カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

太陽フレア

2024-05-10 19:52:41 | 時事
 極度に大きな太陽フレアが連日、観測されているようです。これが、何に影響するかは、よくわかりません。ここ最近、Twitterで騒がれていたのは知っていましたが、大手紙にも載ったみたいですので、真実なのでしょう。

 とりあえず、地球上空でオーロラは増えるのでしょう。他の何に影響するかは、よくわかりません。

 中には地震が起こる、太陽活動が盛んな時には戦争や革命が起きやすいと言う人たちもいますが、私は太陽フレアに関連して、予言めいたことを書きたくはありません。そういう予想が当たっているかどうかも知りません。

 でも、メディアに載る規模にはなっているようですので、知っておく価値はある話なのかな、と思いました。ただし、太陽フレアに関わる予言はよく外れますので、あまり脊髄反射するのも危険ではありましょう。興味がある方は、ご自分で調べてみて下さい。






9-3-9  デ・ウィットの苦悩

2024-05-10 18:43:19 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
9 デ・ウィットの苦悩

 さて前述のように、一六四八年ウェストファリア条約で、オランダの独立も国際的に承認され、平和も回復された。
 しかし、ときの総督、オランイェ家のウィレム二世(在職一六四七~五〇)は、さらにスペインとの戦いをつづけようとしたが、これは、南のスペイン領ネーデルラントを支配しなければ、オランダは安全でないと考えたためである。
 これに反対したのは、商業上の利益を第一とし、平和を欲するアムステルダムをはじめとする、ホラント州の諸都市であった。
 そこでウィレム二世は一六五〇年、ホラント州の指導者六名を逮捕し、アムステルダムを夜間に急襲しようとした。
 アムステルダムに至る街道には、途中、何本かの道が交差した地点があり、迷いやすかったので、交差点近くの外科医の家の窓に、道しるべの燈をつけることにしておいた。
 ところがその外科医がうっかりして、十一時に燈を消してしまったため、軍隊が道に迷って機を逸した。
 一方、アムステルダムは軍隊の接近を察知して市の門を閉じ、周囲の土地に水を氾濫させて防衛態勢をとった。
 このためウィレム二世の急襲は失敗におわり、その数ヵ月後、彼が急死し、中央集権の夢はついえさった。
 彼の死後一週間目に、のちのウィレム三世(在職一六七二~一七〇二)が生まれたが、政治的空白ができ、これがホラント州の貿易商人進出の絶好の機会となった。
 彼らは州主権を主張して、分権的共和制の実現を期した。
 これを指導したのが、ヤン・デ・ウィット(一六二五~七二)で、事実上一六五三年以後ホラント州の宰相というべき地位にあった。
 そしてこのころ、オランダは、ピューリタン革命中のイギリスと交戦状態にはいったのである。
 オランダは独立戦争のときには、イギリスの援助をうけてスペインと戦った。
 しかしスペインの勢力が衰えてくると、オランダとイギリスは貿易、植民地支配の主導権を争う二大海上国家として対立するにいたった。
 この争いの過程で、一六五一年十月、イギリス議会は航海法を制定した。
 これは、イギリスやその植民地に輸入される品物の輸送を、イギリスや産出国などの船舶に限ることによって、オランダの仲継ぎ貿易に打撃分あたえることを目的としていた。
 ふつう航海法はクロンウェルの名とむすびつけられているが、彼はむしろその制定に反対であり、イギリス貿易商人たちの発想にもとづいたものである。
 これによって両国の関係はますます悪化し、一六五二年、第一次イギリス・オランダ戦争(一六五二~五四)となった。
 イギリス海軍優勢のうちに、この戦いは終わったが、その後、王政復古時代に第二次(一六六五~六七)および第三次(一六七二~七四)のイギリス・オランダ戦争が行なわれている。
 この第一次、第二次の戦いにおいて、その指導に、講和に、中心となったのはデ・ウィッ卜である。
 彼に登用されたデ・コイテル(一六〇七~七六)が一六六七年、オランダ艦隊をひきいてテムズ川にはいり、イギリス側に損害をあたえ、ロンドン市民のドギモを抜いたことは有名である。
 第三次の戦いも、デ・ウィットがこれに当たらねばならなかった。
 しかもこのときは陸においても、ルイ十四世のフランス軍の侵入をうけていたのである。
 国家存亡の危機にあたり、ふたたびオランイェ家をいただいて難局にあたろうという、国民感情が強くなった。
 一方、国難を招いた責任者として、デ・ウィットに対する非難が高まり、一六七二年八月、彼は職を辞した。
 同月二十日、彼は暴徒によって虐殺される。
 ブルジョワ共和主義者で、教養人、寛容で無私、ひたすら国事につくしたこの政治家は、海にイギリス、陸にフランスによって挟撃される小国オランダの苦悩を、一身に背負うように倒れたのである。
 一方、総督となったウィレム三世は、堤防を破壊して洪水戦術をとるという背水の陣をしいて、フランス軍に対抗した。
 またデ・ロイデルが指揮するオランダ艦隊は、イギリス海軍の侵入を防いだ。
 やがてフランスの強大化を恐れる諸国の動向によって、国際状勢も変わり、オランダは一六七四年イギリスと、七八年フランスと講和する。
 イギリスとの和平後まもなく、ウィレムはのちのイギリス王ジェームズ二世(一六八五年即位)の長女メアリーと結婚した。
 この関係でウィレムは妻とともに一六八八年、名誉革命のとき、イギリス王に迎えられた。
 彼はその後も国際政局の中心として、とくにフランスの侵略戦争に対抗する。
 しかしオランダ自体の国力は、たびたびの戦争をへて、十八世紀には急速に衰退に向かっていった。



フィレンツェの聖アントニノ大司教      St. Antoninus Archiep.

2024-05-10 17:27:36 | 聖人伝
フィレンツェの聖アントニノ大司教      St. Antoninus Archiep.      記念日 5月 10日


 イタリアのフィレンツェは古来数多の名高い美術家、政治家、文学者等を生んだ由緒ある土地として知られているが、そればかりでなく、同市を揺籃とした聖人も少なくない。本日記念する聖アントニノもその一人である。

 彼がフィレンツェ市のビエロッチ家に生まれたのは1389年のことであった。受洗の際にはあの有名なパドヴァの聖人にちなんでアントニオと命名された。然るに彼は生来背丈が低かったので、人々はこれを「アントニノ」即ち「小さいアントニオ」と呼んだ。しかし体こそ小さけれ。智慧や意志などの精神力は至って強く、彼は学問や善徳の方面にかけては、早くから著しい進歩を示したのである。

 15歳の時、ドミニコ会の名ある説教家ドミニチ師の説教を聞いた彼は、一方ならず感激して修道者となる決心を起こし、早速同師に入会を申し込んだが、師はなかなかこれを許さず「グラチアノ教令集を暗唱してから・・・」と言って彼をひとまず家へ帰した。グラチアノ教令集と言えば、極めて大部な書物でもあり、内容も至難なもの故、少年には記憶に努める勇気がなかろうとドミニチ師は考えたのであるが、それから一年ばかりたつと、アントニノはフィエソリにあるドミニコ修道院に師を訪ね「仰せの通り勉強して来ましたから、試験して下さい」と申し出た。で、いろいろ問答して見ると、教令集を全部そらんじているばかりでなく、他の質問にも目から鼻に抜けるような返答をするので、ドミニチ師はその根気と頭のよいのに感心して、彼の入会を快く許可した。

 修道者になってからのアントニノはその聖徳においては一院の模範と仰がれ、間もなくローマにあるミネルヴァ大修院の院長に推され、その学識においては教皇に認められてローマ控訴院の参事会員に任ぜられたが、やがて故郷フィレンツェに公会議が開かれるや、神学顧問としてこれに列席した。かような人物であったから、フィレンツェの大司教逝去の跡を受けて、教皇オイジェニオ4世からその重職に補せられたのもあえて不思議ではないのである。

 その時アントニノは丁度シシリー島の修道院を視察に行っていたが、自分が大司教に推挙されるという噂を聞くと、その重責を逃れたさに、サルディーニャ島に身を隠そうとした。しかしそこへ教皇の命令が既に至ったので、彼も従順に就任を受諾したが、このエピソードに依っても、いかに彼が謙遜な心の所有者であったか想像されよう。

 アントニノは大司教になってからも、決して豪奢な生活をしなかった。彼は「使徒の後継者は善徳の他何の財産をも持つべきではない」と言って、その職に伴う収入をわが物とは考えず、教会の維持費並びに貧民の救済費にあて、自分は依然一介の修道者として、貧しい苦行の生活に甘んじていた。そして誠実な人々に対しては春日のような慈愛の光を示したが、悪に溺れつつ恬として恥じぬ者共には秋霜のような峻厳さを以て臨み、当時フィレンツェに賭博が流行し、その為財を失い家を傾け、乞食に落ちぶれる者さえ少なからぬを見ては、その悪習の根絶にあらゆる努力を惜しまなかった。

 アントニノはまた大司教として多忙の身であるにも拘わらず毎日説教することを欠かさず、教えを請いに来る者があれば喜んで之を指導し、祈りや黙想にも多くの時間を割いた。さればフィレンツェ共和国の大統領コスマス・メディチが「フィレンツェの繁栄は何よりもまずアントニノ大司教の熱心な祈りに負う所が多い」と言ったのも蓋し至当の言葉であろう。

 彼の博大な慈愛の心が一般に知れ渡ったのは、1448年フィレンツェにペストが発生した時と、1453年大地震の災禍が起こった時であったろう。その時彼は自分が大司教として受ける収入位では追いつかぬ所から数多の富豪名士達を説いて寄付金を募り、以て病者罹災民の救済に遺憾なからしめた。故に人民はいずれもアントニノを徳として、大統領にも増して彼を尊敬愛慕したという。

 なお彼には幾多の著書があり、彼の才能と活動のいかに多方面であったかを思わせずにおかない。
 かくて大司教の激務に尽瘁すること12年、アントニノはようよう年老い身衰えて1459年の5月2日眠るが如く大往生を遂げた。しかしその祝日は聖会により本日に定められている。

教訓

 聖アントニノはドミニチ師の説教を聞いてドミニコ会入会の志を起こした時、果たしてそれが主の御旨に添う所以か、随分厳しい試みを受けた。事実修道者なるには天主の特別な召し出しが絶対的に必要である。これ無くして修道院に入れば立派な修士となる事が出来ぬばかりでなく、却って本人の不幸となるであろう。されば一身を天主に献げようと思う者はよくよく心して主の思し召し所を、自分でも探り、司祭にも試して貰わねばならぬのである