黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

鹿ケ谷の陰謀

2012-10-28 23:55:15 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたびの題材は、
鹿ケ谷で平家打倒の謀議がおこなわれたが
未然に平家に発覚し、西光や藤原成親らが
清盛によって処罰されたという話である。
時代は1177年6月、清盛が60歳、後白河が
51歳、源頼朝31歳、北条政子は21歳である。
この事件以降、平清盛と後白河法皇との
関係は修復不可能なものへとなっていった。

ところで、このたびドラマでは源頼朝と
北条政子が結ばれた。この時代について
不勉強な私にも、ようやくちょっとは
知っている出来事が起こるようになった。
彼らが結ばれた時期については、たしかに
ウィキペディアの政子の項では1177年という
ことになっている一方、源頼朝の項では
1178年頃であろうとしている。彼らが最初に
もうけた娘・大姫の生年は1178年であるため、
彼らは遅くとも1178年には結婚していなければ
なるまい。
また、ウィキペディアの源頼朝の項によると
政子と結婚するはずだった山木兼隆は、
大姫が生まれる翌年になって伊豆に配流された
という。つまり、政子が山木兼隆と結婚
させられそうになったという話は、史実でなく
物語上の創作だったと考えられるのである。
思えば、婚礼の席から突然逃げ出して夜陰に
まぎれて愛しい人のもとへと駆けこむなど、
私個人の現代的な感覚からしてもスゴい
ドラマチックな話で、言い換えればちょっと
ウソっぽく思えなくもない話だろうか。

なお、これはたしか『歴史を彩った悪女、
才女、賢女』の著者が気づいた点だが、
政子の結婚は当時の女性としては遅いもので
あるように思える。同書は、彼女の継母・
牧の方が気が利かなくて政子の嫁ぎ先を
探してやらなかったからだと書いているが、
それが真相かどうかは私には分からない。
これはあくまでも例えばの話にすぎないが、
政子は一度結婚に失敗して出戻ったので
頼朝と結婚する時には21歳になっていた
(そして「再婚」という事実は隠された)
ということも考えられるのではないかと思う。

さて、このたびのメインテーマ「鹿ケ谷の
陰謀」についてであるが、ウィキペディアの
鹿ケ谷の陰謀の項にもあるように
「謀議が事実であったかどうかは当時でも
疑問視する向きが多く」「平氏側(清盛)が
院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との
衝突を回避するためにでっち上げた疑獄
事件の可能性もある」とされている。
ただし、いつも引用している『平清盛の闘い
幻の中世国家』では、多田行綱が密告したか
どうかについては疑問視しつつも「山荘で
密議が凝らされたのは事実」であったと
述べている。この「密議」の内容について、
平家打倒ではなく、比叡山攻撃の方針を
確認したものにすぎなかった可能性もある
という見解もウィキペディアに見えるが、
だとしても、密議を知った平家が「比叡山
攻撃命令=平氏一門が仏罰によって滅亡する
ようしむけた謀略」と解釈して、密議の
関係者を一網打尽にする決意をした可能性も
あるそうだ(同じくウィキペディアの鹿ケ谷の
陰謀の項による)。

なお、同書が引用する『愚管抄』によると、
その山荘の持ち主は俊寛ではなく、亡き
信西の子・静憲ということになっているが、
このたびのドラマでは俊寛の山荘という
ことになっている。俊寛もこのとき処罰
されるが、平頼盛はこの俊寛の義兄弟で
あったため、藤原成親の義兄弟だった
重盛と同様、面目を失うこととなったという。


カネもあって力もあって、なおかつ、
周囲に対して配慮に欠けるようになった
ドラマの平家――。ドラマの西光は清盛を
だいぶ悪しざまに言っていたが、それでは
彼にも嫌われるはずである。
ただそれでも、(ドラマの西光が罵ったように)
清盛が志を持たず、王家に対する復讐心しか
持ちあわせていないとすれば、実際清盛が
進めたような(目新しいところのある)国づくり
など、できるはずがあるまい。というのも
復讐とは、過去にとらわれることだからである。


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高知城と浦戸城跡

2012-10-24 17:09:41 | 歴史系
先日、高知に行ってきた。いろんな意味で
ようやくたどりついた、山内容堂さまの
お膝元――このたびもまた私らしく
心残りが生じる詰めの甘い旅となったが、
それもまた新たな楽しみの一つとしたい。
旅行全体としてはいつもより写真を多く
撮った方なので、このたびはまず、
高知城と浦戸城跡の画像を載せていきたい。


高知城は追手門から天守が見えるつくりに
なっていて、こうした城を見るのは私は
初めてである。そして、今月2日の朝6時
40分ごろ、下のような、天守と追手門を
撮った。偶然気がついて撮ったものだが、
この時ちょうど天守のすぐ右側(右の拡大
図のような位置)に十六夜の月が白く
ボンヤリと見えていたのだ。なおこれは、
「山内容堂公誕生之地」の碑の向かい側
あたりで撮ったもの。日々変化する月齢に
応じてタイミングよくこの場に来なければ
撮れないだろう景色だけに、これを撮った
当時は気だるさが吹き飛ぶほど嬉しかった。

 

下の画像のような石垣は、城内の板垣
退助像と「山内一豊の妻像」の中間地点の
階段から撮った石垣の様子である。
この石垣の右の方向には「石樋」という、
土台の水はけを良くするための排水設備が
あって、当初はこれももれなく撮って
いたのだが、不覚にも後日その画像を
削除してしまっていた。台風の脅威に
さらされやすい地域ならではの設備だけに、
消したことが悔やまれる。



一方、下の画像は三ノ丸の野面積の石垣。
高知城の公式HPによると、こちらは
一昨年に修復されたばかりだそうである。
同HP等によれば、初代・山内一豊の没後、
1611年の三ノ丸の完成を以て、山内家の
全城郭がほぼ整ったという。



また、下の画像は三ノ丸の土台に埋まって
いた長宗我部期の石垣。栄枯の移り変わりを
感じさせる部分である。『【決定版】図説
幕末土佐の群像』(学研 2009)によると
長宗我部期の石垣が全てこんなふうに
埋められた訳ではなく、山内忠義によって
再利用された部分もあるらしい。
これは、忠義が先代の一豊ほど長宗我部氏の
遺臣に対して強硬でなかったことを
意味するのか、それとも忠義の時代になると
藩財政が苦しくなったことを意味するのか、
それともこれらのどちらでもないのか。



同書と高知城のパンフレットによると、
もともと、この場所には大高坂(おおたかさ)
城という南北朝時代の城があった。
1588年頃、この大高坂城に、秀吉の軍門に
下っていた長宗我部元親が拠点を移し、
築城に取り組んだが、その名残が上のような
石垣ということである。だがその後、
長宗我部元親は大高坂城築城を諦め、
拠点をさらに浦戸へと移したとされている。
そして、1600年の関ヶ原の戦いによって
土佐の領主が長宗我部氏から山内氏に
入れ替わると、山内氏は一旦浦戸に入城した
うえで大高坂山に城を築き、地名を最終的に
高智山と改めたという。なお、下の画像は
浦戸城の天守台跡を遠くから撮影したもの:



ちなみに、『幕末土佐の群像』と高知城の
パンフレットでは、長宗我部元親が大高坂を
捨てて拠点を浦戸に移した理由について、
治水に難儀したからだろうと述べている。
だが、ウィキペディアの高知城の項によれば
「浦戸城は朝鮮出兵に対応した一時的な
拠点に過ぎず、大高坂山城の整備も引き続き
行われていたとする説」もあるという。
いずれにせよ、大高坂にしても浦戸にしても
長宗我部氏にとっては良い思い出があまり
無いような城だったかもしれない。

閑話休題。下の画像は、高知城の天守を
本丸から撮影したものである。この天守は
本丸御殿とつながっているようである。
私の地元・川越には、本丸御殿のみ
かろうじて残っているのだが、一部分だし、
本丸御殿が全部残っているのはこの高知城
のみだったと思われる。見栄えのする
天守も残されていて、なんだかうらやましい。
なお、ウィキペディアの高知城の項によると
「築城された当初、二の丸御殿ができるまで、
山内一豊と(妻の)見性院が暮していた」。
(ただし、高知城のパンフレットによると
高知城は1727年の大火で「追手門を残し
天守閣をはじめ城郭のほとんど」が
焼失し、その後再建されたため、
一豊夫妻が住んだ頃の本丸御殿の様子は
現在とは違っていたと考えられる)



そして、御殿の正殿の欄間は、下の画像の
ように荒波を表現したものとなっている。
むかしどこかの番組で見た記憶はあったが、
それ以来、こうして実物を見るまでずっと
鯨の尻尾を表したものと勘違いしていた:




高知城のパンフレットによると、その他、
東多聞櫓付近には「現存するものとしては
全国唯一の忍び返し」もあるということ
だったが、あいにくこの画像も撮り
そびれてしまった。冒頭でも少し述べたが、
このような類の心残りがたびたび生じた
このたびの旅行――。だが気を取り直して、
次回は高知市付近に点在している記念碑や
銅像の数々を載せていく予定である。


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対立の時代の始まり

2012-10-21 23:59:58 | 歴史系
大河ドラマ「平清盛」。このたびのドラマは
後白河法皇らが平家打倒の謀議のために
鹿ケ谷に集まった時点で話が終わった。
このとき1177年、清盛が60歳、後白河法皇が
51歳、源頼朝31歳、北条政子は21歳である。
平家と後白河の院が蔵人頭という官位を
めぐって対立するようになっても
もはや滋子を介しての調整はおこなわれず、
延暦寺が院に対して強訴をおこなえば、
相変わらず平家が役立たずであるばかりに
後白河院の近臣・西光が被害に遭う
(ドラマではそれどころか、延暦寺の強訴は
むしろ清盛が仕掛けたことであった)。
それゆえ、後白河院や西光、そして同じく
白河院の近臣の藤原成親らは平家に対する
憎しみをつのらせ、鹿ケ谷で平家打倒の
謀議をおこなったということである。
重盛の義兄弟である藤原成親にしても、
このたびこそ直接的な被害はうけなかった
ものの、かつて同じ延暦寺強訴によって
解官されるという被害に遭ったため、
このたびの西光の悲劇を他人事のように
思えなかったに違いない。

ドラマの最初のほうでは、後白河法皇が
自分の息子を高倉天皇の養子とし、
清盛がこれに危機感をいだくという場面が
あった。『平清盛の闘い 幻の中世国家』に
では、後白河法皇がそうした理由について、
一つは高倉天皇が間もなく成人をむかえ、
後白河法皇の院政を邪魔する強力な政敵に
なる恐れがあったこと(かつての二条天皇の
ように)、もう一つは、平徳子が皇子を産む
ことによって平家が王家の外戚として
権威をさらに高め、政治にもますます
介入してくるのを避けるためだったのでは
ないかとしている。このとき、ドラマの
平盛国は「滋子さまがご存命であれば、
滋子さまが法皇さまを諌めてくれたところ
だっただろうに」と嘆いていたが、
こうした高倉天皇の処遇をめぐる対立も
滋子の死によってもたらされたものだった。

それにしても、心配なのは重盛である。
ドラマの彼はこのたびもまた、政治構想の
違う父・清盛によって自分の考え方を
否定され、面目もつぶされてしまった。
彼にとっての藤原成親は後白河院との
パイプでもあるが、そのパイプたるべき
藤原成親も平家打倒の謀議にくわわり、
パイプとしての役割に黄色信号がともる。
以前ここで述べたように、ただでさえ
重盛は実母由来のバックボーン(母方の
親戚とか、同母兄弟とか)を欠くのに、
この先、間もなく重盛は成親も失うことに
なるのだ。
滋子という、清盛と後白河院の仲介者が
失われたいま、重盛というもう一人の
仲介者にも危機が近づいている。


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一つの時代の死

2012-10-14 23:50:41 | 歴史系
大河ドラマ「平清盛」。このたびの話題は、
後白河法皇の寵妃で清盛の義理の妹であった
滋子が35歳で亡くなるという話であった。
亡くなったのは1176年7月、清盛が59歳、
後白河法皇は50歳、源頼朝30歳、
北条政子は20歳であった。
相変わらず「私の心は私のもの」という、
4年前の大河ドラマでも聞いたことのある
ような言葉を連呼していた滋子だったが、
その彼女もこのたびあえなくポックリと――
実際には「ポックリ」ではなかったようだが
亡くなってしまった。『別冊太陽 日本の
こころ190 平清盛 王朝への挑戦』に
よると、彼女は「院が熊野詣などに出かけ
不在の折には、院に代わって政務をみる
など」していたそうなので、もう少し頻繁に
その才知ぶりを私に見せてから亡くなって
ほしかった。同書と、『平清盛の闘い
幻の中世国家』によれば、彼女は
「二禁」という(しばしば糖尿病を併発して
死に至る)皮膚病の一種を患い、有馬温泉へ
治療しに行った甲斐もなく亡くなったという。

一方、このたび大番役がもたらす過労が
祟って亡くなった上総常澄であるが、
ウィキペディアの平常澄の項を読んだ限り
実際の彼がいつ、なぜ亡くなったのかは
つきとめられなかった。ウィキペディアの
大番役の項によると、平安時代における
勤務期間はなんと3年におよんだという。

滋子の死をキッカケに後白河法皇と清盛との
関係は破綻へとむかっていくのであるが、
だからといって、滋子が生きていたうちは
両者の間に何の対立要素も無かったという
わけではない。以前にも記した気はするが、
後白河院が人事を恣意的におこなえるように
なることを望み、藤原成親や西光といった
院近臣層も、後白河院の恣意的人事によって
自分の官位が上がることを期待していた。
この院近臣層にしてみると、平家一門は
かつては院近臣家の一つにすぎなかった
くせに高位高官を独占するようになり、
自分たちの昇進を阻害する存在と化して
いたし、また後白河院にとっても、
「人事への介入などで専制を掣肘する
清盛をはじめ、次々と高官を独占してゆく
平氏一門とは、和解できない面があった」
可能性があるからである(『平清盛の闘い
幻の中世国家』参照)。このたびのドラマの
西光は自分の要求が清盛に通らなくて
怒りを募らせていたが、この考えに従えば、
この頃の彼らは傍観者的に平家の栄達を
妬んだり、「おごっている」という不快感を
持っていたというより、平家によって自分の
昇進が妨害されているという意識があった
ということかもしれない。ドラマの成親は
「平家の栄達も、そのために私自身が損を
するようでは歓迎できない」という
ニュアンスのことを言っていたが、
これが当時の院近臣の心境だったのだろう。
ただ、この平家と院近臣家の利害対立の構図は
今は亡き信西と伝統的院近臣家との間にも
見られた構図であり、目新しい感じはしない。
いずれにしても、この藤原成親と西光は
滋子の死の翌年に鹿ケ谷で平家打倒の
謀議をおこなったとされている。


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上田城を訪ねる

2012-10-09 23:31:57 | 歴史系
先日、長野県上田市にある上田城跡に行った。
上田城は真田昌幸が最初に建てた城で、
2度の「上田合戦」の際には昌幸の指揮のもと、
圧倒的な兵力の徳川軍を2度撃退した城として
知られている。まずは、上田城の大雑把な
歴史と、城の現在の様子について紹介したい。

上田城は真田昌幸によって築かれた平城だが、
「大坂の陣」後、真田信之(昌幸の息子で
幸村の兄)が松代に移封になると仙石氏が
小諸城から移ってきて、破却されていた
上田城を現在のような姿に大改修した。
上田城主としての初代仙石氏・忠政は
改修が終わる前に亡くなったようだが、
城内の掲示とウィキペディアで確認した限り
少なくとも現在建っている3棟の隅櫓(西櫓と
南櫓、それに北櫓)と東虎口櫓門、そして石垣は
仙石忠政が最初に建てたと考えてよさそうだ。
ただし、これらの建物が全て仙石忠政の時代の
まま建ち続けている訳ではなく、そのへんの
曲折も少し述べていきたい。

下の画像は、駐車場から映した西櫓と南櫓の様子。
城内の真田神社のパンフレットによると、
往時はこの西櫓と南櫓の下(画像の手前側)に
千曲川が流れていたという。



このうち、西櫓を拡大したのが下の画像。
この櫓に限り、建設当初のまま建っている。



一方、下の画像は南櫓を拡大したもの。



その南櫓と、この下の画像左側に写る北櫓は、
共に明治時代初めに売却される。
ウィキペディアの上田城の項で確認したところ、
この2棟は「一つの建物に連結されて金州楼と
万豊楼(という遊郭)として使用された」のち、
目黒雅叙園に買い取られたものの、
「市民の運動によって買い戻され、現在の
北櫓と南櫓の場所に再び移築復元された」。



また、下の画像は東虎口櫓門で、この櫓門は
失われていたところを1994年に復元された。
2度あった「上田合戦」の際の徳川軍は、
いずれもこの櫓門の方から攻めよせたものと
思われる(ウィキペディアの上田合戦の項を
参照)。



ちなみに、下の画像は本丸の跡地。政務用の
建物が置かれた形跡は無さそうだった。




私が映した上田城の様子は以上のごとくである。
それにしても、本当に小さい城というのが
私の最初の印象だった。どうだろう、例えば
彦根城あたりと比べれば、見学に費やした
時間は半分程度だったのではないだろうか
(いつもよりゆっくり回ったにもかかわらず)。
平城だし、よくぞこの程度の規模の防備で
2度も徳川軍を撃退したものだと感じた。

ちょっと考えてみると、徳川軍の2度の
敗北は奇妙に思える。というのは、ウィキペ
ディアの上田合戦の項を参照した限り、
真田昌幸が上田城を守るためにたてた作戦の
根本部分(上田城の懐近くまで徳川軍を引き
寄せ、徳川軍が充分に引き寄せられたところを
見計らって、これを一気にたたきつぶすという
戦法)は、2回とも同じものだったように
思えるからである。つまり徳川軍は、
同じ相手の同じ術策に2度もひっかかって
負けたように思えるのだ。
たしかに、ウィキペディアの同項や松代の
真田宝物館の図録『真田三代 ~近世大名への
道~』(平成16年)で各上田合戦の徳川軍の
指揮官の顔ぶれを見てみた限り、1度目の
上田合戦の指揮官は2度目には参戦していない
ようであったが、それでも2度目の上田合戦は
1度目の合戦からわずか15年後であるため、
2度目の上田合戦の徳川軍の武将のなかに
1度目を経験した者が誰一人いなかったとは
考えにくい。もしかすると、2度目の徳川軍は
知らず知らずのうちに1度目と同じ術策に
ハマり、たとえ途中で気づいた武将がいても、
気づいた時にはもはや手遅れであった――
というのが、真相であったかもしれない。
私の勝手な想像にすぎないが、もし本当に
そうだとしたら、やはり徳川軍が愚かだったと
いうより、むしろ真田昌幸の仕掛け方が
巧妙だったと考えるべきであろう。

真田昌幸は、知名度や人気度こそ息子の
幸村には劣るかもしれない。しかしながら、
幸村の場合、父親なしで残した実績が
2度の大坂の陣で徳川方に一矢報いただけ
だったのに対し、父の昌幸は少なくとも
戦いで2度徳川軍を撃退したばかりでなく、
戦い以外の場面でも、小国ながらも北条・
徳川・豊臣・上杉という有力大名たちを
手玉に取り、自家を大名化させていった。
真田幸村よりも昌幸の方が大きな仕事を
したと思っているのは、たぶん私だけでは
あるまい。


ちなみに、私が訪れた際の真田神社では
真田幸村を大河ドラマの主人公にすることを
求める署名集めがおこなされていた。
具体的な数字も忘れてしまったが、たしか
城内の張り紙によれば、既に七十数万人の
署名が集まっていたかと思う。
やはり父・昌幸の話ももりこまなければ
一年も間が持たないような気はするが、
長いものに巻かれることなく自分を貫き
輝かせた幸村が題材に選ばれれば、
面白い話ができそうだと感じている。
既に消されてしまったyahoo!知恵袋の記事で
誰かが推測していたように、もしかすると
彼が大河ドラマの主人公に選ばれるためには
例えば長野県ゆかりの有力政治家の影響力も
必要になってくるのかもしれないが
(そうした政治家が実在すればの話だが)、
甲信越地方が舞台の大河ドラマは2009年の
「天地人」が最後だったと思うので、
この地方もそろそろ大河ドラマの舞台に
選ばれていい頃かもしれない。


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平家は風の前の塵か

2012-10-07 23:54:00 | 思索系
大河ドラマ「平清盛」。このたびの話題は、
兎丸という友を死なせてしまった清盛が
兎丸らの名前を入れたお経を石に書き、
これを海に沈めて「経が島」を築いた――と
いったもの。西暦に置き換えて具体的に
何年だったのかよく分からなかったが、
『平清盛の闘い 幻の中世国家』によると、
宋の明州判史から「日本国王」および太政
大臣宛てに供物が届いたのは1172年9月の
ことであるという。ということは、この
時点での各人物の年齢は、清盛が55歳、
後白河法皇は46歳、源頼朝は26歳、
北条政子は16歳ということになる。

同書によると、『平家物語』には、
清盛が人柱を立てようとする公卿のせん議を
退け、経文を書いた石を鎮めて工事を完成
させたという逸話が見えるそうなので、
このたびのドラマもこの逸話を引用した
ものと思われる。「そんなに港の完成を
急ぐなら、金をばら撒いてどんどん人夫を
増やせばいいことだし、それが不可能だと
しても、なぜ皆で知恵を絞って何らかの
対策をたてようとしなかったのだろう」――
そんなふうにツッコミたくなったところだが。

なお、これはたしか「BS歴史館」という
番組で義経をとりあげた際に聞いた話だが、
弁慶と義経が出会ったとされる五条大橋は
実際は彼らが生きた時代よりもずっと後の、
秀吉の時代になって建てられた橋だという。
またウィキペディアの五条大橋の項によると
「平安時代の五条通は現在の松原通に相当
することから『五条の橋』は現在の松原橋
付近とする説」もあったり、また彼らの
出会いの地は五条大橋でないとする説も
あるという。

それと、このたび、兎丸を死なせて
落ちこんでいる清盛に「それでも私は殿に
ついていきます」と言っていた平盛国は、
平家滅亡後、捕虜となって鎌倉に送られ、
頼朝によって死一等を免れたものの
「日夜一言も発する事なく法華経に向かい、
飲食を一切絶って文治2年(1186年)7月25日、
餓死によって自害」、「頼朝はこの盛国の
態度を称賛したという。」また清盛も、
この盛国の屋敷で息を引き取っている。
ただし、盛国が本当に漁師あがりだったか
どうかは不明である(ウィキペディアの平盛
国の項を参照)。


最近このドラマでは平家のおごりが多分に
強調されているが、歴史的に見れば清盛も
決して何も歴史に貢献しなかった訳ではなく、
源頼朝が政策として参考にした部分もある。
今はそうした描写がなくとも、例えば頼朝が
鎌倉に役所を置くようになる時代の場面では
そうした描写を見たいものである。
「平清盛なくして源頼朝は無し」とばかりに。
そうでもないと、なにやら寂しい気がする。
忘れてしまいそうになるが、本当は平家も、
おごった挙句に「春の夜の夢の」ごとく
消えていった「風の前の塵」ではない。


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