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デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

三好栄子なの?(PART 2)

2016-07-05 14:48:02 | 日本人・日本文化・文学論・日本語






 

三好栄子なの?(PART 2)



鼻息ジャンプ

高橋とよさんが生まれ付いての小津調名脇役なら、三好栄子さんは、欧風の灰汁(あく)の強い名演技者だった。


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  高橋とよ

同じ新劇出身の俳優さんとも思えないが、灰汁の強い演出家であった私の師匠渋谷実監督は三好さんの方を好んだ。
きだみのる原作の映画「気違い」(渋谷実 ’57)は題名が災いしてヴィデオ化期待薄の渋谷作品である。

...さて、この作品に脇で出演した三好さんは、素顔と演技の落差の大きさで私をびっくり仰天させた。
待機中の俳優さんを撮影順に呼びに行くのも助監督の仕事のうちである。

ある時、三好さんを迎えに行くと、車の都合で大船到着が遅れたらしく、メイクがまだ終わっていなかった。
しかし、開始時間には余裕があったので、その旨を告げたが、彼女は今にも泣き出さんばかりに、済みません、済みません、本当に間に合いますか、間に合いますかの連続であった。
勿論、撮影時間には十分間に合って、スタジオに入ったときはまだ余裕があった。


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        三好栄子

三好さんは監督に静かに挨拶した後、セットの片隅に控えたが、まるで水を打ったようにひっそりと静かであった。
おとなしい農婦だが、いざとなると怖い女、といった役だったと記憶する。
なにしろ30年以上も昔のこと、台本もないのではっきりしないが、その日は彼女の怒りが大爆発する件(くだり)を撮影したのである。

テストが何回かあって、いよいよ本番である。
それ迄の迫力も大したものだったが、いざ本番は想像を絶して凄く、喚き散らしたあと、鼻息も聞こえんばかりの勢いで周りを睨み回し、最後の目線がカチンコを持ってカメラの脇に立っていた私に当たって動かなくなった時は、そのあまりの迫力に思わず後ろの誰かを睨んでいるのかと振り返ったくらいである。

勿論誰もいない。
怖さのあまりに遂に私は何か悪いことをしたみたいにうなだれてしまった。
本番は1回でOK、渋谷さんは大満足であった。

三好さんは腰が折れるくらいに深い最敬礼をしてセットを出て行き、私は監督の、丁重にお送りしての声を背にこわごわと控え室までお送りしたのである。
途中、三好さんは今にも泣き出さんばかりに、渋谷先生は本当にご満足なさったのでしょうか、と何度も何度も念を押される。
私も負けずに大丈夫です、凄かったです、最高ですと褒め称えながら、水がいきなり沸騰する湯に変化したようなものすごい落差に圧倒されていた。

いま目の前にいる三好さんは偽者で本物はは未だセットにいるのではないかという錯覚に捕らわれかけた。
映画界暮らしも長いが、三好さん以上に激しいジャンプ力の持ち主は未だに知らない。

今は、化けるという演技の原点を失った俳優ばかりだが、怖い、しかし最初の観客としての監督という存在が、すっかり権威を失ったことと無関係ではあるまい。

 

by 石堂淑朗

赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




85ページ 『キネマの美女』
編者: 文藝春秋 
1999年5月30日 第1刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋


 


三好栄子

1894年4月8日 - 1963年7月28日

出生名は宮田 ハル(みやた はる)、結婚後の本名は森田 ハル(もりた はる)。
東京市神田区神保町出身。

1912年、跡見高等女学校を卒業後、島村抱月が結成し、松井須磨子らが所属する芸術座の演劇学校に入校する。
1915年、三好栄子の芸名を名乗り、浪花座での大阪公演『清盛と仏御前』で初舞台を踏む。
トルストイ作の『復活』や『アンナ・カレニナ』などの舞台に立ち、着実にキャリアを積むが、松井須磨子と衝突して芸術座を脱退し、同じく芸術座を脱退していた沢田正二郎に誘われて、1917年、新国劇結成に参加する。

しかし、沢田夫人である渡瀬淳子と衝突して新国劇を脱退、芸術座に復帰を許されるが、島村抱月や松井須磨子の相次いで亡くなったことで芸術座は解散。
1919年、辻野良一、五月信子らと大衆劇の劇団である新声劇の結成に参加し、中心女優として活躍する。

1925年、新声劇の奥役を務めていた森田信義と結婚、翌1926年、新声劇を退団し、小林一三や坪内士行らが結成した宝塚国民座に入り、森田も文芸部長として共に所属する。
国民座ではトップ女優として人気を得るが、同じく幹部女優だった出雲美樹子との確執からまたも脱退、以降はさまざまな劇団を渡り歩き、大阪松竹歌劇団の講師となり演技を指導する。
舞台にも終戦時まで出演を続けていたが、主に脇役にまわされることが多くなった。

第二次世界大戦後は、黒澤明監督に請われたのがきっかけで映画界入りし、1946年、黒澤の戦後第1作『わが青春に悔なし』で52歳にしてはじめて映画に出演、


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かつての艶姿とは打って変わって、ギョロ目と大きな口が特徴の性格女優として活躍し、以降は50年代にかけて黒澤作品をはじめ木下恵介、成瀬巳喜男、小津安二郎、溝口健二、五所平之助、市川崑、豊田四郎といった日本を代表する監督の作品に立て続けに起用された。

また、東宝のサラリーマン喜劇では森繁久彌演じる主人公が最も恐れる社長会長(先代社長の未亡人)という役どころで多数出演し、順風満帆の役者生活を送っていた。

しかし、私生活では1951年、夫の森田が完成試写を見るために自宅から撮影所へ自動車で向かう途中、急行電車と衝突し死亡する悲劇に見舞われている。

1959年、仲代達矢主演の『野獣死すべし』での出演を最後に病気のために引退、映画出演は13年間で110本を数える。

1963年7月28日午後5時10分、老衰で世を去った。




出典: 「三好栄子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




。。。ということなのですよ。。。 つまり、見い出される人というのは、主演を演じるにしろ、脇役を演じるにしろ、それなりの素質の人、努力の人なのだと思いますねぇ~。。。 もちろん、性格的にも優れているところがあるはずです。

しかも上の文章を書いた石堂淑朗さんは、後日、名脚本家として知られることになりますが、かなり変わった経歴の持ち主です。


石堂淑朗


(ishido02.jpg)

1932年7月17日 - 2011年11月1日

石堂 淑朗(いしどう としろう)は、日本の脚本家、評論家。
広島県尾道市久保町出身。
実家は『東京物語』の撮影が行われた浄土寺の近く。

旧制尾道中学校(現・広島県立尾道北高等学校)在学中に学制改革を経験するが、男女共学化に反対して岡山県立岡山朝日高等学校に転校。
しかし翌年秋からここも共学化されるのを知り、同校を2年生の夏に中退。

大学入学資格検定を受けて同級生よりも1年早く広島大学に入学したがまた中退して、東京大学文学部独文学科に入学した。
東大在学中から、同期の種村季弘、吉田喜重らと「同人誌」を刊行。

東京大学卒業後、1955年、吉田と松竹大船撮影所に入社。渋谷実のもとで助監督修行。

1960年に『太陽の墓場』で脚本家デビュー。
大島渚、吉田喜重、篠田正浩、田村孟らとともに、“松竹ヌーヴェルヴァーグ”と言われた1960年代初頭の映画革新運動の中心的役割を果たした。

同年、大島と共同脚本を執筆した『日本の夜と霧』が浅沼稲次郎刺殺事件を理由に上映禁止になると、翌1961年、松竹を退社した大島と行動をともにし、大島主宰の「創造社」の同人となった。

大島渚作品の『太陽の墓場』、吉田喜重作品の『水で書かれた物語』、実相寺昭雄作品の『無常』、浦山桐郎作品の『非行少女』などは彼の初期代表作である。

大島と袂を分った1965年以後は、フリーの脚本家となりテレビでの活動が増え、『マグマ大使』、『シルバー仮面』や『帰ってきたウルトラマン』などの特撮ヒーローもの、『必殺仕掛人』や『子連れ狼』といった時代劇、SFドラマ『七瀬ふたたび』、銀河テレビ小説の第1回作品『楡家の人びと』などさまざまなジャンルの作品を手がけているが、一貫して反俗的作風となっている。
映画では1989年の『黒い雨』が、多くの賞を獲得した。

俳優として、テレビドラマ『必殺仕掛人』や映画『飼育 (映画)』、『必殺! THE HISSATSU』で悪役を、大島渚の映画『絞死刑』でコミカルな拘置所の教誨師役を演じている。
また『ウルトラマンタロウ』第24話に父親役でゲスト出演、大河ドラマ『花神』には力士役で出演した。

脚本家としては左派色の強い監督達とのコンビで多くの作品を残したが、晩年の評論・エッセーなどでは保守派の論客とされた。
亀井龍夫が編集長をつとめていた頃の月刊誌『新潮45』に随筆を寄せていた。

1991年に日本シナリオ作家協会会長、1992年に日本映画学校校長、1993年に近畿大学文芸学部客員教授に就任するなど後進の指導にもあたった。
近大時代には清水崇らを育てている。

2008年に発売された著作『偏屈老人の銀幕茫々』の序文にて、「私の文筆の仕事は本書で終わりました。後は冥界で実相寺昭雄や今村昌平と会うだけです」と記した。
ジャーナリストの有田芳生はブログにて本書を「比類なく面白い」と述べ、序文の言葉を受けて「そんなことをおっしゃらずに、もっともっと書いてくださいよ。お会いしたこともない石堂淑朗さんにそう伝えたい。」と結んだ。

2011年11月1日、膵臓がんで死去。79歳没。
なお、訃報は親族の希望により1か月伏せられた後に公表された。




出典: 「石堂淑朗」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




石堂淑朗さんは、数々の映画やテレビドラマの脚本を書いてます。。。 石堂さんが脚本を書いた映画やテレビドラマを あなたも知らずに見たはずですよ。

三好さんと石堂さんの生き様(いきざま)を眺めると、僕は103歳で現役の篠田桃紅さんの言葉を思い出すのです。


性格が運命をつくる


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芥川龍之介は、運命は性格の中にあると言った。
運命が性格をつくるんじゃない。
性格の中に運命はある。
近ごろほんとうだ、と思うようになった。
さまざまな境遇に遭ったけど、私の性格が自分の運命をつくったということはたしかですね。

ああいう運命だからあの人はああいう性格になった、と言うんじゃないのね。
性格というのはずいぶん先天的なもの、もって生まれちゃったもの。
運命は後天的でしょうね。

私はきょうだいがおおぜいいましたが、同じ父母で同じ境遇で育って、同じものを食べているのに、きょうだいみんなそれぞれちがった運命を歩んでいる。
同じ境遇にあっても運命は別だから、境遇が運命をつくっていない。

たとえば、小さいときに両親がうまくいかなくて、境遇が性格をつくるということもあるけれど、その性格の中で運命がつくられる、そう思った。
芥川さんの言うとおりだと思う。

性格が運命を拓(ひら)き、もって生まれた性格というものが、いい作用をするときにいい運命になって、悪いほうに働いてしまうと悪い結果をもたらす。
勘みたいなものですね。
勘がいい働き方をするときと、そうでないときがあるように。

自分の勘は、絶対まちがいないなんて、誰もそういうことは言えないけれど、ある種の勘というもので、人の運命が開いたり閉じたりすることはありますよね。
運命はだから性格の中にあるというのは、ほんとうにそう。
私にはそういうことが幾度か思いあたります。


努力することも性格。
性格というのは一切です。
だからあたりまえと言えばあたりまえ。
そういう性格の中で運命が決まっていくというのは、何も取り立てて言うほどのことではない。

私は、理性的なものを大事にして生きていかなけらばいけないと思っていて、理性を尊ぶ性格ではあるけれど、どうしてもおさまらない自分というものがいた。
それが私の性格で私は生きてきた。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




49-51 ページ 『百歳の力』
著者: 篠田桃紅
2015年7月13日 第8刷発行
発行所: 株式会社 集英社

『結婚するの?しないの?』にも掲載
(2016年6月27日)




どう思いますか?。。。 あなたも、たまには自分の性格のことを考えてみたらいかがですか?



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