馬場あき子の外国詠52(2012年5月実施)
【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100
参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:鈴木 良明
司会と記録:鹿取 未放
378 くらしの時間はすみやかに何かを忘れしめ孤独なり老いて静かに肥ゆる
(レポート)
「くらしの時間」とは、日常の何気ない生活のことだろう。日常性に埋没するということか。サルトル流に言えば、「自由と不安から目をそらしながら生きている自己欺瞞」。こういった生活の中では、政治や思想、社会との関わりなどが忘れ去られ、「モノ」的存在として孤に還る。作者の当時の感慨であろうが、ハンガリーの人々の思いも重ねているのだろう。(鈴木)
(当日発言)
★この歌もサルトルとからめて考えないと読めないだろう。(鈴木)
★鈴木さんの評に「ハンガリーの人々の思いも重ねているのだろう」とあるが、ここまで書いて
くれていて有り難い。(崎尾)
★以前の歌にあったハンガリー動乱も彼方となって虹を見ていたおばあさんも太った人のイメー
ジ。人は忘却しないと生きていけないから〈日常性への埋没〉は致し方が無いが、サルトルはそ
こを踏みとどまってアンガージュマンすることを説いた。ハンガリー動乱の当事者は革命や愛す
る人の死を忘れ果てて生きているわけではないが、日常の表面からはうすらいでいるであろう。
そして時折、忘れていることの罪の思いがきりきりと胸を刺すのだ。老い、肥えて孤独であるこ
とにハンガリーの人も、それを見る作者も胸の奥に痛みをしまっているように感じられる。
(鹿取)