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近況報告。

・・・のつもりではじめたのですが・・・。
ゼミについては、学科公式ブログで報告しています。

オンライン講義をやっていて思ったこと② 空間がないことと意欲格差

2020-07-07 18:34:20 | 授業とか。

第2弾です。なんていうか、学校とは?みたいな「教育社会学」の授業を、空間のない学校で虚空に向かって話すという不思議な状況となり、その結果が時差で熱心なコメント課題と大量の脱落者という形で返ってくる中で、色々考え吐き出さざるをえなくなってしまっているという感じです。

 

二極化傾向

 新興感染症という外圧により、誰も何も準備をしていないまま各大学がオンライン化に踏み切った当初、心配されたのは、通信環境(Wi-Fi、PC等)のない学生へ配慮すべきという点と、大学全体としてのサーバーの維持や社会全体としての通信速度の維持が可能かという点だった。その結果、双方向授業は避けたほうがいという空気が醸成され(大学によっては明示的に指示があり=明学は指示あり)、オンデマンド配信で課題を回収するという形が標準として推奨されることとなり、学生は課題に追われることとなった。(通信環境の問題は、結局、学生側も必死で整えたうえ、各大学が貸し出しシステムや準備金を出したため、比較的なんとかなってきたはず。)

 このしくみを満喫して、通学の負担なく、動画を何度も戻したりして深い学びができていることを喜んでいる学生もいる。しかし他方で、受講に楽しみを見いだないのか単に手が回らなくなっているのか、脱落している学生もいる。

 そして、オンライン講義では、対面講義以上に後者の学生の姿は教員からは見えない。高校までと違い、自主管理が多く求められる大学の場合、対面講義でも、本当に来なくなった学生の姿は見えない。ただ、授業は実質的に脱落気味だがサークルの部室などに登校している人というのは昔からいるし、最近では、なんなら出席をとらない授業なのになんとなく友達と座っていたりする学生もかなりいる。大学すらも準義務化してきている(少なくとも大学入学層の多くにはそう見えている)なか、大学の学び自体に意義を見出していないがやめることもしない層はおそらく年々増えている。そういう普段は何とか見えている人たちが、教員から見えない。(課題提出状況が鈍っていくことだけがわかる。)


空間共有機能が失われた学校

 そもそも学校の役割とは多義的だ。知識伝達機関、社会化機関というのが最小限の定義だろうが、実際はそれ以外の色々な役割を付随させている。とりわけ、オンラインなどというものが存在しない時代の制約のなかで、同輩集団を長時間、物理的空間に押し込めるというしくみが作り上げられた結果、そこでのインフォーマルな悲喜こもごもも付随するのが学校となった。

 そして何なら、その部分に学校の本質を見出す教師や生徒もいた。日本の学校お得意の集団活動など本当にそれ。「友達に会いに行くのが学校」「部活のために行っていた」「思い出は宝物」みたいな感覚もそれ。当然それらが嫌で嫌で仕方なかった人も生んできた。

 オンライン講義、特にオンデマンド型の授業の場合、この色々な部分がよくも悪くもそぎ落とされてしまった。その結果、学校に、知識伝達以外の多義的な部分でつなぎとめられていた層の脱落傾向が加速している気はする。

 加えて、意欲の湧かない授業をなんとかやりすごす技術が伝承されにくいのではないかと思う。私の授業では、昨年までもパワポでしゃべり、コメントを事後にLMSで提出してもらう方式をとっていたので実質的な受講負担はほとんど変わっていないのだが、今年は、脱落者が例年よりあきらさに多い一方で、出される課題はそんなにがんばらないで!というものばかりとなっている(①参照)。それはつまり、例年、授業に出ずに/をよく聞かずに適当なコメント返すことをしてきた層が、続々と脱落しているからだと推測される。フーコーのパノプティコン論の肝は、規律的態度とともに同時に逸脱的態度も生むというところだという読み方に賛同するが、学校は、聞いているふりをして座っている態度とか、友達と騒いで悪さをする生徒文化といったものも多々生んできた。こういう「やりすごし術」が、課題応答が剥き出しになる形態かつ、逸脱文化の伝承がなされづらい孤立化状況だと、使いづらいのかもしれないと思う。

 もちろん、趣味や自己啓発に位置付けられる他のオンライン受講サービスとは異なり、大学には「学位(学歴)付与」の機能があるので、まだつなぎ留まっているとも言えるだろう。しかし、コロナ関係なく、時代ははもはやオンラインは是か非かという段階でもないだろう(日本の学校のICT化の遅れは世界的には恥ずべきレベル)。今後、小中高も含めて、何が学校の役割か(というそもそも存在していたはずの問題)が改めて問われ、多様な解が見つけられていく必要があるように思う。


オンライン講義をやっていて思ったこと① オンライン学習と学校化された身体

2020-06-28 01:18:06 | 授業とか。

 完全に当初目的も執筆熱意も失っているブログでありましたが、教育とは学校とは何かをしゃべりながら、新しいオンライン授業で自分と学生の皆さんに何が起きるかを考えるという不思議な体験が始まり2か月経過するなかで、気になっていることをまとめました。

課題=チェックされる、成績に関わると思い込む学生

 オンライン講義が始まって2か月。多くの大学が、「学生の通信環境その他に配慮して、オンデマンド講義で課題を回収する形を基本にお願いしたい」(大意)となった結果、学生・教師双方が膨大な課業管理地獄になるディストピアが出現している。

 教員側の窓から見てまず目立つのは、あきらかに教員側が期待している以上に、課題に必死に取り組む学生の姿だ。出したか出さないか、取り組んだか取り組まないかのみチェックするなどとしている授業でも、何百字もやたら書き込んだコメントが返ってくる。さらに、ちょっとの誤字で自動採点で×がついた学生が、どうにかにならないでしょうかと問い合わせてくる。(どうにかも何も・・・。)

 みんな、先生への提出物は細かくチェックされて採点されているという思い込みを内面化しすぎているのだろうか。そうだとしたら、どれだけ学校化されているのか。高校までの学びの態度が抜けないという意味では「生徒化」と呼ぼうか。(しかも「生きる力」云々以降のがんばっている感を見せる必要のある学校の。)社会学では過剰に社会化されたことを、「過剰社会化」と言ったりする人もいる。ちなみに、「過剰社会化」は行き過ぎという点でどちらかというとよろしくないニュアンスで使われる。

オンライン講義はどこまで学校的なのか

  学校外の通信教育では、かなりの数の脱落者がいるはずだと思う。(ちなみに私は高校時代、Z会に1-2回しか返送しないでお金をドブに捨てた。)だから、この過剰な頑張り、過剰に学校化・生徒化された振る舞いは、オンライン講義という形が必然的にもたらすものではないと思う。これまでの学校経験が、学校で提出物を課されたら先生に見られているに違いない、成績に、卒業に関わるものだ、という態度に結びついている気がする。(『学校って何だろう』の苅谷先生のいじわるな「実験」を思い出す。)

 一方、オンラインでの受講では、他の学生の雰囲気が見えない。ほかにどんな人たちがどんな態度で座っているのか、どの程度の手抜きでやっているのか、そもそも教室に現れてすらいないのかの空気感がわからないのがいけないのかもしれない。

 私たちが巻き込まれたオンライン講義とは何なのか。大学の学びを変えるのか。大学教員関係のSNSでは、そんな言葉が2か月前から飛び交っていた。(私は「苦肉の策なんだから、そんなに今から息巻かないでも…」というタイプであったが。)

 ところが、すでにとても学校化した身体の人たちが、対面の学校のインフォーマルなガス抜き機能を欠落させた場で、どこまで看守に見られていると思ってふるまっていいのか決めかねて自らハードルを上げているというのが、今の私から(中央棟の看守室から)見える景色の1つなのだ。(もう一方で、いつもより脱落していく人も多く二極化しているという話はまた今度。)


2014秋学期プレイバック。

2015-02-27 00:20:44 | 授業とか。
学科ブログに書いていることもあって、こちらは完全にアップロードが滞っておりました。

秋学期。

社会学基礎演習(1年生)

昨年つくり上げたカリキュラムをさらに磨き上げて15回完走しました。
  http://sg.meijigakuin.ac.jp/daily/?cat_id=18


演習1(3年ゼミ)

それぞれのテーマで現代史を書きあげ、現在(私ではなく担当が)鋭意ゼミ誌編集中。
 テーマは教育、少女、野球、ディズニー、ファッション…。

フィールドワークとして、キッザニア東京を見学させていただきました。
 大人だけでは入れず、見学も簡単には受け入れていただけない中、
 ゼミ生が懇親の計画書を執筆し、実現しました。
 私個人としても、大変貴重な経験となりました。まことにありがとうございました。
 http://sg.meijigakuin.ac.jp/archives/3399/


演習2(4年ゼミ)

今年のメンバーは秋の追い込み合宿を行わなかった代わりに、
 「横須賀遠足」に行きました。
 http://sg.meijigakuin.ac.jp/archives/3192/ 

卒論を無事書き終えて、恒例の卒論報告会も行いました。
 先輩も駆け付けてくれて、大盛況でした。
 http://sg.meijigakuin.ac.jp/archives/3348/


子どもの歴史社会学

今年も「子ども」について考えるというお題のレポート。
 昨年以上に少年法と飲酒が多かったです。
 ただ、レポート提出直前にあった「つまようじ」事件に言及するレポート多すぎ…。
 (小論文ではないので、論証に関係のない前置きは印象点を下げるだけです。)
 つまようじをうまく分析していたレポートが1つだけありましたが。
 あと目についたのがJS(女子小学生)雑誌。これは書きやすいテーマなのかなと思いました。
→ふむふむと思ったのをいくつかあげておきます。


子役バッシングにおける「子どもらしい」と「子どもらしくない」の交錯
妖怪ウォッチのヒットの理由 子どもの共感と大人の期待
読書感想文コンクールの課題作品と優秀作に見る大人の求める子ども像
アニメ規制は子どものためか
子どもの権利 主体的に子どもをする権利 子どもにとっての子どもの尊重
テレビに見る子どもらしくない子ども
年代別マンガの中の子ども像
児童労働 単なる禁止よりも働かずに済む支援を
「そして父になる」における子ども観の振り子
児童虐待防止法は子どものためか
表現物規制の歴史と子ども観
児ポ法に見る子どものまなざしの変化
JSの化粧
「闇の子どもたち」と「14歳の母」の子ども像の比較分析
大人になるための中2病
つまようじ事件 大人が望む「子ども」の崩壊・「子ども」を問い直す子ども


年度末のお仕事がまだ少し、いやだいぶ残っております。締切とともに。


新・子ども観を分析して見る

2014-03-18 00:15:14 | 授業とか。
秋学期「子どもの歴史社会学」のレポートについて。

今年は、少し内容を変え、教育にとどまらず、児童労働や少年法、飲酒、売春など、最近の研究の話を織り込んで講義しました。レポートは、例年と大きくは変わらず、「子ども」や「子ども/大人」について、適切と思う問いを立てて、授業の内容や文献資料を踏まえて論理的に結論を導けというような内容です。しかし、教育のみの話をするより、多様な話題に触発されたのか、レポートも例年以上に多彩で深みのあるいい考察が多かったです。

色々な分野の話をすることで、「子ども/大人」という感覚の制度性や、複数のまなざしの攻防、消費対象としての「子ども」という感覚がピンときた人が多かったのかなと思います。


「お!( ..)φメモメモ」と思ったレポートのテーマのみここに記します。

・ネットにおける「子ども/大人」という制度の不在

・「アイドル子役」に見る「子どもらしくない子ども」(少女性とエロチシズム)の商品価値

・子役ブームの広がり:「子ども像から外れる」からこその毀誉褒貶

・女子高生ビジネス規制問題における、少女への保護と欲望のまなざしの攻防

・「14歳の母」の描写に見る、現代における10代(自立していない学生)の妊娠の想像のできなさ

・たしなみからバッシングへと変遷した学生のお化粧

・クレヨンしんちゃん「モーレツオトナ帝国」における子どもらしい子どもに戻る大人と大人びた子どもたちの攻防

・「よつばと」が描く、大人の理想としての「自由な子ども」と「童心を持つ大人」

・女児の憧れと大人の理想のバランスをとった女児向けアニメの少女像

・制裁と教育と両方の面を持つ少年法の趣旨を理解せず、「子どもらしさ」を持たない犯罪に制裁を叫ぶ人々

・パターナリズムと責任主義の両方の論調が存在する以上、現行少年法は維持すべき

・「未成年」という制度の恣意性、少子高齢化という現実から成人年齢引き下げに賛同する

・成人という制度と徴兵制との引き合いで決まる自動車運転免許取得年齢

・体力低下論に見る保護すべき子ども像・国家の一員としての子ども像

・「子どもらしさ」称揚の陰にある「無知」「無能」が国家に役立つという動員史観

・制服がつくりだす子どもと大人の境

なお、テーマを載せてしまうのは、論文の評価はテーマ設定のみでは決まらないからです。適切なテーマ設定は論文の第一歩ですが、適切な証拠を出しながら論理的に論じられているかで評価しています。それを口をすっぱくして言ったからか、今年は履修者に比べて提出者が少なくとんでもレポートが少なかったです。ひどいレポートは互いに時間の無駄なので、助かります(苦笑)。



はうつー男らしさ。

2013-10-18 00:30:49 | 授業とか。
新設科目、社会学基礎演習は、「社会学をつかうをテーマとした授業です。

来週、男女のファッション雑誌の分析をすることになっており、
その準備として、ここ数年カリキュラムの都合上やっていなかった、
ジェンダーと身体技法の話を久々に。

久々に、「元女子校演劇部員が送る、男の座り方講座」をやりました。

ポイントは、
足は外向きに、
パンツがつらないように、膝上をちょっとつまむ
そのとき、肘は外にはる
膝を曲げるときも座ってからもひたすら膝は外に開く
というあたりです
女子が男性に見せるには、過剰に男らしさを意識せねばならないのです

たかがこれだけの話ですが、
もちろん、ぼやっとしてて恥ずかしい座り方をしていたという経験は
女性誰しもある話だと思いますが、
意識して股を開いて座るってけっこう気持ちが悪いものです。

初めてやったとき、すごく居心地が悪かったのが、
いつかそこまでやらなくても男に見えるって…っていう
状況になった時、男役が完成します


※女子どうしで差異化するために、女子役は、過剰に女子女子してますね

しかし、やはりいい年して実演するのは、恥ずかしかったです。
(もちろんボトムスはフェミニン度の低いパンツです。)

このいかんともしがたい抵抗感こそが、しみついた身体技法なのだな、
と思います、とかなんとかそんな話。
来週は、持参で雑誌を切り抜いて分析します



資料を分類整理してみる。

2012-07-14 20:59:23 | 授業とか。
去年は震災の影響でコマ数が減ってできなかったのですが、
今年の質的データ分析(F科目)でドキュメントの分類整理をやってみました。

震災後3月いっぱいの新聞投書欄の分類。

「なんちゃって」分析なので、一番原始的な方法でやることにしまして、
投書欄を探し出してコピーして、該当する投書をハサミでカット。
手分けして読んで大切なところに線を引き、分類スタート。



↑細かめに分類して、近いものをさらにまとめる班と、
ざっくり分類して、その中を分ける班と。
同じ新聞でもまったく違う分類になったところも。



↑わかってはいたことなのですが、朝日新聞班が大変なことに。
大作でした!

この科目は、“簡単な解説→ともかく「なんちゃって」調査をやってみる
→「失敗」を踏まえてディスカッション”というプロセスの中で
その調査の特徴を体感して本番の実習の糧にするという
ちょっと特殊な方式を試みています。
そのため、具体的な分析まで踏み込めませんでしたが、
レポートをきっかけに少し考えていただければ…。




卒業式&入学式。

2012-04-08 14:55:07 | 授業とか。
だいぶ前の話になりますが、卒業式は無事挙行されました。

昨年は卒業式も入学式もなかった異常な年だったので、
今年、ひとりひとりの顔を見て送り出せる喜びは大きかったです。

特に、08生は着任時2年生で、ゼミや少人数クラスで密に交流した
初めての学年になるので、報告や挨拶をいただいてうれしかったです。

ゼミ生も全員無事卒業。
みんな進路も決まったようでよかったです。
ご卒業おめでとうございます

もう皆さん新生活スタートされていることと思います。

                   

入学式は・・・低気圧到来!

どうやら入学式が中止になってしまったところもあるようですが、
社会学部の式自体は午前中だったので無事行えました。
その後のガイダンスの時間が前倒しになりましたが、
なんとか終了。大きな混乱がなくてよかったです。

さて、いよいよ新学期開始。
がんばります。




子ども観を分析してみる2。

2012-02-15 22:14:56 | 授業とか。
今年も、「子ども」観を分析してもらうレポートを出しました。
(昨年の模様はコチラ。)

履修者163名 レポート提出者143名。
出席点は参考程度ですが、ほぼ出席していない人を中心に、
全く授業に関係ないもの、課題の趣旨から外れたものが続出したので、
けっこうD判定を出しました。あしからず。

せっかくなので、2人以上が選んだ題材をいくつか紹介してみます。
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クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 50
名探偵コナン 4
誰も知らない 2
マルモのおきて 2
スタンドバイミー 2
エイジ 2
Always三丁目の夕日 2
神戸連続児童殺傷事件 5
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今年は「マルモのおきて」か~と思わされましたが、
全般的に子ども観を論じるにあたって王道とも言うべき
作品が選ばれていたように思います。

授業の内容を肯定否定含めて消化して、
オリジナルな社会分析や作家論の域に達していた
レポートもあり、うなりつつ読みました。
内容は紹介できませんが、何が題材だったかだけ紹介します。
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綿矢りさ『インストール』
犬木栄治『秘密警察ホームズ』
湊かなえ『告白』
今年の子役人気
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体感型授業。

2011-08-23 09:52:34 | 授業とか。
今期初めて担当した「質的データ分析」(社会調査士F科目)では、
2種類以上の質的調査法の講義と実習が求められているため、
ミニ実習を行いました。

その際、対象と最適な調査を考えるためにも、
調査を考えるところからやっていただいてみたので、
2クラス分やったことをご紹介します。
(おこづかいやお金の使い方を知りたいという意見がどちらのクラスでも
あったのですが、それってインタビューで聞くのが最適かな?みたいな
話をしたのです。)

<木2クラス>
○インタビュー
 大学入学の目的意識や生活、今後の目標について、
 社会人・留学生などと一般入試の学生との比較
 →KJ法で簡単に整理
○参与観察
 お昼の礼拝の手順と学生生活における意味

<木3クラス>
○インタビュー
 学生の恋愛観(とくに草食系・肉食系という言葉に注目して)
○参与観察
 学生の人間関係(とくに人物のタイプと男女関係に注目して)

※ドキュメント分析(ってくくりはどうかと思いますが)も
やってもらうつもりでしたが、震災に伴う回数減のため、
超簡易バージョンしかできませんでした。

どちらのクラスの実習もなかなか興味深い結果で、
「なんちゃって調査」であるという制約の中、
データを基にしたレポートも力作がけっこうありました。
授業内でしか使わないという前提での調査のため
細かく紹介できないのが残念です。


やはりやってみて実感することは多いようで、
講義→実習→感想ディスカッションと繰り返す形はわりと好評でした。
質的調査について考えたこともレポートにして貰いましたが、
調査者の問題やら再帰性やら、言葉で説明してもわかりにくいものを
体得してもらえたかな?と。

ただ、アポとりやテープ起こしが大変だという印象が強かったのか、
「アンケートの方がすぐ答えが出て楽そう」という感想が
授業中に出たのにショック…。
とりあえず、調査票設計して、サンプリングして配る先に話しつけて、
エディティング・コーディングして入力して、
統計ソフト使いこなして、χ2検定くらいやってみてから言ってみな!
と言っておきました。
む~。体験しないとわからない、ではいかんです。

でも、ま、そこから始めるための授業ということで。
授業の狙いが比較的あたった授業になったかと(ほっ)。



教育を信頼する大学生。

2011-05-30 00:10:42 | 授業とか。
書くことがなくて放置してました。とりあえず無理やり1つ。

在校生にも行きわたったころだと思うのですが、
学内学会の『Socially』19号の特集が「教育」だったので、
「教育を信頼する大学生:履修者アンケート雑感」という雑文を書きました。

リアクションペーパーでMG生が学校が好きで教育を信頼していることに驚いた
(「社会化」や「隠れたカリキュラム」は「大切」「うまくできている」という感想が
非常に多く、「気持ち悪い」「怖い」は少数)ので、
とりあえず2010年の「教育社会学」の初回授業開始前に
学校像や子ども観を聞くアンケートをとってみました、というものです。

ドキュメント分析(という名称は未だ居心地が悪いのでありますが)というか、
KJ法というか、ということを行ってみた結果、
1)学校の社会化機能(それも知識より社会性やコミュニケーション能力)への
 信頼が高い
2)友達と過ごす場という意味付けが強い
3)学校を圧倒的に肯定的に見ている
という傾向が見られました。

生権力という言葉があるように、学校の「すごさ」と「怖さ」はコインの裏表
なのですが、ポジティブな面ばかりに反応するのは特徴的かと思います。
それで、居心地のいい学校(居場所づくり)が進む一方で、
ゆとり批判が吹き荒れて堅実に勉強しつつ、
同時にコミュニケーション能力を身につけるべしという風潮が強くなった
2000年代に学校生活を送ってきた(そして、わりと順調に上がってきた)
MG生が、既存の価値を強く信頼しているらしいと指摘し、
それはある意味安全だけども、レールから外れたときもろいかもしれないし、
レールに乗れない他者を排除しかねないということを書きました。

今年もアンケートをとったのですが、少し否定的な意見が増えたほかは、
全体の傾向は変わらないようです。

ただ、社会化等々の概念を説明するときに、淡々と説明するのではなく、
「すごさ」と「怖さ」があるよねという話を強調してみたら、
「怖い面に気づきました」「なんとなく感じていた違和感が言葉になりました」
というコメントが去年より多かったように思います。

で、何が言いたかったかわからなくなりましたが、そんなことを書きました
という報告でした。

この調査法としては色々問題含みのアンケートは
(つまり、アンケート自体が、初回授業に現れた人に行っているので、
まじめなMG生の中でも相当学校大好き派に偏っているとは思われるとか、
3年目に入り、私の他の授業をすでに聞いていた人が増えているので、
どんどんまっさらな状態の調査ではなくなっているとか)、
とりあえずは授業にも活かせるので、来年もやる予定です。

(補足)
80年代:管理主義化した学校への反発(とあるべき学校の希求)
90年代:学校の意味が曖昧化
の先に、どうも00年代になって、わりと素朴に学校やその他既存の価値を
受け入れる風潮があるように思われます。
(上記「あやしい調査」の他に、これも参照。)
そのことをきちんと調べねばならない時期になっているなあと思いつつ、
前に使った毎日中学生新聞は休刊だしなあ、という今日この頃です。