本来ここは観戦日記なので、こういう内容は書くべきではないのかもしれない。
それでも色々と思うことがあるので書いておこう。
端的に言ってボクシングは暴力だ。
もしボクシングをリング外で行えば即、逮捕だ。
それが格闘技として、スポーツとして受け入れられるのは
ルールが存在し、ルールが守られるからだ。
ボクシングが興行としてTVで放映されうるのは
視聴者が暴力ではなく技術を楽しむ限りにおいてだ。
もっとも、ボクサー同士の個人的因縁や背景は
勝負を彩るある種のスパイスとしては作用する。
その効果は否定すべきではない。
しかしながら、ボクサー自身の力量を超えた演出は
ボクシングという技術戦の持つ醍醐味をスポイルする。
どのような試合展開になるのかが注目されるのではなく、
どちらが勝つのか、その点にスポットライトが当たってしまう。
もちろん、ボクシングはスポーツであり、勝敗を競うものだ。
ボクシングにおける勝敗は判定もしくはKOにより決まる。
このKOというのがボクシングの華だとされる。
ボクシングが他のスポーツ、たとえば野球やサッカーなどの球技と異なる点は、
大量リードされた終盤でも、たったの10カウントで勝負がひっくり返るところにある。
また、ラウンドごとのスコアの振り分けも他のスポーツに比して不明瞭だ。
野球やサッカーであれば得点は明確だ。
ランナーがホームベースを踏む、ボールがゴールラインの内側に入る。
しかしボクシングは違う。
両者に同時に得点が入るのだ。
その得点は三人のジャッジにより優劣をつけた上で与えられるのだ。
ボクサーはこの得点でいかに相手を上回るかを想定して試合を行い、
ファンはラウンド毎の優劣を考察しながら試合を見守る。
KOとはある時、突然生まれるものではない。
KO決着の試合も往々にしてそこに至るまでの伏線が散りばめられている。
また、KOで決着が着かなくとも世界戦の12ラウンドの長丁場を堪能することは可能である。
例えば、一発の破壊力を頼みにポイント計算せず戦うファイターを
アウトボクサーがフットワークやボディワークを駆使して華麗にあしらうという構図は、
ファイター側には終盤においてもKOへの期待感が持続するとともに、
アウトボクサー側には相手をどこまで自分のコントロール下に置けるかという緊張感がある。
そこには対戦相手との間断ない駆け引きがある。
肉体的なスタミナ、精神的なスタミナの勝負がある。
それらを楽しむのもボクシング観戦の醍醐味の一つだ。
ボクシングは危険な競技だ。
相手を殴り、相手に殴られることが求められるのだ。
見る側がそれを暴力ではなくスポーツとして享受できるのは、
ルールを守り、技術を楽しむからだと冒頭に述べた。
内藤大助VS亀田大毅はどうだっただろうか。
王者と挑戦者のあまりにも対照的な背景と両者の因縁。
その部分を少しクローズアップしすぎではなかったか。
試合そのものの実況と解説もあまりにも一方的ではなかったか。
実況は試合展開を的確に伝え、解説は技術を分かりやすく語ったか。
そして一番の見所である試合そのものは世界タイトルマッチにふさわしいものだったか。
挑戦者は基本的なディフェンス技術に欠け、攻撃においても手数がまったく出せない。
パンチではなく頭とサミングで王者の傷を狙うその姿勢。
そして極めつけのレスリング行為。
実力差を埋めるための反則ではなく、実力以外で勝負したいがための反則。
王者が防衛したことでボクシングファンの溜飲は下がった。
もし、最初から最後までクリーンなボクシング勝負ともなれば、
文字通り大人と子供の試合になっただろう。
内藤が亀田を技術的に圧倒したはずだ。
しかし今回は、後味の悪い試合になったことでボクシングの攻防の妙味ではなく、
勝者と敗者、そして反則行為だけが語られる試合となってしまった。
挑戦者陣営の試合前、試合中の許されざる言動の数々と、挑戦者の若さ以前の愚かさ、
さらに公共の電波による一方的、差別的な放送姿勢が、
熱心なボクシングファン以外の層にボクシングの魅力を伝える絶好の機会を潰してしまった。
繰り返しになるが、ボクシングはスポーツとして管理された暴力である。
それを成立させるためにはボクサーのスポーツマンシップが絶対に必要だ。
ボクサーはルールを遵守した上で戦わなくてはならないし、
メディアはボクシングというスポーツの正しい姿を正確に伝えなくてはならない。
亀田一家には厳正な処分が必要だし、TBSの報道姿勢も問い直されなくてはならない。
ボクシングは本当に面白いし、素晴らしい競技なのだから。
それでも色々と思うことがあるので書いておこう。
端的に言ってボクシングは暴力だ。
もしボクシングをリング外で行えば即、逮捕だ。
それが格闘技として、スポーツとして受け入れられるのは
ルールが存在し、ルールが守られるからだ。
ボクシングが興行としてTVで放映されうるのは
視聴者が暴力ではなく技術を楽しむ限りにおいてだ。
もっとも、ボクサー同士の個人的因縁や背景は
勝負を彩るある種のスパイスとしては作用する。
その効果は否定すべきではない。
しかしながら、ボクサー自身の力量を超えた演出は
ボクシングという技術戦の持つ醍醐味をスポイルする。
どのような試合展開になるのかが注目されるのではなく、
どちらが勝つのか、その点にスポットライトが当たってしまう。
もちろん、ボクシングはスポーツであり、勝敗を競うものだ。
ボクシングにおける勝敗は判定もしくはKOにより決まる。
このKOというのがボクシングの華だとされる。
ボクシングが他のスポーツ、たとえば野球やサッカーなどの球技と異なる点は、
大量リードされた終盤でも、たったの10カウントで勝負がひっくり返るところにある。
また、ラウンドごとのスコアの振り分けも他のスポーツに比して不明瞭だ。
野球やサッカーであれば得点は明確だ。
ランナーがホームベースを踏む、ボールがゴールラインの内側に入る。
しかしボクシングは違う。
両者に同時に得点が入るのだ。
その得点は三人のジャッジにより優劣をつけた上で与えられるのだ。
ボクサーはこの得点でいかに相手を上回るかを想定して試合を行い、
ファンはラウンド毎の優劣を考察しながら試合を見守る。
KOとはある時、突然生まれるものではない。
KO決着の試合も往々にしてそこに至るまでの伏線が散りばめられている。
また、KOで決着が着かなくとも世界戦の12ラウンドの長丁場を堪能することは可能である。
例えば、一発の破壊力を頼みにポイント計算せず戦うファイターを
アウトボクサーがフットワークやボディワークを駆使して華麗にあしらうという構図は、
ファイター側には終盤においてもKOへの期待感が持続するとともに、
アウトボクサー側には相手をどこまで自分のコントロール下に置けるかという緊張感がある。
そこには対戦相手との間断ない駆け引きがある。
肉体的なスタミナ、精神的なスタミナの勝負がある。
それらを楽しむのもボクシング観戦の醍醐味の一つだ。
ボクシングは危険な競技だ。
相手を殴り、相手に殴られることが求められるのだ。
見る側がそれを暴力ではなくスポーツとして享受できるのは、
ルールを守り、技術を楽しむからだと冒頭に述べた。
内藤大助VS亀田大毅はどうだっただろうか。
王者と挑戦者のあまりにも対照的な背景と両者の因縁。
その部分を少しクローズアップしすぎではなかったか。
試合そのものの実況と解説もあまりにも一方的ではなかったか。
実況は試合展開を的確に伝え、解説は技術を分かりやすく語ったか。
そして一番の見所である試合そのものは世界タイトルマッチにふさわしいものだったか。
挑戦者は基本的なディフェンス技術に欠け、攻撃においても手数がまったく出せない。
パンチではなく頭とサミングで王者の傷を狙うその姿勢。
そして極めつけのレスリング行為。
実力差を埋めるための反則ではなく、実力以外で勝負したいがための反則。
王者が防衛したことでボクシングファンの溜飲は下がった。
もし、最初から最後までクリーンなボクシング勝負ともなれば、
文字通り大人と子供の試合になっただろう。
内藤が亀田を技術的に圧倒したはずだ。
しかし今回は、後味の悪い試合になったことでボクシングの攻防の妙味ではなく、
勝者と敗者、そして反則行為だけが語られる試合となってしまった。
挑戦者陣営の試合前、試合中の許されざる言動の数々と、挑戦者の若さ以前の愚かさ、
さらに公共の電波による一方的、差別的な放送姿勢が、
熱心なボクシングファン以外の層にボクシングの魅力を伝える絶好の機会を潰してしまった。
繰り返しになるが、ボクシングはスポーツとして管理された暴力である。
それを成立させるためにはボクサーのスポーツマンシップが絶対に必要だ。
ボクサーはルールを遵守した上で戦わなくてはならないし、
メディアはボクシングというスポーツの正しい姿を正確に伝えなくてはならない。
亀田一家には厳正な処分が必要だし、TBSの報道姿勢も問い直されなくてはならない。
ボクシングは本当に面白いし、素晴らしい競技なのだから。
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