かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠 私家版完成♪

2018年11月01日 | 短歌の鑑賞
                
           

                 

                


 このブログに毎日一首掲載している「鑑賞馬場あき子の外国詠」を印刷して私家版を作ってみた。A4サイズで、写真を挿入したりして2センチ以上の嵩になった。写真は、わざとボカしてあります。


 かりんの鎌倉支部で2007年から2012年にかけて外国旅行の歌を鑑賞したもの。全部で433首ある。


 ブログは10日間ほどお休みしますが、また旅の歌の鑑賞を再開しますので、どうぞよろしくお願いします。

馬場あき子の旅の歌 117(スペイン)

2018年10月30日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠13(2008年11月実施)
  【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P65~
   参加者:T・K、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・S   司会とまとめ:鹿取未放


117 コルドバの町の樹下に椅子ひとつ置かれてセネカ忘れられたり

  (まとめ)
 セネカの像はコルドバのメスキータの西門脇にあるという。樹下に憩うための椅子が一つ置かれている。そしてソムリエがセネカを知らなかったように大部分の町の人々は遠くセネカを忘れた日常生活を送っているのだ。考えてみればセネカは2000年ほど前の人であって、忘れられるのも無理はない。
 しかし、彼は悲劇を書き、哲学についての随筆などをたくさん遺した。『幸福な人生について』『心の平静について』『人生の短さについて』などの書名を眺め、現代の人々の忙しい日常を思うと、なかなか感慨深いものがある。(鹿取)


馬場あき子の外国詠116(スペイン)

2018年10月29日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠13(2008年11月実施)
  【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P65~
   参加者:T・K、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・S   司会とまとめ:鹿取未放


116 ソムリエはネロのセネカを知らざりき昼餐の質朴なかぢきまぐろよ

        (まとめ)
 115番の「コルドバの赤きワインに透かし見るネロを去りたる愁ひのセネカ」の続きで、コルドバで赤ワインを傾けながら昼食をとっている。餐とあるからやや豪華な料理であろうか。そこでソムリエにワインはどれが合うか相談しながら、ふとセネカのことを話題にしたのかもしれない。コルドバはセネカの生まれた土地だから当然知っていると思ったのに、ソムリエの反応は「セネカって誰?」というようなものだったのだろう。そこで旅人は驚いて「暴君で有名なネロの補佐をした哲学者ですよ。この町の生まれだそうですよ。さっきそこの公園でセネカの銅像を見てきましたよ。」などと説明するはめになった。「ネロのセネカ」(ネロに仕えたセネカ、を縮めたのだろう)というややこなれない言いまわしはこういう状況を想像するとよく分かる。もっとも、そうか土地の人でもセネカを知らないのかと黙ってひとり感慨にふけったのかもしれない。土地の普通の生活者というものは、たとえ町にセネカの像が建っていようが哲学者などというものにはえてして関心がないものだ。そしてワインを傾ける昼餐ながら素朴なかじきまぐろの料理が出てきたというのだ。
 こういう齟齬は、日本の地方の町などでいくらでもありそうな気がする。日本料理屋に入った外国人の客の方がその土地の歴史上の人物をよく知っているというようなことが。(鹿取)


馬場あき子の外国詠115(スペイン) 

2018年10月28日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠13(2008年11月実施)
  【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P65~
   参加者:T・K、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・S   司会とまとめ:鹿取未放

115 コルドバの赤きワインに透かし見るネロを去りたる愁ひのセネカ

      (レポート)
 ネロは古代ローマの皇帝。在位54~68。初めはセネカなどの補佐により善政を行ったが、のち母と皇后を殺し、またローマ市の大火に際しては、その罪をキリスト教徒に負わせて迫害、のち反乱起こり自殺。暴君の代名詞となる。そのネロのところを去ったセネカ。のちに不興をこうむり隠退、ついに自決する。セネカはローマのストア派の哲人。西班牙生まれ。著書にギリシャ悲劇を範とする悲劇9篇のほか「幸福な生について」があった。(T・S)


          (まとめ)
 暴君として知られるネロは、ローマ帝国第5代の皇帝。セネカはネロの幼児期の家庭教師で、ネロ即位後は補佐役になった。もともとセネカは哲学者、詩人である。真偽は不明だが、ストア派の哲学者にあるまじき行為であるとして横領の罪で告発されたこともある。告発を受けたセネカはローマ帝国から得た財産の全てをネロへ返還し、学問に生きようと徐々に政治の世界から遠ざかったという。数年後、ネロを退位させる陰謀が露見、逮捕された者がセネカが関与していると告げた為、ネロはセネカを訊問しようとしたがセネカは呼び出しに応じなかった。よってネロはセネカに自殺を命じ、セネカは自死する。64歳だった。
 弟と母を次々に殺し、妻と師であるセネカを自殺に追いこんで権力を維持していたネロだが、穀物の価格が高騰するなど経済的な面からも市民の反感を買い、対立していた元老院は新皇帝を擁立、ネロは「国家の敵」となって逃亡。やがて追っ手が迫ったのを知って自害した。ネロの享年は30歳、セネカの自殺の3年後のことであった。(以上、Wikipedia等を参照)
 セネカはコルドバの生まれで、コルドバにはその像が建っている。ネロを去ったセネカの心のうちははかりしれないが、近親者を毒殺したり、無辜の民を迫害したりと暴虐の限りを尽くすネロに荷担し、私腹を肥やしたかもしれないセネカが本来の自分を取り戻したということか。政治より哲学や芸術の方が自分の本来のあり方だとはっと目覚めたということか。ネロを去ったセネカを、作者は「愁ひのセネカ」としてとらえている。「人生の短さについて」を書いたセネカはとにかくも64歳まで生きたがネロに命じられて自死し、やがてはネロも追いつめられて30歳の若さで自死する。作者は赤ワインを飲みながらネロとセネカの生きた時代やふたりの複雑怪奇な人生模様を思い感慨にふけっているのであろう。(鹿取)



馬場あき子の旅の歌 114(スペイン)

2018年10月27日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠13(2008年11月実施)
  【西班牙4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P65~
   参加者:T・K、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:T・S   司会とまとめ:鹿取未放


114 西班牙の野を行きし天正使節団の少年のみしアマポーラいづこ

     (レポート)
 天正遣欧使節は、キリシタン大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠がローマに遣わした使節。結句のアマポーラはスペイン語で雛罌粟、ポピーの一種である。ヨーロッパではこの花の群生をあちこちで見ることができるという。(T・S)


       (まとめ)
 次の章で天正使節団については詳しく検証するので、ここでは概略だけ述べる。天正遣欧少年使節団は4人、正史の伊藤マンショほか中浦ジュリアン、原マルチノ、千々岩ミゲルである。彼らはバテレンを保護した信長時代の1582年、長崎を出港、難行の末8年後に金銀財宝を積んで意気揚々と帰国する。しかし政権は秀吉に移っていて、彼らはすでに時代に歓迎されない存在だった。この後、追放、処刑と更に苦難の道をたどることになる。
 ちなみに派遣された時の年齢は13歳から14歳、まさに未だいたいけな少年である。そんな少年のわかやかな姿態とアマポーラの可憐さが微妙に重なる。好奇心一杯の少年達がスペインの野で見たアマポーラ、作者は数奇な運命をたどった少年達を偲びながら、なにか形見のようにアマポーラを求めている。この旅は5月下旬から6月初旬、ちょうどアマポーラの花期にあたる。野原一面に咲くアマポーラを見ながら、もいろんそれは400年も前の少年達がみたアマポーラではない。薄幸の少年たちを偲んで「いずこ」と余韻を持たせている。(鹿取)