言うのは、まさにそのとおりです。それしか言えないのです。われわれは皆、「死にたくない、滅亡したくない」と思っている。そういう生物欲求が、自分の存在の核心にある。これが「価値」を生み出す基になっています。「価値」とは人間や生物を離れた外部にあるものではなく、人間や生物が「あれは良いな・悪いな」と思う快・不快の体験から、それが源泉となって、抽象的な概念として言語化したものです。

だから、何かに「価値がある」と思うのは人間の主観的幻想なんです。自然界の客観的性質ではない。ここで大急ぎで追加ですが、「幻想にすぎない」からと言って、「価値」という概念をけなしているわけではないです。「価値」は人間にとってもっとも大切なものです。何しろすべての大事なことの判断基準になるのですから。

で、この「価値」なるものは、その中身を具体的に語ると、人によって、地域によって、民族によって、かなりバラバラです。言うまでもないですが、ある人が「善い」「価値がある」と判断しても、別の人は「悪い」「価値がない」と判断することが、往々にしてある。それは、生まれ育った場所や、環境や、経験が、各人みな違うからです。

価値とは、これはきすぎじねんさんも、以前からずっと強調しておられることですが、「誰にとって」という前提条件が必須です。何らかの価値とは「○○○さんにとっての価値」である。「○○○さんにとっての」という前置きのつかない価値は存在しません。

では、価値は相対的なものすぎないのか。絶対的な価値はないのか。ほとんどの人はイエスと言うでしょう。現代社会においては、とくにそうです。これが現代人を深いニヒリズムの谷底へ突き落としています。

でもここからが、私の主張したいところです。

「死にたくない。生きていこう。それもひとりだけでなく、身内だけでなく、皆と。」

こういうものを我々は共有しています。これが「価値」の源泉です。(「価値」自体ではないかも知れないが。)誰も、自分や自分の仲間の「生」をないがしろにする人はいない。何に価値があるかを考える場合、これを忘れてはいけない。

価値についてどんなに意見が分かれても、互いに相手を尊重して、相手の立場で物事を考える努力を怠らなければ、互いに同じ価値を見出せるはずだ。このことふまえて、私は

「生という絶対的な価値がある」

と表現してみたのでした。厳密に言えば、「生」が「価値」なのではなく「生」があるから、「価値」という概念が生まれたのです。「生」をより良い状態に導くものを称して、人間は、「価値がある」と表現するのです。

想像ですけど、立花さんは、もの事をかなり論理的に考える方ではないでしょうか。頭脳が理系的でいらっしゃる。(失礼な言い方ですみません。)

私が思うに哲学は論理的思考のみの営みではありません。論理的思考のみであれば、それは数学であり論理学です。ゲーデル等がやっていたことです。(前にも書きましたが、アリストテレスは、論理学の超天才でした。)

哲学は、論理では如何とも扱いがたい、神、私、世界、存在・・・といったことを言葉で考える営みです。そして言葉は「知」と「情」のふたつの面を合わせもっています。価値判断の元になる快・不快とは、「知」ではなく「情」なのです。価値を決めるのは「情」です。だから価値を論理的に考えることには、無理があるのです。構造分析、定式化、定量化といったことができない。

哲学は文理両道の営みです。(と私は思っています。)ウィトゲンシュタインは「語り得ぬものに対しては、沈黙せねばならない」と言って、問題を放棄(?)してしまいましたが、私はなんとか、この語り得ぬ「神、私、世界、存在・・・」について、言葉によって少しでも本質に近づいていきたいと思っています。それが私が「プロフィール」に書いたことの意味です。

振り出しに戻ります。自慰は良いことか、悪いことか、どちらでもないか。

Aさんは良いことだと考え、Bさんは悪いことだと考え、Cさんはどちらでもないと考え、Dさんは良い点もあるが悪い点もあると考える。これがすべてです。客観的に正しい結論はありません。

しかし価値を生み出す「生」の原点に返ってみれば、おのずと見えてくるものがあります。自分を見失わず、周囲にも迷惑をかけないように、しなければならないと。それがわかればどう行動すべきかは、各人がそれぞれ、各人なりに判断できてくるように思います。ただしそれは、万人にあてはまる「絶対にこうでなければならない」というものではない。
おはようございます。 (たかはし)
2004-12-24 08:14:56
おはようございます。

少し整理されてきた印象を受けますが、まだ、論としてすっきりしません。一読して矛盾を感じるのです。

数式で表現してほしいわけでは、ないのです。論として首尾一貫した主張にしてほしいのです。

「絶対的」と「相対的」、「言葉には現せない」と、「言葉によって本質に近づきたい」という表現が文中に出てきて、それが整理されていないようです。

これから、じっくり読ませていただきます。

今回のは、長文ということもあって、うまくまとめ... (たかはし)
2004-12-24 17:42:52
今回のは、長文ということもあって、うまくまとめきれませんでした。

そこで、矛盾した感じとか、すっきりしない印象を受けるのが、どこに原因があるのかを考えました。「哲学」そのものに対するスタンスの違いではないのか、そう思って、ネットで「哲学とは」ということで検索してみました。その結果、下記の記述をみつけました。これに対しては、私はまさにそのとおりと共感できますが、mori夫さんは、どうでしょうか。

[批判的思考の陶冶]
 ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)に、「哲学を学ぶことはできない、哲学することを学びうるだけである」という言葉があります。これによってカントは、哲学とは教科書的に整理された知識を学ぶことではなく、何よりもたえざる思索であることを強調しようとしました。哲学の伝統的なテーマとして、「認識論」や「存在論」、あるいは「価値論」などがありますが、これらの問題にさきだって哲学では、「批判的思考の陶冶」ということが何よりも重視されます。自分で問題を発見しそれを自分の言葉で語ることも大事ですが、しかし自らの主張を批判的に吟味し、それを議論によって正当化するトレーニングも大事です。

【哲学】
世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問。
とらわれない目で事物を広く深く見るとともに、それを自己自身の問題として究極まで求めようとするもの。

以上です。

mori夫さんの場合、情、神秘、倫理、道徳といった要素が強いように感じますが、どうでしょうか。
たかはしさん、いつもありがとうございます。 (mori夫)
2004-12-24 18:37:54
たかはしさん、いつもありがとうございます。

>mori夫さんの場合、情、神秘、倫理、道徳と
>いった要素が強いように感じますが、どうでしょうか。

そのとおりだと思います。たぶん、たかはしさんや立花さんからみたら、私の書いているものは、出来の悪い、言ってることのよくわからない、「文学」に見えるのだろうと思います。(実際そのとおりです。私の文章には「明晰」というものがない。)

しかし私が思うに哲学は科学ではありません。論理学でもありません。事実を観察して、仮説を立て、それを論証するという営みではない。哲学は目に直接的には見えないものを扱います。その正体は? その本質は? ということを思索のみで徹底的に考えます。(実験検証できないから。)

そしてその哲学が対象とする目に見えないものとは、命、心、私、神・・・といったものです。科学はこれを計測機器等でとらえることができないのみならず、ややもすれば「それは実在しない幻想だ。すべて物質運動に還元できる」という推理結論を出しがちなのです。

テツガク病の私は、こういう虚無思想に断固異議をとなえるのです。命、心、私、すべて確たる実在だ。そして神だって存在する、と。

この宇宙に「私」が存在するから、それによって主観と客観が発生し、存在論と認識論の問題が立ち上がってくるのです。「私」を考えずに、存在と認識を語ることはできません。物事の意味や価値だって、「私」がいるから、立ち現れてくるのです。「私」がなければ、意味も価値も、この宇宙に存在しません。

たかはしさんの引用なさった哲学の定義「世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問」の、「究極の根本原理」とはまさしく「神」のことだと私は思うのです。

だから、私に言わせれば、哲学が真に問うているのは

・神とは何か
・神は存在するのか
(それは法則なのか、それとも何らかの意志主体なのか)
・神が存在するとしたら神と「私」はどういう関係にあるか

ということだと思うのです。

哲学から「情、神秘、倫理、道徳」といったものをぬぐいさって、客観世界を純粋に論理思考によって解明しようとするのなら、それはもう哲学ではなくて、科学です。
レスありがとうございます。 (たかはし)
2004-12-24 19:49:53
レスありがとうございます。

「・・・・客観的・理性的に追求する学問」、「・・・・究極まで求めようとするもの」

ここが私の言いたいところです。それからこういう記述も見つけました。

「古代ギリシャで哲学というと学問を意味していました。ですから、当時は「勉強する」といえば、哲学を勉強することを意味していたのです。後世になってその中からそれぞれの科学が枝分かれし独立していったので、哲学はそれらの科学を成り立たせている世界や人生のおおもとにある「見方・考え方」=根本原理を研究する学問だということになりました。」

実在するものを、実験によって、あるいは数式によって証明しようとして、哲学から分かれていったもの、それが科学だと思います。ですから哲学に科学の要素があってもいいと思います。

でも、ここで私は、実験で、数式で示してほしいということではないのです。

客観的・理性的に究極まで解明しようとしたら、どうなるだろうか、そこを推論するのが楽しいのです。

どういう方向から理論立てても、解明不可能、という結論に達してもいいと思います。

ただし、それは、その結論への導き方が理論的に破綻していなければです。

理論に破綻があれば、それを指摘しあって、もはや疑問を挟む余地がない、そこまで議論する、それが哲学にとって大事なことだと、前述の引用でも言ってますよね。

立花さんも、それを求めていると思います。

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