●平安時代(冷泉天皇)
Anna Incident; Minamoto no Takaakira is demoted to Dazai-gon-no-sotsu and sent to Kyushu.
黒(くろ)く密告 あんた方。
969年 源満仲 安和の変 源高明
10世紀の前半には醍醐・村上天皇が「延喜・天暦の治」と称された親政を展開。
しかし、この間にも藤原忠平が摂政・関白をつとめ、太政官の上に立って実権を握った。
そして969年、醍醐天皇の皇子で左大臣の源高明が源満仲の密告によって左遷されるにおよび、藤原実頼以降の摂関常置体制が確立。
この安和の変によって藤原北家の勢力は不動のものとなった。
[ポイント]
1.安和の変(969年)で、源満仲の密告により左大臣源高明が失脚し、藤原氏による他氏排斥は完成する。
2.源高明は醍醐天皇の皇子で、儀式書(有職故実書)である『西宮記』を著した。
2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ
10世紀から11世紀にかけて、藤原氏(北家)は天皇家と外戚関係を結ぶことで、政治権力を掌握した。当時の貴族は嫁入婚が主流であり、母や母方の祖父の影響は大きかった。藤原氏はこれを利用し、( イ )の変で左大臣の源高明を失脚させて以降、摂政・関白の地位を独占した。摂関政治が確立するなかで、地方政治のあり方も変化した。
(答:イ安和)
〈2013早大・文
下線bの人物(源高明)の説明として、誤っているものはどれか。1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。
ア 字多天皇の子供であった
イ 左遷されたとき左大臣であった
ウ 儀式書である『西宮記』を著した
エ 大宰権帥として左遷された
オ 村上天皇の死後、左遷された
(答:ア ※源高明は醍醐天皇の皇子。ウ.口2つ エ.為平親王擁立を企てたとして左遷。「タ」「ラ」、オ.村上天皇の死は967年 )
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