ギターについているピックガードは文字通り、ボディの塗装をピッキングから守るためのものであるが、それだけにとどまらず、様々な素材やユニークな形状によって装飾的な役割を担うこともあれば、ギターの見た目の印象を決定づける「顔」としての役割を担うこともある。
ダンエレクトロのショートホーンモデルのピックガードも他にはないユニークな形状を備えている。この形こそがダンエレクトロをダンエレクトロたらしめていると言っても過言ではないわけだが、このピックガードの形が一体どこから来たのか、そのデザインの源泉は何か、というのが「だのじゃん」的に未だに解けない謎なのである。
謎は謎として、改めてダンエレクトロのギターを眺めてみると、そのボディの黒とピックガードの白とのコントラストは陰陽太極図を思わせるが、ネイサン・ダニエルが道教に関心を抱いていたというような事実はないわけで、これは単なる偶然に違いないと思われる。
また、その曲線は雲形定規のようにも見え、そのものズバリのテンプレートがあったりするのではないかと思ったのだが、ネットの画像を探しても当たらずとも遠からじ、といった感じであった。
ボディとピックガードの曲線の重なりという面から見れば、同時代の自動車のボディとフェンダー部分の曲線の重なりと通じる部分があるような気もするが、気がする以上の決め手には欠けるのがもどかしいところである。
ショートホーンのピックガードは一般に Seal(アシカ)ピックガードと呼ばれている。その形状がアシカに見えるからだが、アシカやイルカの流線型的な体型は、これまでも様々に造形的なモチーフとなってきた。例えばロイ・スメックのウクレレにはサウンドホールがアシカの形をしたものがある。
そもそも弦楽器にはヴァイオリンに代表されるようにf字のサウンドホールが施されていて、普通は具象的なものからそれが抽象化されていくのであるが、この場合は、すでに抽象的なf字からアシカやイルカのような具象へと逆に進んでいくというわけで、このような、生物的・有機的な曲線を導入するアール・ヌーヴォー的バイオモルフィックな発想がダンエレクトロのデザインの源泉の一つであると考えることはできるかもしれない。
これらのことは要するにアール・ヌーヴォーからアール・デコへというデザイン潮流の変遷の中にあって、ダンエレクトロもそれらに影響を受けながらギターのデザインをしていたということを示すものではあるのだが、1950年代アメリカの工業製品であればそれは当然のことでもあるわけで、何ら新しい視点を与えてくれるものではないのである。
そんなわけで、まだまだあてどない思索の彷徨は続くのである。
ダンエレクトロのショートホーンモデルのピックガードも他にはないユニークな形状を備えている。この形こそがダンエレクトロをダンエレクトロたらしめていると言っても過言ではないわけだが、このピックガードの形が一体どこから来たのか、そのデザインの源泉は何か、というのが「だのじゃん」的に未だに解けない謎なのである。
謎は謎として、改めてダンエレクトロのギターを眺めてみると、そのボディの黒とピックガードの白とのコントラストは陰陽太極図を思わせるが、ネイサン・ダニエルが道教に関心を抱いていたというような事実はないわけで、これは単なる偶然に違いないと思われる。
また、その曲線は雲形定規のようにも見え、そのものズバリのテンプレートがあったりするのではないかと思ったのだが、ネットの画像を探しても当たらずとも遠からじ、といった感じであった。
ボディとピックガードの曲線の重なりという面から見れば、同時代の自動車のボディとフェンダー部分の曲線の重なりと通じる部分があるような気もするが、気がする以上の決め手には欠けるのがもどかしいところである。
ショートホーンのピックガードは一般に Seal(アシカ)ピックガードと呼ばれている。その形状がアシカに見えるからだが、アシカやイルカの流線型的な体型は、これまでも様々に造形的なモチーフとなってきた。例えばロイ・スメックのウクレレにはサウンドホールがアシカの形をしたものがある。
そもそも弦楽器にはヴァイオリンに代表されるようにf字のサウンドホールが施されていて、普通は具象的なものからそれが抽象化されていくのであるが、この場合は、すでに抽象的なf字からアシカやイルカのような具象へと逆に進んでいくというわけで、このような、生物的・有機的な曲線を導入するアール・ヌーヴォー的バイオモルフィックな発想がダンエレクトロのデザインの源泉の一つであると考えることはできるかもしれない。
これらのことは要するにアール・ヌーヴォーからアール・デコへというデザイン潮流の変遷の中にあって、ダンエレクトロもそれらに影響を受けながらギターのデザインをしていたということを示すものではあるのだが、1950年代アメリカの工業製品であればそれは当然のことでもあるわけで、何ら新しい視点を与えてくれるものではないのである。
そんなわけで、まだまだあてどない思索の彷徨は続くのである。
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