黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

岐阜城を訪ねて

2023-06-06 15:40:44 | 旅行記
GWの旅の後半は、JR岐阜駅の北側にある岐阜城に行った。どちらかというと信長色の強い街のようではあるが、個人的には信長以前の城主であった斎藤氏時代の石垣も残っているのが嬉しかった。岐阜城は、遠くから見ると、巨大な山に天守が小さく乗っかって可愛く見えるが、実際にのぼってみると野面積みの石垣だったりチャートの岩盤が活かされるなどしてワイルドな印象を受ける。なにより、現在築城されている城郭では有数の高さを誇るそうで(329m)、よくこんな急峻なところに天守を築いた、またこんなお城を攻め落とした武将がよくぞいたものだと思った。

岐阜城縄張


岐阜城天守遠望。遠くから見るとカワイイと思ったが…


チャートでできた石垣といい、間近で見るとワイルドだと思った。


下の画像は、天守台の石垣。「発掘調査案内所」で手に入れたパンフレットによると、これは信長の時代の石垣ではないかという。また、この天守台の石垣は様々な時代のもので構成されているらしい。




なお、麓の「発掘調査案内所」には岐阜城の詳細なパンフレットが豊富にある。私が立ち寄ったのは全て見学し終えた後だったが、事前に立ち寄ってパンフレットを入手すれば、見学するのがより楽しくなるかもしれない。

さて、こちらは一ノ門跡と伝わるもの。「発掘調査案内所」でのパンフレットによると、ここは「大手に当たる門」で、「その構造から斎藤期に造られたもの」ではないかという。


また、山麓の城主居館跡付近には、斎藤氏時代の階段と見られるものも発掘されている。そこの掲示によると、「斎藤時代の地面の上には灰の層もみられ、信長が稲葉山城を攻略した際、火災が起こったことを物語って」いるという。栄枯の移り変わりを特に感じさせて印象深かった。



城びと」によると、信長は天然の要害であり東海道や東山道を押さえる交通の要衝でもあったこの城に拠点を移したという。だが、その後関ケ原の戦いを制した家康はこの城に城主を置かず1601年に廃城とし、その代わりに、現在のJR岐阜駅をまたいだ向こう側(南側)に新たに加納藩をつくり、その城主に、関ヶ原で功のあった奥平信昌(家康の娘・亀姫の夫。つまり身内)をすえた。家康が岐阜をこのように統治したのは一体なぜなのか、たまたま居合わせたガイドさんに聞いてみると以下のようなご意見であった。

美濃人は、古来より天下の趨勢を決めるのに影響力があった。例えば、壬申の乱では美濃の豪族・村国男依が大海人皇子のために3000の兵で不破道を塞ぐなどして勝利に大きく貢献した。その一方で、美濃人は時代の趨勢次第で帰趨を変えるところもあったという。家康はこのような美濃人を警戒し、美濃人の発言力を抑え、御しやすくするために、身内に統治させたり、直轄地にしたり、尾張藩領にしたりしたのではないかという。
岐阜の街は、まだまだ志半ばで天下を動かしたい信長には好まれ、天下を不動のものにしたい家康には恐れられた街、という事かもしれない。

岐阜市歴史博物館の図録によると、江戸時代の美濃は一円を治める領主がおらず、直轄地が多い地域となった。幕府がそんな美濃を一円的に治める術の一つだったのが、木曽三川などの治水事業であった。木曽三川の治水事業と聞くと、薩摩藩による宝暦治水事業を想起するが、近年の研究では「薩摩義士」たちの顕彰活動が再検討され、その歴史的事実が明らかになりつつあるという。それによると、例えばその治水事業を主導したのは実は薩摩藩ではなく幕府であったという。流域民の願いを受け入れた幕府が、幕領・私領問わず広く意見書を集めた上で、反対意見が多くても何とか地域の利害を調整し、工事を行った。ここで薩摩藩が担当したのは資材・人員管理(あわせて費用弁済)というロジスティクスに限定されたもので,設計や施工は幕府がしていたという。図録が引用している論文では、「薩摩藩が多大な犠牲と大きな負担を強いられたことは歴史的事実である」としつつも、公儀普請である宝暦治水事業を薩摩藩と同一視したり、幕府vs薩摩という認識と共に「薩摩義士」として顕彰する視点を、徹底的な史料批判に基づいて再検討していく必要がある、と述べる。この論文は、「薩摩義士」が明治時代に顕彰されはじめる背景、さらにはそれに関連する美濃と尾張との因縁についても言及しており、興味深い内容であるが、想像するに、「薩摩義士」の話があまりにも美談になっているゆえ、その通説もなかなか根強くなってしまっているのかなと思った。

補足1:下のサイトでは、家康が岐阜城を廃城にした理由として「岐阜城が時代遅れの山城であったことや信長が天下統一を目指すべくつけた「岐阜」という名前を嫌ったからだといわれて」いるとしている。
蝮とうつけが築いた城~斎藤道三と織田信長を支えた岐阜城

補足2:
天守の麓には、『完訳フロイス日本史』で「宮殿」と呼ばれる「居館」跡が残っている。その呼び方からして信長の日常生活の場かと思いきや、そこは「おもてなしの場」、つまり迎賓館のような場所で、信長の日常生活の場はルイス・フロイスの言う「山上」に住んでいたらしい。ルイス・フロイスは、信長が「明白な言葉で召喚したのでなければ」入れないというこの「宮殿」を見学し、さらに「山上」でも特別な計らいを受けた。

「山上」には、そのわずかなスペースに、天守や、上下台所などの痕跡が残る。同書には「入口の最初の三つの広間には、約百名以上の若い貴人がいた」とあるが、この「最初の三つの空間」は、井戸跡などが今に残ることから上下台所を指すと思われる。そこで信長自らがフロイスに、同行の修道士には次男茶筅(信雄)が運んだ膳を振る舞い、嫡男の奇妙(信忠)も同席したそうで、台所が文字通り調理場でもあったのではないかという。「山上」が単なる砦でなかったのは確かそうだ。信長と家族の居住空間もこのあたりと考えられそうだが、それ以上のことは明確には分からない。こちらのページ(pdf)では、山上の「2つの頂(天守台と斜面=段築状石垣、上台所=岩山、両頂を結ぶ石垣通路)」あたりを「信長と家族の居住空間」かとしている。 なお、「約百名以上の若い貴人」は、「各国の最高の貴人たちの息子ら」ともあることから人質と考えられるが、そのスペースが狭いことから常駐していたとは考えにくい。

同ページによると、信長は「山上」を単なる砦以上の用途に用いただけでなく、権威の象徴として「見せる城」に改修していた。信長の時代に天守まではあったか分からないものの、天守台の段築状石垣が「小牧山城の段築状石垣の系譜を引」いていて、かつ、「安土城天主台の原型」の可能性があることから、そう考えられるという。

(補足2は、ツイッター上の本尾四方男さんとのやりとりをまとめたものです。ご指導ありがとうございます。)


岐阜市歴史博物館の図録:『特別展 葵の時代ー徳川将軍家と美濃ー』2016年

図録引用論文:木曽三川流域治水史をめぐる諸問題 -治水の歴史と歴史意識(pdfファイル)

←ランキングにも参加しています



関ヶ原古戦場探訪

2023-05-11 19:31:18 | 旅行記
今年のGWは、関ヶ原古戦場と岐阜城に行った。いずれもそれまで行ったことがなく、今年の大河ドラマが家康を題材にした「どうする家康」だからという事もあって行った。だが蓋開けてみたら、関ヶ原古戦場の史跡めぐりは家康の東軍ではなく西軍中心になってしまった。

しかも、西軍の宇喜多秀家の陣跡も、彼の八丈島の墓を訪ねた事もあり行ってみたかったが、迷子になって結局行くことができなかった。下の画像が八丈島で撮影した宇喜多秀家の墓で、手前にある石は、関ヶ原の戦いの時代の彼の城だった岡山城の礎石の一部だという。彼は流刑地の八丈島ではのびのびと暮らしたのだろうだが、関ヶ原は無念の地というべきではないだろうか。



関ヶ原古戦場位置図(開戦時)


まず、小早川秀秋が陣をしいた松尾山城だが、これが片道40分もかかる山登りだった。のぼった先の掲示によると、美濃地方最大級の山城だそうで、戦国時代に浅井長政が家臣を派遣させていた城だったのを、石田三成が東軍の西進に備え、大垣城主・伊藤盛正に命じて改修させた。三成は毛利輝元を招き入れようとしたが、来なかったので小早川秀秋が入ったという。想像するに、麓にいる家康の問鉄砲など頂上にいては聞こえなさそうな感じ。沢があり、いたる所から水が沸き、本丸からは関ヶ原をバッチリ一望できる最高のロケーションだと思った。

松尾山・小早川秀秋陣跡より石田三成陣跡と島津義弘陣跡を望む
 

また、こちらは笹尾山の石田三成陣跡と、その手前にある家臣・島左近の陣跡。三成の陣跡の見晴し台までは、麓から歩いてわずか5分。関ヶ原が一望できるだけでなく、容易に戦場まで降りられる距離感で、他の大名とも連絡・指揮が取りやすそうだと思った。

笹尾山・石田三成陣跡より小早川秀秋陣跡と島津義弘陣跡を望む
 

それから、三成の盟友・大谷吉継の陣跡。小早川秀秋の裏切りを警戒していた大谷吉継は、秀秋の陣のある松尾山を監視できる位置に布陣。石田三成と同様、麓から歩いて10分の位置にあり、容易に戦場まで降りられる距離感だと思った。画像は吉継の陣跡からの松尾山の眺め。ここからさらに登ったところに吉継の墓もあるのだが、同行していた夫が連日の山登りに根をあげはじめたのでここで断念した。

大谷吉継陣跡より小早川秀秋陣跡を望む
 

一方、こちらは家康の最初の陣跡、桃配山。そのむかし、壬申の乱に勝った大海人皇子が兵士に山桃を配った縁起の良い場所だったのでここに陣を張り験を担いだそうだが、やはり戦況は見えにくそう。「葵・徳川三代」で津川雅彦さん扮する家康が「あぁ〜勝っているのか負けているのか(戦況が分からない)」とイラついていた光景が目に浮かんだ。

桃配山より関ヶ原方面を望む
 

家康はその後、陣を戦場の最前線に移した。写真は、その最後の陣地の様子である。

家康最後の陣地
 

最後に、島津家関連の史跡を二ヶ所。
まずは島津豊久の碑。烏頭坂の途中にあり、その坂を見下ろすところに碑が立っている。坂をくだる敵を狙い撃ちしやすいそうな場所でもあった。

烏頭坂より島津豊久の碑が立つ場所を望む
 

碑が立つ場所より烏頭坂を見下ろす


関ヶ原観光ガイド」によると、「毎年、島津家に縁のある鹿児島県の小中学生が必ずここを訪れている」という(途中電車等も利用)。また、江戸時代に「宝暦治水木曽三川工事にやってきた薩摩の藩士たちも、この塚に必ず立ち寄ったともいわれて」いるそうだ。
なお、個人的に誤解していた事だが、掲示によると島津豊久はここで討死したとは限らず、関ヶ原を突破した後「白拍子谷」という所で自刃したともされる。



それから、こちらは島津義弘の陣跡。そこの掲示によると、戦いの終盤に敵中に取り残された義弘は当初討死も覚悟したものの、豊久の説得で撤退を決めたという。どうやら撤退は豊久が言い出したらしい。また別の掲示によると、現在鹿児島県日置市には、青少年で組織された「関ヶ原戦跡踏破隊」なるものがあるそうで、彼らは毎年関ヶ原から大阪までの撤退ルートを踏破するという。「その労苦を称えるとともに、郷土の先輩方に負けぬ立派な大人に成長できるようにとの自戒の念をこめて」、踏破した参加者の名前が陣跡の碑の傍の石に刻まれていた。
先ほどの島津豊久の碑にもあるように、宝暦のむかしも現在も一部の鹿児島県民が訪れているというし、郷土愛が強いと思った。

島津義弘陣跡


一番心に残ったのは、こうした島津家関連の史跡であった。宝暦治水事業を題材にした漫画『風雲児たち』の影響が大きいのかもしれない。その漫画では、宝暦治水事業を任された薩摩藩家老・平田靭負が、彼らにとって「史上最も壮絶な戦い」である関ヶ原の戦いを引き合いに出し、困難を乗り越えようと周囲に働きかける姿が描かれていた。例えば、悔しいからといって血気にはやった挙句、薩摩一国を滅ぼしてしまえば、関ヶ原に散った先人たちに何と言って申し訳が立つのか。…というふうに。
だが、たとえこのような「命のやりとり」レベルの話でなくても、郷土の先人たちが流した汗と涙に思いを馳せ、誇りに思うことも、一つの郷土愛のかたちではないだろうか。


←ランキングにも参加しています


見るべき程の事をば見て

2022-12-30 22:49:47 | 思索系
幸か不幸か、今年も源平時代に気をとられているあいだにすっかり暮れた。
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、そして、夏から秋にかけて
再放送された「人形歴史スペクタクル 平家物語」。
これらの放送当時は時間をやりくりするのに苦労しながら
どうにか視聴できているような状態だったものの、心に残る場面が多く、
振り返りもせずそのまま歳を越すのももったいない気がした。
多少、埼玉の女の身贔屓となってしまうが、少し感想を書いておきたい。

まず、通年放送された大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
サイコパスな義経、頭も性格も良かった木曽義仲、心優しい平宗盛、
そして、ひかえめな北条政子。このように斬新な人物設定が
目立ったものの、「登場人物に共感できない」という事態も起こらず、
ストーリーがよく練られてできているという印象をうけ、面白かった。

源平時代は、地元・埼玉に根ざした武士たちが綺羅星の如く居並び、
活躍した時代である。
当初はそういう時代が取り上げられただけでうれしく、
彼らがとりあげられるだけで充分だと思っていた。
しかし、放送回が進んでくると欲が出るもので、もう少し登場場面がほしい、
もう少し「良い人」に描いてほしいなどとだんだん思うようになった。
ついぞ一度も登場してこなかった里ちゃんの父上・河越重頼殿。
また、北条氏のライバル、そしてヒール役として描かれた比企能員殿。
これらの弊害はやはり、彼らが「歴史の敗者」であるがゆえ
史料が圧倒的に少ない事に起因するのだろう。
なお、人格者のように描かれ、比較的活躍していた畠山重忠殿については
まず彼が北条とつながっていた(北条時政の娘を正室にむかえていた)のと、
『吾妻鏡』で「坂東武者の鑑」のように伝えられていることから
比較的良いように描かれたのだろう。
何の落ち度もなく、ただ真面目に生きてきただけの重忠殿が
時政夫妻の欲望のために滅ぼされてしまう事に理不尽を感じたのは
きっと私だけではあるまい。

このドラマの最終回のタイトルは、「報いの時」である。
結局、幕府を守る過程で非情なことを多くしてきた義時にも
毒殺というかたちでその「報い」が訪れたが、
登場人物の最期は良きにつけ悪しきにつけ
相応の報いを受けておわる方が観ていて後味悪くならない。
また、史料が圧倒的に少ないけれど、非業の死をとげたことは
明白である場合も、そういう死に方に相応しい悪だくみをしたことに
しておけば、後味悪くならないだろう。

しかしながら、実際の歴史は必ずしもその人が相応の報いを受けて
終わるとは限らない。それをよく表している一例が畠山重忠なのだ
という意味では、彼の理不尽な最期などがこの「鎌倉殿の13人」の
物語に深みを与えているとも思えた。いくら娯楽とはいえ、
全ての登場人物が相応の報いを受けて終わるようでは、
見終えてスッキリはするかもしれないが、
同時に薄っぺらい印象も残ってしまうところだったかもしれない。

それにしても、やりすぎて一線を越えて失脚した北条時政はともかく、
そういう父親の背中をみてきたであろう義時や政子は
「世のため人のため」に動いてみせて結局は自分の立場も同時に守る
という事に長けた人たちに思えてくる。
少なくとも「鎌倉殿の13人」の義時や政子は何かあると
「(北条のためではなく)鎌倉のため」などと言ったが、
鎌倉幕府の頂点に立つ彼らは結局、そうして「鎌倉のため」に動く事で
自分の立場が守られる人たちでもあろう。
果たして「世のため人のため」という思いは真心からくるのか、
それとも下心あるものなのか、あるいは両方なのか。いずれにしても、
彼らには「歴史の勝者になるべくしてなったしたたか者」という
イメージが、私のなかで新たに上書きされたところである。

これに対し、「鎌倉殿の13人」を機に私のなかで株が上がったのが
梶原景時であった。自分の有能さをひけらかしたり
過信するきらいはあったかもしれないが、
それは彼が血縁やコネをアテにすることができず
おのれの才覚一つを頼りに成りあがった生き様の裏返しにも思える。
血縁やコネがものを言うであろう時代に、才覚一つで汚れ役でも
憎まれ役でも何でもやって頼朝の信任を得、都の貴族から
「一ノ郎党」と言われるまでになったのは並大抵のこととは
思えなかった。


それから、「人形歴史スペクタクル 平家物語」の再放送。
まず、人形であるはずなのに表情豊かで
匂うようですらあることに驚きを禁じえなかった。
初回放送時、私はまだ小学生で、今に残る当時の記憶といえば
エンディングテーマと(誰とも分からぬ)女武者たちの活躍ぐらいだった。
先に述べた河越重頼殿も少しは出ていたということも分かったし、
思いがけずこの歳になって見ることができたのはよかったとは思うが、
いざ見終えてみると、男性は魅力的に描かれていることが多いと感じた
反面、女性の描き方に共感できないこともしばしばあり
面白いやら、モヤモヤするやら、少し複雑な感想になった。

私の眼鏡に色がついているのかもしれないが、この平家物語は
女性を極力、一途でか弱く見えるように描いてないだろうか??
まず、冬姫や巴御前は最初の夫に死なれても再婚したとされているのに
前者はなぜか木曾義仲に惚れた挙句に後追い自殺までして、
後者も再婚はせず、息子に死なれたのを機に登場しなくなった。
また常盤御前も、源義朝の死後は一度清盛に抱かれたぐらいのもので、
新たな夫の存在を感じさせる場面は描かれなかった。
さらに、妊娠中に夫が戦死したのを知って入水自殺した
平家の公達の奥方もいたが、タイムスクープハンターが取材した戦国時代の
奥方とは対照的である(彼女たちはむしろ、奥方の妊娠に気付いたことで
命を絶つことをやめ、生きて命をつなぐ道を選んだ)。
今となっては、木曾義仲の愛をめぐる「女の戦い」も、女武者たちの
男性に引けを取らない戦場での活躍ぶりから気をそらすための
「目くらまし」ではなかったか、と思うほどである。
その他、北条政子が山木兼隆との祝言から逃げる場面も、
政子自らの足で逃げたのではなく、兄・北条宗時が連れ戻しに来るなど、
女性を極力、一途でか弱く見せようとするかのような描き方には
事欠かなかったわけだが、果たしてこの原作が書かれた時代は
そういう女性が好まれる時代だったのだろうか。

一方、この平家物語で個人的に最も感動したのは
文覚が、袂を分かった「親友」清盛の危篤を知って館にかけつけ
清盛に聞こえるように大声で別れの言葉を伝える場面である。
栄華を極め、臨終の床でも多くの一族に囲まれていたにもかかわらず、
文覚が別れの言葉を叫んで初めて、
おのれの闘いの人生と志半ばで斃れる無念を語りだした清盛。
個人的に、この清盛の強がる姿は好きだったけれど、
自分の夢を理解し受け継いでくれる熱意と器量を持った人材に恵まれず
なんでも自分で切り盛りしないといけなかったであろう彼は、
人形劇のみならず実際も孤独だったのではないかという気がする。
今となっては、原作者はそんな清盛を孤独から救うべく
清盛に文覚という「親友」をプレゼントしたようにも思える
(なお、清盛と文覚が実際に親しかった、という類の史実は
今のところ見当たらない)。


人間の能力や幸運は、限りのあるものである。
たとえその幸運が身内の不幸と引き換えのものであったとしても、
結局はそれが仇となって長続きはできなくなる。
それが、私が今年最後に平清盛と源頼朝から受け取った教えであった。
この問題に有効な対策としては、個人の力に頼りすぎないこと、
例えば彼らの場合は法律や制度を整備することだと思う。
「鎌倉殿の13人」の最終回で「父上が死に物狂いでやってきたことを
無駄にしたくない」からと言って武士のためのルール作りを考え始めた
北条泰時も、なんとなくこのことに気が付いたのかなと思った。

←ランキングにも参加しています


映画「峠 最後のサムライ」を見て

2022-06-29 21:56:05 | 思索系
司馬遼太郎原作の映画「峠 最後のサムライ」。
これは、戊辰戦争の一つ「北越戦争」の際に
薩長を中心とする西軍を迎え撃った越後・長岡藩家老の
河井継之助を主人公にした物語である。

この映画についても、私自身は原作を読んでいない。
当初は、継之助の師匠の山田方谷やその地元・備中高梁も
映画に描かれるかなと期待していたのだが、浅はかであった。
原作を読んだという母の話によると、原作は文庫本で三冊という長さ。
その、ただでさえ濃いであろう内容をわずか二時間ほどに
凝縮させようという試みが容易なはずがなく、ふたあけてみたら
描かれていたのは大政奉還以降の継之助の最後の一年のみであった。
また、解説が多いのかセリフが長いのか
全体的に説明くさいと感じたが、それも文庫本で三冊の内容を
二時間そこそこに凝縮させる困難さの裏返しなのかもしれない。
原作で言わんとするところを言葉以外の部分で表現するには
あまりにも時間が足りなかったのだろうか。

ちなみに、この映画では夕日に向かってまっすぐ飛んでいる
カラスを主人公の継之助になぞらえていたのだが、ならば
この映画に出てくる夕日は、継之助の崩れゆく理想の象徴であり
月は継之助をとりまく現実の象徴であるように感じられる。
例えば、長岡での戦争がせまってくるにつれて三日月が
だんだん細くなっていったり、かと思うと、長岡城奪還という
大願成就の前には月は満月になっているなど。
そして、太陽の理想と月の現実の両方を錦の御旗に掲げる西軍は、
さしずめ継之助の理想と現実を翻弄する存在というべきだろうか。

一方、これは映画では採用されていない部分だと思うが、
河井継之助は西軍によって奪われた長岡城を奪還しに行く前に
「口上書」なるものを各隊に配って読み聞かせたという。
それはいわば檄文と思われ、全文を映画のセリフにするには
長そうだが、そのなかに次のような一節がある:
「…死ぬ気になって致せば、生ることも出来、疑もなく
大功を立てられますが、若死にたくない、危い目に逢ひたくないと
云ふ心があらうなら、夫こそ生ることも出来ず、空敷汚名を
後世まで残し、残念に存じますから、身を捨ててこそ、浮む瀬もあれと
申しますれば、能々、覚悟を極めて大功を立てませう。…」
(引用元および参照:河井継之助記念館 会報第19号

ここで抜き出した一節は、長岡市の西側の上越市にあった
上杉謙信の居城・春日山城の壁書の一節
(引用元:https://fundo.jp/261268
「…死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり
家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。帰ると思えば、
ぜひ帰らぬものなり…」を引用したものと思われる。
この点について原作にはどこまで載っているのか、あるいは
監督はどこまでご存じなのか、いずれも分かりかねるが、
せっかく河井継之助が「義」の武将で名高い郷土の英雄の名言を
口上書のなかで引用しているのである。
未だ継之助の戦いに賛否両論あるにせよ、少なくとも彼の戦いを
武士の「美学」と「義」のための戦いとして描く方向であれば、
この壁書の引用部分を活かさないなんて、いかにももったいない。
それに、個人的には、「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば
必ず死するものなり」というこのダメ押しのような一言が、
志のために幾多の峠や豪雪と格闘したであろう上杉謙信や
河井継之助らしいスピリットのようにさえ思えるから、
その意味も付け加えれば、二重の意味でもったいない気もするのだ。


ところで、河井継之助に関する本を読んでいると、彼の言動について
理解しにくい、分かりにくいと書かれているのをしばしば見かけるが、
個人的には今のところそうした感想には至らない。
彼はただ、それこそ太陽に向かって真っすぐ進むカラスのように
自分なりの理想に向かって一途に素直に生きただけのように思える。
彼の魅力も、突き詰めるとそこにあるような気はしているが・・・
しかし、彼の問題点は、その理想に向かうための手段が
よろしくないこともしばしばあって、そのせいで結局は彼自身も、
またその周囲も、損をしている部分が多かったところではないか。
例えば、彼の長岡藩改革の苦労と成果を無にする「北越戦争」を
決定的にした「小千谷会談」決裂について、こちらの記事にあるような
「事前の根回しもなく恭順の姿勢も見せない初対面の相手に
『戦争を止めてみせるから任せろ』といわれても、
うかつに信じられないのは無理もない。」という論調にも
一理あるだろう。それに、同じ記事では決裂の原因について
「映画のシーンとは逆に、(西軍側の岩村)精一郎は『談判で継之助は
傲然たる態度を取り、議論で圧服しようとした』と後に述懐している」
とも指摘しているが、この述懐もあながち嘘ではないかもしれない。
なぜなら、山田方谷の見立てでも河井継之助には「敢為」の性向
(押し切ってやりとおしてしまうところ)があり、(1)
しかも継之助は大政奉還以前から西軍の中核の薩長を、
私利私欲にまみれた愚かで無礼な連中だと見下しているからである。(2)(3)
もちろん、西軍側にも問題はあるだろう。
北越に赴こうとする山県有朋に対し西郷吉之助が事前に
「長岡藩とは戦ってはならぬ」と申しふくめていたというし(1)、
黒田清隆なども「自分が河井と会見すれば戦いは避けられたのに
残念だった」と後に語ったそうだが(1)、ならばなぜ、そもそも西軍は
北越方面には岩村精一郎のような若造しか配置せず、
その岩村にも西郷吉之助の話をよくよく申し伝えなかったのか。
それこそ、岩村のみならず、西軍全体が長岡藩を雪国の小藩と
あなどっていた証ではないのか――
しかし、それでも、もし継之助が会談前に事前の根回しを重ね、
多少は話の通じる交渉しやすそうな相手を見つけて信頼関係を築く
ようにしていれば、必ずしも武装中立という手段でないかもしれないが
「徳川家や会津松平家への義理」と「家臣領民の命」と
両立することも可能だったかもしれない。
いずれにしても、河井継之助と岩村精一郎、
お互い相手のことを内心見下している者同士が会談したところで
うまくいくはずもなかったのだ。

おそらく、交渉事というのは、相手の知性に対する信頼が
双方にないとうまくいかないものなのだと思う。
しかしながら、河井継之助にとって、今まで見下してきた西軍の、
しかも若造の知性を信頼するなど、難しい事だったのではないか。
当時の長岡藩に、継之助よりももう少し政治力があって、
なおかつ河井継之助に伍するほどの人材があればよかったが、
何といっても彼には長岡藩の財政再建を成功させたという
大きな実績がある。このため、全てにおいて河井継之助の力量に
頼りきるようになっていたのが長岡藩の実情で、それだけに、
継之助が負傷して死んでしまうと長岡藩はたちまち西軍に
降伏せざるをえなくなってしまったのではないかと思った。


参照:
(1)『河井継之助のすべて新装版』(新人物往来社 平成九年)
(2)『司馬遼太郎がゆく』(プレジデント社 2001年)
(3)映画「峠 最後のサムライ」パンフレット

映画の公式サイト


←ランキングにも参加しています


丸亀城探訪

2022-05-26 09:48:58 | 旅行記
今年のゴールデンウィークは、香川県を旅行した。
今現在、当たり前に保護の対象になっているお城や文化財も、
いつ何時災害などで往時のものが失われるか分からない。
例えば熊本城や首里城など、ここ数年それを実感させられることが
多くなったこともあり、できるうちにお城を訪ねたいと思うようになった。

香川県には少なくとも丸亀城、高松城の他に屋嶋城という7世紀の朝鮮式の
お城もあり、結局このたびは三つもお城を攻略した。
以前に愛媛県を旅した時も、天守と石垣がついたお城が四つもあると知って
埼玉県民としては驚いたものだが、四国にお城が多い理由については
「超入門! お城セミナー」というサイトのこちらの記事で分析されており、
これによれば四国が「古くから海運の要衝として重要視されて」いたこと、
また「太平洋戦争の空襲被害が比較的少なかったこと」が
大きな要因ではないかという。
このたび攻略したお城を3つを一気に記事にまとめるのは骨が折れるので、
まずはここで丸亀城をとりあげたいと思う。

なお、このたびは先述のサイトの他に、二か所、参考にさせていただいた:

丸亀市公式サイト内にある「第三章」というpdfファイル


「いよぎん地域経済研究センター」の丸亀城に関するページ



丸亀城は、現存12天守のうちの一つ。
テレビや画像などではよく、幾重にも築かれた石垣の頂上に
天守が可愛く乗っかっている様子が紹介されるが、おそらくそういうものは
ある程度城跡から離れたところでないと撮影できない。
下の画像は大手二の門の手前の橋から撮影したものだが、
近すぎたせいか石垣が幾重にも築かれた様子までとらえるのは困難であった。
なお、前方左側の大手二の門、右側の大手一の門は重要文化財になっている。



下の画像は、大手二の門を裏から撮影したもの。



さらに、大手一の門を裏から撮影したもの。



これらの門を突破したあと、本丸に向かうには左に進路を変えることになる。
一方、反対側の右側を進んでも有形文化財の「玄関先御門」がある。
この門の先は現在資料館や広場になっているが、
かつては藩主の屋敷地であったという。



のぼったことのない天守もまだまだたくさんあるけれど、
それなりにいくらかのぼってきたつもりである。
それら攻略済みのお城と比べてこの丸亀城の坂は結構、傾斜がきつく
スタートからその急な傾斜のためにたちまち戦意をくじかれる。
Ⅱによると、「時々立ち止まって振り返りたくなることから」
「見返り坂」というそうで、



この付近の石垣が丸亀城のなかで最も高いのだそうである。



下の画像は、三の丸から見た二の丸の石垣。



下の画像は、二の丸への入り口。
この画像の方が坂の傾斜が分かりやすいだろうか。



二の丸に入ると、日本一深いといわれる井戸がある。
羽坂重三郎という石工名人がそのなかで殺されたという伝説があるそうだが、
果たしてそれらしい人骨は見つかっているのだろうか。
豆腐売りの人柱伝説と同様の謎が残る。



下の画像にあるような通路を通れば本丸にたどり着けるのだが――



上の画像の通路の右側を奥に進んでいくと二の丸搦手に出ることができて、
そこから見える石垣と天守の雄姿がまた戦意喪失するほどであった。
下の画像は、その二の丸搦手から天守閣を眺めた様子で、



天守閣の右側にある櫓跡の石垣がまた巨大で芸術的であった。



そして、下の画像が本丸から天守閣を撮影したもの。
写真におさめるのを忘れてしまったが、
一階には低い位置に設けられた(大砲用と思われる)「大砲狭間」、
壁を分厚くしてその防御力を強化した「太鼓壁」などが見られた。



上述のⅠの41ページによると、丸亀城は1615年に一旦、廃城になったが
(一国一城令による)、1641年から城主になった山崎氏や、
その後の城主の京極氏によって再び築城された。
ここで興味深いのは、1643年に幕府の老中が山崎甲斐守に対し
新城営作料として銀300貫を下賜したうえにこの年の参勤も免除していたことである。
当時の幕府はなぜ、丸亀城再建のためにここまで援助したのか。
そもそも、石高がせいぜい5、6万石そこそこの小藩がなぜ、
分不相応に思えるほどの立派なお城を構えていたのか。
この点については、Ⅱによると「幕府が瀬戸内海の海上交通を監視する拠点と
位置づけたこと、丸亀沖の本島(ほんじま)に多くいたといわれる
隠れキリシタンに目を光らせる必要もあったから」ではないかという。
なお、Ⅱによると、幕府は丸亀城再建のために大坂城修復時の残石も
下賜したようである。


最後に、ここからは個人的な感想になる。
丸亀城は隠れキリシタンの監視の意味も含めて建てられたということだが、
キリシタンも加わったことで有名な島原の乱が終わったのは
山崎氏が丸亀城主になるわずか三年前のことで、
当時の幕府にとっては記憶に新しい戦いだったはずである。
そして、その島原の乱では、オランダ商館長が長崎奉行の依頼を受けて
船砲を陸揚げして幕府に提供したり、海から(反乱軍が立てこもる)原城へ
艦砲射撃もしていた。
瀬戸内海に面する丸亀城は原城と違って外国船の類は無断では来にくく
海から艦砲射撃を受ける可能性はあまりないかもしれない。
だがそれでも、江戸幕府は丸亀城が第二の島原の乱の舞台になり、
丸亀軍はもちろん、キリシタンの反乱軍も大砲を用いて攻撃してくる
可能性も想定して丸亀城を建てさせたのではないだろうか。
天守に見られた大砲狭間や太鼓壁を思い出すと、そんな気がしてくる。
さらに想像をたくましくすれば、おそらく大砲は
玉の出口を上に向ければ向けるほど、その飛距離が短くなる。
ならば、敵の大砲に狙われやすいであろう天守閣は
なるべく高いところに建つようにした方が、敵の大砲の玉は
より届きにくくなる。上述のⅡによると、
丸亀城の石垣は「内堀から本丸へ向け、4層、高さ(合計)60mを誇る」
というが、このように石垣を(合計では)日本一高くしてある理由が
もしかしたらこの点にあるのかもしれない。
島原の乱は丸亀城再建に影響を与えたのか、与えたとすれば具体的に
どのように影響を与えたのか、知る機会があるとありがたいと思った。

ところで、今現在姿を見せている山崎氏以降の丸亀城の構造は
藩主たちの自由意思によって決められたものではなく、
幕府の指図に従って決めたものだそうである(Ⅰの41ページ)。
さらに、Ⅱによると、ここまで天守と呼んできたものについては、
江戸時代の「絵図には『天守』との記載は見られず、
三階櫓との認識であったようだ。」
私には、具体的にどんな人たちがどういう流れで丸亀城の構造を
決めていったのか想像つかないが、あのように石垣モリモリのわりには
三階櫓と呼ばれたものしかない理由を自分なりに予想してみた。
すなわちそれは、築城の予算配分の優先順位によるものではないだろうか。

どういうことかというと、もはや殿様も家来も天守まで逃げ込んで
戦わないといけないような戦況になってしまうと、
それはすぐにも援軍などが期待できない限り
落城も時間の問題という「もうおしまい」のような段階に思える。
なので、お城の役割としてはむしろ、
「もうおしまい」になってしまう前の段階で敵の攻撃をいかに退けるかが
より大切で、その考えに即せば、巨大な天守閣を建てるよりも
石垣や堀などの守りを堅くする事に重点を置いて、予算配分も石垣や堀などを
優先するべきだ、ということにならないだろうか。
石垣モリモリなのに天守っぽいものも無いのはさすがに格好がつかないが、
巨大な天守を作っても大砲の標的になりやすいし、
メインの櫓は小さくしてでもそのぶん堅固な石垣を築くなどして、
敵を城内によせつけないようにした方がいい――
丸亀城は、そんなバランス感覚に基づいて再建されたお城のように思えた。


←ランキングにも参加しています


義経の性格を考え直す

2022-04-22 14:18:22 | 歴史系(ローカル)
日々、スマホからこのブログを見ていて感じたが、
義経の性格についてむかし考えた記事が比較的よく閲覧されているようである。
(こちら)
今年の「鎌倉殿の13人」の義経には、河越家の婿殿でもあるから
もうちょっとマトモになってほしい――というわけではないのだけれども、
当時に関する新しい本や資料を最近また読んでいくうちに
義経の事績を私も少し見直した方がよさそうに思う時がいくらかあった。

そういうポイントは、今の時点で二つ挙げられる。
まず、これは『北条義時 ――これ運命の縮まるべき端か――』
(著:岡田清一 ミネルヴァ書房 2021年)を読んで知ったことである。
通説によると、義経は頼朝の許可なく「左衛門少尉」や「検非違使」
といった官位を後白河法皇からもらったことなどが
頼朝の逆鱗にふれて対立し、頼朝に滅ぼされることになったとされる。
同書によると、このように複数の主人に仕える行為を「兼参(げんさん)」と
言うらしいが、この時代の武士が「兼参」することは実は
「日常的な選択肢」、つまり「フツーのこと」だったのだという。
考えてもみると、義経よりずっと後の時代の戦国武将・明智光秀でさえ、
一時期は足利義昭と織田信長の二君に仕えていたぐらいであるから
義経の時代の武士が二君に仕えて何ら恥じることがなかったとしても
全く不思議な感じはしない。
しかしながら、間違いなく頼朝は御家人が自分の許可なく
朝廷から自由に官職を授かることを厳禁している。
思うに、たとえドラマの義経より性格の良い武士であっても、
頼朝が「兼参」を禁じているのを知る機会がなければ
同じように頼朝の逆鱗に触れ、滅ぼされてしまうところなのではないか。
義経の不幸は、頼朝が「兼参」を禁じている事を知りえなかった
ところにある――ということになるだろう。
それにしても、このように話をまとめてみて疑問に思ったが、
例えば義経が全く予期せぬかたちで後白河法皇から任官を持ちかけられ、
畏れ多くてこれを拒むのも難しかった、という可能性はないのだろうか??
ちなみに、以前紹介した論文「河越重頼の娘――源義経の室――」(PDF形式)や
ウィキペディアの義経の項の注釈17によると、近年の研究では
義経の無断任官によって義経と頼朝が対立するようになったとする
この通説をそもそも否定しており、留意すべきところかもしれない。

そして、もう一つのポイントは、義経に嫁いだ京姫(河越重頼の娘)の
動向からの推察によるものである。先述の彼女に関する論文によると、
京姫の夫・義経は、頼朝の逆鱗にふれたあげくに謀反人となって
京から追放され、頼朝の追っ手からの逃避行を余儀なくされる。
このとき京姫は(どの時点からかは分からないものの)
義経の逃避行に同行するのであるが、論文では
ここに「彼女自身の意志を見て取ることができる」という。
そのころ、彼女の実家の河越家では、彼女の父・河越重頼が
義経に縁坐して殺されたものの、その本領である河越荘は
没収されることなく重頼の後家尼に相続された。
この時代、夫の縁坐は妻(女性)には及ばなかったのである。
――つまり、義経が謀反人となって都落ちしても
京姫には実家の河越家という「帰るところ」があるので、
義経と離縁して河越家に身を寄せて生きていくことも可能であった。
にもかかわらず、京姫はまだ22歳なのに、全てを失った義経に
ついていく道を選び、義経と共に死んでいった。
義経とのあいだにもうけた幼い娘までも道連れにして――
思うに、これだけのことを、全く愛情を持てない相手に対して
できるとは考えにくいということではないだろうか。
これは全く私の想像にすぎないけれど、
この義経と京姫とのあいだには何か他人のうかがい知れない
特別な絆があったのかもしれない。
戦国時代の武田勝頼とはだいぶ事情が違うだろうが、
義経は義経で、何か心に孤独をかかえていそうな感じはする。
いずれにしても、源義経という人物は、兄・頼朝の怒りは買った
反面、一人の女性にそこまでしてもらえるくらいの人物でもあったと
考えることもできるのではないだろうか。

追記:【深読み「鎌倉殿の13人」】によると、
八田知家、小山朝政という武士も
頼朝に無断で官位をもらい、頼朝の怒りを買ったようだ。


←ランキングにも参加しています


影の薄い河越重頼と京姫

2022-04-05 16:02:30 | 歴史系(ローカル)
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を毎度、楽しみに観ている。
この時代には埼玉ゆかりの武士たちが多く登場するからであるが、
私の地元・埼玉県川越市ゆかりの武将・河越重頼もこの時代の人物で
その娘が源義経に嫁いでいる。その娘の本名は未だ不明であるが、
郷御前とか京姫の呼び名で知られ、「鎌倉殿の13人」では
「里」の名で登場している。

ところが、この河越重頼・京姫親子の出番の、なんと少ないことか。
まず、さる2005年では婿殿の義経が大河ドラマの主人公に選ばれた
にもかかわらず、主人公の舅にもなる重頼が登場したのは、
なにかの戦いのあとの論功行賞の場面の一瞬だけ。
京姫は父・重頼よりは出番が多かったものの、
同じく義経に嫁いだ京の白拍子・静御前の方が京姫よりも
圧倒的に登場が多く、強い存在感を放った。
また、先月まではアニメで「平家物語」が放送されたが、
そこでも、静御前はなぜか後半で登場しても、京姫までは登場しなかった。

さて、この点について「鎌倉殿の13人」ではどうなるだろうか。
史実では、源頼朝の挙兵後、最初は頼朝に敵対していた畠山重忠が
あとで一転して頼朝の味方になるが、河越重頼もこのとき
「はとこ」の畠山重忠と一緒に頼朝の味方になっている。
畠山重忠が頼朝に味方するべく合流する場面はドラマでも描かれたが、
その場面に河越重頼の姿は見られなかった。
源頼朝にとって、畠山重忠と同じく武蔵武士団を率いる実力者だったはずの
河越重頼が初めからこのような扱いでは、
下手すると一度も登場してこないかもしれない。
一方、「里」こと京姫は最近登場しはじめたが、
静御前が登場するのはまだこれからで、義経との愛の物語に彩られた
静御前は京姫よりは強い光を放って存在感を誇ることが予想される。

この、河越重頼・京姫親子の影が薄い謎の答えになるかもしれない
論文を、私は最近ネットで発見した。
「京都橘大学学術情報リポジトリ」というサイト内にある
河越重頼の娘――源義経の室――」という論文である(PDFファイル)。
この論文に即して、この謎に対する一つの答えをまとめていきたい。

まず、彼らの影が薄い直接の理由は、『吾妻鏡』のなかで
京姫よりも静御前に関する記事の方が多く、
また河越重頼に関する記事も、畠山重忠と比べて登場頻度が少ない
からであるが、この論文ではさらにその理由として
『吾妻鏡』の編纂者がそのように記事を「選択・操作」したからだとしている。
なぜ、そのようなことをしたのだろうか。

『吾妻鏡』は北条氏を正当化する立場にあるが、
「鎌倉殿の13人」でも比較的出番の多い畠山重忠は北条時政の娘を
妻にするため、北条時政の姻族と言える。
一方、前回の私の記事でとりあげたように、京姫は比企尼につながる女性でもある。
河越重頼の妻が、比企尼の次女だったからである。
そして、この比企一族は北条時政の政敵として滅ぼされた一族である――。

そもそも源頼朝にしてみれば、必ずしも北条氏だけを源家一族の外戚とする
つもりはなくて、だからこそ比企一族とも姻戚関係を築いていった。
しかし、源頼朝が亡くなると、権勢を強めた比企一族を脅威に感じた北条時政が
比企一族を滅ぼしてしまった。そして、そのあとで編纂者が『吾妻鏡』を
編纂する際には、北条氏とつながりのある畠山重忠に関する記事は載せるけれど
比企尼とつながる河越重頼と京姫に関する事績は隠ぺいする――
ということになったのではないか、というのである。
また、静御前が『吾妻鏡』で登場頻度が多いのも、彼女が北条氏とは
直接利害関係が無いからではないかということだ。

なお、ドラマの「鎌倉殿の13人」では頼朝のあずかり知らぬところで
義経と京姫(里)が結ばれてしまったが、この論文によると彼らの結婚は
もちろん頼朝の命令によって実現したもので、この命令には
「東国に所領や家人の基盤を持たなかった義経を、武蔵国留守所総検校職を
掌握した河越重頼の婿にすることで、東国の有力御家人の後見人を付ける
頼朝の厚意」があったのではないかとしている。
しかしながら、結婚後、頼朝と義経が対立することになると、
頼朝はそれこそ河越重頼が義経の後ろ盾になって対抗してくることを恐れ
重頼を息子・重房ともろとも誅殺してしまったのだった。


←ランキングにも参加しています


比企一族の四つの館跡

2022-03-24 15:14:18 | 歴史系(ローカル)
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が題材にしている
平安末期・鎌倉時代初めの武蔵武士たち。
彼らにゆかりのある埼玉の史跡を何度か訪ねてきたが、
思えば比企一族に関しては神奈川県鎌倉市にある妙本寺を訪ねただけであった。
そこでこのたび、埼玉にある比企一族ゆかりの史跡を訪ねることにした。
こうした史跡探訪はとても久しぶりであるし、
しかもどうやら比企一族というのが分からないことの多い一族で
その館跡すらも候補地が複数あるほどである。
ややこしいので、今回訪ねた史跡を最初に整理すると
おおむね次の四か所であった:

① 伝 比企遠宗・比企尼屋敷跡――泉福寺付近の三門館跡(滑川町)
② 伝 (遠宗没後の)比企尼屋敷跡――宗悟寺付近の比丘尼山(東松山市)
③ 伝 足利基氏の塁跡――正法寺付近(東松山市)
④ 伝 (比企能員滅亡後の)比企氏館跡――金剛寺(川島町)

なお、比企一族の歴史全般のついては、東松山市の公式サイトに
あると思われるpdfファイル「比企一族の歴史」が大変参考になったので
最初に紹介しておきたい(こちら)。

①まず、泉福寺付近の三門館跡について。
この付近にある掲示によると、三門館跡は比企能員の先代・遠宗もしくは
毛呂太郎季綱という武将の館跡とされ、現在、空堀と土塁の一部が
残っているという。私有地となっている部分もあるし、現地の写真も含め
詳細は滑川町の公式サイトにあるpdfファイルが参考になるだろう(こちら)。
何とかして土塁らしいところを写真におさめたいと思い、下のように撮影したが、
盛り上がっている部分を土塁跡と考えていいのか、正直、自信が持てない。





空堀跡については、紹介したpdfファイルの4ページ目に分かりやすい写真が載っている。
そこに載っているのは、私の撮影場所とは異なるものである。

また、こちらは泉福寺の駐車場から館跡遠景を撮影したもの。
これは、pdfファイルの最初のページと同じものだろう。



比企遠宗の館跡として史跡を紹介はしたが、このさいカギを握るのはむしろ
彼の妻・比企尼ではないだろうか。比企尼は源頼朝の乳母を務めた女性で、
1160年に頼朝が伊豆に流された時、武蔵国比企郡を「請所」にして、
夫・比企遠宗とともに関東に下り、以後、1180年にいたる20年間、
物心両面での援助を続けたという。
その後、鎌倉を本拠地とした頼朝は、こうした長年の恩に報いる一環として
比企一族を厚遇するようになったようである。
東松山市のpdfファイル「比企一族の歴史」では、
このような援助を続けた比企尼の心意気もさることながら
これを可能にした比企尼自身の財力、そして比企という地域の豊かさ――
すなわち、鉄・銅・馬・米等が産出されたことにも着目しており、興味深い。

②次に、宗悟寺近くにある比丘尼山について。
現地の掲示によると、比丘尼山とは比企遠宗の妻・比企の尼が、
夫・遠宗亡き後、尼となって草庵を結んだとされる場所で、
下の画像がその遠景である。



この付近にある比企一族ゆかりのものとしては比丘尼山のほか、
宗悟寺に安置されているという源頼家の位牌、



また「串引沼」という沼がある(下の画像)。



比企能員には娘・若狭の局がいて、彼女が鎌倉幕府二代将軍・源頼家に嫁ぎ
長子・一幡を産んでいた。しかし、比企能員をはじめ一族は北条氏に滅ぼされ、
やがて若狭の局の夫・頼家も伊豆の修善寺で殺されると、
若狭の局は頼家の位牌を携えて故郷に戻り、比丘尼山の麓に「大谷山寿昌寺」という
草庵を結んで夫の菩提を弔っていた。当時の若狭の局は亡き夫・頼家の形見の
櫛を眺めては涙にくれていたため、見かねた祖母の比企尼が
その櫛を捨てて思いを断つよう若狭の局に言った。
そうして若狭の局が泣く泣く櫛を捨てた沼がその「串引沼」ということである
(以上、串引沼付近の掲示による)。
だが、東松山市の「比企一族の歴史」によると若狭の局は一族とともに
焼き殺されたとされるため、可能性があるとすれば、辻殿(賀茂重長の娘で
一幡の弟・公暁の母とされる女性)ではないか、という。

③正法寺付近にある足利基氏の塁跡について。
正法寺から「門前通り」というまっすぐな道を下った先に
「鳴かずの池」というのがあるが、その付近に見える堀跡や土塁跡が
「足利基氏の塁跡」とされるものである。
現地の掲示によると、足利基氏とは「鎌倉公方」となった足利尊氏の次男で、
芳賀高貞という武将の反乱「岩殿山合戦」(1363年)の際にこの地に本陣をおいたという。
しかし、足利基氏は長期の滞在はせずに、すぐに下野国に陣を進めたので、
「この館は合戦の時に基氏が築いたものではなく、地元豪族が造った館を
陣地として利用したものと思われ」るという。
掲示には「地元豪族」としか記されていないが、『歴史ロマン埼玉の城址30選』に
よると、この「地元豪族」こそ比企能員なのだとする説がある。
下の画像は、「鳴かずの池」と、その池に近い方の、西側の堀跡である。





正法寺のパンフレットによると、正法寺は718年以来の古刹であるが
鎌倉時代には源頼朝の庇護を受け、比企能員を始めとする比企氏が
その岩殿観音に深く帰依したという。
また、正法寺の門前通りの途中に横道があって、その細い階段などをのぼると
「判官塚」なるものがある。現地の石碑によると、それは比企能員の孫の
比企員茂が1218年ごろ、「比企判官能員の追福のため築きしものと言い伝う」。
また、この塚は最初からここにあったわけではなくて、
大東文化大学キャンパス造成時に移転したという。



④川島町にある金剛寺について。
以前私は、鎌倉にある比企氏ゆかりの妙本寺について(こちらで)とりあげた際、
「比企氏の乱」にみまわれても比企一族が完全に死に絶えたわけではないことを
記した。①から③までの史跡は鎌倉時代までの比企氏にゆかりのあるものだが、
④にあるのはそれよりもだいぶ後の時代の子孫の墓である。
お寺の大日堂の掲示によると彼らがここ一帯に住居を構えるようになったのが
天正のころで、比企政員(1575年没)以降であるという。
この大日堂の左側奥を進むと堀跡があるものの、遺構の一部かどうかは不明。



そして、さらに進んだ先に比企一族歴代の墓がある。
画像二枚におさめたその墓のうち、最も古いのが、
比企政員の子・則員の墓である。



この金剛寺と比企氏のゆかりについては、『改訂 歩いて廻る 比企の中世・
再発見』(発行:埼玉県立嵐山史跡の博物館 平成22年)にあるが、
要約するとおおむね次のようである:
比企能員の子孫のうち、「比企氏の乱」(1203年)を生き延びた者として
能員の子円顕(当時2歳、俗名能本)の他に、時員(能員の子)の子・員茂がいた。
当時、母親のおなかのなかにいて無事だった員茂は、「出生後、
岩殿山観音堂別当に養育され、のち北面の武士(院の御所の北面に詰め、
院中の警備にあたった武士)となり、承久の乱(承久3年1221)では
敗れた順徳院に従って佐渡に渡り、寺泊兵衛尉と改名」。
その員茂の子・員長は、「頼家の娘竹御所と従兄弟関係にあり、比企・吉見・
高麗郡等を所有していたことから、その縁で密かに越後より比企郡中山に移り、
のち子孫代々がこの地に居住した」。
――以上のような経緯があって、比企氏代々の墓がこの地にあるという。
すぐそばに山があるような①から③までの史跡とは少し離れていて、
地理的条件も、平地がどこまでも広がっているような場所だが、
彼らにとって先祖伝来の地ではある。
たとえ一所懸命の時代が終わっても、先祖伝来の地で暮らし、永眠できるのは
彼らにとって喜ばしいことだったのではないだろうか。

なお、余談になるが、ヤフーニュースの「『鎌倉殿の13人』頼朝の乳母・比企尼とは
粛清され歴史から消えた一族・比企氏のルーツを探る」
によると、
現在、「比企」という名字は関東と新潟県に集中しているという。
推測にすぎないが、もしかすると新潟県に多いのは比企員茂が
一時期佐渡に渡ったことが関係しているのではないかとも思うのである。

閑話休題。比企能員をはじめとする比企一族は、なぜ滅びることになったのだろうか。
最近読んでいる『北条義時 ――これ運命の縮まるべき端か――』(著:岡田清一
ミネルヴァ書房 2021年)で、この謎についての興味深い考察があるので、
私なりに要約してみたい。
――鎌倉時代初めに北条氏を率いていた北条時政と、
比企一族を率いていた比企能員には、共通点があった。
それは、自身の大きな権力基盤が鎌倉将軍家との姻戚関係あるいは乳母関係のみに
あって、幕府の組織内に確固たる権力基盤があったわけでもなければ、
他を圧倒するほど広大な領地を有していたわけでもなかった、という点である。
このような状態の権力基盤はきわめて不安定なものだったのだが、
その後、権力基盤の補強につとめた北条時政と、
結果的にそうしなかった比企能員とで、明暗が分かれたという。
まず、北条時政の場合、娘の政子が源頼朝と結ばれ、頼家・実朝が誕生して
源家との姻戚関係が生まれ、頼朝没後は頼家が鎌倉殿を継承したが、
時政の財産は本当にこれだけ。しかも、この新しい鎌倉殿・頼家には、
時政の他にも乳母関係(傳)にあった梶原景時、
そして重層的な乳母関係を誇る比企一族がひかえていた。
鎌倉の妙本寺の記事とも一部重複するが、①と②でとりあげた比企尼が
源頼朝の乳母であっただけでなく、比企尼の長女・丹後内侍の娘が
源範頼(頼朝の弟)の妻、比企尼の次女・川越尼は自身が源頼家の乳母で
河越重頼とのあいだにもうけた娘・京姫は源義経に嫁ぎ、
比企尼の三女も頼家の乳母である。
のみならず、比企能員の妻も頼家の乳母だし、能員の長女・若狭の局は
頼家に嫁いで一幡と娘・竹御所をもうけていた(②でも紹介)。

北条時政にとってこの事実は、源家との「姻戚関係が決して北条氏の
独占でなかっただけでなく、頼朝から頼家に代替わりするなかで、
比企氏の立場がいっそう強まることを意味した。」
しかも、「頼家の後継者として一幡が擁立されれば、北条氏にかわって
比企能員が外祖父の地位を占めることにもなる」。
北条時政は、先手を打った。

『北条義時 ――これ運命の縮まるべき端か――』では、
比企能員滅亡の顛末がより詳しくとりあげられている。これによると、
比企能員が滅ぼされる直接的なキッカケは、源頼家の発病であった。
1203年7月20日に発病した7日後、突如として頼家の家督譲与が公表。
その内容は、長子・一幡に全国惣守護職と関東二十八ヵ国地頭職を、
弟・千幡に関西三十八ヵ国地頭職をそれぞれ相続させるというものだった。
千幡とは後の源実朝であるが、実は北条時政の娘・阿波局が
この千幡の乳母を務めていた。
本来、頼家の権能は全て長子・一幡に相続されるはずなのに千幡と
二分され、しかも、当の頼家には全く知らされないうえでの公表。
つまりこれが、千幡の背後にひかえる北条時政の比企氏に対する挑発であった。
怒った比企能員が、娘の若狭局を介して頼家に家督譲与の件を伝えると、
頼家は比企能員と談合して北条時政の追討を決定した。
ところが、このことが北条政子の知るところとなってしまい、
政子をを介して時政にも知るところとなってしまう。
ここで時政は、頼家の病気を利用して能員を返り討ちにする計画を立てた。
しかも、「私闘」のそしりを免れるためなのか、
時政はこの計画を事前に幕府の公的機関の別当である大江広元に一応、
伝えたうえで、大江が「よろしく賢慮有るべし」などと曖昧な
返答しかしていないにもかかわらず、この返答を受け取るや
すぐさま天野遠景・仁田忠常という武将に比企能員追討を命じた。
その日のうちに時政は使者を能員のもとに送り、時政の名越邸で行われる
薬師如来像の供養会への参列を求めた。比企能員が軽装・少人数で
名越邸にやってくると、先の天野遠景と仁田忠常が比企能員を暗殺。
その直後の午後三時には、北条義時・泰時、平賀朝政、畠山重忠らが
一幡の小御所に押し寄せ、比企一族を滅亡、自殺においこんだという――。

ここで、興味深いポイントがいくらかある。まずは、ここまで引用した
『北条義時 ――これ運命の縮まるべき端か――』で指摘しているように、
頼家が倒れた時の比企一族の脆さ、そして、時政追討計画を知った時政が
その日のうちに仏像供養を行って能員を返り討ちにしてしまう対応の早さと
綿密な計画性。同書では、この出来事が頼朝の死からわずか四年後であること、
また『吾妻鏡』では比企能員に連座して拘禁されたはずの中野能成という
御家人――彼は頼家の近臣で、時政の子・北条時房とも深い関わりが
あるとされる――が文書史料では所領安堵されていることから、
北条時政が比企能員一族滅亡前から中野能成と手を組んでいた、
すなわち「早くから比企氏への対策を講じていたのであり、
水面下で次なる手を打っていたと見るべきであろう」と推測している。
また、比企能員が軽装・少人数で名越邸にやってきた謎については、
ウィキペディアの比企能員の項では、(時政追討計画が)「漏れている事を
知らない能員は、さかんに引き止めて武装するように訴える一族に
『武装したりすればかえってあやしまれる』と振り切り、平服のまま
時政の屋敷に向か」ったとしている他、「北条氏征伐を企てたという能員が、
敵であるはずの時政の邸を無防備に訪れている不自然さなどから」
「比企氏の反乱自体が北条氏のでっちあげであろう」ともしている。

最後に、ここからは私の感想になる。少し調べてはみたものの、
比企能員がいつから源頼朝に仕え、戦いに加わるようになったのかは
よく分からない。一方、北条時政は、流人・頼朝の一番最初の挙兵から
加勢し、石橋山の戦いの敗北も経験した人物である。
時政が比企一族に対して発揮した危機管理能力、あるいはリスク管理能力の
高さあればこそ、平家全盛の時代に頼朝とともに挙兵し、
石橋山の戦いの敗北をも乗り越えたのかもしれないが、
私はむしろその計画性といい、大江広元に声だけかけてからだまし討ちにする
ズルさといい、そして、女もろとも焼き殺す残酷さといい、
これほどの強い権力欲にドン引きしてしまう。
比企能員をはじめとする比企一族の対応は無防備だったかもしれないが、
彼らもまた、北条時政の権力欲の深さにタジタジだったのではないだろうか。
しかしながら、北条時政一代といわず、その後も権力の独占に
はしり続けた北条一族がその報いを受けるのは、比企能員らが滅亡してから
130年後の新田義貞の時代のことだったと思われる。
また、武士道や朱子学といった道徳の類が浸透するようになったり、
例えば天下取りが実現したことで邪魔者と化した有力者に対し
殺す以外に上手く処遇をしていく知恵が少しずつうまれるのも、
まだまだ先のことだったと思われる。


←ランキングにも参加しています


「鎌倉殿の13人」始まる

2022-02-19 15:25:23 | 思索系
早いもので、もう二月になった。
昨年も同様ではあったが、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも
埼玉ゆかりの登場人物がちらほら登場しているし
放送自体は何とか時間を作って毎回見ることができている。
紀行のコーナーで紹介された現在の真鶴町にある「源頼朝船出の浜」には
むかし偶然行ったことがあったが、正直、寂しい小さな浜だったと記憶している。
しかし、当時辛い気持ちをかかえて訪れた私は、
そこの波の音を聴き、浜のむこうの大海を眺めて感慨深くなったものであった。
人生のどん底だったであろう源頼朝がこの小さな浜から
はるか房総へ船出をし、人生を大逆転させたのだ、と――。
このたびの大河ドラマでも、源頼朝が北条義時に本当の気持ちを明かす場面や、
北条義時が父・時政に兄・宗時の死を知らせる場面など、
重要な局面では波の音がとどろき、登場人物の心の揺れを表現してるかのようだ。

さて、何やら特に佐藤浩市さん扮する上総広常には既視感を感じるところだが
ウィキペディアによると少なくとも『吾妻鏡』でも彼は「無礼な振る舞いが
多」かったとしている。
しかしながら、『北条義時 ――これ運命の縮まるべき端か――』
(著:岡田清一 ミネルヴァ書房 2021年)によると、
そもそも挙兵当初流人の身にすぎなかった「頼朝が、強固な武力基盤を背景に
東国を支配するためには、豪族的な武士層を排除し、その支配下にある
中小武士団を家人化して直接支配することが必要だった」という。
ということは、有力豪族だった上総広常の場合、たとえその人柄がどんなものでも
ただ大きな権力を持っているだけで後々頼朝にとって邪魔な存在となり、
いずれ頼朝に排除されるところだったように思われる。

ただし、上総広常が頼朝にとって邪魔な存在になるのはあくまで
もう少し後の時代の話で、挙兵当初の頼朝にとってはむしろ勝つために必要な
存在だった。同書によると、当時の頼朝は平家一門という敵だけでなく、
他の源氏というライバルたちとの競争にも勝たねばならなかったからである。
他の源氏とはすなわち、最近登場した甲斐源氏・武田信義だけでなく、
後で登場するであろう木曽義仲、あるいは信濃源氏などであった。
個人的に驚いたことだが、こちらの記事によると
頼朝は当初、木曽義仲を出し抜きたくて平家に和平を提案していたほどである。
だが、源頼朝と平家が関東と西国とで棲み分けるこの和平案は「平清盛亡き後に
後継者となった平宗盛が拒否した」ため結果的に実現しなかったという。

和平案を宗盛が拒否した背景について考えられるのが、亡き父・清盛の遺言の存在だ。
『平清盛の闘い ――幻の中世国家』(著:元木泰雄 角川文庫 平成23年)によると
『玉葉』に記されたその遺言というのが、
「子孫、ひとへに東国帰往の計を営むべし」(「東国を頼朝から奪い返せ」の意か)、
そして「我が子孫、一人生き残る者といへども、骸を頼朝の前に曝すべし」
(「たとえ敗北しても、最後まで戦いつづけよ」)といったものであった。
こんな言葉を遺した清盛は、かつて命を助けてやったはずの頼朝の挙兵と
その東国席巻に対する怒りにふるえ、また平家方の武士たちが富士川で戦わずして
逃げ帰った体たらくにも腹を立て、激しい闘志をたぎらせながらも
途中で病に倒れて無念の最期をとげた人だった。
思うに、平家一門の英傑のこの言葉が「半ば呪いの言葉」となって
後継者・宗盛を呪縛し、平家一門が滅亡を免れる好機をみすみす逃す結果を
招いてしまったのではないだろうか。
『平清盛の闘い』では、後継者となった宗盛の方針を「優柔不断」と評しているが、
これを読んだ私にも、清盛亡き後の平家一門が、船頭を失った船のごとく
浮世荒波で漂流を余儀なくされ、やがて文字通り海の藻屑と化してしまったような
感がある。――いずれにしても、もし宗盛が頼朝の和平案に乗っていれば、
平家一門は滅亡を免れ、その後の歴史も大きく変わっていたかもしれない。

ちなみに、私は以前、埼玉ゆかりの武将の一人・斎藤実盛について
書いたことがある(こちら)。
斎藤実盛とは、頼朝が挙兵して始まった「治承・寿永の乱」の際に
平家方として参戦し、かつて彼が養育した武将・木曽義仲の軍によって
討ち死にしてしまう老将である。今思えば、そんな斎藤実盛の悲劇は
さながら平清盛と源頼朝の対立の相似のようでもあるので、
もし斎藤実盛の最期までこのドラマの題材になれば面白いような気はしている。

あるいは、さすがに斎藤実盛までは登場しないだろうか。
――ともかく私は埼玉ゆかりの武将の登場と活躍を楽しみにしている。
ここで何度か記した木曽義仲も実は埼玉ゆかりの武将でもあるのだが、
果たしてドラマでどんなふうに描かれるのだろう。
頼朝の商売敵だし、頭のいい武将のイメージはあまりないのだけれども。
一方、それに比すれば、同じく埼玉ゆかりの武将・畠山重忠は
「坂東武士の鑑」と称えられたとされる人物のはずなのだが・・・
ドラマではさっそく三浦氏との不幸な行き違いから戦いを強いられ、
彼の悲劇的な最期の伏線のような感がある。
また女性陣に関しても、牧の方の好きな「口出し」というのが
後々権力を手に入れた彼女と北条政子の政治的対立の火種となっていくのかもしれない。
同じ目標に向かって苦楽を共にしている今なら、楽しく笑いあえているのかもしれないが。
この時代についてもっと多く知識があれば、さらに多くの伏線が見つかりそうではある。


←ランキングにも参加しています


2022年正月のレビュー

2022-01-03 23:36:50 | 日常
新年、明けましておめでとうございます。
ツイッターでは一足先にあいさつしたが、
ここでは正月休み中に見た番組の感想などを書いていきたい。

まず、昨年ツイッターでも取り上げたドラマ「倫敦ノ山本五十六」。
このドラマの時代は連合艦隊司令長官として活躍する
真珠湾攻撃以前の山本五十六を主人公にしたものだが、
この「倫敦ノ山本五十六」は、真珠湾攻撃後の彼と同様
本来「勝てる男」なのに最初から勝ち目の薄い戦いを強いられ、
そこで何かを成さねばならない悲哀をかかえていたのが印象的だった。
そんな彼と同郷で、同じ悲哀をかかえて生きた先人・河井継之助に関連して
山本はこんな言葉を語ったという(これはドラマではとりあげられていない):
「私は河井継之助が小千谷談判に赴き、天下の和平を談笑のうちに
決しようとした、あの精神をもって使命に従う。軍縮は世界平和、
日本の安全のため、必ず成立させねばならぬ。」
最初から勝ち目の薄い戦いを強いられ、そこで何かを成さねばならない
立場に置かれた時、人はどのような心構えをもてばいいのか――
映画「燃えよ剣」の土方歳三のように、ひたすら自分の夢を追うことだけを
考えるというのも一つの解なのかもしれないが、山本五十六にとっては
帝国海軍の軍人として使命感を持つことがその解だったのかもしれない。
なまじ本来「勝てる男」だからこそ難しい使命を任されるし、
辛さのあまり退役したいと思っても許してもらえない。
そういう事情もあるので、「誰かがこれをやらねばならぬ」という使命感で
臨むしかなかったのかもしれない。
――ところで、ドラマでは山本が上司たちや国民の天動説的な外交姿勢や価値観に
悩み苦しめられ、最終的にはそのせいで英米との交渉も失敗に終わったのだが
今の時代の日本人は大丈夫なのだろうか。
ドラマの時代の山本の上司たちや国民のように、
天動説的な価値観で他国を見誤ってはいないだろうか。

一方、これはまだ放送開始されていないが、今年の大河ドラマは
北条義時を主人公にしたという「鎌倉殿の13人」である。
この時代が題材であるなら、埼玉ゆかりの武将、比企能員や畠山重忠なども
出るのだろうが、個人的に彼らはいずれも北条氏の被害者だと思っているので
北条氏に対しては実はあまり良いイメージがない。
当時、キラ星のごとく存在したであろう数多の有力な坂東武者たちを
政敵とみなして次々に消していったというイメージの北条氏であるが、
考えてもみるとそういうやり口は鎌倉殿こと源頼朝も同じだっただろうし、
何より、この大河ドラマの世界観でいえばこうしたイメージは
あくまで結果論にすぎず、当時の北条氏にしてみれば、
ただ毎日を必死で生きていたら結果的にそういうふうになっていった
――というところなのかもしれない。
まして、これは同じ三谷幸喜さんの大河ドラマの題材になった
新撰組にも当てはまることだろうが、鎌倉幕府の運営に携わる人たちも
組織運営のノウハウや後継者の育成や選び方など、分からないことだらけで
その苦労たるや後世の江戸幕府の比ではなかったのかもしれない。
初期の鎌倉幕府のドロドロとした権力闘争に、彼らの「生みの苦しみ」を
感じとるべきなのかもしれないのだ。

それでは、今年もよろしくお願いします。

←ランキングにも参加しています