陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

零戦を生み出した技術者:堀越 二郎

2006-09-26 01:37:27 | 熱意ある技術者
 今月30日を以て、国産初の旅客機YS-11が完全引退する。現在、日本エアーコミューター(JAC)が3機保有し、福岡、高知龍馬、徳島、鹿児島空港間に就航している。

 YS-11の歴史・設計思想は、 Wikipedia に詳しい。昭和37年(1962)7月に初飛行、昭和40年(1965)4月より航空会社へ納入開始されている。日本の空を41年間に亘って翔巡り、活躍した。耐久性のある安全な旅客機として世界的な評価も得た。

 この航空機の設計には、木村秀政氏をリーダーとして5人の卓越したメンバーが当たった。その中の一人、堀越二郎氏(1903-1982;享年79才)の技術者としての足跡を述べたい。

 大東亜戦争初期に、主役として活躍したのは<零戦>(ゼロファイター)であった。戦後60年を経過した今なお、我が国航空マニアの零戦に対する人気は衰える事が無い。兵器に対し些か不謹慎ではあるが、技術を越えた芸術品と言う人さえいる。この戦闘機は、航空機の歴史に対して深い理解を持つ欧米の関係者からも、熱い想いで高い評価を受けているのだ。私は、1982年にワシントンのスミソニアン宇宙航空博物館を訪れた時、かつての敵米国がそこに零戦を完全な形で保存展示しているのを見て、言い知れぬ感慨を覚えた。

 零戦の制式名称は、<零式(れいしき)艦上戦闘機>(海軍)で、これは皇紀2600年(1940)のダブルゼロに因み名付けられている。この制式化された年、つまり昭和15年における重慶・成都近辺の爆撃機護衛戦で、当時の蒋介石軍が用いていた米国製やソ連製戦闘機に対し、零戦は圧倒的な強さを見せてその初戦を飾った。以後3年間、太平洋戦争中期に至るまで、その空戦的優位性は全く崩れる事が無かった。

 零戦の大きな特徴としては、早い速度と軽快な運動性(空技性)に加え、中形爆撃機並みの大きな航続距離(約2200km;増槽無し)、そして強力な火器を持っていたことである。爆撃機の援護で遠距離目標上空へ出撃し、敵の迎撃戦闘機と戦いながら制空権を確保して、悠々と基地へ帰還する事が出来た。

 昭和5-6年(1930)まで、日本の軍用機と言えば殆どが欧米からの輸入またはコピーであった。それから6年後に、朝日新聞社の所有する<神風>機が東京-ロンドン間1万5357kmの連絡飛行を行い、世界を驚かせた(昭和12年=1937)。これは、三菱重工製の陸軍九七式司令部偵察機と同型機である。

 昭和13年(1937)5月、東大航空研究所は、いわゆる<航研機>により、周回飛行距離1万1600km、連続滞空時間62時間22分の世界新記録を作った。それに用いられた動力は、川崎BMW水冷16気筒エンジンであったが、日本の航空機技術が欧米のそれと遜色が無いことを示す好例であった。

 更に2年後、向う所敵無しの零戦と言う高性能戦闘機を生み出し、再び世界を驚かせたのは、1人の天才の努力と海軍からの惜しまぬ技術支援の賜物であった。この零戦の生みの親は、当時三菱重工(株)名古屋航空機製作所に勤務した堀越二郎技師である。

 小福田皓文氏(終戦時海軍中佐、後に航空自衛隊空將を歴任)は、旧帝国海軍航空技術の推移を次のように分けている。陸軍軍用機も大凡並行する形で発展したが、海軍の方が航空技術に関してはるかに熱心であった。

 第一期 萌芽時代(明治40年-大正5年;10年間)
    外国航空機の導入、調査
 第二期 育成時代(大正6年-昭和6年;15年間)
    外国航空機の模倣、航空本部設置、航空母艦導入
 第三期 自立国産時代(昭和7年-敗戦;13年間)
    日本独自の技術による軍用機設計と
    製造(三菱、中島、川西中心)

 第三期の自立時代に、堀越は九六式艦上戦闘機と零戦の設計・改良、局地戦闘機「雷電」の基本設計、艦上戦闘機「烈風」の設計に関与したのである。彼独自の設計思想もあったが、同時に機材として超高性能ジュラルミン、あるいは超々高性能ジュラルミンの国産化成功にバックアップされた側面もある。

 堀越は、明治36年(1903)すなわちライト兄弟が初飛行した年に群馬県藤岡市近郊の農家に生まれた。当時の多くの男の子がそうであったように、日露戦争勝利を受けて、軍事的な事が好きで、少年向けの兵器書籍などに大いに親しんだ。ライト兄弟の冒険飛行後15年で、早くも飛行機は戦術兵器として欧州大戦の西部戦線で用いられた。そうしたことが刺激となって、大正13年(1924)4月、堀越は一高を卒業し東京帝国大学工学部へ進む時、当時設置されたばかりの航空学科を選ぶ。

 当時の海軍は、ワシントン条約により八八艦隊案を大幅に修正されたので、巨大艦に頼らない航空戦力の技術的充実を図った。それは国策として了承され、基礎教育充実を図るために東京帝国大学に航空学科を置くことになったのである。堀越と共に入学した学生は26名で、同期生に木村秀政などがいる。

 昭和2年(1927)3月、航空学科を首席で卒業した堀越(24歳)は、三菱内燃機(株)名古屋航空機製作所に入社し、設計係として飛行機設計に関する実技的訓練を受けた。飛行機の性能予測、機体強度の計算、部分的な設計などである。同社は、翌年三菱航空機(株)と名称変更した。社命により、1年半程ドイツとアメリカへ出張し、飛行機会社で見学、調査と討論をする経験をした。当時、三菱はユンカース社(独)やカーチス社(米)と技術提携をしていた。

 昭和7年(1932)に、海軍は七試艦上戦闘機(艦戦)仕様を提示して、三菱と中島飛行機に競争試作を命じる。三菱では、この年結婚したばかりの堀越(29才)が、七試艦戦の設計主任に任命された。この時、堀越の設計構想は次のようであった。

 片持ち式低翼単葉型;
 機体:セミモノコック金属板張り;
 翼体:麻布張り

 翌年に完成したこの飛行機は、テストの結果性能未達で採用にならず、中島飛行機も良い試作機を作れなかった。つまり、両者とも失敗したのである。

 次いで、昭和9年(1934)2月、海軍は航空母艦艦上発着を条件としないで、より性能の高い9試単座戦闘機(単戦)競作を命じて来た。三菱では、この試作についても堀越(31歳)を設計主任として当たらせる。彼は、世界の趨勢が全金属製航空機の製造に向っていることを読み取り、七試艦戦で採用した考えを更に発展させた。すなわち

 片持ち式低翼単葉型で総金属製;
 流線形を採用するが着陸脚は露出;
 単列星形エンジン採用;
 沈頭鋲(埋め込みネジ)採用;
 機体材料:住友金属超ジュラルミンSDHの採用;
 翼形:逆ガル翼の採用

 当時の三菱には、自社製エンジンで適合するものが無かったので、会社幹部の了解を得た上で、ライバル企業の中島製<寿5型>を導入した。

 こうして今までには無い精悍な単座戦闘機が出来上がった。最高速度は要求仕様をはるかに越えて450km/時に達し、当時の最速を記録する。様々な理由から、逆ガル翼は水平翼へ変え、一部仕様変更を行って九試単戦は昭和11年に海軍に採用されて、九六式艦上戦闘機として制式化された。この戦闘機は、約1000機が製造されている。

 昭和12年(1937)10月に、堀越(34歳)は新たな試作命令を受けた。すなわち、有名な十二試艦戦計画である。要求は実に過酷なものであった。最大速度500km/時以上、航続時間6-8時間以上、運動性は九六式艦戦に劣らないこと、20mm機関砲を装備などである。堀越は要求の何処に重点を置くかで悩んだが、まずエンジンを決めなければならない。今回は、胴体の太さと重量から三菱製の星形エンジン<瑞星(ずいせい)13型>を選んだ。出来るだけ海軍からの要求性能を持たせようとまず全体デザインを行い、九六式艦戦を参考にして次の設計仕様案を決めた。

 片持ち式低翼単葉型で総金属製;
 流線形で着陸脚は引き込み方式;
 単列星形<瑞星>エンジン採用;
 沈頭鋲(埋め込みネジ)の継続採用;
 定回転可変ピッチ型2翅プロペラの新採用;
 水滴型風防の採用(視界確保の為);
 流線形増設燃料タンク導入;
 無線帰投方位測定器の装備

 一方、彼は設計課長の服部譲次と共に、十二試艦戦の設計チームを編成した。それは、計算班、構造班、動力艤装班、兵装艤装班、降着装置班からなり、それぞれ3-9名の班員を置いた。総勢30人である。

 上記の設計方針は、各班長の意見も聴取の上、堀越が調整して作られたものである。それに基いて、全体デザイン図を示しながら彼は各班長へ細かく指示し、細部の設計に入った。班長と相談しながら、各班から出る設計図を全てチエックし、変更した部分は別な班に的確に伝え設計し直しさせる。設計図は3000枚以上になった。全体重量(燃料、弾薬を除く)を1534kgと概算して、それに対し1gでも減るように、各部材に穴を空け、パイプの径を細くした。考えに考えを重ねて、総重量を減らして行ったのである。丁度この時期に、住友金属が開発に成功した超々ジュラルミンを機体部材として採用した所、これは約30kgもの重量減少に繋がった。

 1年後、実物大のモックアップ模型を作り上げ、海軍担当者に示してから機体を組み上げて行った。試作命令受領後1年半を経た昭和14年3月、試作1号機と2号機の組み立てが完成、岐阜県各務原(かがみはら)飛行場でテスト飛行が行われることになった。名古屋市内の三菱工場から各務原飛行場までは、曲がりくねった砂利道で約48km離れている。機体を二分割した上、牛車で24時間かけてこれを運搬する。牛車は、運搬中に牛が暴れないことを理由として選ばれていた。

 この牛車による飛行機運搬は、九六式艦戦の生産時期以降、戦争中も延々と続いた。最新鋭のジュラルミン製戦闘機を時速3km以下でのんびりと牛車が運搬するのである。将に滑稽としか言い様が無い姿だ。戦争中にこれではまずいと東北・北海道産ペルシュロン馬を用いて搬送時間を12時間と半分としたが、姑息な改善に過ぎない。この温和で力の強いペルシュロン馬を購入するに際して、三菱は通常の2倍の価格(当時の金で2000円程度)で購入したため、現地農民から訴追された。戦場ではパイロットが命を懸けて闘っているのに、一方ではその戦闘機を運ぶ馬の値段が高いと製造会社が訴えられたのである。

 何故、三菱工場に併設する形でテスト飛行場を設けたり(小さな飛行場はあった)、あるいは各務原までの道路拡幅と舗装工事をしなかったのか、不思議である。この辺に、局部の向上を集中して図るが全体を見ようとはしない日本人の体質が現れているのかも知れない。但し、これは堀越技師の責任では無い。

 4月1日の初テスト飛行は大凡上手く行き、十二試試作機はその美しい姿を大空に浮かべた。速度も500km/時を越えることが確認された。たが、飛行中振動があちこちに現れた。また、上昇下降の舵が効き過ぎるとの指摘があった。プロペラを3枚翅に変え、エンジンマウント方式を変えて振動低下を行った。舵の効き過ぎは、堀越が考え抜いて舵ワイヤーシステムの剛性低下方式を始めて導入した。速度が大きい時に昇降する際は操縦士が大きく操縦桿を動かし、速度の小さい時は小さく動かすと言う、人間工学的な改良である。これにより、十二試の操縦性は著しく改善された。

 細部の設計手直し、繰り返し行われたテスト飛行、衝撃試験や振動試験の結果を反映させた改善などを行って、十二試は昭和14年10月に海軍受領となった。初期設計以来約2年を要したのである。この年の暮れから海軍への量産納入が始まったが、エンジンは中島製<栄>型に換装された。年を明けた3月末までに30機近い十二試艦戦が納入されている。

 しかし、昭和15年(1940)4月17日になって、横須賀海軍航空隊で急降下テスト飛行を行っていた十二試は分解事故を起こし、操縦士が死亡した。その原因は、海軍航空技術廠の松平技師は不眠に近い状態で原因糾明を行い、後尾翼昇降舵のフラッタ(風速により旗めく現象)が原因と突き止めた。堀越は、亡くなった操縦士に深く詫びて直ちに改善を行った。

 7月末、十二試艦戦は制式化され、前述のように<零式艦上戦闘機>と命名された。その後、落下増設タンクの改良や燃料ベ-パーロックに対して改善がなされている。これらは航続距離増大を確実にするためであった。

 9月に入って、堀越は中支戦線へ派遣された零戦編隊(13機)が無傷で敵機27機を撃墜する報道を読んだ。勿論、機種名、機数などは伏せてあったが、堀越には自分の設計した戦闘機であることが分かっていた。高速を持ち旋回性能に優れた零戦は、ポリカルホフI-15(複葉機)やI-16に楽勝したのである。昭和15年の暮れまでに約120機の零戦が三菱から海軍に納入された。

 明けて昭和16年(1941)、4月に名パイロットと言われた下川万兵衛大尉が、零戦のテスト飛行中に機体破壊が起り殉職した。彼は零戦の性能向上、安定性増大に大きな寄与をし、堀越とも親しかったので大衝撃であった。この破壊原因も、1年前の事故同様航空技術廠の松平技師により詳しく解明された。今度は、主翼付属の補助翼を制御するバランスタブがフラッタを起こしたのである。

 松平は、模型を用いて機体の剛性分布を明瞭にし、従来の流体力学的計算では分らなかったフラッタ限界速度が予想よりも著しく小さいことを明らかにした。失意の堀越は、早速零戦に対策を行ったが、この事故の意義は大きかった。海軍は、全ての海軍機について、風洞を用いて実際のフラッタ限界速度を測定し直し、その運用を変えた。また、その結果は陸軍にも伝えられ、航空機全体のフラッタ安定性が図られた。

 昭和16年8月末の統計では、約1年間に中国戦線において零戦が撃墜・撃破した敵機数は266機に達し、損害は2機(対空砲火による)のみであった。この圧倒的優位は昭和17年秋の太平洋戦争前期まで続くことになる。

 堀越は、零戦の改良、下川の死、十四試局地戦闘機計画(後、「雷電」となる)が重なり、過労で9月から2ヶ月休業した。戦闘機設計主任の業務が堀越の身体を蝕んだとも言える。十四試局戦計画は、他の技師にバトンタッチした。

 更に真珠湾攻撃のあった12月末からは、再び2ヶ月程肺炎のため鎌倉で療養生活に入った。こうした体力の低下は、九六艦戦や零戦を生み出した時よりも著しく精彩を欠き、十四試局戦設計には集中力を発揮出来なかったと思われる(事実、彼は設計主任を交代している)。

 昭和17年4月には、十七試艦戦(「烈風」)計画が始まり、復帰した堀越は再び設計主任となったが、相次ぐ零戦の改良依頼、「雷電」の生産改良、航空機材料不足などで追われて、「烈風」設計進行は進ちょくが著しく遅れた。この零戦後継機とも言える高性能機「烈風」は、復列星形18気筒(2000馬力)のエンジンを積み、最大速度630km/時、定速4翅プロペラ、零戦と変わらない空技性を持つとされたが、量産化計画に失敗があり、敗戦までに僅かに8機が製造されたのみであった。

 昭和18年からは、グラマンF6Fなどの零戦対抗有力機が現れ、操縦士防護が弱く、ガソリンタンク自閉システムの無い零戦は苦戦を強いられる。これらは戦争末期になって急きょ対策されたけれども、パイロットの犠牲は取り返しがつかない事態を招いた。こうした改良零戦を含めて、敗戦を迎えるまで1万123機が作られた。これは、一機種としては、我が国最大の生産台数である。

 昭和19年末からは、名古屋にB29による空襲が相次ぎ、工員にも相当の犠牲者が出て航空機製作は困難を極めた。堀越らは松本へ疎開し、そこで終戦の詔勅を聞くことになる。この年42才になった掘越は、航空機設計の人生が実質的に終った事を自覚していた。

 戦後、堀越は三菱重工本社に勤務し、工学博士の学位を得た。昭和35年頃からYS-11の設計などに関与した。昭和38年(1963)に60歳で会社を退職後、各大学の教授や講師を努めて後進に航空力学や機体設計を教えた。その著書に「零戦」がある。
 昭和57年(1982)1月、79歳で逝去した。

 堀越は、優れた航空機設計者であり、天才的で集中心に富んでいたが、自らを誇ることは無かった。また、部下達を良く指導して、目標達成に導く良いリーダーであった。倫理観に溢れた技術者と言える。それに加えて、航空機は製作する側とそれを操縦する側が、良く理解し合い協力しなければその機能を十分に発揮しないことを早くから知っていた。操縦する側、すなわちユーザーの意見を反映させつつ戦闘機をつくり出し、最後まで面倒を見る姿勢を貫いた。

 三菱自動車(株)は、この技術の集積と言える零戦を作っていた場所で、乗用車やバス・トラックを製造している。2004年5月、リコールの失敗で強く企業責任を問われ、四面楚歌の状態を経験した。もし、この会社の車軸ハブ設計やクラッチ設計、エンジンを設計するエンジニア達にかつての堀越らのような技術者としての誇りと責任感があったなら、ここまで行かなかったと思われ残念でならない。

(参考)
堀越二郎/奥宮正武:「零戦」(1952、日本出版共同;1992、朝日ソノラマ)、
堀越二郎:「零戦-その誕生と栄光の記録」(1970、光文社;1984、講談社文庫)、
吉村昭:「零式戦闘機」(1968、新潮社)、
柳田邦男:「零式戦闘機」(1977、文芸春秋)、
小福田皓文:「零戦開発物語-日本海軍戦闘機全機種の生涯」(1980、光人社)、
柳田邦男:「零戦燃ゆ」飛翔編、熱闘編、渾身編(1990、文芸春秋)、
M.ケイディン/加登川幸太郎訳、「零戦-日本海軍の栄光」(1984、サンケイ出版)、
小川利彦:「日本の傑作機」(1997、光人社NF文庫)、
堀越二郎:「零戦の遺産」(2003、光人社NF文庫)、
雑誌「丸」編集部編、「図解軍用機シリーズ5、零戦」、(1999、光人社)

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1 コメント

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文献紹介します (猫の誠)
2019-08-12 01:28:22
参考資料に掲げられていないので、元航空エンジニヤが書いた下記図書の一読をお勧めします。堀越二郎氏の人となりについても詳しく書かれていいますので。
技術者たちの敗戦・前間孝則著・草思社文庫

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