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お手軽な資産防衛策

2024-05-03 20:22:54 | 時事


 金銀を買ったりするのに、どうしても勇気が要るという方の為のお手軽な資産防衛法は、明日買う物を今日買うことです。来年や再来年、買う予定の物を、今年買う。それが、誰にでも気軽にできる、ちょっとした資産防衛策です。

 来年は、今年よりも確実に高値になっているでしょう。どれだけ上がっているかは、わかりませんが。インフレが基調の今の時代において、未来に買う予定の物を今買うことは、確かな節約と価値の保存に繋がります。日本円よりも確かな財に、資産を転換させるからです。

 似たような方法として、十円玉を集めるのも、ノーリスクでできる資産防衛策と言えましょう。今現在、十円玉には6円分の銅が含まれています。もし、今後もインフレと円安が進んだ場合、確実に十円玉に含まれる銅の価値は、硬貨の額面を超えてしまうでしょう。

 原価保証されているので(十円は常に十円としての価値を持つ)リスクはありませんし、日本円が価値を失ってしまうような局面でも、含有されている銅があなたの資産になります。一応、貨幣損傷等取締法もあるのですが、かつての100円銀貨(昭和41年まで発行)の時のように機能はしないでしょう。100円銀貨は買い集められて海外に輸出され、そこで溶かされてしまいました。

 小さな小さな方法ですが、投資に奥手な人でも手軽にできるインフレ対策と言えましょう。



9-3-5 チャールズ一世の死刑

2024-05-03 19:39:05 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
5 チャールズ一世の死刑

 長老派と独立派とが分裂し、軍隊内では独立派の軍幹部と水平派の兵士たちとの対立がはげしくなったとき、幽閉中のチャールズ一世が脱走して、イギリス海峡のワイト島にはしった。
 一六四七年十一月のことで、王にとっては絶好のチャンスである。
 王は十二月スコットランドと協定をむすび、長老制の樹立をみとめ、スコットランド軍の援助をすることになった。
 こうして、長老派と国王派とがむすびつき、ウェールズで反乱がおこり、第二次内乱となった。火の手はケント、エセックスにおよび、ロンドンでは海軍が反乱をおこして国王側についたばかりでなく、スコットランド軍が南下してきた。
 しかし、第二次内乱は長老派の見こみに反して、軍隊内部の対立を一時的に緩和し、独立派と水平派との団結を堅くするのに役立ち、一六四八年八月までに、国王軍やスコットランド軍が敗北した。
 その後もチャールズ一世は、あいかわらず策謀をやめなかった。革命を成功させるためには、王がいないほうがよいという考えが、一般につよくなってきた。
 水平派も、独立派の軍幹部も、王を内乱の責任者として裁判すべきことを、公然と要求する。
 一六四八年十二月六日、独立派のプライド大佐が一隊の兵をひきいて議会をとり囲む。登院してくる議員のうち、長老派と目(もく)されるもの約百四十名が追いかえされ、あるいは逮捕された。
 これが「プライドのパージ」とよばれる事件である。
 残った六十名たらずのもので議会が構成され、議会における独立派の支配が確立した。
 このいわゆる残部議会には二派があった。王の処置について処刑を主張する派と、監禁しつづけることを主張する派である。
 クロンウェル自身は元来立憲君主政論者であり、ひそかに後者を支持していたようであるが、王が殉教者として死んでゆく覚悟をかため、一歩も退かないので、彼もやむをえず、王処刑を決意した。
 一六四九年一月、議会は王の裁判のため、特別裁判所を設置する。
 百三十五名の裁判委員のうち拒否するものが多く、裁判に関係したのは六十名ほどであった。
 チャールズは法廷において、この裁判所の権威をみとめることを拒絶した。
 しかし一月二十七日、判決がくだった。
 「チャールズ・ステュアートを、暴君、反逆者、殺戮者、この国の善良な人びとに対する公敵として、斬首により死刑に処する。」

 三日後の一月三十日、チャールズはホワイトホールの外側に設けられた処刑台上で、斬首された。ときに二時四分。
 王の処刑について、「暴君に対する責任追及、裁判、死刑」の正当性を主張し、また処刑非難に対して筆をもって精力的にたたかったのは、『失楽園』(一六六七)の作で有名な詩人ミルトンである。




9-3-4  革命のプログラム

2024-05-03 10:42:18 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
4 革命のプログラム

 ネーズビーの決戦によって革命の第一幕がおわった。
 これとともに、まえから問題をはらんでいた議会派内部の対立が表面化してきた。
 エセックス伯やマンチェスター伯の指導する長老派とクロンウェルのひきいる独立派との対立である。
 この両党派の名前はエリザベス朝のピューリタンの宗派に由来するが、政治上の長老派、独立派は、宗教上のそれとぴったり一致するものではない。
 長老派は革命がこれ以上すすんで、社会秩序が崩壊することをおそれ、長老派の全国的な教会組織による上からの統制を維持して、革命を適当なところで停止させようとした。
 これに対し独立派は、長老派と分離派との中道を歩むとはいうものの、長老派とはまったく異なった性格をもち、革命をより以上おしすすめる立場をとっていた。
 長老派は、クロンウェルの活躍によって軍隊の指揮権を独立派に奪われたとはいえ、議会では多数派である。
 そしてロンドンの貿易商人や、これと関係のふかい貴族やジェントルマンを地盤としていた。
 一方、独立派は軍隊に勢力を有し、長老派より下の階層の支持をうけた。
 両派の政治改革のプログラムには、若干の相違がみとめられるが、王の存在が自明なこととして前提され、議会の権限が主張され、立憲君主制をめざしている点は共通していた。
 これら長老派、独立派に対する第三の勢力が水平派であって、小親方や職人などの小市民を基盤とした。
 この水平派のもっとも傑出した指導者がジョン・リルバーン(一六一五~五七)である。
 彼はロンドンの毛織物商の徒弟で、投獄され、長期議会がひらかれると釈放されて議会軍に加わったが、クロンウェルと対立して軍をしりぞき、ロンドンの職人や徒弟のあいだで政治的活動をはじめた。軍隊の中では兵士の間に水平派の支持者が急速にふえ、彼らは軍隊の民主化に乗りだし、一六四七年五月、各連隊から、二名のアジテーターとよばれる代表を選出した。
 そしてこれまでの階級制の軍会議にかわって、将校以外に兵士代表をふくむ「一般軍会議」が組織されたのである。兵士たちは一六四七年十月、「正確に述べられた軍の主張」によって、人民主権の原理をうたった。
 「すべての権力は、本来、本質的にこの国の人民の全体のうちにあり、彼らの代表者による自由な選択または同意こそ、すべての正しい統治の唯一の源泉または基礎である。」
              
 そして同じ十月、水平派や兵士たちは、彼らのプログラムをまとめ、「人民協約」として一般軍会議に提出した。
 「人民協約」は共和制の立場をとり、議会に対する人民の優越をうたい、議会といえども侵すことのできない基本的人権として「生得権」をつよく主張している。



聖アタナシオ司教教会博士  St. Athanasius E . D. 

2024-05-03 10:41:59 | 聖人伝
聖アタナシオ司教教会博士  St. Athanasius E . D.        記念日 5月 2日



 堅信の秘跡を受けてキリストの兵士となった信者は、己の信仰の為、力を尽くして闘わねばならぬ。ただしこの世の兵士の如く武器を用いるのではない、各自の能力に応じて、或いは学問により、或いは祈りにより、或いは迫害の時にも信仰を宣言する事により闘うのである。聖アタナシオの如きはかかるキリストの兵士として、最も勇ましく、最も世にあらわれた一人であった。この聖人は293年、エジプトのアレクサンドリアに生まれた。両親はギリシャ人ながら聖教を奉じていたので、彼もキリスト教に従って育てられ、また学校教育も十分に授けられた。その上彼は青年の頃折々荒れ野に隠遁者達を訪ね、その立派な模範を見、有益な勧めを聞きなどした為、一層熱烈な信仰の念を養われたのであった。

 やがて彼はアレクサンドリア司教の秘書役に選ばれ、当時起こったアリオ派の異端に対し、共に憂いを分かつ身となった。その邪説をはじめたアリオは、これも同じアレクサンドリアにいて、救い主イエズスに関し、聖会の信仰と異なった事を教え、殊に、天主御父は永遠の御者であるが、天主の第二位なるイエズスは御父に創造された限りある者であるなどと説いたのである。それ故救世その他の点について彼が正統の教えと意見を異にするに至ったのも、また当然の成り行きであった。

 このアリオの異端はたちまち燎原の火の如く世間に広まった。これを見てはアレクサンドリアの司教たる者到底黙視する事が出来ない。彼は教敵と一戦を交える決意をなし、秘書アタナシオに協力を求めた。アタナシオは司教の意を体し、奮然起って活躍を始めた。そして間もなく異端との論争の総帥各になったのである。
 結局アリオの教えは326年、かの有名な二ケア公会議に於いて邪説であると決定、排撃されたが、それには何よりもこのアタナシオの奮闘があずかって力あった。されば彼が教敵から目の敵にされたのも不思議ではない、遂に彼等の二人は重臣に取り入ってコンスタンチノ大帝の心に、アタナシオに対する疑惑を抱かしむる事に成功した。
 328年、アレクサンドリアの司教が死去すると、アタナシオは衆人の一致推薦を受けてその後任となったが、教敵はその後も策動を休めず、破廉恥極まる虚偽讒謗や、あらゆる奸計を弄して彼を陥れるに努め、その結果大帝は非道にも何の取り調べも行わずして、彼を免職追放されたのである。
 国外に追われたアタナシオは、ドイツのトリールに行き、その地の司教マクシミノの許に身を寄せた。マクシミノは彼に同情して快く彼を庇護してくれた。その時二人の間に結ばれた友情は、終生変わることはなかった。
 彼の流惨の生活は9年にして終わりを告げた。というのは337年にコンスタンチノ大帝が崩ぜられ、その皇子コンスタンチオが即位されるや、彼をアレクサンドリアに召し還されたからである。しかし教敵はなおも執拗に彼を葬り去るべく暗躍を続け、二年の後アタナシオは又しても追放の刑に処せられたのである。
 その時異端側の会議ではいち早くアタナシオの免職を発表したが、教皇ユリオは彼を支持し、サルディスに於ける公会議側の集会で彼の免職など無根の旨を宣言した。しかし教敵は皇帝の権力に縋って無理無体に彼の免職と再び9年間の追放とを実現したのであった。
 再度彼が追放の刑を解かれてアレクサンドリアに帰る事を許されたのは、347年の事であった。彼はそれから約十年同市に活躍をほしいままにすることが出来た。が、その間にこれまで東方にのみ流布していた異端が、西方諸国にも歓迎され始めたので、アタナシオは必死になって之が防止に奮闘せねばならなかった。多くの司教、荒れ野の隠者、修道者、信者達は彼を支持した。
 アタナシオの書簡は至る所で読まれた。それは信者達には信仰をかためる助けになった。けれども教敵にはこの上もない腹立たしいものに相違なかった。というのは異端の次第に衰えるべき所以がそこに記してあったからである。教敵は遂にシリアノという大将に頼んで彼の殺害を企てるに至った。シリアノは手勢の兵を率いてアレクサンドリアの司教座聖堂に押し入った。しかしアタナシオは幸いにも九死に一生を得て荒れ野に逃れる事が出来たのである。
 荒れ野の隠者や修道者達は喜んで彼をかくまってくれた。彼はそこで多くの書物を著した。教敵は四方八方に探索の手を伸ばしたが、とうとう彼を発見する事が出来なかった。
 361年コンスタンチオ皇帝が崩じてユリアノ皇帝が後を襲うと、アタナシオを始め今まで流謫の憂き目を見ていた司教達一同に対し赦免の御沙汰あり、彼は又もアレクサンドリアに帰るや、会議を招集してもう一度アリオの教えの邪説なることを断定宣言した。その異端が勢力を失ったのは実にこの時かれである。
 ユリアノ皇帝はアリオ派に心を傾けて聖会を迫害した。されば先に自らアタナシオを召し還したにも拘わらず、彼の活動、殊に彼が聖会の為皇帝を諫めた事を一方ならず憤り、間もなく四度目の追放を仰せつけられた。アタナシオはまた荒れ野の隠修士の許に身を寄せた。何故なら敵は再び彼の生命を奪うべく捜索を始めていたからである。
 その頃のことであった。ある夕方彼が船に乗ってナイル川を下って行くと、彼を捜索中の兵士達の船が登ってきた。アタナシオの船の人々はひどく心配したが、当人は平気なもので、わざとすれすれの所を通らせた。そして兵士達が「お前達はアタナシオを見かけなかったか?」と尋ねると、彼は自分で澄まして答えた。
「ええ、見ました」
「遠くでか?」
「いいえ、近くでですよ、お急ぎなさい。」
そして彼等の船はそのまますれ違ったのである。
 その内にパンモンという修院長が吉報をもたらした。それは聖会の迫害者ユリアノ皇帝が、ペルシャで敵の矢に当たって363年6月26日に崩御あったというのである。之は事実であった。そして新たに帝位に昇ったのは公教を奉ずるヨヴィアノであった。彼はアタナシオを深く敬い、早速追放を解いたばかりか、絶えず彼を害せんとする教敵の魔手から保護してくれた。が、残念なことにこの皇帝は翌364年2月に崩じ、その後継者は公教信者であったものの、之は西方諸国を治め、東方を支配したのはその兄弟でアリオ教徒であるヴァレンスであったから翌年早くもアタナシオを始め、ヨヴィアノに召し還えされた多くの司教達は、またまた配所の月を眺めねばならぬ身となった。アタナシオにとっては実に之で五度目の追放である。
 しかし彼は今度は遠くへ行かず、アレクサンドリアの近くに侘び住まいをしている内に、四ヶ月経つと刑を赦され、天下晴れて同市に帰ることが出来た。終始変わらず彼を仰いでいた市の全信徒は、さながら凱旋将軍を迎える如く歓呼して出迎えた。そして教敵にこの聖司教を害されぬよう、警戒を怠らなかった。
 それからはアタナシオの上にも平和な月日が続いた。彼は艱難刻苦、聖会の為に奮闘し、遂に勝利を獲得した。かれは教会をよく治め、聖書、克己修道に関する書物を著した。彼の勢力は偉大なもので、時の教皇ダマソさえ彼の忠告を容れたという。功成り名遂げたアタナシオは373年5月2日の深夜帰天した。信者達は直ちに彼を聖人として崇め、聖会は彼に教会博士を贈った。

教訓

 天主の忠実な僕は、しばしば迫害されて大いに苦しまねばならぬことがある。五度も追放を受け、再三生命の危険に臨んだ聖アタナシオの如きはそのよい実例と言えよう。我等も苦難に逢う場合には、いたずらに懼れることなく、天主に硬い信頼を献げよう。天主を愛し奉る者には、何事も最善の結果の恵まれぬことはないのである。