瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

肉体を持つということ

2017-01-20 18:29:53 | 随想
キンコン西野「えんとつ町のプペル」の無料公開についてのスポニチの記事から一部をコピペ。




 西野は批判も認めた上で「誰でも無料で読めるようにした途端、amazonの売り上げがグイグイ伸びて、ついに書籍総合ランキングで1位になりました」と報告し、さらに、この事象を「面白い事件」と表現。人が旅行をする際、テレビやパンフレットなどですでに知っている場所にお金を払って行くことを例に出し、無料公開しながら売り上げが上がった一件を「ビジネス的な観点から切り取ると、『人は確認作業で動く』『人は知っているモノを買う』と言えるでしょう」と結論付けた。




無料公開についての賛否もあるが、ここではそのことは問わない。ここで扱うのは「人は確認作業で動く」「人は知っているモノを買う」という見方について。

なるほど、この見方はその通りで人の保守的な一面がそうさせるのである。
が、人の行動というのは一つの原因によって説明できるとは限らないのはもちろんである。さまざまな要因によりその行動をとる。西野の指摘はその行動の要因の何割かであるには違いないがすべてではない。
では、ほかの要因とは何か?
それは私たちが肉体を持つ存在だからである。

肉体を持つとは感覚器官を持つということである。情報を得るとき、より多くの感覚器官を使って情報を得る方が実在感を得やすい。実在感が増せばそのぶん感動が増す。

無料公開されたものは画像と文字情報である。これだけでも感動はできるが、物体としての絵本を手にした方がより感動できるのである。本の手触りによる触覚、ページをめくる音、聴覚。そして紙とインクの匂い、嗅覚。
人は感覚器官を総動員してそれを感じたいのである。だから無料公開しても、というより無料公開したからこそ感動した人たちはそれを手にしたいと思うのである。

(そこには物欲もからんでくるが、ここではそのことにまで話を拡げない。本論から逸れるからである。)


肉体の感覚器官を総動員して情報を得る。情報量が多いほど感動できる。ならば、肉体があるからこその感動か。

肉体があるからこその感動というのは肉体が得られる情報に限界がある以上、感動にも限界がある。私たちは可視光線しか知覚できないし、聴き取れる周波数も限られる。ほかの感覚器官もその能力はしれている。

より深い感動を得るには肉体を超える必要がある。
が、残念ながらその方法を私は知らない。
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