黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

やむにやまれぬ時代の萌芽

2015-03-29 22:29:58 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびの話題は、異国船に
よってひろまった病「コロリ」によって、萩でも
多くの死者が出るといった話。異国の船がただ来た
だけでも病によってこれだけ日本が振り回され、
その上さらに幕府が日米修好通商条約を結ぶという。
この先、日本にどんな経済的混乱も待ち受けている
かもしれない――そんな危機感があらゆる階層の
日本人に広まった、というのが今回の時代背景だろう。
しかしながら、危機感そのものは等しく共有できても、
危機に対して思い描く方法論が人によってあまりにも
違いすぎる。話題の中心たる吉田松陰たちは条約が
天皇の許可なく結ばれたことを怒っていたけれど、
井伊直弼だって本当は許可が無いことを良いとは
決して思ってないし、許可を取り付けないと反感を
買うことぐらいは百も承知の上である。このたびの
久坂が「やむにやまれぬ」思いで勝手に京に行ったのと
同じように、井伊もまた、「やむにやまれぬ」思いで
無勅許での条約締結を決意したのだ――。こうした
井伊の事情まではさすがにドラマでは明確に語られ
なかったものの、やはりこのたびの「花燃ゆ」は
長州の志士のやることを一方的に礼賛するものとは
一味違う。時代は、日米修好通商条約が締結された
時点で1858年6月、文は16歳のままである。

ところで、ウィキペディアで少し調べてみたが、
実は日本における「コロリ」の流行は「花燃ゆ」の
時代が初めてではなくて、その30年以上前にも、
朝鮮あるいは琉球からのルートにより発生している。
また「コロリ」の予防については、「1884年には
ドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ
菌が発見され、医学の発展、防疫体制の強化などと共に、
アジア型コレラの世界的流行は起こらなくなった。」
という。なにも、日本に「開国」を迫って困らせる
異国人だけが「コロリ」をもたらすわけではない。
また、日本を困らせる異国人も、実は同じように
「コロリ」に悩まされている。本当は、「コロリ」を
もたらした異国人を責めるよりも、異国人と協力して
「コロリ」と闘うほうがよほど生産的かもしれないが、
これはやはり幕末当時よりは発達した医学に恵まれ、
「幕末」をより俯瞰的に見やすい時代人の発想とも
言え、別に異国人が来なくったって完成された
「江戸文明」のなかでそれなりにうまくやってきた
「花燃ゆ」の時代の日本人からすれば、「せっかく
今まで自分たちだけで平和にやってきたのに、
邪魔しやがって」――というのが、異国人に対する
本音である(『逆説の日本史』17巻の第四章を参照)。
これでは、「異国人と協力して…」などという発想は
出にくかろう。このたびのドラマでも、かろうじて
小野為八の父上が「人を救うのは武器じゃなくて
薬なんだ」とは言ったが、為八はじめ松陰の門下生は
それよりも「地雷を開発して『コロリ』をもたらした
異人をやっつけるんだ」と躍起になる。
父上自身も「コロリ」にかかって死ぬ寸前になると
為八の暴力的なやり方を認めるようにはなったが、
ドラマの文と同様、身内や世の中に対する心配な
気持ちはぬぐえなかったであろう。
「やむにやまれぬ」思いゆえ、時代は確実に不穏な
ものとなりつつある。牢屋に入れられていたころは
「至誠をもって幕府に改善を求める事で、政治を
あくまで幕府に委ねる」と論じていた吉田松陰も、
本当はまだ完全に幕府に絶望した訳ではないのだが、
このたびいよいよ無勅許に怒り、倒幕を叫ぶように
なっていった。


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女もつらいよ

2015-03-22 22:36:23 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびの話題は、久坂が
新婚早々、江戸に行くことになるという、ずいぶん
ヒドい話。私の手持ちのガイドブックによれば、
具体的には結婚してわずか三か月で江戸に行って
しまったらしい。時代は、井伊直弼が大老に就任
した時点で1858年4月、文16歳である。

ところで、長州藩内ではこのたびからまた周布
政之助の時代となっている。対する椋梨は前回、
久坂に勇気づけられた伊之助の心変わりによって
失脚したわけであるが――、まず、椋梨というか
坪井派の失脚は、実際はもう少し先の、1858年
6月ごろだろうと思われる(山口県のHPによる)。
また、椋梨の失脚の原因も、産物取立政策や
上方交易の失敗が原因と思われる(別冊歴史読本
『【幕末維新】 動乱の長州と人物群像』による)。
しかし、これは以前にチラッとふれたことだが、
椋梨ら坪井派に代わってこのたび台頭した周布
たちの政策の内容は坪井派のそれを徹底的に否定
するようなものではなく、むしろ接ぎ木していく
ような内容であった。例えば、産物取立政策は
地方諸役座の反発をうけた事を反省して、管轄を
江戸方から産物方へと変更してみたり、上方交易は
薩長交易へと切り替えてみたりしている。そして
これが、後の薩長軍事同盟の経済的基盤へと
繫がってもいくわけだが――、そう考えると、椋梨ら
坪井派の仕事が、高杉ら尊攘の志士たちにとっても
全く価値のないものとは言えない代物だったことに
なる。にもかかわらず、このドラマでの椋梨は悪役、
坪井に至っては名前すら出てこないありさまと
なっている。人間関係は複雑怪奇、簡単に図式化
できるものでもないということが、よく分かる。
ただ、同書によると周布は1858年のうちに自派を
「正義派」、坪井以下を「俗論派」などと呼ぶ
ようになる(つまり坪井派とハッキリ袂を分かつ
ようになる)のだそうで、ドラマでもいよいよ
周布と椋梨の対立が激しくなり、椋梨の悪役ぶりも
際立ってくることが予想される。両派の対立が
そこまでヒドくなってくるのは、例えば幕府が
アメリカとの通商を模索し始める、井伊直弼が
大老になるなど、国政レベルでの変化があった
ことと関連しているのであろう。

さて、久坂と文の結婚についてであるが、
手持ちのガイドブックによれば、実は文には
当初、「桂小五郎との結婚を進める話も持ち
上がっていたとか」言われているそうだが、
結局兄の松陰は、才能が高いのと、若くして
天涯孤独になってしまっているのを理由として、
久坂を妹の結婚相手に選んだのだそうである。
ようは松陰は、文のためにというより久坂の
ために、縁談を実現させたということになるが、
文の容姿が久坂の好みでなかったという話も
残っているし(この大河ドラマが始まる前から
文について私が知っていた唯一の情報がこれ
だった)、当の久坂はこの結婚に乗り気で
なかったという。ただ、一方で実際に結婚して
みると「夫婦仲は円満だった」そうで、このへん
かろうじてドラマと史実が合っている可能性は
あるだろう。文に限らず、幕末、国事にかまける
男どもの影に、耐えて尽くす女の姿あり。耐えて
尽くすことが少ない方が良いに決まっていると
思いはするが、個人的にシンパシーを感じるのは
やはりそういう女性の姿である。


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引き続き「若さ」を思う

2015-03-08 22:40:42 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびの話題は、吉田
稔麿の江戸行きが決まるといった話。時代は
松陰が塾を改築した時点で1857年のまま、文は
15歳である。罪を得て萩に閉じこめられ、それでも
なお天下国家を論じ、憂うつもりの松陰にとって、
世の中の情勢を知ることは切実な課題であった。
そんな松陰の塾舎には、「諸方を遊歴中の塾生や、
松陰が培ってきた人的ネットワークからの情報を
集めた『飛耳長目』と題する新聞・雑誌風の冊子が
置いてあった」という(別冊歴史読本 『【幕末維新】
動乱の長州と人物群像』による)。同書に明確な
記述は見つからなかったが、想像するに、稔麿の
江戸行きも、稔麿が松陰の意向をくんでのことでも
あったのではないかと感じられる。それにしても、
表向きの理由がどうあれ、稔麿も江戸へ行っていた
ことなど、私の手元の本にはそうした記述はなかなか
見つからない。というより、実はそれ以前に、私は
彼のことなどあまりよく知らない(松下村塾では
「四天王」の一人であったそうだが)。やはり、
いくら能力があったとしても早死してしまっては
名は残しにくい。(おそらく明治時代になって)
品川弥二郎は「稔麿が生きていたら総理大臣に
なっただろう」と語ったそうだが、やはりそれも
命あっての物種で、私には空しい言葉に感じられる。
さすがに、彼も不本意な死に方をしたであろうこと
ぐらいは想像がつくけれど。

思えば、このたびに似た内容のシーンが、2010年の
大河ドラマ「龍馬伝」にもあったかと思う。
若き龍馬が「江戸に行って見聞を広めたい」などと、
今回の稔麿と似たような事を言って、父上に許可を
取り付けようとした場面である。だが、あのドラマの
龍馬の父は、「そんな曖昧な理由で許可は出せん」と
言い、剣術を学ぶことを条件につけて許可を出した。
もし私がドラマの稔麿の江戸行きに敢えて反対する
なら、むしろ「龍馬伝」の父上と同じ理由で反対する
可能性はある。もし稔麿に、例えば「江戸藩邸での
務め」という表向きの理由まで用意されているので
あれば、もはや私に反対する理由などない。おそらく
そういう権利もない。これに対し、ドラマの松陰は
「志もないくせに江戸に行っても無意味だ」という
理由で反対したが、保護者や藩の重役でもないくせに、
果たして彼にそんなことを言う権利はあるのだろうか。
それに、何より、志を持つにもそれなりに情報が要る。
当の松陰自身も、情報を何らかのかたちでつかんだ
からこそ「日本の行く末を良いものにしていかなけ
ればならない」という志を持つに至ったはずである。
このたびの稔麿にしても、とりあえず江戸に行く
ことで何らかの情報を得、これを根拠として志が
見つかることもあるかもしれない。実際、ドラマで
松陰に反対された後の稔麿も、とりあえず江戸の
ことを知ってそうな人たちから話を聞いて初めて、
「志」を持つことができたではないか。
たしかに、江戸行きには大きな不確実性も存在する。
得るものが結局何も無いまま萩へ帰る羽目になる
かもしれない。あるいは、収穫も無いまま帰って
きたことや、江戸行きそれ自体のために、誰かが
損をすることになるかもしれない。それでも、その
不確実性にかけてみなければ、志を持つキッカケ
さえつかめないのではないかと思うのである。


ちなみに、ドラマのなかで松陰が門下生にむかって
訴えた「狂いたまえ!」とは、「熱く生きよ」という
意味だそうである([NHK大河ドラマ]『花燃ゆ』完全
ガイドブックによる)。前回の感想とダブってくるが、
情熱だけで動けるのも「若さ」のなせる業か。
――しかし、情熱だけで動けば、ともすると人さまの
都合など全く無視してしまうということになりやすい。
無駄に年をとりすぎたか、少なくとも私の心はもう
若くなくなってしまった。若者には、若さゆえの
短所もある。年をとることもあながち悪いことでは
ないと思える時も多くなってきたのだが――
今さらマイブームになっている「みんなのうた」の
一曲、「グラスホッパー物語」をたびたび聴いて、
まだまだ複雑な思いに駆られる今日この頃である。


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長州の「永遠の夢追い人」

2015-03-01 22:18:25 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびの話題は、高杉
晋作が松下村塾の門下生になるといった話。
時代は1857年、文は15歳である。若くして天涯
孤独になってしまったがために生きる意味を探して
それに固執していた久坂に対し、恵まれていたにも
関わらず生きる意味を見いだせずにいたという
ドラマの高杉晋作。よく、現代でも、良いうちの
お坊ちゃま・お嬢さまがある日突然芸能界などに
目覚めてそっちの道に走ってしまうような話を
バラエティー番組で耳にするが、高杉の場合も
これと同じパターンだったということだろうか。
まあ、それでも彼のように華々しい功績を残せれば
いいが、実際のところそんな人間はごく一握り。
人生で大きな挫折を経験し、また郷土史も少し学んで
当時の地元の空気感も何となくつかんだつもりの
今の私には、高杉をうらやむことはできても
ファンにはなれなくなってしまった。

しかしながらそんな私も、高校時代は高杉の伝記を
わざわざ買うほど高杉晋作に興味を持った。
また、当時の私には高杉を好む友人もいたものだ。
考えてもみると、彼は公私共に派手な生涯をおくった
うえ、しかも(坂本龍馬よりは暴力的かもしれないが)
龍馬と同様、夢追い人のまま死んだ「永遠の夢追い
人」ともいえる。高杉晋作のように、夢を追って
楽しい人生をおくってみたい――義務教育は終わり、
自分の将来について全く考えないわけではなかったが
切実さの度合いはまだまだ低かった多感な高校時代、
そうした願望が、私や友人の心の根底にあったのかも
しれない。しかし、それも今は昔になってしまった。

ともかく、このたびドラマで描かれたのは、そんな
高杉晋作の「夢追い」の始まりだったといえる。
ドラマの高杉には、先祖代々の家業に夢が無いように
思えたのだろうが、実際に継いでみれば必ずしも
面白味が無いでもないかもしれない。あるいは、
最初はつまらないだけに思えても、耐えて続けていく
うちに、やがてそれが天職のように思えてくるかも
しれない。まして高杉家は周布家と同じぐらいの
家格だから、政之助と同じくらいスケールの大きい
仕事だって可能かもしれないのだ。ドラマの晋作は
まだ19歳、少なくとも私ならこのことにまだまだ
気づかない年齢である。ドラマの晋作も、家を継ぐ
ことを、妥協して保護者の言いなりになることだと
決めつけているようだが、それも、気持ち次第では
決してそんな事にはならない。むしろ、ドラマの
松陰の言う「志」の見つけ方の一つともなりうるのだ。
むろん、吉田松陰に傾倒することだって、たしかに
「志」の見つけ方の一つには違いない。が、それでも
(おそらく生まれながらの身分ゆえに重んじられて)
政界で大活躍できたからよかったけれど、例えば
明治時代の無名の奇兵隊士たちのように目上の者に
使い捨てにされて終わるだけになったならば、
「こんなことなら、国事に身を投じたりなんか
しないでフツーに家業をついでいた方がよかった
かも・・・」なんて後悔しかねないだろう。

いずれにせよ、高杉晋作も若かったということか。
まあ、こういう人生があってもいいかなとは思う、
今日この頃である。人間の幸福は物質的価値によって
決まるものではなく、その人がどれだけ多くを
肯定できるかにかかっているということかもしれない。


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