黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

欧米の本音

2015-05-31 23:00:59 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびの話題は、
異国船から報復攻撃を受け、萩にも防衛のために
台場を築く必要に迫られ、その建設に女たちも
参加しました――という話。時代は高杉が奇兵隊を
結成したのが1863年6月ごろ。文は21歳のままである。
攻撃された欧米からしてみれば、ただ近くを通り
がかっただけで何の迷惑もかけていないのに、突然
攻撃されたのだから、たまったものではない。
別冊歴史読本 『【幕末維新】 動乱の長州と人物
群像』によると、対外危機に対応するため、高杉が
せっかく奇兵隊を結成したにも関わらず、結成後
「外国艦の来襲はいったん途絶えた」というが、
そりゃあ当たり前だろう。当時の一般の欧米人なら
きっと「やはり日本は野蛮な国なのだ」とあきれ
かえるところであろうが、少なくとも同時代の
イギリスの新聞『イラストレイテッド・ロンドン
ニュース』は、これについて「長門の大名は自分
自身の責任で、ちょっとした戦闘行為にふけりつつ
ある」と報道している。つまり、同記事はこのたびの
攘夷実行を長州藩の独断とみなし、必ずしも全ての
藩が同じことをしてくるとは考えていなかったようだ
(2014年9月号の歴史読本による)。

だがそうだとしても、もし本当に当時の欧米が
日本を植民地にしようと狙っていたのであれば、
攘夷実行を絶好の口実としてもっと本格的な
戦闘を仕掛け、下関だけと言わず、たちまち京から
江戸から制圧して植民地化を進めてくるはずなのに、
実際はそれがなかった。ということは、実は当時の
欧米では、もはやそうした帝国主義的路線が影を
潜めつつあったのである(2013年3月号の歴史読本に
よる)。当時、幕府の対欧米貿易の七割はイギリスが
占めており、ゆえにイギリスの発言力が絶対になって
いて、列強の対日政策はイギリスの方針に依ることに
なっていた。そしてそのイギリスは、通商条約が
遵守され、貿易が順調に拡大さえすれば問題ないと
考えていた。そういうわけで、当時の日本は実は
現実的には植民地化の脅威に直面している訳では
なかったのである。ただイギリスは一方で、幕府が
国内の攘夷派に押されている影響で「生麦事件」
解決のための賠償金が思うように得られなかったり、
国際信義に反するような横浜鎖港までさせられそうに
なったりすると、脅しのために戦争をちらつかせたり
したので、日本の知識層は日本の植民地化を恐れたし、
実際そのリスクも皆無というわけにはいかなかったの
である。繰り返すが、当時の日本の植民地化の
リスクとは、実際のところその程度のものだったのだ。
ドラマでは、女たちが立場の違いを超えて国のために
働く姿が活き活きと描かれたが、あれで実際には
欧米の脅威の度合いが低かったからよかったような
もので、欧米が本当にその気になれば、一たまりも
なかったに違いない。理屈はどうあれ、攘夷実行とは
本当に無茶な真似をしたものだ。


「効果があるかどうかはともかく、やるしかない」
――たしかにそれは一理ある。私も当事者なら、
ドラマの椋梨美鶴と同様、文句ばっかり言ってても
しょうがないと考えるだろう(自分だけ何もしないで
いると体面の問題にもかかわるし)。だが、こうした
切迫した状況で陥りがちなのが、やることそのものに
酔ってしまうことである。こうした状況ではうつべき
対策の選択肢が少ないように感じられてしまうから
そうなってしまうのかもしれない。だが、例えば
当時の長州にしても、横浜には伊藤博文らの留学を
支援してくれたマセソン商会があり、オールコック
英国公使も実は貿易のためとあらば助けてくれなくも
ないかもしれない。再びの戦争などは、例えば彼らを
介した交渉が決裂した後でも出来ることなのである。
当時の長州藩士のなかに、来襲に備えることばかりが
能でないことに気づいてる人物が本当にいなかったのか
どうかは分からないが、少なくともドラマのなかで
スポットが当たっている高杉も久坂も、どうやら
このことには気づけていないようである。特に支持を
失った久坂は意固地になり、手段そのものが目的と
化してしまっているかのようであるが、このたびは
さすがにそんな彼を笑うことはできないし、それは
私だけではないようにも思われるのである。


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攘夷を藩論にできた背景

2015-05-24 22:42:21 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびの話題は、
久坂たちがついに攘夷を決行するという話。
時代は1863年5月、文は21歳のままである。
久坂たち攘夷派は、前回、高杉の外国人襲撃案を
「無謀の挙」と断じた同じ口で、このたび異国船
襲撃を叫び、そしてやってのけた。いったい、
日本にいる外国人を襲うのと、たまたま日本近海を
通りかかった外国船を襲うのと、何が違うというのか。
よくも暴論に基づいてバカなマネをしたものだと思うが、
このたびはどうしてそんなバカバカしいことがまかり
通る状況となったのか、その時代背景に注目したい。
同時代の志士の一部でさえ支持しなかった攘夷論では
あるが、それでも一応、長州藩首脳部も御前会議で
認めて藩論になったものには違いないからである。
それにしても、久坂たちのイデオロギーが愚かで
あればあるほど、ドラマのなかでは文の健気さと
長州の殿さまの度量の大きさが輝きを増す。それは
まるで、理想論者だった後醍醐天皇と、愚痴ひとつ
言わずその尻拭いにまわる楠木正成のようでもある。
攘夷論者を見守る女たちも殿さまも、本当は命が
縮まる思いだったに違いないが、それもまだまだ
序の口なのだろう。

以前に私がこちらの記事でまとめたように、
久坂たちの言う「攘夷」があくまで開国実現の過程の
一つにすぎないとしても、やはり攘夷は無謀なのだ
という認識も同時代から存在していた。攘夷論は
去る1862年7月に藩論になるが、実際その時の御前
会議でも、攘夷を無謀とする反論も出ている。
では、攘夷論者はこのとき、どうやってその反論を
退けたのか。それは、アメリカ独立戦争の成功例を
持ち出して「自分たちもワシントンたちのように
状況を切り開くしかないのだ」と主張したのである
(別冊歴史読本 『【幕末維新】 動乱の長州と人物
群像』による)。吉田稔麿は、池田屋騒動で命を
おとす直前、妻木田宮という幕府内の改革派への
書簡で語っている:「アメリカ独立戦争でワシン
トンが決起したときも、もとより武器はいたって
乏しかったが、ただ義を以て大衆を励まし、ついに
大功を成就した。そして数十年後には、ついに
日本をも脅かすような強国となった。」――
だが、たとえこうした成功例があったとしても、
やはり乏しい武備よりは、より進んでいて頼もしい
装備があるに越したことはないし、あるいは
戦争とはまた違う方法で「幕府の目を覚まさせる」
方法があればなお安全である。それでも、けっきょく
攘夷論が藩論になったのは、思うに、このとき
桂小五郎らに「ここで攘夷を藩論にできれば、
攘夷論をもって幕府を危地に追い込むこともできる」
という計算が働いたからだろう(ウィキペディアの
久坂の項を参照)。やはり彼らは、無謀な戦いを外国に
仕掛けてまで幕府を困らせたかったという事だろう。
当時の長州の志士たちのなかにも、実は幕府との
融和を模索する動きも無い訳ではなくて、先述の
吉田稔麿と妻木田宮もそうした志を共有していた
仲である。しかし、これが実を結んでいないことは
その後の歴史により明らかであるばかりか、
その活動自体、今日でもほとんど知られていない。
問題の多い幕府ではあったとしても、その全てを退け、
否定するしかないくらい、幕府は価値のないものでも
あるまい。志士たちも晴れて天下を取った後になって
そのことに気がついたはずなのだが、残念な話だ。
いずれにせよ、桂小五郎は桂小五郎で、久坂の攘夷
論を無謀と思いつつも、政治的に利用する価値は
あるとふんで認めたことになる。

それから、ドラマのなかで文の父・百合之助が
説明したように、当時は幕府に対する民衆の不満が
あって、それが長州の攘夷論者の追い風になって
いただろうことも想像に難くない。百合之助よりも
もう少し具体的に述べれば、幕府がアメリカなど
五か国と通商を始めたため、まず生糸の輸出によって
国内で生糸が品不足になり、絹織物産地が打撃を
受けた。また安くて良質な綿織物・毛織物が輸入
されるようになって、国内では綿織物に携わる
人々が仕事を奪われた。またさらに、国際通貨体制へ
対応するため貨幣価値が切り下げられ、急激な
物価高が起こり、猛烈が経済破壊が進んだという事
である(別冊歴史読本 『【幕末維新】 動乱の長州と
人物群像』による)。だが、それほど貿易に苦しめ
られても、一応幕府が存続している以上、幕府への
明確な政策批判は許されない。そこで民衆は(たぶん
特に西国の方で)、外国への対抗姿勢を示す長州を
贔屓し始めたのである。


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早くも「倒幕」

2015-05-17 22:46:50 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびの話題は、
藩論が「破約攘夷」となり、その意思を日本全国に
知らしめるために英国公使館を焼き討ちにする――
といった話。時代は、焼き討ちした時点で1863年1月。
文21歳である。ドラマでは、長井は久坂が『廻瀾
條議』を建白した後で失脚していたが、実際は建白
前に失脚していたことは先週述べたとおりである。
ドラマによると、このころ吉田松陰の思想がだいぶ
みんなに広まるようになり、罪も正式に許された
そうであるが、もし本当にそうであるとするなら、
さしずめ久坂らの論が藩に認められた影響であろう。
それにしても、このたびの久坂は高杉の外国人襲撃に
対して、「そのような無謀の挙をなすよりも、同志
団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行する
べきだ」と主張しており、また史実の久坂も実際に
そう主張したらしいのだが、外国人襲撃を「無謀」
というのなら、前回久坂が画策した長井襲撃だって
「無謀の挙」というべきシロモノではなかったか??
交渉ではなかなか長井を退けられないものだから
じれて襲撃なんて思いついたのかもしれないが、
あれでは言っていることが支離滅裂ではないか。
また、支離滅裂であることは実は伊藤も同じである。
まず、(ドラマではなく史実の)伊藤博文は当時、
久坂と共に尊攘運動に加わっているにも関わらず
一方で1861年1月にはイギリス留学を志願していて、
にもかかわらず、このたびは英国公使館を焼き討ち
していたのである。焼き討ち計画がたった経緯について
ドラマでは、伊藤が「外国人襲撃が剣呑であると
いうなら、人を襲うのではなく、建造物を焼くことに
してみてはどうか」と仲介案をだしたのが採用された
ことになっているのだが、これは史実とは少々違う。
ウィキペディアの英国公使館焼き討ち事件の項に
よると、本当は横浜襲撃を計画していたのを長州藩主
毛利定広に止めろと言われ、そこで公使館焼き討ちに
計画を変更したのである。伊藤も、本当は反対され
なければ横浜襲撃するつもりだったのだ。きっと長井に
言わせれば、人を襲うとか建物を焼くとかいう以前に、
破約攘夷そのものが「無謀の挙」というべきものだった
だろうし、また私に言わせれば、日本の国際信義を
損なわせるやり方でもある。
だいたい、久坂たちが師としている吉田松陰だって、
密航してまで富国強兵のためにアメリカで学ぶことを
志したはずではないか。そんな松陰の弟子たちが、
どうしてこの期に及んで破約攘夷をさけぶのか。
そこで、ウィキペディアの久坂の項を見てみれば、
「桂小五郎らは、攘夷をもって幕府を危地に追い込む
考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、長井
失脚に成功。」とあるし、久坂も『廻瀾條議』等の
なかで「『攘夷』という主張は、政権を幕府から
朝廷へ回復させる倒幕という目的からも有効であると」
主張している。――結局、久坂どもは幕府を倒して
天下を取りたいわけで、同じく身分の高くない三条
実美も、幕府や五摂家の身分にかなわない、ゆえに
政治に関われないという鬱屈した思いから、久坂の
主張にとびついた可能性がある。実にあさましいが、
まぁ政治とはそういうものであるのかもしれない。
ただ、そうだとしても、なにやら寂しいものだ。
高杉晋作はこのたび無事に上海から帰ってきたが、
そうして見聞を広めることができたのも実は幕府の
おかげであるのに(なぜなら彼は「幕府使節随行員
として」幕府の勘定方と共に行った訳だから)、
そういうことはなかなか語られないし、むろん
ドラマの晋作からも、感謝とか敬意の言葉ひとつ
無いどころか倒幕さえも考えている始末である。
なんというか、その後の彼ら長州の志士たちが、
幕府に対して(全くではないが)ほとんど奪うこと
ばかりを優先させ、奪った暁の、奪われた側に
対する配慮のようなものが後回しになっている
(奪う前に事前に想定して先に配慮することなく)
ように思えるから、こんなふうに「寂しい」と
感じるのだろうか。


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支える女たち

2015-05-10 22:56:46 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびの話題は、
久坂たちの政敵である長井の暗殺を京で試みるが
失敗するといった話。時代は、久坂が藩主に建白書
『廻瀾條議』を提出した時点で1862年8月。文は
20歳のままである。なお、今回からスポットの当たった
女性・雅は当時18歳。文は、ドラマのなかで失礼な
言動を見せる雅のことを「若い娘の言う事ですから」と
言って受け流すようにしていたが、そんな文は
実は雅とは二歳しか年齢が違わなかった事になる。
なお、史実の雅について比較的確からしい点は、
美人であったこと、また後の高杉の愛人・おうのと
違って「しっかりもの」だったと言われている点で
ある(別冊宝島『吉田松陰と松下村塾』による)。
それと、たびたび参照させてもらっているこちらの
外部サイトを読むと、彼女の実家が高杉家よりも
高禄であったこと、実際は晋作は新婚初夜の翌日に
して上海に行ってしまったことなども分かる。

一方、男性でこのたびスポットが当たったのが魚屋の
志士・松浦亀太郎。ドラマでは長井雅楽の暗殺に失敗、
自刃することになったが、彼を演じた内野謙太さんは
そんな役について「話の途中でフェイドアウト」せずに
ちゃんと死んで終われる役なので嬉しいとコメントして
いる(『花燃ゆ』完全ガイドブックによる)。ただ、
史実の亀太郎の最期が、ドラマと微妙に異なっている
ように感じられる。ウィキペディアの彼の項では
「長井雅楽暗殺計画を計画したが、翻意を促されて
断念し、京都粟田山にて切腹した。」としているのだ。
今や埼玉の偉人となっている渋沢栄一も、少し運が
悪ければ同様に命を終えているところだっただろうが、
そうならなかったのは、やはり比較的大江戸に近い
という地域性が影響したのだろうか。なお、その後の
渋沢は一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に
仕え、それを機に尊攘活動は止めることになったが、
むしろそこで彼の運は開けていくことになる。

閑話休題。時系列で追っていくと、亀太郎の自刃が
1862年4月で、そのあと6月に長井が免職処分を受け、
その二か月後に久坂が『廻瀾條議』を提出している。
ということは、実はドラマの終盤の時点で既に長井が
失脚していたことになるので、久坂の『廻瀾條議』に
よって長井が失脚に追いこまれたとは考えにくい。
では、長井は時代の寵児であったはずなのになぜ
失脚に負いこまれたのだろうか。これについては、
ウィキペディアの長井の項で多少、知ることができる。
これによると、まず「坂下門外の変」により長州でも
攘夷派が勢いを盛り返すという時勢が背景にあって、
その上さらに久坂や岩倉具視による朝廷工作が功を
奏して、長井が3月に入京しても「長井の説は朝廷を
誹謗するものとして聞き入れられず、敬親により帰国
謹慎を命じられた」のだそうである。血気にはやる
連中はこの時もやはりテロルによって手っ取り早く
物事を思い通りにさせようとしたのだろうが、そんな
方法は単純で自らの命に対するリスクも高く、効果が
全く無いとは言えなくても、やはり賢いやり方とは
言えない。それに、このたびドラマの亀太郎が
はやまった時点で実は政敵の長井も失脚の一歩手前に
立たされていた。厳しいようだが、当時の久坂たちに
もう少しの辛抱があれば、亀太郎までが自刃せずとも
長井の政治的敗北を見ることができたのである。
いずれにせよ、「長井の航海遠略策は幕府主導の
変革路線としては最も優秀な策の一つと」いえ、
個人的にはその路線が結果的に松陰の弟子たちに
よって消されてしまったことが残念でならない。

しかしながら、文たちを見ているとこうも思う。
もし自分の惚れた男がたまたまこういうバカだったら
自分はどうするだろうか、と。「暗殺なんかよりも
もっとうまい方法があるんじゃないの?」と一度は
意見するかもしれないが、それでも聞き入れてもらえ
なければ、貧しさや寂しさにも耐えて支えていくの
だろうか――。と、このように想像してみることも、
このドラマをみる価値の一つかもしれない。


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短気は損気

2015-05-03 23:28:27 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびの話題は、
松陰先生を失った者たちのそれぞれの旅立ち――
といったところか。あわれにも文は松陰の死を引き
ずっていたが、そこへなぜか突如として坂本龍馬が
表れ、彼女を励ますといった内容。新・歴史群像
シリーズ20『坂本龍馬と海援隊』(学研 2009)に
よると、龍馬が武市半平太の書簡を手に久坂を訪ねた
のが1862年1月。ドラマの冒頭では早くも井伊直弼が
やられていたが、それからもう2年もたったことに
なっている。だが、ドラマは2年後の出来事を無理に
前倒しして描いたわけでもないようで、長井雅楽が
「航海遠略策」を藩論にさせた時点で既に1861年に
なっていたことも分かる。なお、久坂を訪れた時の
龍馬の年齢は28歳、しかしドラマでは随分老けてる
ように見える。文は20歳であった。

ウィキペディアの長井の項によると、長井の「航海
遠略策」と、久坂らの尊王攘夷論とは、実は「海軍
強化による外交力の推進及び通商交渉の強化、
これらを順を追った開国路線という点では一致して
いる」のだが、その半面、幕府と朝廷のパワー
バランスをいかにすべきかという点において主張が
異なっている。別冊歴史読本 『【幕末維新】 動乱の
長州と人物群像』によると、長井の「航海遠略策」が
開国という既成事実を朝廷に強制的に呑みこませる
ような、従来同様、幕府が朝廷の意向を軽視して政治
運営していく感じの内容であるのに対し、尊攘論では
幕府はもはや朝廷の攘夷主義を忠実に執行するのみの
存在でなくてはならないからである。
ドラマでは、接待を受けていい気分になっている
長井のところに久坂がズカズカ押しかけ、松陰先生を
救ってくれなかった恨みまでぶちまけているシーンが
あったが、長井がそのように恨まれて、のちに命まで
久坂らに狙われるようになったことも本当らしい。
が、知らないとは恐ろしいもので、ウィキペディアの
長井の項にあるように、本当は長井も自分の出来る
範囲で江戸に護送される松陰に気を遣っていた事が
分かる。このことは後で松陰門下生の一部にも知ら
れるようにはなるようだが、長井の最期もまた、
誤解に泣きながらのものであったようだ。
だが、長井が「航海遠略策」を引っ提げて手掛けた
国事周旋活動は、その後の雄藩にとっての先駆けと
なる。長州藩はそういう意味で進んでいた。

なお、朝廷の攘夷論を推進する尊攘派がなぜ「開国
路線」と言えるのかというと、別冊歴史読本
『【幕末維新】 動乱の長州と人物群像』によれば、
尊攘論が「260年もの泰平によって、支配階級は腐り
きってしまった。人心を一新するには、日本を
死地の土壇場に追い込んで目を覚まさせる必要がある。
そういう決戦態勢を固めるために攘夷が必要だ。
だから、一回や二回負けたって、そのなかで不屈に
立ち上がり武備充実を図っていく。そして、やがては
航海遠略の道を歩み、積極的に海外に進出していく」
――といった前提を持ったものだからである。
以前、大河ドラマ「翔ぶが如く」で「明治六年の
政変」が描かれた際、西郷吉之助が「日本が戦争に
なっても、人が死に絶える訳ではなか。人が死んで
死んで、生き残った者たちがまた新しか国ば作れば
よかー!!」と怒鳴り出したのに対して、大久保が
負けじと「そいは暴論ごわす!!!」と激しく応酬
するシーンがあったが、やっぱり久坂らの尊攘論も
同じような暴論に思える。少なくとも、そう安易に
戦争に頼るようなやり方は、御世辞にもレベルの高い
政治手法とは思えない。それに欧米列強は、一度二度
負かした相手に再起を許すほど甘い相手では
ないかもしれないのである。現代人なら何とでも
言えるのかもしれないが、果たして尊攘派は
そこまで最悪の事態を想定した上でイデオロギーを
主張していたのだろうか??


前回吉田松陰が亡くなり、少しは文の周りが大人しく
なるかと思いきや、このたび早くも久坂の問題児ぶりが
発揮された。上役との板挟みになっている小田村
伊之助としては相変わらず胃の痛い思いが続くのかも
しれないが、エンターテイメントを享受するこちらと
しては、ああした久坂や高杉のような問題児がいて
こそ、観ていて楽しいのである。それに、どうしても
幕府びいきになってしまう私としては、楽しむくらいの
気持ちでなければ、観てられない気がするのである。


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