黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

遊びをせんとや生まれけむ

2012-01-29 23:51:30 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたびは、
「内昇殿」を許された平忠盛が、これを妬む
公卿によって命を狙われるという話であった。
時代は1132年、清盛15歳、源義朝は10歳である。

この「殿上闇討」というエピソードであるが、
ドラマでは黒幕が摂関家の藤原忠実で
実行犯は源為義、襲われた平忠盛は平家貞が
用意した銀箔付きの木刀とハッタリで
難を逃れるという話になっていた(暗殺計画が
あるという噂を事前に掴んでいた訳ではない)。
だが、私の限られた情報源で調べた限り
実際のところ闇討ちの真犯人は分からない。
またこのエピソードは『平家物語』に見られる
ものであるが、同古典によると忠盛は
自分の命が狙われているという噂を事前に
つかんだ上で、真剣に似せた銀箔の木刀を
公卿たちに見せつけることによって彼らを
脅したり、また平家貞が明らかに武装した姿で
控えることによって、暗殺を未然に防いだのだ
そうである。おそらく『平家物語』の
忠盛たちは「アイツらを怒らせたら何されるか
分からない」という恐怖を周囲に与えることで
暗殺を未然に防いだということだろう。
このドラマの時代考証をしておられる一人・
本郷和人さんが別冊歴史読本『源氏対平氏』の
なかで述べていた「武力」の本質とは
おそらくこの「恐怖」を示すのだと思う。

ところで、この平家一門は清盛の時代になって
忠盛時代以上の栄華を極めることになるが、
「平家にあらずんば人にあらず」ということを
言ったのは清盛の未来の義兄弟・平時忠と
されている。清盛ではないということであるが、
なるほど清盛が公卿の嫉妬にさらされる父親の
姿を見て育ったということであれば、
公卿に気を配りながら出世街道を歩みこそすれ、
「平家にあらずんば人にあらず」と言うとは
考えにくいものである。

一方、ドラマでの「殿上闇討」の黒幕である
藤原忠実であるが、彼はたしか「私の摂関家は
昔から源氏との繋がりが強かった」という
ふうに言っていたかと思う。
「昔」とは一体いつからなのか、私はこの点が
気になったので別冊歴史読本『源氏 武門の
覇者』をちょっと読んでみたところ、それは
どうやら10世紀半ばの源満仲(彼の息子・頼信が
源為義の属する「河内源氏」の祖とされる」)の
時代までさかのぼるようである。
その時代、藤原北家は「安和の変」を起こして
他氏排斥を完了させ、摂関政治を確立させるの
であるが、源満仲はこの北家に密告者として
加担し、北家の厚い信頼を勝ち取って、以来
満仲の息子たちも北家との繋がりを強めていった
――ということらしい。
今ドラマに登場している源為義も権門摂関家の
武力たることを存立基盤とし、その家領支配に
食いこむことによって(前回のココでの説明の
ように)子息たちを各地に送りこむことが
できたということである。

それと、彼は初登場かどうか記憶は定かで
ないが、藤原忠実の長男・忠通には、かつて
藤原璋子との縁談が持ち上がっていたのだが、
「璋子の素行に噂があったため」、
忠実がこの縁談を固辞したのだという。
ドラマの璋子はなかなか多情なようだが、
鳥羽院に嫁ぐ前から札付きだったのだろうか。


ちょっと前のテレビ雑誌で確認してみたが、
「遊びをせんとや生まれけむ」とは
「つまらない世を面白く生きたい」という
意味らしい。だが、実際そう生きるためには
例えば「殿上闇討」のようなアクシデントに
見舞われても楽しいゲームだと思えるように
ならねばならない。私はそのような人間には
なれてないし、確信は持てないが、
ドラマの忠盛はおそらく(朝廷の犬では
終わらないという)「心の軸」とやらを持った
おかげで、そのような人間になれた――
ということなのかもしれない。


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源氏を立て直すために

2012-01-22 23:58:18 | 歴史系
大河ドラマ「平清盛」。このたびは、清盛の弟が
元服して家盛を名乗り、清盛が紆余曲折のうえに
「北面の武士」になるという話であった。
時代は1132年のことらしいので、平清盛は15歳、
源義朝は10歳ということになる。
なお、このたびドラマで「清盛を北面の武士に
してはどうか」と鳥羽院に言っていた藤原家成
という貴族は、清盛の継母・宗子の従兄弟に
あたる人物であることが判明した。
そんなことだろう、とは思っていた。


義朝の父・為義は、八幡太郎義家の孫に当たる。
彼ら河内源氏は義家の子息の内紛によって
その武威が斜陽化したので、為義は源氏の勢力を
立て直す必要に迫られていた。
別冊歴史読本『源氏 武門の覇者』(新人物
往来社 2007)によると、そんな為義は
列島各地の流通点を掌握して各地の武士団を
組織化するという構想を持ち、その構想に
基づいて自分の子息たちを地方の豪族たちに
預けていた。今ドラマで清盛と京にいる義朝も、
少年時代は坂東の上総氏の庇護を受けて
成長したのだという。
坂東はもともと平氏系の地盤で、源氏の支配域は
常陸・上野・下野・甲斐の周辺諸地域に
点在していたにすぎなかったそうであるが、
為義は例えば義朝を上総氏のもとに行かせる事で
源氏の南関東進出の足がかりをつくったり、
のちに義朝と不仲になると義朝の弟・義賢を
北関東に行かせて北関東への勢力進出も図った。
でも史実の義朝が一体いつから坂東に住むように
なったのか、そこまでは私には分かりかねる。
そして史実の義朝のことでさえ
分からないのだから、ドラマの義朝については
なおさら分かりかねるところだ。

なお、『国際理解シリーズ③ 日本の地域と
生活文化』(著:別技篤彦 帝国書院 平成3年)
によると、「坂東」とは碓氷峠と足柄峠の東を
意味した。前者は今の群馬県と長野県の境の
峠であり、後者は神奈川県と静岡県の境にある
峠のことである。一方、『源氏 武門の覇者』に
よると「関東」は古くは三関(越前の愛発関・
美濃の不破関・伊勢の鈴鹿関)以東をさしたと
いうから、むしろ「坂東」の方が現代の
「関東」の概念に近いということかもしれない。

ところで、このたび少し登場した佐藤義清という
武将であるが、彼は後にわずか23歳で出家し、
西行を名乗っている。ウィキペディアの彼の
項によると、出家の動機については友人の急死に
あって無常を感じたという説が主流だが
失恋説もあって、失恋した相手と目される
候補の一人に璋子が挙げられている。
ドラマのほうでも、そのような話の展開に
なるのであろうか。このたび彼を演じるのは
藤木直人という俳優さんのようだが、
先日再放送が終わったばかりの1998年の大河
ドラマ「徳川慶喜」で藤木さんが演じた武士・
村田新三郎の記憶がよみがえってくる。
そもそも私は大河ドラマ以外のドラマは
ほとんど見ないし、村田新三郎という武士も
好きになった女性のために何もかも捨てるという
人生をおくったのだから――


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武州松山城

2012-01-18 23:51:51 | 歴史系(ローカル)
先週、埼玉県比企郡吉見町にある武州松山城に
行った。この城は15世紀中ごろから後半に、
古河公方、扇谷上杉氏、それに山内上杉氏との
軍事的緊張関係のなかで築城された平山城である
(「博物館周辺文化財の複合的活用事業実行
委員会」が編集・発行した資料による)。
この城は、最後の城主・松平忠頼が1601年に
浜松へ移封されると廃城になった。
まずは、私がたどったルートと各地点での
曲輪や堀の様子を紹介したい。





こちらは根古屋虎口。「虎口」と言われても
それとは分かりにくくなっている。



こちらは本曲輪の様子。かつてはお社でも
建っていたのか、正面には基礎部分が残り、
右側には手を洗い清める場所もある。



本曲輪と二ノ曲輪の間の空堀の様子。



二ノ曲輪の様子。ここにも何か建っていた
ようだが、基礎らしきものが残るのみ。



馬出と三ノ曲輪との間の通路から東向きに
撮影した空堀の様子。



三ノ曲輪と四ノ曲輪との間の通路から南向きに
撮影した空堀の様子。向こうに見えるのは
馬出と思われる。

――それにしても、一体どうして城跡には
お社が建てられている場合が多いのだろう。
『河越氏の研究 第二期 関東武士研究
叢書4』の「武蔵国河越館について」(著:
落合義明)には、古来「館が聖域と考えられ、
一族結集の精神的な拠り所となった」と
あるが、城跡にお社が建てられるのも
そうした発想に由来するものなのだろうか??


ともかく、武州松山城の歴史をごく簡単に
おっていきたい。『埼玉県の歴史散歩』
(山川出版社 2005)や、「吉見町埋蔵文化財
センター」で得た資料によると、
この城は、戦国時代前半では、上杉氏が
古河公方に対抗するための拠点であったり、
上杉氏の内訌の際の扇谷上杉氏側の拠点で
あったりしたそうだが、戦国時代後半になって
後北条氏が台頭してくると、この城の役割は
内訌を終わらせた両上杉氏が後北条氏と
対峙するための拠点の一つとなった。
1546年の「河越夜戦」で上杉方が惨敗すると
松山城も後北条氏の手中に入るのであるが、
その後も北条・反北条による松山城争奪戦が
数度展開される(時には越後上杉氏や甲斐の
武田氏もまきこみながら――)。
松山城の支配者もやはり頻繁に変わったが、
上田氏の支配下にあることが多かったらしい。
上田氏とは、もともと扇谷上杉氏の重臣で、
後に後北条氏の勢力下に加わった。
松山城は、この上田氏の支配域の東端に位置する
城でもあったという。

当ブログでは、以前こちらの記事で難波田城を
とりあげる際に難波田憲重(または善銀)という
武将のことを記したが、『続・埼玉の城址30選』
(埼玉新聞社平成21年)によるとこの難波田善銀は
扇谷上杉氏の重臣であって、なおかつ、
上田氏の重要な家臣でもあったという。
1537年に後北条氏が扇谷上杉朝定を破って
河越城を占拠し、敗走する朝定を追って
同氏が松山城を攻撃すると、当時松山城代だった
善銀も松山城外で戦った。しかしながら、
敵の北条方は多勢で善銀には勝ち目がない。
そこで善銀が城へ引き下がろうとしたおり、
敵方の山中主膳という武将が走り寄って
馬上よりこう問いかけた――

あしからじ よかれとてこそ 戦わめ
など難波田の 崩れゆくらん

(主君のために良かれと思い戦ったのではないか、
何故それなのに難波田弾正ほどの名のある者が
逃げるのか。) ※戸島鐵雄訳

この問いかけに、難波田弾正(善銀)は答えた:

君おきて あだし心を 我もたば
末の松山 波も超えなん

(幼い主君を置いて自分が死ねば、しまいには
松山は荒波の中に呑まれてしまうであろう、
そういうわけにいかんのだ。) ※同訳

――かくして、善銀は城へ引き下がっていった。
主君とは扇谷上杉朝定のことであるが、
『ハンドブック 川越の歴史』を参考に計算
してみると、この時点でまだ13歳だった
ことが分かる。

敵の北条方は、結局この時の戦いでは松山城を
落とすことができず、城下に火を放って
退散していった。しかしながらこの後の1546年、
上杉朝定や難波田善銀らは河越城を北条方から
奪還しようと「川越夜戦」にのぞむが惨敗、
2人とも討ち死にをとげた末に
松山城は北条方に落ちてしまう。
善銀の享年は不明であるが、
朝定のほうは22歳の若さであったという――


その後、後北条氏による関東支配がかたまって
くると、数度の争奪戦が繰り広げられた
松山城にもやがて安定の時代がやってきた。
この頃、後北条氏の勢力下に入っていた
上田朝直という武将が、領国経営を進めている。
だが、1590年になると豊臣秀吉による
関東攻略が始まり、松山城は前田利家を
総大将とする3万余の大軍に包囲された。
このとき松山城は上田朝直の子・憲定が城主で、
実際に同城に詰めて守っていたのは山田長安なる
武将や難波田善銀の外孫・憲次たちであったが、
松山城は攻め落とされ、彼らは降伏。
上田氏を支配した後北条氏も、秀吉に屈した。
その後、徳川家康が関東に入ると、松山城は
松平家広、その弟・忠頼へと主を変え、
冒頭で述べたように廃城をむかえるのである。


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祇園女御の重要性

2012-01-15 23:53:10 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたび描かれた時代は
清盛の元服から白河法皇崩御までであった。
今年に限らず、最近の大河ドラマはどうして
子役を使う期間がこうも短いのだろう。
ちょっと調べてみると、白河院が崩御した
1129年の時点で清盛はまだ12歳。このたび
早々に玉木宏さんが演じた源義朝にいたっては
元服前の7歳というから、驚くではないか。
(毎度のことではあるけれど――)
俳優さん達の姿かたちに惑わされぬよう、
今年も毎回、描かれた年代とその時の清盛の
年齢を確認せねばならぬというのか。


――とりあえずは、気を取り直して
祇園女御について少し確認したいと思う。
ドラマでは清盛の出生の秘密を知る彼女であるが、
史実の彼女は平氏にとって(今ドラマで描かれて
いる以上に)重要な女性であるらしい。
後でドラマでも指摘されるのかもしれないが、
彼女は晩年の白河院の寵妃であるばかりでなく、
鳥羽院の后・璋子の養母でもある。
そのため、当初白河院に仕えていた正盛・忠盛
父子は祇園女御にも仕えるようになったばかりで
なく、やがて祇園女御の養女・璋子にも
仕えるようになり、璋子が鳥羽天皇に入内して
女御になると正盛・忠盛父子はその家司になった。
そして璋子の産んだ男子2人が、後で崇徳天皇と
後白河天皇になった――。
忠盛の子・清盛にとって祇園女御は
(清盛の真の出自如何に関わらず)天皇家との
重要なパイプであり続けたことに変わりなく、
「自分に目をかけてくれる有り難い女性だ」
という位置づけだった可能性がある。
これはおそらく史実でなく推測であろうが、
このたびドラマで描かれたように
12歳の清盛が岩清水の臨時祭の舞人に選ばれた
のも、祇園女御の推薦だったのではないかという
(別冊歴史読本『源氏対平氏』によると)。

一方、清盛の叔父にあたる平忠正は、ドラマの
なかで「清盛は忠盛の実の子ではないから家督は
宗子の実子である家盛が継ぐべきだ」と
主張するシーンがあった。
清盛の出自についてはさておくとして、
家督相続については必ずしも初めから清盛で
確定していたわけではなかったらしい。
特に、あとで「祇園闘乱事件」なる騒動が
起こると、これを機に朝廷では清盛に代わって
家盛が重んじられるようになったので、
家盛が夭逝しなければ家督相続の行方は
どうなっていたか、分からなかったようである
(ウィキペディアの平家盛の項による)。


もし本当に清盛の生い立ちがドラマのとおりで
あるとするなら、忠盛に拾ってもらえなければ
清盛は平氏の御曹司になれないどころか、
食うや食わずの生活を強いられたりするか
生後間もなく餓死するばかりだったかもしれない。
つい先週まで再放送されていた徳川慶喜の
大河ドラマではないが、ドラマの清盛は幸せで
あるがために、おのれの幸せが見えないのだろう。
それは無理からぬことだと思うし、
本当に不真面目な子ならグレることすら
できないだろうとも思うので、
ドラマの清盛を批判する意図はないのであるが。


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一橋の女たちの幕末維新

2012-01-11 23:48:58 | 思索系
時代劇専門チャンネルでの1998年の大河ドラマ
「徳川慶喜」の再放送が終わった。
板倉勝静の苦悶の表情や、幕閣の怒号を浴びつつ
無表情で慶喜の元にむかう山内容堂・松平春嶽の
お姿には胸をキュンとさせられたものの、
地元・川越の藩主、松平周防守康英公は影が薄く
毎度お姿を見つけるのに苦労してしまい、
ウィキペディアの三河松井氏の項にあるような
蔦の御紋がかろうじてテレビ画面に映って
その人と判別できる程度であった
(なお、ドラマでは彼の名前は康英でなく康直に
なっている)。私個人の都合でこのたびなかなか
放送をみられなかったせいもあるだろうが、
あるいは康英公の特筆すべき仕事が日本国内では
なくヨーロッパでおこなわれたからなのかも
しれない。ドラマでは描かれなかったはずだが、
『続・埼玉の城址30選』(埼玉新聞社 
平成21年)によると、彼は1861年から翌年に
かけて、「文久遣欧使節」の副使として
外交交渉の任にあたっていた。
交渉の内容は、江戸・大坂・長崎・新潟の
開港5年延期と、樺太における日露の境界線
決定で、このとき彼らはロシアに対して
樺太の半分を日本領として認めさせた。
そもそも松平康英公はその見識と過去の実績を
幕閣に認められ、加えて当時のイギリス公使
オールコックの推薦もあったので、
使節の副使に選ばれたのだという。
1862年にヨーロッパで撮影されたという
彼の肖像写真がいまに伝わっているようだが、
改めてそれを見てみると実に誇らしげで
晴れやかな表情をしている(最初に見た時は
スケベそうなオッサンだと思っていたが)。
以前当ブログで「飯能戦争」をとりあげた際にも
同じ感想をチラッと記したが、
自ら海外へ渡った経歴を持つ彼だけに
戊辰戦争という内乱それ自体や
自身も局地戦に従事せざるをえなかった事を
どのように感じていたのか、気になるところだ。
なお、今とりあげなかった彼の他の仕事に
ついては、以前の当ブログ記事
上流階級者達の幕末維新」にある。

「日本全体の利益のためには(戊辰戦争のような)
内乱は避けるべきだ」と考えた武士たちの存在は
たびたび話に聞くが、
薩長を中心とする新政府は戦争を望んだ。
これはたしか加来耕三という人がBS-TBSの番組
「Theナンバー2」(の勝海舟の放送回)で
言っていたことだと記憶しているが、
薩長としては旧政府側を武力で倒すことで
新政府を重みあるものにしたかったので
戦争を望んだのではないかという。
(私の記憶に狂いがないという確信は持てないが)
そんな新政府の軍は当初江戸で戦争をしようと
考えていたが、結局それは土壇場になって
中止になり、その後、「飯能戦争」よりももっと
大規模な局地戦「会津戦争」が会津で起こった。
これに関連して、いつかどこかで
「会津は江戸の身代わりとして戦場になったのだ」
という見方を聞いた記憶もあるが、
これについてはすぐには賛同しかねる。
というのも、「江戸総攻撃が実施されれば会津は
戦場にならなかったはずだ」と言える根拠が、
今のところ私には見つけ出せないからである。
江戸と会津と両方が戦場になる可能性を排除でき
なければ、すぐには賛同しかねるということだ。

ちなみに、ドラマの最後のほうでは庶民による
「ええじゃないか」の行進も描かれているが、
『図説 日本の神々を知る神道』(著:武光誠
青春出版社 2005)によるとこの行進は
1867年7月に三河国・吉田で出現し、
北は京・信濃、東は江戸まで、南は室戸・和歌山
西は広島まで全国的に伝播したものである。
彼らの目的は伊勢神宮参拝で、特定の思想も
将来の日本のあり方への展望も持たず、
「神に国内の混乱を救ってもらおう」という
考えから始めたのだそうである。
それは社会変革を求める民衆のエネルギーが
爆発したものであり、(これも結果論だが)
薩長などによる討幕運動の後押しにもなった
ということだ。奇妙な格好をして
「ええじゃないか」と言いながら人さまの店内に
ズカズカとあがりこむ「ええじゃないか」の
描写には、心なしか、薩長に対する江戸っ子の
憎しみや軽蔑の念がこめられているかのようだ。


ところで、このたびは一橋家での慶喜の家族に
ついて少し学ぶことができたのでとりあげたい。
まず、慶喜と若干7つ違いの継母・直子に
ついてであるが、別冊歴史読本『将軍家・大名家
お姫さまの幕末維新』(新人物往来社 平成19年)
を読んでみるとこの直子は慶喜が謹慎した際や
京都に常駐した際に女当主として堂々と
差配していたばかりでなく、政治的にもなかなか
よく慶喜を助けたようだ。ドラマではそこまで
とりあげられなかったはずなので述べてみるが、
例えば慶喜が京都に常駐するようになると
彼女は江戸での万が一の事態に備えて留守居役と
避難計画を立案したり、将軍・家茂が死んで
徳川宗家が代替わりすると女当主として
これらに関連したしきたりを執り行い、
そのかたわら、彼女の「伏見宮」という血筋を
活かして、慶喜と朝廷との有力なパイプ役にも
なったという。そして幕府が崩壊すると、
彼女は和宮・天璋院と共に慶喜の助命嘆願と
徳川家存続に力を尽くした。

とりあげられなかったといえば、実は慶喜には
正室・美賀の他に側室が十人ほど存在した。
「よし」という、新門辰五郎の娘はわりとよく
登場していたのだが、全く登場しなかった
側室のうち、新村信と中根幸という江戸女は
明治時代以降も慶喜や正室・正室・美賀と共に
静岡で余生をすごしたらしい。
側室同士、いがみあうこともなく、仲良く――
中根幸という側室については、『将軍家・大名家
お姫さまの幕末維新』に「幕臣・中根芳三郎の
娘」とあるが、ドラマで慶喜の側近を務めた
中根長十郎とはどのような続柄だったのか
(それとも全く赤の他人なのか)、そこまでは
同書やウィキペディアで調べただけでは
つきとめられなかった。
同書によると、この2人の側室(信と幸)は
慶喜との間にそれぞれ12人ずつ子供を産んだが、
その子たちは全て正室・美賀の子とされ、
子供たちは本当の母を「信」「幸」と呼び捨てに
した。ウィキペディアの側室の項によると、
「正室の位置づけが『家族の一員』であるのに
対し側室の位置づけは『使用人』である」という。
一見薄情に思える措置だが、こうして子供たちの
母親の出自を少しでも高貴なものにしておけば、
何かと子供の将来や生活のためになるということ
なのかもしれない――私はこう、解釈している。

一方、新門辰五郎の娘である慶喜の妾(あるいは
側室)のお芳(=よし)のほうは、同書では
「慶喜を捨てた芳」というタイトルで紹介され、
お芳が慶喜のもとを去った理由は不明であると
しているが、ウィキペディアの彼女の項には
「慶喜は新村信と中根幸以外の側室に暇を
与えた」とあるので、お芳もむしろ慶喜から
暇を与えられた可能性があると思う。
これも私の勝手な想像にすぎないが、
お芳が慶喜から離れた時期(それは慶喜が
「鳥羽・伏見の戦い」に敗れて大坂から
江戸へ逃げ帰った時)を考慮するに、
慶喜は万が一、自分が死なねばならなくなっても
お芳にまで被害が及ばぬよう、お芳にあらかじめ
暇を与えたのではないかと思う。

また、先ほどから名前が出ている慶喜の正室・
美賀についてであるが、彼女は今出川家の出で
一条家の養女として慶喜に嫁いだ。
側室の新村信や中根幸などと比べるとたしかに
実家の格は美賀のほうが上であるが、
姑の直子のそれよりは劣る家格でもある。
そのうえ、『将軍家・大名家 お姫さまの幕末
維新』によると、直子は実家の格ばかりでなく
年齢と美貌にかけても美賀より上であった。
美賀としては、そもそも自分は他の姫君の
代役として慶喜の正室に選ばれ、自分の婚礼は
地震によって延び延びにされたうえ、
いざ嫁いでみれば直子という手強い女性が
既に慶喜と仲睦まじく暮らしていたのである。
美賀は自分の入り込む余地が初めから無いかの
ように感じられ、ドラマで描かれたよりもずっと
激しく嫉妬に苦しんだらしい。
美賀がヒステリーを起こして夫婦喧嘩のすえ
慶喜が家を飛び出すほどのことになったり
また美賀が狂言自殺を図ることもあって、
そうした彼女の風評が大名たちの間で
話題になることもあったという(おりしも慶喜が
将軍になれるかどうかの時期だったので)。
しかしながら、こうした美賀の直子に対する
反発は、慶喜が京都に滞在して側室を何人か
置くようになると薄らいでいき、
幕府崩壊後は慶喜の側室が産んだ子供たちを
我が子として養育しながら心安らかに余生を
送ったそうな――。


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栄華は一代にしてならず

2012-01-08 23:53:22 | 思索系
今年も、大河ドラマが始まった。題名どおり、
主人公は平清盛。そして、ナレーションが
どういうわけか宿敵の源頼朝である。
私の浅い見識では父・忠盛の方がふさわしい
ように思えるのだが――果たして、どんなふうに
話がすすんでいくやら。
それと、むかし同じく大河ドラマで主人公の
清盛を演じた仲代達矢さんのゲスト出演などは
果たして起こるのだろうか。


これは私の思い出話にすぎないが、あの「平清盛」
という題字を描いた金澤翔子という人には
おそらく実際に会ったことがある。
あれは一昨年だったか去年だったか、
鎌倉・建長寺でおこなわれていた個展に
寄ったとき、ちょうど彼女もその場に来ていて
彼女と握手をしたことがあった。
私より年下で二十歳か20代前半だったかと
思うが、力無い私の手を「シッカリしなさい」
とばかりに力強く握ったのが印象に残っている。

さて、清盛の実父と実母については
一体どこまで分かっているのだろう。
『図説 平清盛』(河出書房新社 2011)では、
白河院の身辺に仕えていた女房が実母である
というところまでは確実視されているらしいが、
それ以上のことはよく分からず、実父についても、
本当に白河院かどうかは分からないと述べている
ように読める。また別冊歴史読本『源氏対平氏』
(新人物往来社 2004)も、清盛の御落胤説は
後世の記事による情報であるから直ちに事実と
認めるわけにはいかないとしたうえで、
忠盛が祇園女御に仕えるうちにその妹の間に
清盛をもうけたのではないか――といった
推測をたてている。
ドラマでは祇園女御が清盛の実母のことを
「私の妹のようなもの」と言っていたので、
ドラマでは祇園女御と清盛の実母は実の姉妹では
ないという設定になっているようだ。

なお『図説 平清盛』では顕仁親王(崇徳院)の
実父が白河院であるという説についても、
事実とする意見と、単なる噂に過ぎないとする
意見とで分かれていると述べている。
ただし、同書では鎌倉時代初期に成立した
『古事談』のなかのエピソードも伝えている。
すなわちそれは、鳥羽院が崇徳院のことを
「叔父子(=白河院の子)」と呼んでいたという
エピソードである。

ところで、清盛の父の忠盛という人は
ただ単に武士として優れていただけでなく
有能で経済力もつけた受領でもあったらしい。
別冊歴史読本『源氏対平氏』によると
例えば1120年(清盛3歳)のときの忠盛は
「北陸の大国越前守」、1126年には
忠盛31歳にして(父・正盛の晩年の役職である)
備前守を任されていたという。
また正盛が単なる北面の武士で終わったのに
対し、忠盛は白河院の院庁の実務を担当し
鳥羽院の院庁では運営の中心ともいうべき
別当を担当していた――という話もある。
正盛・忠盛が少しずつ貴族社会で出世し、
力をつけていった経緯を(たとえ何となくでも)
把握するにつけ、後世の太政大臣・平清盛も
一代にして成ったものではなかったのだなと
実感できる。この「栄華は一代にしてならず」
という点を、果たしてドラマはこれから
描いていくであろうか。

それから、もう一つ気になる点がある。
これはたしか、NHK教育テレビの番組
「さかのぼり日本史」で北条時頼がとりあげ
られたときの私の記憶であるが、
鎌倉時代初期の武士にはまだ一般に民を慈しむ
という発想がなく、正規の収入だけでは足りず
庶民に対する略奪も珍しくなかったという
話ではなかっただろうか。
それに・・・、私の郷土の武士・男衾三郎を
鎌倉時代末期に描いた「男衾三郎絵巻」にも、
武士が通りすがりの者をつかまえて
自分の練習用の弓の的にしようとしている
場面もあった気がする。
私の記憶に大きな狂いがあったのであれば
ともかく、もしそうでもないとするなら、
清盛の時代の武士も基本的に民を慈しむという
発想が無いか、そうした発想を持ったがために
変人扱いされるか、だったのではあるまいか??
そりゃあ人の心など一概に言えるものでもない
だろうし、当時の武士とて、例えば
庶民の女性でも好きになれば、彼女に対しては
慈しみの心もうまれるものなのかもしれないが。


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