大河ドラマ「平清盛」。このたびの題材は、
鹿ケ谷で平家打倒の謀議がおこなわれたが
未然に平家に発覚し、西光や藤原成親らが
清盛によって処罰されたという話である。
時代は1177年6月、清盛が60歳、後白河が
51歳、源頼朝31歳、北条政子は21歳である。
この事件以降、平清盛と後白河法皇との
関係は修復不可能なものへとなっていった。
ところで、このたびドラマでは源頼朝と
北条政子が結ばれた。この時代について
不勉強な私にも、ようやくちょっとは
知っている出来事が起こるようになった。
彼らが結ばれた時期については、たしかに
ウィキペディアの政子の項では1177年という
ことになっている一方、源頼朝の項では
1178年頃であろうとしている。彼らが最初に
もうけた娘・大姫の生年は1178年であるため、
彼らは遅くとも1178年には結婚していなければ
なるまい。
また、ウィキペディアの源頼朝の項によると
政子と結婚するはずだった山木兼隆は、
大姫が生まれる翌年になって伊豆に配流された
という。つまり、政子が山木兼隆と結婚
させられそうになったという話は、史実でなく
物語上の創作だったと考えられるのである。
思えば、婚礼の席から突然逃げ出して夜陰に
まぎれて愛しい人のもとへと駆けこむなど、
私個人の現代的な感覚からしてもスゴい
ドラマチックな話で、言い換えればちょっと
ウソっぽく思えなくもない話だろうか。
なお、これはたしか『歴史を彩った悪女、
才女、賢女』の著者が気づいた点だが、
政子の結婚は当時の女性としては遅いもので
あるように思える。同書は、彼女の継母・
牧の方が気が利かなくて政子の嫁ぎ先を
探してやらなかったからだと書いているが、
それが真相かどうかは私には分からない。
これはあくまでも例えばの話にすぎないが、
政子は一度結婚に失敗して出戻ったので
頼朝と結婚する時には21歳になっていた
(そして「再婚」という事実は隠された)
ということも考えられるのではないかと思う。
さて、このたびのメインテーマ「鹿ケ谷の
陰謀」についてであるが、ウィキペディアの
鹿ケ谷の陰謀の項にもあるように
「謀議が事実であったかどうかは当時でも
疑問視する向きが多く」「平氏側(清盛)が
院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との
衝突を回避するためにでっち上げた疑獄
事件の可能性もある」とされている。
ただし、いつも引用している『平清盛の闘い
幻の中世国家』では、多田行綱が密告したか
どうかについては疑問視しつつも「山荘で
密議が凝らされたのは事実」であったと
述べている。この「密議」の内容について、
平家打倒ではなく、比叡山攻撃の方針を
確認したものにすぎなかった可能性もある
という見解もウィキペディアに見えるが、
だとしても、密議を知った平家が「比叡山
攻撃命令=平氏一門が仏罰によって滅亡する
ようしむけた謀略」と解釈して、密議の
関係者を一網打尽にする決意をした可能性も
あるそうだ(同じくウィキペディアの鹿ケ谷の
陰謀の項による)。
なお、同書が引用する『愚管抄』によると、
その山荘の持ち主は俊寛ではなく、亡き
信西の子・静憲ということになっているが、
このたびのドラマでは俊寛の山荘という
ことになっている。俊寛もこのとき処罰
されるが、平頼盛はこの俊寛の義兄弟で
あったため、藤原成親の義兄弟だった
重盛と同様、面目を失うこととなったという。
カネもあって力もあって、なおかつ、
周囲に対して配慮に欠けるようになった
ドラマの平家――。ドラマの西光は清盛を
だいぶ悪しざまに言っていたが、それでは
彼にも嫌われるはずである。
ただそれでも、(ドラマの西光が罵ったように)
清盛が志を持たず、王家に対する復讐心しか
持ちあわせていないとすれば、実際清盛が
進めたような(目新しいところのある)国づくり
など、できるはずがあるまい。というのも
復讐とは、過去にとらわれることだからである。
←ランキングにも参加しています
鹿ケ谷で平家打倒の謀議がおこなわれたが
未然に平家に発覚し、西光や藤原成親らが
清盛によって処罰されたという話である。
時代は1177年6月、清盛が60歳、後白河が
51歳、源頼朝31歳、北条政子は21歳である。
この事件以降、平清盛と後白河法皇との
関係は修復不可能なものへとなっていった。
ところで、このたびドラマでは源頼朝と
北条政子が結ばれた。この時代について
不勉強な私にも、ようやくちょっとは
知っている出来事が起こるようになった。
彼らが結ばれた時期については、たしかに
ウィキペディアの政子の項では1177年という
ことになっている一方、源頼朝の項では
1178年頃であろうとしている。彼らが最初に
もうけた娘・大姫の生年は1178年であるため、
彼らは遅くとも1178年には結婚していなければ
なるまい。
また、ウィキペディアの源頼朝の項によると
政子と結婚するはずだった山木兼隆は、
大姫が生まれる翌年になって伊豆に配流された
という。つまり、政子が山木兼隆と結婚
させられそうになったという話は、史実でなく
物語上の創作だったと考えられるのである。
思えば、婚礼の席から突然逃げ出して夜陰に
まぎれて愛しい人のもとへと駆けこむなど、
私個人の現代的な感覚からしてもスゴい
ドラマチックな話で、言い換えればちょっと
ウソっぽく思えなくもない話だろうか。
なお、これはたしか『歴史を彩った悪女、
才女、賢女』の著者が気づいた点だが、
政子の結婚は当時の女性としては遅いもので
あるように思える。同書は、彼女の継母・
牧の方が気が利かなくて政子の嫁ぎ先を
探してやらなかったからだと書いているが、
それが真相かどうかは私には分からない。
これはあくまでも例えばの話にすぎないが、
政子は一度結婚に失敗して出戻ったので
頼朝と結婚する時には21歳になっていた
(そして「再婚」という事実は隠された)
ということも考えられるのではないかと思う。
さて、このたびのメインテーマ「鹿ケ谷の
陰謀」についてであるが、ウィキペディアの
鹿ケ谷の陰謀の項にもあるように
「謀議が事実であったかどうかは当時でも
疑問視する向きが多く」「平氏側(清盛)が
院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との
衝突を回避するためにでっち上げた疑獄
事件の可能性もある」とされている。
ただし、いつも引用している『平清盛の闘い
幻の中世国家』では、多田行綱が密告したか
どうかについては疑問視しつつも「山荘で
密議が凝らされたのは事実」であったと
述べている。この「密議」の内容について、
平家打倒ではなく、比叡山攻撃の方針を
確認したものにすぎなかった可能性もある
という見解もウィキペディアに見えるが、
だとしても、密議を知った平家が「比叡山
攻撃命令=平氏一門が仏罰によって滅亡する
ようしむけた謀略」と解釈して、密議の
関係者を一網打尽にする決意をした可能性も
あるそうだ(同じくウィキペディアの鹿ケ谷の
陰謀の項による)。
なお、同書が引用する『愚管抄』によると、
その山荘の持ち主は俊寛ではなく、亡き
信西の子・静憲ということになっているが、
このたびのドラマでは俊寛の山荘という
ことになっている。俊寛もこのとき処罰
されるが、平頼盛はこの俊寛の義兄弟で
あったため、藤原成親の義兄弟だった
重盛と同様、面目を失うこととなったという。
カネもあって力もあって、なおかつ、
周囲に対して配慮に欠けるようになった
ドラマの平家――。ドラマの西光は清盛を
だいぶ悪しざまに言っていたが、それでは
彼にも嫌われるはずである。
ただそれでも、(ドラマの西光が罵ったように)
清盛が志を持たず、王家に対する復讐心しか
持ちあわせていないとすれば、実際清盛が
進めたような(目新しいところのある)国づくり
など、できるはずがあるまい。というのも
復讐とは、過去にとらわれることだからである。
←ランキングにも参加しています