黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

長州藩の影の歴史

2015-09-20 23:16:06 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびは、戦争が終わって
用済みとなった奇兵隊に解散命令が下り、これに反発
した者たちが反乱を起こしたが鎮圧された、という話。
時代は、反乱が起きた時点で1870年1月、美和28歳で
ある。今回とりあげられた騒動については、ウィキペ
ディアの奇兵隊の項で詳細に説明されている。これに
よれば、奇兵隊を含む長州諸隊5000余名の処遇を
めぐって、功績ではなく身分や役職によるより分けが
あったという。彼らのうち、四大隊2250人が御親兵
として再編された一方、残る3000余名は論功行賞も
無く解雇され常職を失ったが、例えば「藩正規軍に
あたる旧干城隊員が再雇用される一方で共に各地を
転戦した平民出身の諸隊士は失職した」そうである。
ドラマでは、奥御殿に侵入した若い隊士が欧米の
ような身分差別のない社会を夢見ていたが、実際の
彼は未だに身分差別を受け、その結果ああして不遇を
かこっている――ということだったのだろう。
一方、ドラマでは反乱を起こした隊員に、大殿様が
戊辰戦争での活躍についてねぎらいの言葉などを
かけていたが、果たしてそんなことが実際にあった
のか、疑問を感じる。たしかに、もし実際にあったの
なら、処刑される隊員たちも少しは浮かばれよう。
が、想像するに、大殿様がああして少しでも動けば
それはたちまち噂となって広まり、反乱軍の間でも
「今はあの場所に大殿様がいるから、そこにむけて
発砲してはマズい」という話に発展するはずである。
あくまでも想像だが、やはり大殿様はあそこまで
積極的には関わらなかったのではないのだろうか。

なお、これはドラマでは描かれなかったが、かつて
吉田松陰と同じ牢屋ですごし、一時期居候もしていた
漢学者・富永有隣も脱退騒動に加わり、藩政府軍と
戦っていたという。彼については、ウィキペディア
よりも別冊歴史読本 『【幕末維新】 動乱の長州と
人物群像』のほうが少し詳しく伝えているが、これに
よれば、かつて居候していたはずの彼は、松陰が二
度目に投獄されたあと、居づらくなったのか松下村
塾を去り、吉敷郡二島村(現在の山口市)に定基塾を
開いたが、1863年に結成直後の奇兵隊に加わっていた。
ところが、「横柄な性格」だったという彼はやっぱり
「憎まれっ子」だったのだろうか、その翌年に赤根
武人から除名処分を受けるなどしていたという。
だが一方、「憎まれっ子世に憚る」という言葉もある
ように、彼は脱退騒動後もしぶとく生き続ける。
各地へ逃亡を続けた彼は1877年にようやく逮捕され、
有罪判決を受けるも1884年に特赦により釈放、
以後は妹の元に身を寄せて塾を開き、1900年に
80歳で没したということである。ドラマと違って、
実際の彼は隻眼だったようだ。
また、これもドラマでは描かれなかったが、高杉
晋作の父・小忠太は、脱退騒動の際、皮肉にも木戸
孝允と共に鎮圧にあたっていたという。

しかし、このたびの脱退騒動について彼ら以上に
気がかりなのは、ドラマには登場しなかった村塾
門下生の前原一誠である。ウィキペディアの奇兵隊の
項などによると、当時彼は「諸隊の解雇および脱隊
者の討伐に猛反対し」ており、その他、徴兵令など
に反対したこともあって、のちに下野することに
なるのだ。時代が明治になると、奇兵隊ばかりで
なく、戦いを生業とする武士そのものが用済みに
なっていく。そんななかで、彼もまた不平士族を
集めて反乱を起こすことになるのだが、これは
ドラマでもとりあげられるのだろうか??
――いずれにせよ、このたびの脱退騒動にしても、
のちに起こるであろう不平士族の反乱にしても、
社会的弱者に対する配慮の欠如が招いた結果のよう
でもあり、現代に対しても示唆に富んでいるように
感じられる。すなわち犯罪を少なくすることは、
畢竟、社会的弱者をいかにうまく支援していくかに
尽きるように思われるのである。


近代国家の創出を担った松下村塾生が多いのは従来
からよく知られてはいることだが、こうしてみると、
同じ塾生たちでさえ、実は決して歴史の表舞台で
活躍した人物ばかりではない。またこれは想像だが、
ましてや塾生でない長州人や、毛利の(直臣ではなく)
「陪臣」とされた周防出身の者などはなおさら
だろうと思われる。かつて志を同じくした志士たちが、
運命のいたずらによって引き裂かれていく明治時代。
1990年の大河ドラマ「翔ぶが如く」の村田新八では
ないが、みなが心を一つにして尊王攘夷運動をして
いたころが楽しかった――それが、美和とその周辺の
者たちの本音だろう。光がまばゆければまばゆいほど、
その闇の部分は深くなっているもの。あるいはそう
思えばこそ、私には薩長神話が胡散臭く感じられる
とも言えそうだ。隊員の解雇や鎮圧に反対した前原
一誠は登場しなかったのだし、相変わらず物足りない
感じはするが、闇の部分にもスポットを当てている
という点でこのたびは観てよかったと感じられた。


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今こそ使命感を

2015-09-13 22:33:19 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびは、美和は久坂の
子を探しに行くが見つからず、そうこうしている
うちに版籍奉還の話が出て藩や奥御殿の存続は一体
どうなるのだろうという話になってきた――という
もの。時代は、木戸孝允が毛利敬親公に版籍奉還を
促した時点で1868年4月、美和26歳である。主人公が
女性であること、また歴史の全てを詳細にとりあげて
いては時間が足りないという事情があるとはいえ、
260余年日本を守ってきた幕府の消滅を華麗にスルー
され、やはり少し消化不良をおこしてしまった。
「八重の桜」が放送されていた2013年、私は明治
維新期の川越藩の動向についてブログで述べたことが
ある(こちらで)。当時の川越藩は、早い話がもはや
滅びてしまった幕府への忠義を捨て、新政府への
恭順を態度やカタチで示した。藩の領民の生命・
財産のために敢えてこうした不忠の道を選んだことに
意見する資格は地元民の私には無いものの、それでも、
三河武士の殿様は心まで売ったつもりはなかった
はずだと信じたいところではある。こうした、
維新期に旗幟を変更した藩ゆえの複雑な思いが、
薩長神話に対する不信感を呼び起こすに至っているの
かもしれない。ともあれ、かくて神話は完結しても
歴史はまだまだ続く。仲間の仇討は成功しても、その
後が問題である。なにせ新政府は大久保利通が毎日
気をもむ程の幼弱さ、版籍奉還などで頭を悩ませてる
うちはまだいいが、そのうち、藩閥間の主導権争いは
できても日本をどう変えていけばいいのかが分から
なくなって、彼らは欧州視察に乗り出すのである。
たしかに、藩閥間の主導権争いは褒めたものとは
言えまいし、例えば元勲となって早々に汚職事件を
起こした長州人だっている。だが、考えてもみると、
少なくともそんな私利私欲に走ってばかりでも拙い
という思いがどこかで働いたからこその欧州視察
だったのではあるまいか。それに、誰が当時の日本の
未来を担えばベストになるのか、それは当時の
日本人にとっても、また実は現代の我々にとっても、
永久に答えの出せない問題なのではないだろうか。
仮に、例えば賢侯が政治の中枢を占める状態が続い
たり、また会津藩など全ての藩も無血開城できたと
しても、その後の歴史がより良いものとなっていた
可能性は未知数と言わざるをえないような気がする。

話題を美和に戻そう。史実の美和がいつまで奥勤め
していたのかはよく分からないが、[NHK大河ドラマ]
『花燃ゆ』完全ガイドブックPART2によれば、
少なくとも1890年までは奥女中だったという記録が
残っているという。果たしてドラマは、奥勤めを
辞めてから楫取素彦と結婚するまでの間の空白の
期間をどう埋めるつもりなのだろう。彼女の初恋の
人・素彦は相変わらず優しくて、このたびは新しい
日本人を育てる使命を持っているという美和を
支えてあげようなどと言っていたが、ウィキペ
ディアの美和の項の年表によると、彼らは結婚後、
教育系の仕事をしたようなので、こうした史実の
布石としてああしたシーンがあったのかもしれない。
少なくとも、あれだけ養育係を放り出すことの多い
今のドラマの美和に、新しい日本人を育てるという
使命感が充分にあるとはとても思えない。そもそも
ドラマの彼女は夫がなぜ死なねばならなかったのか
知りたくて奥勤めを始めたが、それも結局は自分の
ためでしかないといえる。――ともあれ、果たして
そんな使命感の無さも楫取素彦との愛の力によって
克服するという筋書きとなるのであろうか??

しかしながら、実際の歴史はドラマほど美和に
優しくなかったらしい。ドラマでは、今の時点で
美和の甥・粂次郎は楫取素彦に戻されたきりで、
美和に養子はいないまま、久坂の忘れ形見をひき
とるかのような流れであるが、先述のガイドブックに
よれば、その忘れ形見は明治二年に「突然、山口に
現れ」、「協議の結果」久坂家を継ぎ、それに伴って
「久米次郎は楫取家に戻」されたというのである。


ところで、最近私は1992年の大河ドラマ「太平記」も
観ている。ちょうど、建武の新政期の足利尊氏も
語っていたが、天下を取った途端に私利私欲のみ
むさぼり、世の中を良くしていこうという使命感を
忘れるようでは寂しいものである。いくら仕事が
できて、力を持つようになっても、使命感が無い
ようでは良くないということである。思うに、
こうした寂しい現象は元から高貴な者には比較的
起こりにくいことで、毛利敬親公のこのたびの
英断も、大藩のお殿さまだからこそできたことの
ように思える。


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既にあるものに敬意を

2015-09-06 21:34:05 | 思索系
大河ドラマ「花燃ゆ」。このたびは、死にゆく高杉
晋作によって美和は京に久坂玄瑞の子がいることを
知らされるという話。時代は、高杉晋作が亡くなった
時点で1867年4月、美和25歳となった。ドラマの最後
では、美和が長州藩軍の上洛に同行して久坂の子に
会いにいくことになったが、いったいその軍は何の
「戦い」のために上洛するのだろうか。『徳川慶喜と
賢侯の時代』によれば、晋作没後の時期ともなると
「武力討幕論が漸くかまびすしくなってきた」らしい
ので、あるいは長州藩がいよいよ本当に幕府を
倒すために京へ挙兵するということなのかもしれない
(そしてその目論見は差し当たり慶喜が大政奉還に
よって機先を制するかたちで打ち砕かれた、という
流れかもしれない)。前回繰り広げられた「第二次
長州征討」が休戦となったところで、前回私が言及
した長州処分問題は解決されるわけではなく、宙に
浮いたままとなっている。そこで慶喜はこの問題に
ついて、長州の「全面的復権を承認するかわりに、
長州藩に『嘆願書』を提出させ、形式的にではあれ、
幕府への臣従の態度をとらせようとした」のだが、
これも「幕府と長州藩との仲介の役を果たしてきた
安芸藩の拒否にあって失敗」し、慶喜は「全くの
手詰まり状況におかれ」ていたのである。幕府の
威信がそこまで地に落ちたところで「さぁいよいよ
幕府打倒の挙兵だ!」――というところなのかも
しれない。それにしてもドラマの美和、中臈にまで
させてもらったにもかかわらず、相変わらずよく
奥御殿を空けるものである。父親が危ういと聞けば
出ていき、死にそうになった高杉に招かれれば
ホイホイ出ていき、今度はまた亭主の愛人の子に
会うために出て行こうとしている。特にこのたびの
場合、高杉は人の亭主となっている。いくら彼から
伝えたいことがあるとはいえ、その内容をもっと
違うかたちで聞くことにするよう慎むべきでは
なかったか。なにはともあれ、「奥勤めをする
者はそう頻繁に暇をもらうべきではない」――
真実はどうあれ、そのほうが「真実っぽい」感じが
するのではないのか。同じ理由から、相変わらず
陪臣の奥への出入りがあまりに激しいところにも、
いかがなものかと感じられるのである。


違和感を感じることの多い最近の美和であるが、
よく考えてみると、ドラマの彼女はある意味、維新後
「おのぼりさん」となる薩長の連中そのものでもある。
このたびも彼女は相変わらずお世継ぎさまのためと
称して畑なんかやらせていたが、薩長嫌いだった
作家、故・早乙女貢氏の『明治の兄妹』によると、
例えば彼らは維新後、「東京では上野の森の樹を
根こそぎにして、甘藷を植え」させようとしたり、
「大阪では松の名所として聞えた浜守公園一帯を
これも伐り尽くして薪にしようとし」ていたという。
このたび畑にされてしまったような奥御殿の一画にも
かつては例えば麗しい庭園などがあったであろうに、
それを美和が惜しげもなく破壊する場面は描かれない
どころか、なぜかそれを面白がられ、受け入れられて
しまうという始末。しかし、たとえドラマの世界は
そうであっても、実際の人の心はそうはいくまい。
なぜなら、そうして破壊されたであろう「麗しい
庭園」なども、(森や公園の樹と同様に)目に見えない
かたちで人々に恩恵を与えてきたはずだからである
(例えば心を癒すとか、心を豊かにするといった
かたちで)。自分に恩恵を与えてくれたものを破壊
されて、良い気分になる者がいるとは思えないのだ。
――中臈ともなったドラマの美和には、あんまり
奥勤めを休みすぎるなということもさることながら、
是非ともこういう点にも気がついてもらいたい。
ドラマで高杉が指摘したように、もし本当に彼女に
新しい日本人を育てる使命があるのなら尚更のこと、
自分が来る以前から既に存在するものを尊重してこそ、
厚みのある人間も育つというものではないだろうか。
このたびのことについて具体的に述べるとするなら、
最低限、「興丸さまの偏食を改善したいと思うの
ですが、あそこを畑に変えてもよろしいでしょうか」と
御前様などに相談を持ちかけるぐらいのことはする
べきであり、何の相談もなしに独断で畑をつくる
なんざ以ての外のように思えてならないのである。
いずれにせよ、ドラマの彼女は或る意味維新後の
薩長そのものであるという点からすると、この
ドラマはちゃんと歴史を描けているように思える。


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