祭り二日目の今日は、当『受胎告知』の製作をアスコリ市から依頼されるにあたって、当時の情勢とクリヴェッリの動向の両面から見てゆく。
【教皇領拡大とアスコリ市の関係】
15世紀中頃、当時ナポリ王国の北端に位置していたアスコリは僅かに教皇領に入ってはいたものの、その頃のローマ教皇の統治権は特にイタリアの東側に限定されており、後に発展を示すような広域の統合はまだ成されていなかった。そのような状況下においてアスコリは事実上の独立都市であった。
1482年頃、アスコリ市は教皇シクストゥス4世の代に教皇領に入ることとなったが、ナポリ王国との境目にあたるアスコリ市の内部に反教皇勢力が台頭することを恐れてか、シクストゥス4世は「収めるべき年貢と教皇の宗主権を承認したことの見返りにアスコリ市に自治権を与えることを考慮する」との小勅書を発行した。その認可状がアスコリに到着したのが1482年の3月25日、丁度受胎告知の祝日に重なった。アスコリ市の働きかけにより数ヶ月後には自治の認可が正式に下り、市は1483年3月16日に「Libertas Ecclesiastica(=Independence under the Church)」という新体制をサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂に記念することを決定した。
【受胎告知図、二度の依頼】
上記のような経緯により、同年1483年から受胎告知の祝日はアスコリ市の自治を祝う祭日としても定着し、毎年3月25日にはアヌンツィアータ聖堂に向かう行進が行われるようになった。市はポポロ広場にある市庁舎の教会に受胎告知の主題を描いた新しい祭壇画を置くことによってこの行事を記念することに決定した。そして1483-84年頃にクリヴェッリの弟子ピエトロ・アレマンノに、次いで1486年にはクリヴェッリ本人に祭壇画製作の依頼がなされたのである。
ここで仮説が立てられる。もし1483-84年当時にクリヴェッリがアスコリに居住していたならば、もしくは交渉可能な距離にいたのであれば、技術も凡庸なクリヴェッリの弟子アレマンノにこのような記録に残る大仕事をわざわざ依頼する必要がない。このことから、1470年頃には既にアスコリを拠点として活動していたクリヴェッリであるが、恐らくこの時期に限って彼はアスコリを離れていたのであろうと推測でき、1484-85年頃に戻ってきた際に、改めて2枚目の受胎告知の製作を依頼されたものであろう。
【クリヴェッリと政治】
クリヴェッリがアスコリ市の記念である受胎告知製作の依頼を正式に受けたという事実から、当時彼がマルケ地方を代表する画家であったこと、及びアスコリの正式な市民として(少なくとも住民として)見做されていたのではないかと考えられる(※クリヴェッリはアスコリに不動産を取得している)。
また、Rushforth(1900)は、クリヴェッリが当時何らかの政治的な分野に関わっていたのではないかという大胆な推測をしている。1490年以降、アスコリ市では反教皇勢力が支配的になってくるのだが、その時期を読んだかのように1487年にクリヴェッリはフェルモに移っている(※アスコリとフェルモは若干の敵対関係にあった)。そして1490年には後のナポリ王フェルディナンド2世となるカプア王子フェルディナンドから、当時ナポリ王国領であったフランカヴィッラにおいて騎士(ミレス)の称号を受けている(※その後の作品のサインにはミレスの称号も合わせて記すようになる)。
その政治的動向とクリヴェッリの移住時期を切り離して考えることはできないだろうという類推から、Rushforthの推論もあながち極端な解釈とは言い切れない。
その後1490年以降、クリヴェッリは二度とアスコリに戻ることはなかったと考えられている。
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(1) -クリヴェッリの遍歴-
【教皇領拡大とアスコリ市の関係】
15世紀中頃、当時ナポリ王国の北端に位置していたアスコリは僅かに教皇領に入ってはいたものの、その頃のローマ教皇の統治権は特にイタリアの東側に限定されており、後に発展を示すような広域の統合はまだ成されていなかった。そのような状況下においてアスコリは事実上の独立都市であった。
1482年頃、アスコリ市は教皇シクストゥス4世の代に教皇領に入ることとなったが、ナポリ王国との境目にあたるアスコリ市の内部に反教皇勢力が台頭することを恐れてか、シクストゥス4世は「収めるべき年貢と教皇の宗主権を承認したことの見返りにアスコリ市に自治権を与えることを考慮する」との小勅書を発行した。その認可状がアスコリに到着したのが1482年の3月25日、丁度受胎告知の祝日に重なった。アスコリ市の働きかけにより数ヶ月後には自治の認可が正式に下り、市は1483年3月16日に「Libertas Ecclesiastica(=Independence under the Church)」という新体制をサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂に記念することを決定した。
【受胎告知図、二度の依頼】
上記のような経緯により、同年1483年から受胎告知の祝日はアスコリ市の自治を祝う祭日としても定着し、毎年3月25日にはアヌンツィアータ聖堂に向かう行進が行われるようになった。市はポポロ広場にある市庁舎の教会に受胎告知の主題を描いた新しい祭壇画を置くことによってこの行事を記念することに決定した。そして1483-84年頃にクリヴェッリの弟子ピエトロ・アレマンノに、次いで1486年にはクリヴェッリ本人に祭壇画製作の依頼がなされたのである。
ここで仮説が立てられる。もし1483-84年当時にクリヴェッリがアスコリに居住していたならば、もしくは交渉可能な距離にいたのであれば、技術も凡庸なクリヴェッリの弟子アレマンノにこのような記録に残る大仕事をわざわざ依頼する必要がない。このことから、1470年頃には既にアスコリを拠点として活動していたクリヴェッリであるが、恐らくこの時期に限って彼はアスコリを離れていたのであろうと推測でき、1484-85年頃に戻ってきた際に、改めて2枚目の受胎告知の製作を依頼されたものであろう。
【クリヴェッリと政治】
クリヴェッリがアスコリ市の記念である受胎告知製作の依頼を正式に受けたという事実から、当時彼がマルケ地方を代表する画家であったこと、及びアスコリの正式な市民として(少なくとも住民として)見做されていたのではないかと考えられる(※クリヴェッリはアスコリに不動産を取得している)。
また、Rushforth(1900)は、クリヴェッリが当時何らかの政治的な分野に関わっていたのではないかという大胆な推測をしている。1490年以降、アスコリ市では反教皇勢力が支配的になってくるのだが、その時期を読んだかのように1487年にクリヴェッリはフェルモに移っている(※アスコリとフェルモは若干の敵対関係にあった)。そして1490年には後のナポリ王フェルディナンド2世となるカプア王子フェルディナンドから、当時ナポリ王国領であったフランカヴィッラにおいて騎士(ミレス)の称号を受けている(※その後の作品のサインにはミレスの称号も合わせて記すようになる)。
その政治的動向とクリヴェッリの移住時期を切り離して考えることはできないだろうという類推から、Rushforthの推論もあながち極端な解釈とは言い切れない。
その後1490年以降、クリヴェッリは二度とアスコリに戻ることはなかったと考えられている。
カルロ・クリヴェッリ『受胎告知』(1) -クリヴェッリの遍歴-
結構一所懸命詠んだんだけど、シゴトの疲れが抜けず、頭に入ってきません。
夏になったら暇になるハズなので、その頃また読み直す・・・、覚えていたら・・・、きっと・・・、多分・・・。
無理をなさらないで下さい(苦笑)
これは、極々一部のマニア向けに提供された暗黒祭りのようなものだと思って頂戴・・
しかも、第二段の今日の分は、イタリアの地図と当時の画家の系譜や名前がちょびっとでも判る方を対象として書いているため(丁寧にやっていると長くなっちゃって本題に入れないから!)、まこと不親切なの。ほんとごめんね。
というわけで、コメントできる記事にビシバシどうぞ(笑)
アスコリ市に関しては、澁澤龍彦が簡単に紹介していたという記憶はありましたが、名前は覚えていませんでした。(苦笑)
クリヴェッリの「受胎告知」が、2つの祭壇画のうちの一つだということは知っていましたが、もう一人の画家がクリヴェッリの弟子だったとは意外でした。
ところで、前から疑問に思っていたのですが、どのような経緯でクリヴェッリは騎士の称号を得たのでしょうか?画家としては忘れられても、町の名士としては記録が残っていたそうですが、詳しい資料等は残っていないのでしょうか。
例の豪華本を開いてないので、それに書かれていることがもしかしたらあるのかもしれないのですが・・怠慢でごめんなちゃい。
騎士の称号を得るまでの経緯の詳細はあまり明らかでないようです。しかし、教皇領とナポリ王国とのパワーバランスを察知して寝返り、画家としての名声を名刺代わりにパトロン経由で取り入ったのでは・・という類推が容易ですね。