祭り四日目に突入。(上図はルーヴル素描帖29葉)
最初に謝罪をしておきたい。ヤコポ・ベリーニ素描帖は膨大なヴォリュームで、クリヴェッリはその中から多くの素描を見、種々雑多の気に入り部分を理解し、取り入れ、独自解釈し、自らの絵に散りばめた。その全貌を洗うことは私の手に負えるものでは到底ないし、なによりベリーニ素描帖の図版が手元にない。よって今回は彼の「素材転用」について僅かの雰囲気だけでも味わって頂くために、ほんの触りのみ書くことにした。
今後、もしヤコポ・ベリーニの素描帖を見る機会があった折には、当記事のことを思い出して、照らしながら頁をめくって頂ければ、きっと面白いことになるだろう。
【構図と遠近法】
ヤコポのロンドン素描帖13葉・76葉及びルーヴル素描帖29葉はそれぞれ受胎告知図の実験である。いずれも、右側前景にマリアの居る建物がせり出し、左側に道や広場を設けて強調された遠近を表現し、鑑賞者の視線を奥へと吸い込ませる。ヤコポの3点の受胎告知では、画面左側の空間は全部開けているか、もしくは画面が途中で切り取られたようになっており、その空間の収束が曖昧なまま残されている。
クリヴェッリはこれら複数の受胎告知の素描を参照したに相違ないという類推を踏まえて考察をすすめる。
ロンドン素描帖76葉は、ヤコポ素描で何度か試みられている受胎告知図の中では最も完成された構図。クリヴェッリの当『受胎告知』は全体の構図及びマリアの姿勢、マリアの居る建物の形状など酷似する部分が多い。
【モチーフへの興味と転用】
■メダイヨン状のレリーフ
ルーヴル素描帖29葉は構図的にはクリヴェッリのそれと近似しているとは云い難いが、画面左中景にあるアーチに注目したい。クリヴェッリの作品ではヤコポの素描によるようなアーチ上の屋根は取り外されているものの、その彫刻装飾やメダイヨン状のレリーフなどが酷似していることから、当素描を参照したことはほぼ明らかと云えよう。
面白いのは、ヤコポ素描においてレリーフに描かれる顔は3/4正面であるが、クリヴェッリのそれは非常にリアリスティックな横顔であること。
クリヴェッリがヤコポの素描から複数の材料を寄せ集めて、それを自分流に磨き上げて発展させるという形で受胎告知を完成させたと考えると、レリーフ内の顔の角度の書き換え一つにも意味があると仮定したくなる。
ヤコポは古代ローマ時代の貨幣を克明にスケッチし、残している。ルーヴル素描44葉に正確なスケッチを、更にルーヴル素描28葉・41葉・427番などにおいてそれらを建築装飾に組み入れる形で応用している。ヤコポの素描を確かに目にしていたクリヴェッリが、そのリアリスティックな表現を追及するためにヤコポの貨幣スケッチを利用したという仮説は、決して乱暴なものではないだろう。ルーヴル素描帖29葉では遠景となっていて細部までを参照できなかったアーチを受胎告知図の中に描く為に、クリヴェッリは他のヤコポの素描の中から参照可能な図像を探し、簡略にしか描かれていなかったメダイヨン状のレリーフをヤコポ素描のいずれかに倣って描き、写実性に富む建築を表現しようとした可能性は充分にあると考えたい。
■石碑(石柱)
ルーヴル素描帖44葉・45葉には、文字が刻まれた石柱(石碑)のスケッチが残されている。従来は画面の最前列や隅のほうに自らの名前を記していたクリヴェッリが、この作品では場面の一部をなす中央の大理石の角柱にサインを刻んでいるのは特殊である。最前列の台座に「LIBERTAS ECCLESIASTICA」の文字を記入する必要があった為に従来の場所にサインをすることができなかったのであろう。そこで彼は参照した素描のイメージから、自分の名前をまるで石碑に刻むが如く堂々と画面の中央に置いてこの大作を製作した自らの存在を主張したと考えることができる。
ヤコポは建築素描だけでなく、動物や人物の素描を数多く残している。
クリヴェッリの受胎告知に関係すると考えられるモチーフは、数多くの素描にまたがって点々と存在する。そのひとつひとつを見つけ出し、ヤコポとクリヴェッリの間を繋ぐ仮説を立てることは、まるで宝探しにも似た悦びなのだ。
だからこそ、今回はまだまだ多く眠っている宝をそのままにして、読者の方々のわくわくを残しておきたい。
私が在り処を知っている宝もあるし、まだ知らない宝もあるに違いない。
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(1) -クリヴェッリの遍歴-
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(2) -当時の情勢と『受胎告知』製作の経緯-
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(3) -イコノロジーに見る宗教性と歴史性-
最初に謝罪をしておきたい。ヤコポ・ベリーニ素描帖は膨大なヴォリュームで、クリヴェッリはその中から多くの素描を見、種々雑多の気に入り部分を理解し、取り入れ、独自解釈し、自らの絵に散りばめた。その全貌を洗うことは私の手に負えるものでは到底ないし、なによりベリーニ素描帖の図版が手元にない。よって今回は彼の「素材転用」について僅かの雰囲気だけでも味わって頂くために、ほんの触りのみ書くことにした。
今後、もしヤコポ・ベリーニの素描帖を見る機会があった折には、当記事のことを思い出して、照らしながら頁をめくって頂ければ、きっと面白いことになるだろう。
【構図と遠近法】
ヤコポのロンドン素描帖13葉・76葉及びルーヴル素描帖29葉はそれぞれ受胎告知図の実験である。いずれも、右側前景にマリアの居る建物がせり出し、左側に道や広場を設けて強調された遠近を表現し、鑑賞者の視線を奥へと吸い込ませる。ヤコポの3点の受胎告知では、画面左側の空間は全部開けているか、もしくは画面が途中で切り取られたようになっており、その空間の収束が曖昧なまま残されている。
クリヴェッリはこれら複数の受胎告知の素描を参照したに相違ないという類推を踏まえて考察をすすめる。
ロンドン素描帖76葉は、ヤコポ素描で何度か試みられている受胎告知図の中では最も完成された構図。クリヴェッリの当『受胎告知』は全体の構図及びマリアの姿勢、マリアの居る建物の形状など酷似する部分が多い。
【モチーフへの興味と転用】
■メダイヨン状のレリーフ
ルーヴル素描帖29葉は構図的にはクリヴェッリのそれと近似しているとは云い難いが、画面左中景にあるアーチに注目したい。クリヴェッリの作品ではヤコポの素描によるようなアーチ上の屋根は取り外されているものの、その彫刻装飾やメダイヨン状のレリーフなどが酷似していることから、当素描を参照したことはほぼ明らかと云えよう。
面白いのは、ヤコポ素描においてレリーフに描かれる顔は3/4正面であるが、クリヴェッリのそれは非常にリアリスティックな横顔であること。
クリヴェッリがヤコポの素描から複数の材料を寄せ集めて、それを自分流に磨き上げて発展させるという形で受胎告知を完成させたと考えると、レリーフ内の顔の角度の書き換え一つにも意味があると仮定したくなる。
ヤコポは古代ローマ時代の貨幣を克明にスケッチし、残している。ルーヴル素描44葉に正確なスケッチを、更にルーヴル素描28葉・41葉・427番などにおいてそれらを建築装飾に組み入れる形で応用している。ヤコポの素描を確かに目にしていたクリヴェッリが、そのリアリスティックな表現を追及するためにヤコポの貨幣スケッチを利用したという仮説は、決して乱暴なものではないだろう。ルーヴル素描帖29葉では遠景となっていて細部までを参照できなかったアーチを受胎告知図の中に描く為に、クリヴェッリは他のヤコポの素描の中から参照可能な図像を探し、簡略にしか描かれていなかったメダイヨン状のレリーフをヤコポ素描のいずれかに倣って描き、写実性に富む建築を表現しようとした可能性は充分にあると考えたい。
■石碑(石柱)
ルーヴル素描帖44葉・45葉には、文字が刻まれた石柱(石碑)のスケッチが残されている。従来は画面の最前列や隅のほうに自らの名前を記していたクリヴェッリが、この作品では場面の一部をなす中央の大理石の角柱にサインを刻んでいるのは特殊である。最前列の台座に「LIBERTAS ECCLESIASTICA」の文字を記入する必要があった為に従来の場所にサインをすることができなかったのであろう。そこで彼は参照した素描のイメージから、自分の名前をまるで石碑に刻むが如く堂々と画面の中央に置いてこの大作を製作した自らの存在を主張したと考えることができる。
ヤコポは建築素描だけでなく、動物や人物の素描を数多く残している。
クリヴェッリの受胎告知に関係すると考えられるモチーフは、数多くの素描にまたがって点々と存在する。そのひとつひとつを見つけ出し、ヤコポとクリヴェッリの間を繋ぐ仮説を立てることは、まるで宝探しにも似た悦びなのだ。
だからこそ、今回はまだまだ多く眠っている宝をそのままにして、読者の方々のわくわくを残しておきたい。
私が在り処を知っている宝もあるし、まだ知らない宝もあるに違いない。
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(1) -クリヴェッリの遍歴-
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(2) -当時の情勢と『受胎告知』製作の経緯-
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(3) -イコノロジーに見る宗教性と歴史性-
ご存じのお宝また記事にしてくださいね。楽しみにしております。
さすがにそろそろ、手持ちの資料ではネタ切れです(笑)例のブ厚い本をきちんと読めば、もっと面白いことが判るのでしょうが・・・
仰るとおり、メダイヨンの仮説は自分でもわくわくしました。これは既往研究では指摘されていない部分で、この仮説については、教授が「ここの部分のみ、興味深い」とコメントくれました(苦)
・・「のみ」って云わんでもさ・・・
専門家のマユさんと違って、僕はもう限界です。(苦笑)例のブ厚い本がスラスラ読める語学力が欲しいです。(笑)
僕なんぞに言われても、どうしようもないでしょうが、マユさんのクリヴェッリの記事とても面白いので、次回作を楽しみにしております。
それでは、よろしくお願いいたします。
私も限界に近いです。
今回の祭りは一旦収束させて頂くということで・・
次の祭りの開催まで、ネタ?資金?を集めましょうか(笑)
一気に読みました。
この方面に学が無いもので、名前やら都市名やらがなかなか頭に入らなくて・・・、メモ取りしながら読みました(恥)。
いやぁ、面白いですねぇ。
あたしは、絵を観る時は、「ふわぁ」と「すごい」と「死ぬほど見つめる」と「興味ない」くらいしかないので、美術を学するとは、こういうことかと感銘をうけましたです。はい。
お馬鹿訪問者で、申し訳ないです。はぃ。
愉しめたようで、よかったです!
あのね、私も今回のクリヴェッリ祭りについては葛藤があったのです。画像が少なくて不親切であるうえに、一部の「知ってる人」「知らないけど興味ある人」のみを対象にした狭い記事になってしまうのではないかという恐れから。
それでも、メモ取りまでして頂いて、積極的に愉しんで頂いたことに感謝と敬意を表します。
本当に、有難うございました。
私も、絵を観るときは「好き」か「嫌い」かが最重要事項です。「判る」「判らない」は、ドウデモイイことです。美術史家は、実をいうと「判るかどうか」に価値を見出してなんていないのです。下っ端の私などは更に怠慢ですから、美術展に行った際には素通りする絵の方が多いですよ(苦笑)
「きれい」→「好き」→「じっと見る」→「記憶に残る」→「心で反芻する」→「何かの拠り処になる」
このローテーションが、たまらないのです。
どうしよう。今年始まって、3番目にうれしい。
メモは単に理解力を上げる為にとっただけですよ。
読もうとさせた魅力は、あくまでもマユさんの文章の魅力です。
ぁぁ、美術鑑賞は、恋ですね。
美術史家の目線は、愛ですね。
素敵ですねぇ。
「3番目」と云われると、1番目と2番目が無性に気になってしまうのが人間の性というものなのでしょうか。
あぁ、本当に、美術鑑賞は恋ですよ。
見返りを求めない恋ですよ。
時にはストークなんぞもしてしまいますよ。
美術館に行くときにはいつも
「あの絵に逢いに行く」と云ってしまいます。
だめなだめな、一途な恋です。
昨日、ユイスマンスの「大伽藍」を読んでいたんですが、彫刻もそうですが、そこに描かれているのが何を指すのか。当たり前のことですが、時代と地域を越えて、それを理解しないともったいないですね。勿論、それを知らなくても素晴らしいものは素晴らしいのですが、知っていてみるとさらにその素晴らしさが倍増することってしばしばあるように思います。マユさんの記事を読ませて頂いて改めてそう思いました。
あぁ、大伽藍あたしまだ読んでいないのです。
「さかしま」はバイブルなのに(笑)
知っていなくても、平等に感じることはできる。
知っていると、感じたことの裏づけができたりもする。
だけど、知ることによって感じることをなまけたりもする。
難しいものですね。