陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

太宰治につき断片的に思うこと

2009-12-27 01:36:12 | 読書・映画・音楽
 作家・太宰治ゆかりの建物「雄山荘」が焼失した。彼の愛人、太田静子が住んでいた家で、彼女の日記が小説「斜陽」の材料と言われる。時事通信によると

「斜陽」の舞台が全焼、不審火か=11年前から空き屋、けが人なし-神奈川

 26日午前4時20分ごろ、作家太宰治の代表作「斜陽」の舞台となった神奈川県小田原市の建物「雄山荘」から火の手が上がっているのを付近の住人が見つけ、119番した。木造2階建て約140平方メートルを全焼したが、空き屋になっており、けが人はなかった。県警小田原署は、建物内に火の気はなく不審火の可能性があるとして、出火原因を調べている。

 同署によると、雄山荘は1998年ごろから空き家の状態で、門は施錠されておらず、敷地内は自由に出入りできた。

 雄山荘は昭和初期に会社社長が接客用に建設。太宰の娘で作家の太田治子さんらによると、治子さんの母太田静子さんは、雄山荘の設計者と親せきが友人だった縁で、戦時中同荘に疎開した。太宰は47年2月に数日滞在し、太宰の勧めで静子さんが付けていた日記を借り受け、それを基に同年、斜陽を書き上げたという。(2009/12/26-21:39)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009122600066


 幾つかの太宰作品を若い頃に読んだが、「走れメロス」などの短編を除き、この作家はどうも好きになれなかった。「人間失格」に代表されるように、作品から受けるイメージが暗いのである。「斜陽」は、没落華族にまつわる内容と思うが、粗筋さえあまり良く覚えていない。母親がスープを味わう場面を部分的に記憶している。

 太宰は、師の佐藤春夫や志賀直哉から痛烈に批判されたと友人から教えられた。文学者は個性が豊かで、傍若無人な面が多いからそう言う事もあったのだろう。女性関係も多彩な人らしいが、伝記を読んでいないので詳しくは知らない。

 太宰ファンによる<桜桃忌>は、毎年6月13日に行われる。今の若い人達にも太宰作品は結構人気があり、<桜桃忌>に参加する若者も多いと聞く。が、私は彼の作品が好きでないから再読する気になれぬ。それに、彼は3回も心中未遂を起こし、相手女性を死なせている。何か男らしくない人物との印象が強いのである。

 石原慎太郎氏が太宰作品と当今の世相について、興味深い一文を書いているので、全文引用したい。何か納得の行く内容である。


【日本よ】石原慎太郎 文学と世相
2009.12.7 02:52

 時代々々で人々の嗜好(しこう)も変わり、人間の感性も時代の文明に規制されて変容しよう。それを占う媒体もいろいろあるが、歌曲といった端的な表現よりも、小説という情念の複合的な所産の方が時代の深淵を覗(のぞ)かせてくれるような気がする。最近小林多喜二の『蟹工船』が若い世代の中でブームとなり識者を驚かせた。並行して太宰治の小説もそれらの世代に強い共感で読まれ幾つもの作品が映画化されている。

 こうした現象は私の知己の精神病理学者斎藤環氏の分析だと、仕事にあぶれがちのニートやフリーターといった二十代三十代のいわばロストジェネレイションの人生への不安、不満を踏まえての共感だろうという。むべなるかなという気がする。

 小説の流行(はや)りすたりなるものは、それが描く風俗も含めて時代の風や流れに染まりやすいが、さらにその芯に在る本質的なものを見逃してはなるまい。『蟹工船』の人気は組織としての企業と個人の自我の対立という図式でくくられようが、この現代における太宰治の小説の突然の人気のいわれにはもっと深く危ういものがある。

 それは太宰の責任というよりも時代の責任ともいうべきもので、大袈裟ではなしにこうした兆候は、日本という国家の衰運を強く暗示していると思われる。太宰の小説を生理的にどうにも好まない私は、こじつけではなしに、こうした世の中の兆候を好まないし危ういものと思う。

 太宰の小説そのものは好き嫌いの対象たりえても危険なものではないが、それを極めて好むという現代の風潮には大層危ういものがある。かつて三島由紀夫氏は「太宰のかかえている問題なんぞ、毎朝冷水摩擦とラジオ体操をしていればなおってしまう」といっていた。いい得て妙だが、それを極めて好むという今の世の風潮はなかなかラジオ体操くらいではなおるまい。

 太宰に重ねていえば、彼は何度も自殺、それも一人で死ぬ度胸がないから女を巻き添えに心中を図った。最初は自分だけは生き残ったが相手は殺してしまい、最後の最後は情死して果てたが、この国も実は今のままでいけば衰弱のはてに自殺しようとしているように思えてならない。

 彼の小説を好む現代の若い世代はその兆候を漠然と予感して、彼とのアイデンティティを抱えているのではあるまいか。

 彼等がしきりに共感する太宰治の自意識の構造とは、自己否定による、実は自己愛。自己嫌悪による、実は己への愛着だが、私にはそれがなんともいじましく好きにはなれない。太宰の作品についての好き嫌いはあくまで個人のことだが、それが国家そのものの時代的性格となれば看過はできまい。

 さらに太宰の虚弱な性格は、その跳ね返りとして他人からの説得を受け入れられない。具合の悪いことはへらへら笑って聞き流す。三島氏はある時彼の催していた会合にわざわざ出かけていき、「僕が今日ここへ来たのはあなたが嫌いだからですよ」と敢えていったら太宰はにやにや笑ってみせ、「それは君が、実は僕のことが好きだからだよ」といったそうな。そうした姿勢での自己平定、自己満足。これは他国からの愚弄を愚弄と受けられずに過している今の日本に酷似している。

 これも昨今の日本のメディアの総じての日本論に酷似している。

 これは実は対人恐怖症のメカニズムだと斎藤氏は分析するが、極めて日本人的な自意識のパターンともいえる。日本人の半分近くには対人恐怖症が潜在しているそうだが、それは当然外部からの自己遮断をもたらし限られたコミュニケイションをしか享受しえない。その結果日頃感じている孤独感は自業自得のものだが、それを自ら克服する意欲を持ちにくい。

 国家としては、それで誰かを巻きこんでの心中とはいくまいが、今日の日本という国家の態様は、無為と愚痴の果てに野垂れ死にする浮浪者に酷似しているといえそうだ。

 こうした内向性からの蘇生(そせい)はいつも外からの衝撃を安易に待つ、太宰の場合には文学賞を渇仰し、そのためにあられもない哀願の手紙を文学の先達たちに書き散らしたが報いられはしなかった。この国の場合には、過去さまざまな外圧に屈して多大な自己犠牲を強いられてきた。

 その根底には被虐に通じる民族的な受動性がある。その民族性とは、前にも記したが日本の特異な風土がもたらしたものだ。日本を取りまく海は世界で最も危険な水域で、その証しとして、新聞やテレビに載る天気図に、年平均して毎日複数の低気圧、つまり嵐が記載されているような国はどこにもありはしない。加えて毎年二十近い台風が襲ってくる。ゆえにも日本を取り巻く海は世界一予測が困難で恐ろしい。私は世界中の海でヨットレースをしてきたからよくわかる。

 かつて新しい文明を求めて大陸に渡って勉学した遣唐使、遣隋使たちが渡航の度に払った犠牲の痛ましさがそれを明かしている。

 周囲を海に取り囲まれたこの国に住む人間たちの性格は故にもその海の険しさに抑圧規制され、あくまでも受動的な、自己主張に乏しいものになってきた。それは裏返すと冷静な相対感覚を欠いた被虐感に繋がっていく。

 それを表象するのが、昨今の日本のメディアの傾向で、しきりに他人の弱点や挫折を暴いて喜ぶ嗜虐性は、実はそのままひっくり覆って社会あげての自虐性の露呈でしかない。

 例えば不可欠な日米関係についてもアメリカの大統領の滞在期間が短いというだけで、世間体にこだわり自虐的に「日本パッシング」などと唱え回るが、その克服に何をするかなどという案は一向に出てこない。

 こうした兆候は所詮「弱者」のものでしかないが、太宰文学の流行が示す若い世代の、弱々しさへの時代的な共感は彼等が担うはずの次の時代のこの国の衰運を予見させるような気がしてならない。

 自己否定に依る自己愛も一種のナルシズムかも知れないが、それは自惚(うぬぼ)れにもならず、いたずらな内向をそそるだけで何を生みだすこともありはしまい。

 さてこの閉鎖的な状況の克服のために我々は一体何を試み志したらいいのだろうか。将来私たちを足下から掬(すく)うような途方もない外圧が到来するかも知れぬ可能性はあり得るが、窮余の策としていたずらにそれを待つということでは国家民族としてはいかにも情けない。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091207/acd0912070252003-n1.htm
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3 コメント

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ありがとうございます。 (unerose)
2009-12-27 08:53:13
 ときどき拝見させていただいております。いい音楽を聞かせてもいただいたり。
 今朝もよいものを読ませていただきありがとうございました。
 私は、太宰の中に、自分と共通する弱さがあると感じ、それを克服できないまでも、それを肯定してはいけないという思いを常にもってきました。周りの人をひどく不幸にしてまで、その存在に価値がある芸術などそんなに多くはない気がします。
 今から、帰郷いたします。よいお年をお迎えください。
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恐縮です (茶絽主)
2009-12-28 15:19:00
unerose 様

 コメントを有難うございます。
 太宰は、所謂「無頼作家」の一人なのでしょうが、何時も女性を巻き添えにして身を処すると言う意気地無さが根底にあると感じます。三島由紀夫が彼を嫌ったのは分かるのです。
 生意気なことを言わせて貰えば、太宰の芸術的苦悩は、芥川龍之介や田中英光に比べると浅いように感じます。
 どうぞ、故郷で良い新年をお迎え下さい。
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Unknown (アリョーシャ)
2016-11-11 23:07:07
現代、太宰さんを精神医学てきな観点から、心理解剖したり、実は、実は、と分かった様に論じる人を多く見ますが、そういう自然と自己肯定できる人々は決して彼を理解できないでしょう。本当の意味で共感できる人は少ないです。幼少期に芯の部分が傷つけられたひとでないと。
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