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醍醐天皇(延喜の治)

2017-04-27 | ベック式!日本史用語集

暮れに荘園大整理。

古902年今和歌集・醍醐天皇)(日本三大実録・延喜格式)(最後の班田・意見封事十二箇条)(延喜荘園整理令


[句意]今期、(天皇)醍醐は(豊かだという)実力を隠して税を払わない12班田に延喜の荘園整理令をつきつけた、という句。


[ポイント]

1.醍醐天皇の代には、最後の班田を行い、延喜の荘園整理令を出し、『日本三代実録』、『延喜格式』や『古今和歌集』の編纂をおこない、意見封事十二箇条が提出された。

[解説]

1.藤原基経の死後、藤原氏を外戚としない宇多天皇は摂政・関白をおかず、学者菅原道真を重く用いたが、つづく醍醐天皇の時、藤原時平(899~909)は策謀を用いて道真を政界から追放した(昌泰の変(901))。

2.10世紀の前半は、醍醐村上天皇が親政をおこない、これはのちに「延喜・天暦の治」とたたえられた。

3.醍醐天皇(位897~930)の時代には、班田を励行し、延喜の荘園整理令(902)を出すなど、律令政治の復興に努力がはらわれ、また六国史の最後である『日本三代実録』のほか、『延喜格式』(907~27)や『古今和歌集』(905)の編纂などの文化事業もおこなわれた。しかし親政の合間にも、政治の実権は摂政・関白をつとめた藤原忠平(930~949)が握っており、この間の政策は藤原氏の政策ともいえる。

4.延喜の治の後半(914)に、三善清行から意見封事十二箇条が提出された。

5.その子の村上天皇(位946~967)も本朝(皇朝)十二銭の最後となった乾元大宝を発行するなど父の方針を受け継いだが、やがて都や地方の治安が乱れ、律令にもとづく政治はほとんどおこなわれなくなった。後世たたえられることになる「延喜・天暦の治」の内実はお粗末なものであった

〈2016関西大・全学部

(A)醍醐天皇は、藤原時平を左大臣、菅原道真を右大臣としたが、901年、藤原時平の策謀で、菅原道真は( 1 )に左遷された。道真は、学問・詩文に優れ、六国史の内容を分類・編年した史書『( 2 )』を編纂したことでも知られている。

 藤原時平は、政治を主導して律令制の立て直しのために班田の励行や、( 3 )の荘園整理令を出した。しかし、荘園の増加を抑制することはできなかった。この時代、地方の政治は混乱しはじめており、( 4 )は「意見封事十二箇条」を醍醐天皇に提出して対策を講じることを進言した。

(答:1大宰府、2類聚国史、3延喜、4三善清行 ※原問には選択肢30語あり)〉

〈2014明大・全学部前期

 下線部(十世紀初頭に朝廷は)(ウ)国司の行政の妨げとなる荘園を停廃する法令を発しに関する説明として誤っているものを、次のA~Dのうちから一つ選べ。

A この法令を発した天皇は桓武天皇である(×醍醐天皇)
B この法令の発布とともに、班田が実施された(〇)
C この法令が発布された時の年号は延喜である(〇)
D この法令発布の頃の戸籍には、実態を反映しないものが見られた(〇)」〉

〈2013早大・文化構想

 その後、1世紀が過ぎ、政治社会をめぐる意見を諸臣に求めた醍醐天皇の詔に応えて、三善清行は[ A ]」。

問3 空欄Aにあてはまる文はどれか。1つ選び、マーク解答欄紙の該当する記号をマークしなさい。もし、あてはまる文がなければ、記号オをマークしなさい。
  ア 17箇条の文書を提出した。
  イ 12箇条の文書を密封して提出した。
  ウ 11箇条の文書を掲示したあと提出した。
  エ 12箇条の文書を提出する予定であったが、妨げられた。」

(答:イ)〉

〈2009慶大・商

 10世紀になると、律令体制の崩壊がはっきりしてきた。(ア).違法な土地所有を禁ずる法令を出したり、班田の励行をはかるなどして、令制の再建を目指した。だが、もはや戸籍・計帳の制度はくずれてきており、牲田収受も実行不可能となっていた。914年、三善清行が[ 2930 ]天皇に提出した( c )にも、そのころの地方政治の混乱ぶりが指摘されている。」

(答:2930醍醐、c意見封事十二箇条)

問 下線部に関して、902年の(ア)違法な土地所有を禁ずる法令は何と呼ばれているか。

(延喜の荘園整理令)〉

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